午前八時、目覚ましによって目を覚ます。 私にとって目覚ましのない自然な目覚めというものはここ最近ほとんどない訳だけど、重たい体をごろりと傾けると明らかに結構前からばっちりと目を覚ましていそうなリョータの眼差しが私を捉えていた……元々少し気だるそうな眠気まなこの癖に、こんな時ばっかりはその気配も感じさせない。 「おはよ。」 「……おはようございます。」 「ほんと目覚ましないとダメなんだね?」 「結構普通だと思うのですが、」 「ま、いいんだけど。」 もう既に日課となっているロードワークを終えてシャワーまでを済ませたのか、リョータの力強い腕に引き寄せられた。これから起きようと言うのに、ぎゅうぎゅうと脚まで使って私をベッドに貼り付けつける。 「起きる気ある?」 「もうちょっと寝たいのかな?と思って。」 「寝ません。」 「いいじゃん、あと五分だけ。」 「それ寝る人の科白!絶対寝ないでしょ!」 ばっちりと目覚めて既に一日を始めているリョータにもう一度寝る、眠い、そんな私のような感想がある筈もないので、結局いつだってリョータに主導権を握られている。 私のことを第一優先に考えた上で行動するリョータは誰よりも私想いで優しい分、自分の感情も決して蔑ろにしない。渡米して、そして帰国してからそこが大きく変わった気がする。自分の感情をあまりにオープンにしすぎていて、世間体とか羞恥心とかそういったものをまるで気にせず、それをダイレクトにぶつけてくる。 「デパートでランチ食べたいもん、起きる。」 「え〜。」 「え〜って、リョータの買い物でしょ?」 「……わかったってば。」 一日に何度も見るのが通例になりつつあるけれど、口先が尖っているリョータが最早デフォルトのような気さえしてきた。いつまで経っても自分と同等の甘えを発揮しない私に対してのジレンマがあるのだろう。 昔は良くリョータの方から「普通は女の子の方から甘えるものでしょ?」と遠回しに甘えてほしいと言われたような気もするけれど、言うだけ無駄と気付いたのか私の反応を待つことなくリョータは自発的に私を甘やかしにくる……そしてそれに乗じてこっそりと甘えている。気付いてない訳がない、むしろ後者がメインなのを私は知っている。 「うわ…?」 つい数十秒前にベッドに張り付けられたかと思えば、今度はひょいと脇下に手を挟まれて自分の体が宙に浮く。そして、トンと両足が床と接地するとその手は一度離れて気付いた時には起立している自分がいた。忙しい。 「……急に起き上がると眩暈がする。」 「いいじゃん、全自動で。」 「介護なくても一応動けますので……」 「たまにはいいじゃん。」 「……たまには?」 たまにどころか結構頻繁に行われている日常のような気がするけれど、これ以上口先を尖らせるのは得策ではないので、反論はせずに少しつま先を伸ばして適当な場所にあった首筋にわざとらしく音を立ててからリョータを見ると、ちゃんと満足しているようだった……チョロい。 「十時前には出かけるからリョータも準備して?」 「へいへい。」 私は洗面台に向かって歯ブラシを握りしめると歯磨き粉をつけてしゃこしゃこと歯を磨く。その隣で彼はしなっと降りている彼本来の姿からワックスを手に取って、見慣れたリョータになっていく。 通常一人ずつ使う事を想定された洗面台は二人で使うには窮屈で、ぐいっと押しやると一歩下がって私の頭上から髪をセットしている彼がいた。 同じ家に住んでいても、こんなものなのだろうか。昔やっていたゲームのように、飼い主の後をひたすらついてくる育成ゲームのようだ。彼は私のペットじゃない。 「北海道フェアだっけ?今日。」 「そうそう、食べれるスペースもあるらしくて。」 「へ〜、いいじゃん。」 「でしょ?朝ごはん抜いてお腹空かせていく。」 「ふうん?」 顔を洗ってリビングに行くと、テーブルには軽食を取った形跡が残っている。たくさん茹でて作り置きをしていた鳥ササミをサラダにまぶして食べたらしい。少し白っぽくなっているグラスも残っている。これ以上筋肉を発育させて彼は一体何を目指しているんだろうか? 「ちょっと!」 「…ん?」 「そのネックレス今日はやめて。」 「は?なんでだよ。」 彼が好んでつけているあまりにもごっついそのネックレスはまさに今手に握られていて、パンパンになっている両腕で留め具をはめるように彼の首元を彩っている。 「デパートだし土日で人も多いから目立つでしょ。」 「……目立ったら駄目なの?」 「駄目って言うか……自分が有名人という自覚を持ってください。」 「自覚はある。」 「なら身バレしたり撮られたりしたら面倒でしょ?」 「なんで?俺と付き合ってるのそんな恥ずかしい訳?」 そうじゃないけど、そう言ったところで私の伝えたい事はきっと伝わらないだろうと諦めにも似たため息が出てそれ以上は口を噤んだ。代わりに、もう一つ時々彼がつけている少しだけ控えめなネックレスを手渡した。 「今日の洋服にはこっちの方が合うかなって。」 「……そ?」 頑固なくせにチョロい部分も大いにあるのがせめてもの救いでしかない。すぐに機嫌を取り戻したのか、彼はそのネックレスを受け取ると早々に首元に通していた。 一息ついて私も久しぶりにアクセサリーを吟味する。ここ最近久しくつけていなかったような気がして、どれにしようか悩んでいると何故か横から割り込んでくるようにリョータが顔を覗かしている。 「……そんなオシャレする必要あるの?」 「いや、あるでしょデパートだし。」 「そんなに良く見られる必要なくない?」 「君にだけは言われたくないね?」 自分はこれでもかというくらいにおめかししておきながら、よくもそんな言葉が出てくるなと逆に感心してしまう。自分はいいけど人は駄目、とんでもないわがままな理屈だ。 「お洒落なリョータの隣歩くしそれくらいは。」 「……そ?」 ここ数週間で私もリョータの扱いがより長けてきたと自覚している。次の瞬間にはもう既に納得したのか、私の華奢なネックレスを奪い取るとゴツゴツと太くバスケットマンらしい指で私の髪の毛を掬ってから留め具を止めてくれた。 もう間も無く夏がやってくるこの季節、服装に悩みながらも反感を買う事なく一発合格が出るように袖付きのブラウスを取り出して袖を通した。それに見合うよう、リョータにも少し落ち着いた洋服に着替えて貰うことに私は成功していた。上出来だ。 準備は整った。 とても天気のいい土曜日の午前中の空気。両手を天高く伸ばして伸びをしながら歩きたいものだが、それは叶わない。ぎっしりと詰まりに詰まっている質量の高い筋肉質な彼の腕がしっかりと私に巻き付いているからだ……とても窮屈だ。 ピッタリと私の少し後ろに付いているリョータは私の腰元に腕を回しながら、余った左手でしっかりと私の手を握る。辛うじて私の右手の自由は残されたものの、リョータは両手の自由を失っている。 何かのダンスでも始まるんだろうか?それとも彼は私のエスピーか何かだろうか?とりあえず私から言える事は、日本は平和な国です。 「……せめてどっちかにしてもらえます?」 「いいでしょ?別に。」 「リョータが良くても私は良くない……」 「は?」 本来忍ぶように出かけるべきなんだろうけれど、どう足掻いてもリョータと出かけると目立つ。寧ろ注目の的に晒される。 私の飲み会帰りに迎えに来た時は夜にも関わらずいかついサングラスをしていたくせに、こんな時は何も隠す事なく堂々と顔を晒して陽の下を歩いているのだから不思議だ。サングラスの正しい使い方を知らないのだろうか。 どこからともなくヒソヒソと小声で「あれって宮城選手じゃない?」と耳に入って私の方が居た堪れない。当の本人を少し見上げるようにして見てみると、まるで気にしていないのか眼中に入っていないのか表情の読めない顔で堂々と闊歩している。 一度言って駄目な事は二度は言わない。二度言っても三度言っても変わらないからだ。 諦めたように私は意を決してスマートウォッチを翳して最寄りの改札をリョータと潜っていく。車で行けばいいと言ったリョータをなんとか説得して、身軽に動くことの出来る電車で移動するのはとても久しぶりだった。 「結構早く出たと思ったけど混んでるね?」 「座らなくて平気?席探す?」 「ううん、大丈夫。」 「ほんとに?」 「十分とかだし身重でもないので……少し静かにしようか。」 そう言うと、リョータは空いているドア付近まで私の手を引いて、そして隅っこの方へと追いやった。まるでシートベルトの如く、その隙間を埋めるように両手でドアと壁で挟み込んで私の視界はかなり限定的だ。 「……満員電車でもないのでやめてくれる?」 「電車では静かにするんじゃないの?」 十分少々、結局私はリョータと正面を向きながらただじいっと新宿駅に着くのを待つ羽目になった。チョロいと少しばかり油断した結果なのかもしれない。完全に一本取られてしまった。少しだけ忘れていたけれど、リョータは視野が広くそして結構賢い男だ。 ──まもなく新宿〜、新宿です〜、 我先にとホームへと降り立って、新宿駅の長い通路を伝ってデパートへと向かう。幾つになってもデパートに来ると得体の知れないドキドキとワクワクに襲われるものらしく、重たいドアを開くと冷た過ぎるほどにキンキンと冷えているクーラーが全身を覆っていく。 「まずはリョータのフレグランス買っちゃおっか。」 「うん、いいの?」 「いいよ?いつもと同じやつ買うんでしょ?」 「そう。」 日本に帰国してからは初めて買いに来たけれど、高校時代も地元の藤沢のデパートでこうして一緒に買った事があったのを思い出す。センスが高く何をあげたら喜ぶだろうかと考えた末、高校一年生の七月末、一緒に選んでそのフレグランスを購入した。 そこからもう何年も経過しているけれど、リョータはずっと同じ匂いを纏っている。一度たりとも変える事なく、ずっと同じ匂いで私を安心させてくれる。 迷う事なく売り場で同じものを手にして購入したリョータは、久しぶりの買い物に目を輝かせている。私はと言うと、今日の晩御飯のおかずを地下街で購入する事を考えながら彼の隣でレジに並んでいた。 「私惣菜見てくるからリョータ買い物してなよ?」 「は?俺も行くし。」 「大丈夫、三十分後にここで待ち合わせしよ?」 それだけを言い残して、何か言いたそうなリョータに手を振って私はエスカレーターを降りていく……もちろん彼の口先は尖っている。いい加減肉体と比例しないその表情はやめて欲しいけれど、多分私はこのなんとも言えいなギャップのある仕草が割と嫌いじゃない。 更に地下へと降りていくとズラリとショーケースに並ぶ甘味や惣菜があって、恋にも似たときめきを感じる。お金を払っててでも買いたいと思えるものが詰まっているショーケースは癒しでしかない。 「まとめて買ってくれるなら安くするよ!」 デパートと言えば少し敷居が高いものだけど、案外融通が効くのでこうして買わなくていいものまでついつい買ってしまう。一つ一つの店をゆっくり回って、少しずつ欲しいものを買い揃えて時計を見てみるとあっという間に約束の三十分は過ぎていて、一瞬思考を巡らせる。 けれど今は昔と違って連絡手段が沢山ある時代だ。まだ見切れていない店もあるので、ほんの少し申し訳ない気持ちを抱えつつ、私の買い物は続行される。 満足がいく程度には一周して今まで放置していたスマホを取り出すと、尋常じゃない不在着信がズラリと並んでいる……何か事件でもあったのだろうかと思うほどの。何だか直感的に嫌な予感がして、時間をみると最初の着信から十五分が経っている。すぐにその不在着信をタップして電話しようとしたまさにその時、アナウンスが響いた。 「○○からお越しのさん(○○歳)宮城リョータさんが待合室でお待ちです〜……」 嫌な予感というものは的中するらしく、今この瞬間人生で初めて迷子放送をされてしまった。自分も買い物をしているので普段聞き流しているけれど、自分の名前が響くとちゃんと耳に入るらしい。成人年齢が読み上げられているのは初めて聞いたかもしれない。 周囲の人間も「え?宮城リョータ?しかも迷子呼び出し?子供いたっけ?」なんておかしなことを言い始めている。多分私も第三者なら同じことを思っただろうし、口にしただろうと思う。どういう意図なんだろうか……分かるけど、分かりたくない。 「…リョータ!」 「!」 確かに長い間遠距離恋愛はしていたけれど、こうまでドラマチックな再会は成田空港でもしたことがない。というかそもそもドラマチックでもなんでもなくて、寧ろそれはコントの一部のような喜劇でしかない訳だが、もう二度と戻ってこない者を捉えたようなリョータの行動だ。 「どこいたの?電話も繋がらないから心配した……」 言葉に出来ないってこういう事を言うんだろうか?小田和正が歌っていた歌詞とは少し、否、随分と意味合いが異なるような気がする。確かに時間に遅れたのも、電話に気づかず買い物を継続したのも私の落ち度でしかないけれど、その先にある仕打ちがあまりにも酷くないだろうか。 「無事?大丈夫?」 「あのさ……ほんとにやめてもらっていいですか。」 「は?普通に心配するでしょ?」 成田空港で行われるドラマのロケのようなこの熱い抱擁もやめて頂きたいし、「宮城リョータさんがお呼びです」の言葉に、ぞろぞろと待合室付近に人が溜まっている。自分が有名人であることを自覚していると言っていたけれど、その真髄をまるで理解していない。 「……この大量のショッパーなに?」 「あぁ、これ?」 我に帰ったようにリョータは待合室のテーブルへ両手に沢山かかっているショッパーを置いていく。 たまたま紐が短いこともあってか、彼の鍛え上げられた太い腕に絡みついて中々取れないそれがテーブルに並ぶと、私は息を呑む。 「これは新作って言ってたから買って、隣のお店はに似合いそうな色のルージュがあって、ファンデ切れそうって言ってたからおすすめの買って、っぽい匂いのフレグランスあったから買って、上の階行ったらなんか似合いそうなワンピースあったから、」 待合室にはそこに勤める職員さんがいる訳で、たまらなくなってリョータの口を塞ぎにかかった。彼女たちもこんなしっかりと成人して、しかも惚気を永遠に発し続ける大人を相手に仕事をしている訳ではないので口をあんぐりと開いている。そもそも大人の迷子呼び出しだって相当無理があったと思う。 「あのほんと……すみません、引き取りますので。」 「は、はあ。」 「お邪魔しました。」 太いリョータの腕をしっかり小脇に挟んで待合室を出ると、外には想像以上の人が集っていて、本当に恥ずかしい気持ちになる。こういう時にサングラスをしてくれと思うけれど、もう名前が放送で割れているのであまり意味がないのかもしれない。 帰国してからリョータの規格外にはそこそこ振り回されているけれど、これがおそらくは一番のネタだ。どうしたもんかと思うけれど、どうしようもない。本当に勘弁して欲しいけれど、もうなにをどう足掻いたところでどうしようもないから仕方がない。 一度振り返ると、完全に状況を理解していないリョータの表情があって、自分のことを温厚だと思っていた私も結構な感情を抱えていることに気がつく……自分に非があるので強く言えないけれど。 「本当にああいうのやめて。」 「だって電話でないから何かあったかと思うじゃん……」 「リョータが思うより日本は平和だから!」 「そんなの分かんないだろ?」 分かってるんです、と言ったところで分からないと言っている人には伝わらないので一度ため息をついて諦める。確かに私も悪い。心配性なリョータの性格を知っているので、一方的に責める訳にもいかない。 「……なんで自分の買い物しない訳?」 「デパ地下に似合うの沢山あったから。」 「……地上にも上がったよね?」 「最近新しい服買ってないって言ってたから。」 「ならせめて私と一緒に見てよ!」 「自分が置いて行ったんじゃん?」 リョータが日本に帰国してからの数ヶ月、付き合ってからはもう数年。けれど一緒の土地でいつでも会えるようになってからはまだ僅かで、その当時とは金銭感覚も余裕も違う。けれども、まさかここまで私のいないところで私にお金を使うとは思わない。 北海道フェアが開催されているところまで階を進めると、空いている場所に腰をかける。リョータは何の恥ずかしげもなく袋の中を広げて、私にその一つ一つを見せていく……悔しいくらいに私が好きそうな色合いのルージュや、コンパクトの可愛いファンデーションが出てくる。 おまけのように、ワンピースも私が欲しいと思っていたものが色もドンピシャで出てきた。普段は節約とお手軽なブランドの洋服を着回していたけれど、どうして分かったんだろうか。言ったことなんて一度もなかったのに。 「はこういう色普段つけないから似合うと思って。」 「………うん。」 「好きじゃなかった?」 「欲しいやつだったからなんか逆に複雑。」 「は?なんで?」 こうして過剰すぎる愛を受け止めながら、放送で恥をかいて、そしてやっぱり愛を感じるのだから悪い休日ではない。これからランチを食べるという一大イベントがあるのに、私の心臓はそろそろ限界だ。 テーブルに置かれた私の指を、一本ずつリョータが絡ませた。 後編 |