仮に自分が一番でなくても、極端に言ってしまえば自分自身が相手にとって都合のいい女である事を認識していながらも誰かの隣にいたいと思ったことはあるだろうか。 ―――半年前の私であれば、間違いなく解はNOだ。 何故こんな事を考えなければいけないのかと言えば、私がこの問いかけに対して今はYESと言わざるを得ない心境を持ち合わせているからだ。まさか、自分自身こんな感情に苛まれる事になるとは夢にも思わなかった。 私は絵に描いたような凡人という表現が正しい女で、特別秀でた才を持ち合わせている訳でもないどこにでもいるような特徴のない人間だ。今までの人生で彼氏が全くいなかった訳でもなく、年相応な恋愛もしてきたつもりだ。その恋愛観ひとつにしたって平凡で、リスクを冒してまで何かを追いかけたいタイプでもなかった。むしろ、そういう価値観を持っている人間を羨ましいと思いながらも何処か見下していたのかもしれない。 そんな自分の価値観を捻じ曲げてまで都合のいい女にまで私を成り下げたのは、同じ会社に勤めながらも何処か得体の知れない謎めいた仁王という男だった。 「さん、今日行ってもええじゃろか。」 嗚呼またかと思うその一方で、私はいつだってこの言葉を待っているのだから断る術を持ち合わせていない。彼もまた、私が断らない事を知っていて言っているのだろう。それは私への許可や確認ではなく、“今日行くから“という宣言なのだ。 「今日はどうしたの。」 「案件が中々に終わらんくて。迷惑やったら終電で自分の家帰る。」 「そんなつもりないくせに。」 「…さんは本当につれんのう。」 「仁王くんはもっとつれないよ。」 自社開発のシステムエンジニアである仁王は、仕事が終わらないという大義名分のもとこうして私に声をかけてくるのだ。帰ろうと思えば特別遠い訳でもない自宅へ彼が帰らない理由はきっとたった一つだ。私の家が、会社から徒歩圏内にある手頃な寝床であるからだ。 「そんな事ないじゃろ。充分、つれとると思うんやけど。」 気だるそうな吐息がかった声でそんな事を言ってくるのだから本当にずるい男だと思う。 「こんな事さん以外には頼めんし。」 彼は私の扱い方をよくわかっているのだ思う。私の取扱説明書があるのだとすれば、彼はそれを所有しているかのように、的確に私が断る事のできない方向へと持っていくのだ。 「毎回平日にしか声かけてこないのに都合いい。」 「土日は死んだように寝とるき。」 「……確かに、仁王くん死んだように休み寝てそうだよね。」 「週に一回くらいさんに癒されな会社に殺される。」 「ほんとだよね。いくらお金の為とは言え、私たち社畜だわ。」 残業代全額支給という今時珍しい制度の元、私も彼も残業をする事が多かった。どうせ帰っても寝るくらいしかする事のない私にはちょうどいい制度だったが、そのお陰で入社半年でれっきとした社畜になっていた。 「仕事熱心な女の子は、好きじゃよ。」 彼と話をするようになったきっかけは、私が社畜になったのと時を同じくしたタイミングだったと記憶していたが、実のところを言えば、たまたま連日持ち分の仕事が終わらず残業が続いていた所で彼に声をかけられたのがきっかけだった。いつだってこの時間まで残業をしているのは彼だけで、私も仕事という理由をつけては彼の近くで同じ時間を過ごすようになっていた。 私を社畜に仕上げたのは、紛れもなくこの男なのだ。 そして、彼はそれを分かっていながら、きっと私がそうなるように仕向けているのだ。あの時も、そして今も尚。 「仁王くん、帰ろ。」 それでも私は自分の意思でその道を進んでいるのだから仕方がない。不思議とそこに対しての不快感や、不満は感じない。今のこの関係が崩れないのであれば、今以上の関係を望もうとも思わない。結局のところ、彼が私を都合良く利用しているように私自身もその環境を上手く利用しているのだ。そう思う事で、この関係性にも対等を保っていられたのだと思う。 家に帰って、仕事を労いながら少しだけアルコールを流し込むとすぐに日付が変わる。それが合図だったかのように、彼はいつも「明日も仕事じゃき、そろそろ寝よか。」そう言ってベッドに転がる。これだって、私に対する確認や許可ではなく宣言なのだ。 私も彼の隣に身を沈めて布団をかけると、季節を問わずにひんやりとした彼の冷たい手が触れてくる。 いつだったか、まだ彼との関係が浅かった頃にいつも手が冷たいねと言った事があった。それに対して“よく言われる“と何も考えずに言った彼の一言を耳に入れてから、私はこの冷たい手が自分の体に張り付いてくる度に他の女を思い出さぬよう、自分から彼に腕をかけて暖を育んだ。 「さんは案外甘えたやの。」 「こんな時くらい甘えなきゃ、いつ甘えられるの。」 「それもそうじゃな。」 口数少ない分、二人だけの空間ではしっかりと私を甘やかせてくれる仁王が私は好きだった。それが恋心と気づいたのは割と早い段階の時だった。けれど、気づいたのと同時に自分が彼の一番や特別にはきっとなれない事も分かった。 だからこそ、私はこの境遇から抜け出すことはできないのだ。彼が私を必要としなくならない限り、私は彼の一番になりたいという変わらない気持ちを持ちながらも、二番でも三番でもない形のない関係性を続けるしかないのだ。 会社に寝泊まりする事もある程、仕事に穴を空けない仁王が会社を休んだのは翌週の火曜日の事だ。 月曜日はかろうじて出勤していたが、見るからに具合が悪そうだった。平常時から倦怠感の強いそのかんばせは明らかに熱を帯びているようで、夕方頃に会社の勧めもあり受診してそのまま帰宅し、結局翌日は休暇を取っていた。 大丈夫かなと心配してスマートフォンに手が伸びたタイミングで上長から「お前も念の為受診してこい。」と言われて初めて彼がインフルエンザにかかっているのだと聞いた。確かにインフルエンザであればデスクが近く遅くまで一緒に残業をしている私も感染の疑いがあるのは尤もの話だと思った。 「テクニカルサポートの方でも今日からインフルで休んでる人間がいるらしい。流行ってるんだな、お前は何事もないといいけど。」 なんとなく、点と点が線として繋がった気がした。 私が、仁王の手が冷たいねと言ったように、きっと同じ言葉を仁王に言っている女がいるのだとなんとなく思ったその女なのではないだろうかと。 都合のいい女というレッテルを自分で貼っておきながらも、それで関係性を対等に保ってきた筈の私はこんな簡単で確証も根拠もない事で崩れ落ちていくように自制心が効かなくなりそうな自分に戸惑った。 結局、彼らは五日間の出勤停止となり出社したのは翌週の事だった。 予測もしたくなかったけれど、恐らくは感染が発覚したタイミングを考えればいつだって寝て過ごしているという週末に、彼はその女と一緒にいたのだと簡単に想像できた。いつだって私には、平日ばかりで、金曜日の夜すら声をかけてくれたことはなかったのに。 全ての事を理解していた筈なのに、全てを知ると結局私は全てを理解できていなかったのだと気づく。だからと言って、ならばどうすればいいと言うのだろうか。 ―――その解を持っているのも、また私だけだ。 一週間、仁王が休んでいた分の仕事の穴埋めもあり私はより一層残業に明け暮れていた。けれど、それは決して悲観することではなかった。寧ろ邪念を払うには仕事に打ち込むのが一番手っ取り早かった。 この形のない関係性を、どうすればいいのだろうかとぼんやりと考えてみたりもしたが、結局はっきりとした答えは見つからない。付き合っている訳でもなければ、ただの同僚という関係の私たちには、何かを新たに始められることはあっても終わらせるものはない。けれどまた、何かを始められることも私と彼においてはまずないのだから、結局何もないのとそれは同じだった。 会社から残業を推奨されている訳ではなく、自主性に任せる方針の為会社からは私の働き方は喜ばれてもいたし、評価もされいた。この使うこともなかった溜まりに溜まった残業代を元手に、少し会社から離れた場所に立派なマンションでも借りてみようか。さすれば、彼は私に声をかける理由を失うかもしれない。 「あ、さんおはようございます!繁忙期にお休みしちゃってすみませんでした。」 その声の先には、病み上がりとは思えない程に意気揚々とした声で詫びてくる関連部署の女の姿があった。まるで、自分がインフルエンザで休んだ事を自慢しているかの如く、酷く優越感に浸った顔に見えた。 「ううん、出社できるまでに回復できてよかった。」 「なんか仁王さんもお休みだったみたいで、さん皺寄せすごかったですよね。」 「そんな事ないよ、他の人も皆手伝ってくれたし。」 「本当にご迷惑おかけしてすみません。この通り復活したので今日から巻き返しますね!」 下手にでているようで、マウントを取られているようにしか聞こえないのは私の思い過ごしだろうか。自分が彼にとって、それくらいの存在であることは自覚していた筈なのに、改めて頭の中でだけ理解しているのと、現実を目の当たりにするのとではインパクトの差があまりにも大きい。 彼女は、私が一度だって得た事のない仁王の週末に会っているのかと思うと羨ましさではなく、どうしようもない虚無感に襲われた。 彼女はきっと私と仁王がただ単純に仕事仲間として近いからという理由で私を牽制したのだろう。そんなことをしなくても、私は彼に取っての何でもないのに。その彼女の努力は、私をただ傷つけるだけで彼女に取ってのメリットはないのだろうと思う。 「さん。」 「…仁王くん。今回は災難だったね。」 「さんに移ってなくてよかった。」 「丈夫なのが取り柄だからね。」 乾いた笑いを浮かべたら、もっと虚しくなった。今の私のこの心境を、仁王は一体どれくらい正しく理解してくれているのだろうか。この私の苦しみをそもそも分かっているのだろうか。 「さんがおって助かる。おらんと、困る。」 こうやって私の取扱説明書をしっかりと読み込んで、私を離れさせようとしない。私のこの苦しみを分かっていながらやっているのであればただの極悪人で、ペテン師だ。 そもそも、少し距離を感じさせる私の呼び方に意味はあるのだろうか。マウントを取ることで自分の立ち位置を有利にしようとしているあの愚かな女のことは、苗字ではなく名前で呼んでいるのだろうか。 週末を過ごすあの女と、平日の私の差は、何なのか。 ―――考え出すと、本当にキリがない。 けれど、仁王がペテン師ではないかと思うほどに彼に対しての疑心を抱きながらも、私の頭の中を占領しているのは良くも悪くも仁王なのだ。結局、辛いだけと分かっている沼から私は抜け出すことは出来ず、更なる泥の下へと足を沈めていくのだ。 ここは奈落の花溜り |