私が麻雀を覚え始めたのは、三年程前のことだ。最初は手探り状態でスマホアプリを落としてやってみたりしたが、あまり掴むことができなかった。手土産にビールを持っていけば、面倒くさがりながらも諏訪は私に麻雀を教えてくれた。この男に麻雀で弟子入りをしたのは、私が麻雀基礎を知り、腕を磨くには最短ルートだったと思う。 「お前さ、そういや何で突然麻雀なんてやり始めたんだ。」 もう麻雀をするようになってから三年も経っているというのに、何を今更聞いているのだろうかと思う。諏訪も手持ち無沙汰で、思いついた事を言葉にしただけで特別気にしている様子はなかったので、答えずに続けた。 麻雀を楽しむことはできるようになったけれど、私には才能がなかったらしく、諏訪との勝敗はほぼ私の黒星だ。それでも、人なみにできるようになった。私の当初の目標は、既に達成していた。麻雀を始めたきっかけは、人数合わせで呼ばれるくらいのレベル感まで麻雀ができるようになると言うその一点のみだった。麻雀は私にとっては一つの手段でしかなく、その背景にあったのは私のよこしまな感情だ。 「突然何かと思えば。その時のノリ、よく覚えてない。」 「そんな何の気無しに突然何かしたりする訳ないだろ。」 「強いて言えば諏訪さんに勝てる手段を与えたんだよ。」 「シバくぞ。」 諏訪とは所謂気の合う関係性だ。気を使わなくていいし、ドライに見えて意外と面倒見がいいところがとても居心地がいい。周りからは付き合ってるんじゃないかと噂されているようだけれど、別に否定する気にもならなければ、肯定する気にもならない。たまに会って、麻雀を打つ。それだけの関係だ。 「最近全然集まってないけど、忙しいの?」 「普通ランク戦やろうって時に他所のチームと麻雀やんねえだろ、お前くらいだぞやりたがんの。」 言われてみればそれもそうかと思う。もう間も無くB級ランク戦が始まるこのタイミングで、誰も敵対する人間と時間を割いてこんな事をしようとは思わないのも当然だ。タイミングも考えずに誘う私もどうかしているけれど、そんな私の誘いを受ける諏訪もどうかしているなと思った。 「東さんも最近大学が忙しいらしい。」 「そっか。諏訪さんとは違うもんね。」 この距離感を心地よく思っているのは、本当の事だ。諏訪といるのは、一番自然体でいれる本来の私の姿だ。何も包み隠さずオープンに話すことが出来るし、話していて楽しい。おそらく馬が合うのだろうと、そう思う。 私たちのようなフラットな関係性が、恋に発展した方が報われるんだろうなと、ふと時折考える。一度だけ、諏訪にそれらしき事を言われたのが、そう考えるきっかけを私に与えた。 “火のない所に何とやらって言うし、いっその事、噂を本当にしちまうか“ 実のところを言うと、諏訪のその提案も悪くないと、そう思ったのだ。別に彼氏が欲しかった訳でもないけれど、諏訪が嫌いな訳でもない。諏訪であれば、今の関係性を壊す事なく付き合っていけそうな未来が見える気がしたのだ。 けれど、私はその事に対して明確な返事をしていない。もう一年近くも、諏訪からの提案を断りもせず承諾もせず宙ぶらりんなままほったらかしてしまっている。白黒はっきりさせる訳でもないのに、性懲りもなく麻雀の相手を要求する私も大概な変わり者だけれど、やっぱりそれに付き合う諏訪もどうかしていると思う。 「たまには皆でやろうよ、麻雀。」 その言葉の裏に隠れるよこしまな気持ちに、私自身が揺れていく。こんなよこしまな感情なんて、今すぐに綺麗さっぱり流せたらいいのにと何度もそう思う。今目の前にいる諏訪に手を伸ばせば、よこしまな感情と共存する事もないだろうに。 分かっているのにそう出来ないのは、何故なのか。人間という生き物は、面倒な生き物だ。 「…ランク戦が終わったら、な。」 訓練室でそろそろ帰ろうかというタイミングで、久しぶりに彼を見た。ここ最近では新入狙撃手の教官役も務めているせいもあってか、中々見かける事がなかったので会うのは久しぶりの事だった。 私が小走りで近づくと、その気配を感じ取ったのかこちらに気づいて軽く手を振ってくれる。さりげなくこうして対応してくれるところが大人な男性だと思わせる。特に十代の若い隊員が多いボーダーだからこそ、彼の存在は特別大きなものに感じるのかもしれない。 「東さん珍しいですね、個人練習ですか。」 「最近はこれてなかったからな。ランク戦も始まるし。」 彼の声を聞いていると、諏訪とは違った安心感があった。私にとって、東秋春は憧れの存在だった。攻撃手として配属され思うように成績が伸びず苦戦していた私に、狙撃手への転向を進めてくれたのが彼だった。 弟子入りした訳でもないので師弟関係と呼べるほどのものではなかったけれど、右も左も分からなかった私にいろはを教えてくれた。その時から、ほんのりと色づいた感情が芽生えていたことは自覚していた。それが単なる憧れではないと気付いたのは、丁度三年程前のことだった。 「最近東さん大学忙しいって、諏訪さんもボヤいてましたよ。」 「麻雀の事か?そういえば、久しくやってないな。」 「東さんには滅多に会えないですし、ちょっと打ちましょうよ。」 「なんだ、敵情視察でもするつもりか。」 口ではそう言いながら、彼のかんばせからはいつだって余裕の二文字が崩されることはない。万が一にも私が敵情視察をしたとしても、一切情報を与えることはないだろうし、小童一人隠密していた所で、彼にとってのダメージ等ほぼ皆無に等しいだろう。 「あまり時間は取れないが、話をしながら少し打とう。コーヒーくらいはご馳走するよ。」 その言葉に何処か期待を持ちながら、私は彼の大きな背中を追うようにして付いていく。隊員でもないのに他所様の作戦室に入って、珈琲を作ってもらっているなんて随分と贅沢な御身分だと思う。東を慕っている人間はボーダー内で多くいるだろうが、こんな手厚い対応を受けているのは私だけだろうかと、考える。そうだといいなと、胸の内でこっそりと願望を吐き出した。 「そう言えば気になってたんだが。」 丁度珈琲を淹れて戻ってきた彼が、大きな背を折りたたむようにソファーに腰掛けると、珍しく気になることがあるというのだから、一体なんだろうかと思う。大体のことを推察している彼に、気になることなんてあるのだろうかと単純にそう不思議に思った。 「は何で、わざと負けるんだ。」 「やだな、東さん何言ってるんですか。私、弱いんですよ、単純に。」 「それにしては、不自然な点が多い。」 結局、彼の目には全て筒抜けているのだ。私がわざと麻雀に負ける事も、この男は見抜いていた。きっと、その理由が何故なのかも知っていながら、あえて“気になっている“と言って、煙に巻く。 「思慮深いお前の事だ、何かの戦略じゃないかと俺は踏んでいる。」 戦略と呼ぶにはあまりに単純で、よこしまな感情が絡んだその理由を、私はどう説明すればいいのだろうか。駆け引きをせず、直接言ってしまいたい気もするけれど、相手が東なのだからそれも出来ないだろう。 私の行動の一つ一つをしっかりと見切っている彼が、私の気持ちに気づいていない筈もない。ランク戦でいう、“奇襲“をかけたのは今日が初めてではない。訓練室で見かける度に、私はこうして理由をつけて彼に時間を作ってもらう。長く会えない時は、指導を仰ぐ為にと理由をつけて自分から会いに行った。 こんな奇襲を何度も受けている東が、私のその行動に対する背景を理解していない筈がない。きっと、それを知った上でお互いの関係性に変化がないのだから、それは間接的に私の気持ちへは答える事ができないというサインなのだろう。それも、前から何となく気づいていた。そうじゃないといいなと、そう思うことくらいしか私に出来ることはない。 「そもそも私が麻雀始めた理由、東さん知ってますか。」 「さあ。聞いた事がないな。」 答えてもくれなければ、尋ねてくれる事もない。それが、答えなのだろうと思う。私は、この三年間、ずっと機を伺っていた。直接的に言った訳でもないし、直接的に断れた訳でもない。そんな宙ぶらりんな状態で私を放っているのは、彼にも非があるのではないかと思う。 こんな、生殺しの状態はあんまりだ。せめて可能性がないのであれば、もっとバッサリと切り捨てて欲しいのに、彼はそうはしてくれない。私を捉えたまま、生殺しの状態で、私をかろうじて生かしているのだ。 「聞いてもくれないんですね、理由。」 「それはお前自身が話したければ話せばいい事だ。俺が無理に聞く事じゃない。」 きっと私のこの気持ちが、恋心ではなく、ただの憧れから派生しているものだとそう私に言い聞かせているように聞こえた。私を決して無下に扱わない彼らしい断り文句だなと、そう思う。どうして好きという、こんな簡単な感情を伝えるのに私たちはこうも腹の探り合いをしながら、何手も先を読んでいるのだろうか。 全てを分りながら、生ぬるく優しい彼は、私にとってどうしようもなく残酷だ。 「東さんにしては珍しく、意地悪だ。」 「元々性格はねじ曲がっている方だと思うがな。俺を神か仏とでも思ってたのか、お前は。」 「どうですかね。自分でもよく分からないです。」 私の奇襲は、失敗なのだろう。きっと、そうだ。話をそういう流れに持って行ったのは私自身だったけれど、恐らくは戦局を読んで、彼は私を牽制したのだと思う。もう、結論は出ていた。私の恋は、叶わないとこの場がそう言っていた。 「次の対戦相手との長居は無用ですね。帰ります。」 「なんだ、打っていかないのか。」 「奥寺君達にスパイしてると思われても困りますし、今日は撤退します。」 「そうか、それは残念だ。」 私の長年に渡る恋が、ようやく終わった。膝から崩れ落ちるほどのショックはない。こうなる結果は、彼を好きになった三年前から既に簡単に予測し得た未来だったからだ。けれど、その未来を予測しながらもどこかで可能性を捨てきれず、その一点に望みをかけていた私は、駆け引きに負けた。ただそれだけだ。 好きと嫌いは紙一重なんて言うけれど、これで彼のことが嫌いになれたのなら、どれだけ楽だろう。予めわかっていたこの結果を持ってしても、私の気持ちは変わってはくれないのだから、それが何よりも苦しい。 スマホを取り出して、直近の着信履歴をタップする。この傷をどう癒すのか、私はこれ以外に選択肢を持っていない。残酷に振られた私は、残酷な電話を今諏訪にしようとしている。東に実質振られた事で綺麗さっぱり諏訪に気持ちを切り替えられるのかといえばそうではないのに、私は諏訪に縋るしか、自分を楽にする方法を知らない。 「諏訪さん、辛いんだけど。どうしたらいいかな、私。」 すぐに何かを察知したように、受話器の向こうから、落ち着いた諏訪の声が私の耳を掠めていった。 「お前も中々に残酷な女だな、マジで。」 間も無く始まるランク戦を、私は果たして平常心を保ちながら挑むことができるのだろうか。自問するまでもなく、絶対に無理だろうと思う。 諏訪を利用すれば、私のこのよこしまな感情と一緒に、彼への未練も綺麗さっぱり消えるものなのだろうか。そうだといいなと思いながらも、そうはならないだろうと自覚して、絶望に似た感情を感じた。そんな事で消えるのならば、最初から麻雀を覚えたりはしなかった。 私は、勝負に負けた。ただそれだけの事実が、私に唯一残った。
酷薄な冬に告ぐ |