彼と付き合って、半年が経とうとしていた。平日出社すれば、いつだって隣には彼がいたけれど、それは休みの日を含めてずっと私の傍にあった。会社ではこんなにとしっかりしていて、誰より大人で、頼りがいがある。休日だってその言葉を当てはめても不自然はなかったが、彼は平日と休日でとてもギャップのある人間だとそう思う。付き合って半年も経てば少しは変わるのかとも思っていたが、付き合ってからも彼の態度は変わる事を知らず、いつだって私を酷く甘やかせた。子供がおもちゃを欲しいと強請れば、その全てを買い与えてしまうと言った感じだろうか。あまりにも甘やかされすぎていつか私は腑抜けになってしまうのではないかと、そんな事を思った。
、この間の資料赤入れしといたから刷りなおしてくれるか。」
「分かりました。これからやります。」
 朝から彼は忙しそうだった。もっとも暇そうにしている姿なんてほとんど見たことがないのだけれど。営業時代も一日のアポイント件数は群を抜いていたし、受注件数もそれに比例するかのように毎月トップを走っていた。企画に移動してきてから研修担当についても、その忙しさに変わりはあまりなかった。それが中で働いているのか、外にいるかの違いだけだ。
「何だよ。ぼうっとして。」
「いや、忙しい人だなと思って。」
「そりゃこれで飯食ってる訳だしな。暇なよりはいいだろ。」
「原田さんは出世、したいんですか。」
「出世か。まあ別にどっちでもいいかな。お前は?」
「私は平社員のままでいいです。」
 そう言えば彼は欲のない奴なんて言って笑っていたけれど、私が欲など限りなく持ち合わせていない事を誰よりも知っていながら白々しいなと一度そんな彼を見上げた。
 一部の人間を除いて、私たちの関係は社では知られていない事だった。別に社内恋愛禁止という大々的な決まりはなかったが、特別言いふらすことでもない。彼と仲のいい営業課の永倉と、内勤営業の平助   あとは、感の酷く鋭い土方くらいだろうか。時折私たちを見る土方の視線が、鋭く突き刺さるようなそんな気がしていた。言った訳でもないのに、気が回るのが時に厄介だった。
 仕事が特別嫌いな訳ではないが、彼のように仕事に没頭できるだけのものは私にはなかった。ただ、そこに賃金が発生しているという生きていくための手段でしかない。そんな自分が部下を携えてテキパキと要領よく仕事をこなしている相関図は想像にすら難い。私には、言われた事をそのままこなして行く作業のほうがどう考えていも向いている。
「査定で評価されて、あれが欲しいとかこれが欲しいとか、何したいとかないのか。」
「別にお給料は今より下がらなければそれでいいかな。」
「欲のない奴。」
「欲なんて生きていくうえで弊害になり得ることのほうが多いですから。」
「まあ、そりゃ新八みたいに欲の塊みたいなのだとそうかもしれないが。」
 欲なんて出し始めたらきりがない程終わりなく出てくるものだというのを辛うじて知っている私は、別に欲など要らないと思う。現実主義、所謂リアリストと呼ばれるタイプの人間なのだろう。自分にとっての損得でしか物事考えないが、元を辿れば皆人間そうなんじゃないかと心のどこかで思っていた。もっとも、彼はそうではないという事を知っているけれど。
「印刷、終わったんじゃないか?」
「確かに。」
 先ほどまでガシャガシャと音を立てていたコピー機が、仕事を終えたように静かになっていた。私の仕事のはずなのに、彼は本当に目が多方面についているのかと思うほどに何事にも気が回る。そんな彼が、自分の彼氏であることに、毎日だって違和感を感じていた。
 私は彼に言われて、コピー機へと大量に刷られた紙を取りにいく。今の時代、ペーパーレスを推奨しているのに何故もこうまで毎日紙と格闘しているのだとうかと不思議に思う。そんな仕事だからこそ私が対応出来ていて、そこに賃金が発生しているのだからむしろ感謝すべきなのかもしれないけれど。
 デスクに戻って、資料をまとめる。横では、パソコンのブルーライトに照らされている彼の顔があって、仕事に没頭していた。こんなに真剣な彼の顔を見て、昨日まで彼の家で一緒にいた、こちらが恥ずかしくなるほどに甘い彼は影を潜めている。どうにも、不思議な感じだった。
「あ、そうだ。十二時に会議室取ってくれ。」
「自分で取ればいいじゃないですか。」
「庶務なんだからそれくらいやってくれてもいいだろ。」
「庶務と秘書は違いますよ。取りますけど、それくらい。」
 ほかの人に言われれば分かりましたの二つ返事でやる事を、彼に対してだけは一言二言皮肉を挟んでしまうのは何故だろうか。自分の事ながらよく分からない。オフィスでの彼への接し方をどうしようかと考えてのことなのだろうか?とも考えたが、思えば付き合う前から会社でのこんなやり取りは変わっていない気がする。
「お前ら煩いぞ。さっさと仕事しやがれ。」
「部長もこんなくだらない会話聞いてるくらいなら仕事進めてください。」
「なんだ、殴られたいのか。」
「訴えますよ。」
 どうって事のない、私の日常的な一コマだ。そんな私と部長を左之は見比べるようにして、彼に一度手のひらを合わせて軽く会釈しているようだった。別そんなこと、する必要もないのに。
「仲良いんだか悪いんだかよく分からないな、と土方さんは。」
「ただの上司と部下でそれ以上はないけど、良くはないと思います。」
 ぎろりと、視線を感じたけど気づかない素振りをしてデスクに戻った。私の日常は、こんなものだ。入社してから大して変わらない。ただ、隣にいる彼の存在が先輩から違うものへと変わったという、それだけのことだ。



 十二時になると、彼は私を呼んで会議室へと行くように促した。確かに部屋はとったが、何故私がそこに行く必要があるのかと尋ねれば、会議だろと私が何か見当違いのことでも言っているかのように、当たり前な言葉が飛んできた。
 会議ともなればボールペンやらノートパソコンやらが必要になると思い持参していたが、会議室に入るとコンビニの袋を取り出して私にサンドウィッチを手渡した。
「何これ。会議は?」
「察しろよ。と昼飯食おうと思った俺の可愛い乙女心だろ。」
「昨日まで一緒にいたのに、そんな必要ないでしょ。」
「連れないな。昨日も一緒にいたから、傍に居たいんだろ。」
「傍にいるでしょ。隣の席だし。」
 そんな私の言葉に、長い彼の腕が後ろから意地悪く伸びてきて「隣でもこんな事出来ないだろ。」とそう言って、私を包み込む。この男は、ここが何処か分かっているのだろうかと少し呆れてしまうほどまでに、本当に彼は私に甘い。こんな彼の姿を見れば、オフィスで何人の女が泣きを見るのか彼は知らないのだろうか。本当に、罪深い男とは彼のような事を指しているのかもしれない。
 はあ、とため息を付くと私の隣へと彼が腰掛けてくる。私に手渡したサンドウィッチの袋をあけて、そのひとつを取り出して私の口元へと運ぶ。何のつもりかと思って彼を見上げれば、口を空けろよと言われて、自分自身の空腹具合に素直に口を開いてパンの甘みをかみ締めた。
「こんな事してる暇、あるの?」
「どうかな。ないかも。」
「じゃあ仕事しなよ。出世しないよ。」
 こんな事をされたら、世の中の女子はきゃっきゃと言って喜ぶのだろうと思う。今まで彼と付き合ってきた彼女は、きっとそうだったのだろう。私は変わっている。これだけ連れない私によく愛想も尽かさず、愛を注ぎ続けてくれるものだとそんな事を思う。
 水筒に入れてきた紅茶を啜ると、私と同じサンドウィッチを口にした彼がそれに手を伸ばして、喉を潤していく。本当に彼は本能のままに生きているのだろう。自分がしたい、言いたい、そう思っていることに対して何の後ろめたさもない。
「俺が出世したら転勤するかもしれないぞ。いいのか。」
「左之が本社から移動になるなんてないでしょ、絶対。」
「さあな。それは俺にも分からないからな。」
 思えば、彼が転勤するなんて考えたこともなかった。仕事が出来る人間が本社にいるのは当たり前のことだと、どこか思っていたのかもしれない。彼が言うように、もし転勤してしまったら私たちはどうなるのだろうか。転勤先で女でも作って、私たちはそこで終わるのだろうか。彼が女にモテる事は、彼自身もよく知っているはずだ。そんな事を考えると、ほんの僅かばかり嫌だなと思った。このままの環境と関係が、ずっと続くと思っていた。
「何だよ。行かないで、って言ってくれないのか。」
「そんな仮定の話しても生産性ないでしょ。」
「生産性がない事でも、聞きたいんだよ。」
「私がそんな事言う訳ないじゃん。」
「たまにはそれくらいの褒美くれてもいいだろ。」
 彼が会社でこんな事をしてくるのは珍しい。半年付き合ってきて、初めての事だった。社内では自分たちの関係を言わないで欲しいと言った時、彼は別に隠すことでもないだろうと言ったが、周りから疎まれながら仕事をするのも気が引けたので珍しく欲のない私が彼に対して欲を告げた瞬間だった。それは女子社員に疎まれるというだけでなく、先ほどにらみを利かせてきた彼にもそう思われると厄介だと思ってのことだった。
 週末に彼がこんな事をしてくるのであればまだ納得はいくが、今日はどういう経緯があってこんな事をしたのだろうか。会議室を取らせてまで、いつもの彼だったらこんな事をしないはずなのに。
 彼の綺麗なかんばせが近づいてきて、私の口の端についたサンドイッチの屑をなめ取る。やめてとそれとなく言ったが、そんな言葉が聞き入れられる筈もなく、少し位置をずらして私の唇へと落ちてきた。彼の家で受けるそれより、よっぽど鼓動が煩かった。
 ドタバタと足音がこちらへと近づいてくると、ノックもなしにガチャリとドアが開いた。仮にも会議中とスケジュールに入れてあるのに、一体誰だろうかと思いながらドアのほうへと視線を向けると、そこには息を切らせている平助が私たちを見て呆然としていた。
「……左之さん、ここ何処か分かってるか。」
「お前も空気の読めない奴だな、平助。」
「あんたらにだけは言われたくねえ。」
 平助を不憫に思った。知り合い二人が、それも会社でキスしているところなんてどう考えても、見たくはなかっただろう。私と左之が一緒にいるのを見ては、俺も彼女欲しいと沈み行く夕日に叫ぶような彼なのだから、酷な状況だと思う。
 しばらく彼は目のやり所に困っていたようだったが、ここへ来た本題を思い出しように再び血相を変えて「そう言えば聞いたんだけど!」と言葉を放つ。
    左之さん、転勤するって本当か。
 先ほどまで生産性がないと、どこかうわ言たったような事が、平助の口から告げられて私は目を白黒させていたと思う。すぐに平助から私は視線を目の前の左之へと移して、彼を見た。言葉は、すぐには出てきそうにもなかった。
「お前、に言う前に言う奴があるか。」
「あ、そうなのか。…ごめん。」
 左之の言葉で、それが現実のことなのだと理解した。先ほど冗談のように言っていた事は、差し迫って私の前へとやってきた。確かに今は人事異動が出る時期ではあったが、そんな気配など微塵もなかったはずなのに。
「転勤ってよりは、長期の出張だ。すぐ帰ってくる。」
「……どれくらい?」
「そうだな。多分、二ヶ月くらいか。」
 詳しく話を聞けば、彼の出身地である四国で新しく部署を立ち上げるらしい。もともと営業の出身で、尚且つ新人の研修担当である彼にはその任が適任だと判断されたのだろう。それが彼の地元であれば、ほかに適任はないと私でも分かった。
 不思議な感覚だった。別に彼と付き合っているのだから、土日に会えれば違う会社にいるのも構わないと思っていた。社内恋愛は、色々と面倒と聞いたことがあった。
「それ、言うつもりだったの。」
「まあな。今週は時間取れそうもなかったし。」
「なんかごめん。左之さんも、も。」
 無理に会議室を取ってまで私を呼び出したのが、こういうことだったのかと酷く合点がいった。きっと、朝一で土方から下ろされた内容だったのだろう。彼は変な駆け引きをせずに、全て私に伝えてくれるのだから。ただ、平助がそれを知っている時点でもうすでに会社では彼の転勤の事実を知っている人間も多いだろう。
「って訳だ。平助も用事が済んだなら出て行けよ。」
「何だよ。俺だって心配して来たのに。」
「ヤロウに心配される覚えはねえよ。」
 そう言われた平助はそれ以上何も言うこともなく、会議室を後にしていた。私は、うまく次の言葉が紡げないでいた。先ほどのキスの続きをしようとも思えない。まさに、青天の霹靂という言葉がこの場には相応しい。
「怒ったか。」
「……別に左之が悪い事した訳じゃないし怒る必要もないでしょ。」
「そっか。」
 彼は私に向いていた体を起こし、会議室の椅子へと腰掛けて食べかけだったサンドウィッチを口に含んだ。私も、真似するようにサンドウィッチを食べ勧めて、その場に特別会話は生まれなかった。   時刻は十二時二十分、一時までが酷く長く感じた。



 もうすぐ六時になろうとしていた。定時の時間だ。私にとっては六時になれば定時ではあったが、隣で働く彼にとってはそれは定時であって定時でないようなものだった。昼が終わってからも、彼は忙しそうだった。私が気まずいと思わせる隙がないほどに、隣の男は忙しそうだ。これから長期の出張に行こうとしているのだから、それも当たり前の事なのかも知れない。
 カチっとアナログ時計が定時を示して、私は席を立つ。
「お先に失礼します。」
「おお、お疲れさん。」
 今日の昼のことなんてなかったかのように、やさしいかんばせで私への労いをかけてくれる。この後、彼が長期の出張へと出かけるまで私はどう接したらいいのだろうか。普通のままでいいと言えばそうなのだろうけれど、どうしていいのか急に分からなくなった。
 定時にオフィスを出て、エレベーターに乗る。今日は何を食べようか。私にとって平日の楽しみなんて夜に何を食べるかという事くらいしかない。地下街のお惣菜でも見ていこうか。自分の気持ちを高めようと必死になっている自分自身に、私は酷く落ち込んだ。自分自身が落ち込んでいるという、何よりの証拠だった。
 地下街で買い物を済ませて、買い物袋を提げる。まだ時刻は七時前だ。彼は、まだ仕事をしているのだろうか。すぐこのエレベーターをあがればそれも分かることだったが、それも気が引けた。袋の中に入っている二人分の食材を手に、私は職場の下の待合場所で時間をつぶしていた。
?」
「左之、お疲れ様。」
 彼はいかんせん不思議な顔をしていた。まさか私が待っているとは夢にも思っていなかったのだろう。慌てて私のほうへと駆け寄ってきて、体温を測るように私の手を握った。
「お前いつから待ってたんだよ。手、冷えてる。」
「元々冷え性だからかな。」
 それでも彼は心配するように、彼のマフラーを私へと巻きつけた。いいよと言っても、全く取り合ってくれなかった。冷えた私の手を取って、歩みを進めていく。
「左之、今日惣菜買いすぎちゃった。」
「へえ。がそんな買い込むなんて珍しいな。」
「今日、左之の家行ってもいい?」
「俺が来いって言っても、平日は来ないが珍しいな。」
 それが了承の言葉とでも言わんばかりに、私は彼の最寄り駅までの電車に乗り込んだ。今日は月曜日だ。稀に彼は平日にもうちに泊まりに来いと言ったが、いつだって私がそれを断っていた。けれど、今日は彼といたいと、そう思っていた。
「ねえ。」
「なんだ。」
「二ヶ月したら、ちゃんと帰ってくる?」
「さあ、どうかな。土方さんに聞いてくれ。」
 そうか、と思う。部長である彼に聞いたら真相が分かるのだろうか。ならば、聞いてみるのも悪くないかもしれない、私はこの日常を、自分が思う以上に気に入っているのかもしれない。自分自身が思っていた程に、彼の長期出張は私にとって少しばかりの恐怖だった。
 違う会社であっても、それはそれで構わないと思っていたのは今のことではなく、ほんの少し前までの事だ。いつだって傍にいた彼がいなくなることに対して、私は柄にもなく不安を感じていた。
 手をつないで、家へと帰る。何かコンビニで買うか?と聞かれたけれど、要らないと言った。へんな奴と言われたとおり、私は変な女なのだと思う。自分の感情をうまく伝えることもできないでいるのだから。
「私も行こうかな、伊予に。」
「何だよ。柄でもない事言って。」
「そう思ったから。」
「たった二ヶ月だけだろ、言って。」
「二ヶ月で済むか、分からないでしょ。」
 急に不安になった。彼が私の前から居なくなることも、私が居ない新しい環境に行ってしまうことも。彼に限ってないと分かっていても、色恋沙汰はどこで何が豹変して惨劇を生み出すか分からないのだから。彼と付き合うことがなければ、知りえることのなかった私の感情だった。つい事の間彼の前で泥酔して、翌日に酷い二日酔いを起こしたことが一番辛い事だと思っていたけれど、そうではなかった。またここで、二日酔いを起こせばやっぱりそちらの方が辛いと思うかもしれないけれど、それを開放してくれる彼がいない事の方が辛く思えた。
「生産性のない話だけど、行ってほしくない。」
「それ本当に生産性ないぞ。」
「分かってる。ただ、言ってみただけ。」
 そう言えば、ふわりと私の体が包まれた。外だからと言えば、関係ないと更に私を抱く腕に力が込められた。こんな事をされたら、二ヶ月というこれっぽちの短い時間ですら、辛くなるという事を彼は知らないのだろうか。
からその言葉が聞けただけで俺は満足だ。」
「…面白がってるでしょ。」
「そんな事ないだろ。どうしようもなく、可愛いと思ってる。」
 コンビニを少し過ぎたところで、私たちの帰るべき場所が見えてきて少しほっとする。彼とこの家に帰るのも、暫くないのかと思うとどうしようもなく寂しく感じて信号待ちをしている彼に、私は腕を伸ばした。背伸びをして、その綺麗なかんばせのある首元へともたれ掛かった。
、好きだ。」
 この言葉だけで、私は満たされた。


( 2020'02'24 )