人生にはある程度のスパイスが必要だ。
 最近つくづくそう思う。いつから私の人生はこんなに平坦な道のようになってしまったのかと考える。数年前まではもっと刺激のある人生だったように思うが、それも現状が齎す私の幻覚の一種なのだろうか。とてもつまらない。

 ボーダーにいた頃、もっと私の人生は豊かだった。もちろん綺麗事だけで済まされる事ばかりではなかったし、組織や人の闇はそれなりに見てきた。けれどその分、自分にとって得るものや刺激は大きかったように思う。危険に身を晒しているというそのギリギリのスリルに刺激や喜びを感じていたというのなら私はただのマゾ確定だ。でも多分、私は真性のマゾという訳でもなさそうだ。
 失ったもの程人は記憶の中で美化する生き物なのかもしれない。あの頃の自分がとても羨ましい。どうして私はあの時、ボーダーをやめてこんな平々凡々な道を歩もうと思ったのだろうか。私自身が一番それを理解していない。

 大学の卒業と一緒に、ボーダーは辞めた。
 運よくそこまで組織の重要機密を知っていた訳ではない私は、記憶封印措置を受ける事なくそのまま辞めることが出来た。所詮はボーダーでの私の立ち位置はそんなものだ。別にそれに対してもなんとも思わない。
 昔から飽きっぽい性格だった。自覚はある。少し齧れば普通の人以上に何でもできてしまった。多分それが災いして、何をしてもすぐに物足りなくなってしまう。そしてまた新しい事を始めるのだ。大学卒業を控えた頃も、そんな事を思っていた。何かを変えるきっかけの為に新しい世界に踏み込んで一般職に就いたけれど、ものの一年やそこらで飽きてしまった。
 会社の先輩で上司でもあった十も年上の男と結婚して二年が経ったが、やっぱりその生活にも飽きるのは早かった。成績優秀な管理職の旦那は、私に自由をくれると思って喜んで結婚した。稼ぎの心配もないからと専業主婦になってもいいと言ってくれたその言葉に、先を見越せない私はその未来を選んだ。一番自分に向いていない職業だろう。自由が楽しかったのはほんの数週間だった。することがないという自由は、この世で一番の苦痛だ。
 一週間の長期出張が下されたのだと聞いたのは数日前の事だ。それが寂しいとは思わない。けれど嬉しい訳でもない。ただ、一本道筋が立ったように魔が差したのだけは紛れもない真実だった。
「もしもし。」
 ボーダーを辞めてから、当時のメンバーとは随分会っていない。ふいに頭をよぎって思い出しただけと言えば多分それくらいの温度感だったと思う。もう何年も連絡すらとっていない私のアドレス帳を逆さまからなぞっていくと、途中で指が止まった。
「……さん、ですか?」
「そう。まだ登録残してくれてたんだ。」
「消す理由がないでしょ。」
「そっか、よかった。久しぶりだね鋼くん。」
 村上鋼という名前を目にして、なんだか懐かしい気持ちになったからその名前をタップしてみたまでのはなし。他のボーダーの知り合いの名前が先に出てきていれば、もしかすると鋼くん以外の知り合いに連絡を取っていたかもしれない。それくらい、軽い気持ちだった。
「どうしたんですか急に。風の噂で結婚したって聞きましたけど。」
 ボーダーを卒業してからほとんど誰とも連絡はとっていない。たまたま会社の取引先へ商談に出かけた際、諏訪と再会して一度飲みに行ったくらいだ。結婚の話も諏訪にしかしていない。諏訪が言ったのだろうかと考えたが、多分違うと思った。
「うん。結婚したよ。もう二年前かな。」
「お祝いもさせてくれないなんて酷いんですね。」
「別にお祝いされる程の事じゃないから。」
 鋼くんに電話をかけたのはまさしく偶然であって、そしてきっと必然でもあったのだろうと思う。そのきっかけは私の中で遠い過去の記憶だ。これも時間が経過して私の中での過去の思い出になったからこそ綺麗で儚いものに見えていたのかもしれない。彼は、私を好きだった。好きだと、しっかりと私に言葉で伝えてくれた男だった。
「なんか急にボーダーにいた時のこと思い出したんだ。そしたら鋼くんに電話してた。」
 結局私は彼の気持ちに応えることはしなかった。理由はいくつかあったけれど、今となってはよく覚えていない。ころころとやる事を変えてばかりの私に、鋼くんは勿体無いと思ったのだろうと思う。彼のように純真で、そして清く正しい男は私には似合わない。けれど多分一番の理由は、その真っ直ぐすぎる彼の気持ちを受け止める自信がなかったからだ。そして彼にとって私への気持ちが男女としてのそれではなく、憧れに近いものなのかもしれないと思っていたのかもしれない。年上の女がよく見える時期もあるだろう。
「冗談でも嬉しいですけど、残酷な冗談でもある。」
「冗談なんかじゃないよ。鋼くん以外に電話してない。」
さんがずるいのは今も変わってないですね。」
 彼の声を聞くのはどれくらいぶりだろうか。とても人のいい彼にしては、随分と皮肉な言葉のチョイスだ。数年も経てば人はやっぱり変わるものなのだろうか。鋼くんがどんな人間になっているのか知りたいと思った。興味本位だ。昔と変わらないと思える懐かしい彼のままなのか、それとも私を好きだと言ってくれた時の彼とはすっかり変わっているのだろうか。
「会いたいと思って連絡するのは迷惑だった?」
「ほら、やっぱりさんはずるい。」
「ずるくないよ。ただ本音言ってるだけだし。」
「俺が迷惑って言う筈ないって知ってて言うから。」
 結局私が電話のかけ先を鋼くんにしたのには、彼が言うような理由だったのかもしれない。彼は誰よりも優しい。そして、私を慕ってくれていた。私がボーダーを辞めて一般企業へと就職をすると言った時も、何か言いそうにしながらもぎこちない笑顔で送り出してくれた。私がそれを言わせないようにしていたという自覚はあった。
「明日ちょうど鈴鳴に行く用事があるの。来馬くんにも会いたいし、明日鈴鳴支部に顔出してもいい?」
 用事なんて何もない。これから作るのだ。鈴鳴支部に顔を出すという本当の用事のために、でっちあげただけの用事は何がいいだろうか。昔よく通っていた和菓子屋さんに行きたいからとでも言えばいいだろうか。何かしに来るんですか?と言う鋼くんの言葉を待っていた私は、物分かりの良すぎる鋼くんに昔を思い出す。彼は他人の事を優先して言動をする人間だ。その時点で、答えは決まっていたのかもしれない。
「さっきの話聞いてました?断る理由がないでしょう。」
 結局、鋼くんは魔が差した私を制することはしてくれない。それは多分今も昔も変わらない事実だ。風呂上がりのじめじめとした部屋の空気が、一瞬だけひんやりした気がした。何もしていないのに、もう悪い事をしている気分になったからだと思う。




 ばっちり化粧を決め込んで洒落た洋服で出かけようか迷って、それは辞めた。まるで自分はあの頃とは違うのだと誇張しているような気がしたからだ。元チームメイトにそんな風に思われるのは相当恥ずかしい。いつもよりも控えめにメイクをして、ジーパンにTシャツを着て向かった。
 久しぶりに来た鈴鳴はあまりあの頃と変わっていない。程よく寂れていて、そしてパッとしない。あの頃からそんな街だった。駅のロータリーで手土産にあの和菓子屋さんで買い物をしようと足を向けてはみたが、中高生が好きそうなクレープ屋に変わっていた。一見変わらないように見える冴えないこの街も、やはり月日が経って確実に変わっているのだと思い知らされた。
 流石にクレープを手土産にすることは出来ず、駅前にある変わっていないデパートで適当に洋菓子を買ってバスに乗り込む。鈴鳴駅から数えて七番目にあるバス停の前で目の前のボタンを押して、バスを降りる。私以外に降りる人は誰もいなかった。
さん!」
 変わらない鈴鳴支部の基地を見て懐かしんでいると、律儀に来馬くんが出迎えてくれた。きっと鋼くんから事前に話が通っていたのだろうと思う。鈴鳴は皆んないい人だ。気遣いの鬼でもある。だからこそ私はボーダーという重責の中でも数年過ごしてこれたのかもしれない。私にとって鈴鳴第一のメンバーは勿体無いくらいのチームだ。
「来馬くん久しぶり。鋼くんから聞いて?」
「はい。そろそろ来る頃かなと思って。」
「結構前から待ってたでしょ?人が良いのはいいけど、熱中症で倒れられたら私が困る。」
 私がそう言うと来馬くんは少し気まずそうにハンカチで汗を拭いて笑った。おそらく随分前から私が来るのを出迎えようと、この炎天下の中待ってくれていたに違いない。鈴鳴支部はそんな人間が多い。
「鋼は今本部なので戻るまで中で待っててください。」
「そうなんだ。じゃあ一緒にこれ食べよっか。」
「なんか逆に気を遣わせちゃってすみません。」
「水臭いね、元チームメイトじゃん。」
 作戦室として使っていた場所に通されて、何もあの頃と変わっていない風景に何だか逆にそわそわする。まるで自分がボーダー隊員であった頃の感覚が戻ってきたからだ。私の定位置でもあった席に、来馬くんは手を翳して誘導してくれた。今この席には、誰が座っているんだろうか。
「結婚されたんですよね、おめでとうございます。」
「ありがとう。でも、誰からそれを?」
「本部に行った時、鋼が誰かから聞いたって。」
「誰だろう?私諏訪にしか言ってないんだけどな。」
 もしかして黙っておいた方がよかったですか?と言われて、変な気を遣わせてしまった事に気づいて否定した。結婚のことを誰にも言わなかったのは特別大した意味はない。ボーダーを辞めてからほぼ連絡をとっていなかった私が、結婚を機にそれを報告するのもおかしいと思ってしなかっただけの事だ。他意はない。
「来馬くんは?ここ最近はどうしてたの。」
 興味がない訳じゃないけど、そこまで気になっていた訳でもない。元チームメイトのくせに薄情な奴だと我ながら自分の事が嫌になった。私はあまり他人に興味がない。来馬くんなら直向きにボーダーの仕事を変わらず頑張っているのだろうと想像がついたという理由もある。
「俺は変わりませんよ。相変わらずって言ったほうがいいかな。」
 来馬くんはここ最近の鈴鳴支部のことを教えてくれた。包み紙を開きながら紅茶を入れてくれて、俺は変わらないけどメンバーは結構変わったかなと教えてくれる。変わっていて当たり前のはずなのに、何だか私の知らない鈴鳴になっているという事実が少しだけ寂しく感じられた。
 太一と今ちゃんはもう既にボーダーを辞めているらしい。月日の流れが随分と経っている事を嫌でも感じさせられた。鈴鳴支部に私が知っているメンバーは来馬くんと鋼くんしかいないらしい。
「そっか。今ちゃんは学業に専念とかで想定はしてたけど太一も辞めちゃったんだね。」
 そこから話は急展開を見せて、私の知らない世界を映し出す。チラリと顔を覗かせた女の子に、私は微かながら見覚えがあった。定かな記憶ではないが、攻撃手の入隊訓練でついた時に見かけた顔と一致したような気がした。
 一度ペコっとお辞儀をした彼女は場の空気を読んだのか、パタパタと駆け足で廊下を駆け抜けて行ってしまった。
「…なんか悪かったかな。古株が出しゃばって。」
「そんな事ないですよ。普通にびっくりしただけじゃないかな。」
 何だか余計と居づらい空気感になってしまって、今日はそのまま退散しようかと腰を上げた時、向こう側から私の名前を呼ぶ鋼くんの声が聞こえて妙な胸騒ぎがした。
さん。」
 何だか少し焦っているように見えたのは気のせいだろうか。数年ぶりに見た鋼くんは来馬くん同様あまりあの頃と変わっていなくて、やっぱり不思議な感じがした。時がそのまま戻ったような、そんな気がした。
「鋼くん久しぶり。」
「すみません。本部で仕事があって遅くなりました。」
「ううん、昨日の今日で勝手に来たの私だし。」
 これはその後来馬くんの口から語られた事だが、彼は今育成側の仕事をしており本部と鈴鳴の行き来が多いらしい。あの当時のランク順を見ても、鋼くんがその任を受け持っているのは納得がいったし自然の摂理だと思った。面倒見の良い彼には寧ろ打って付けの適任だろう。
「長居しても悪いから今日のところは帰ろうかな。」
「全然そんな事ないのに…なら、鋼家まで送ってあげたらどうかな?」
「え、ああ……そうですね。」
 鋼くんが戻ってきて三十分程会話をして、私は何だか居た堪れなくなって帰る事にした。まだ夕方にもなっていない。積もる話なんていくらでもあったけれど、まじまじと皆んなそれぞれの時間を過ごして変わっていることを痛感して逃げ出したいような気がしたのだ。
「じゃあ俺車回してくるんで待っててください。」
 鋼くんが裏手の駐車場に回っている間に、来馬くんはもう一つ私に情報を与えてくれた。先ほどチラリと顔を覗かせた子が鈴鳴第一のオペレーターをやっているという情報だ。私と鋼くんの事情は、鈴鳴のメンバーですら知らない事だ。
 攻撃手としてボーダーに入った彼女は鋼くんに指導を受けていたというのだ。B級に上がったものの思うように成績を残せなかった彼女を鋼くんが面倒を見ていたらしい。鋼くんらしいなと思うし、その後の結末は語られるまでもなくなんとなく想像がついた。
「自分は隊員としてよりもオペレーターとして鋼を支えたいって鈴鳴に来たんですよ。今ちゃんがちょうど辞めたタイミングで。」
 来馬くんはそれ以上は語らなかったけれど、つまりはそういう事なのだろうとそう思ったし私もそれ以上を聞こうとは思わなかった。この後の車の中で何を話せば良いのか、ただそれだけを考えて気が重くなった。
 ワゴン車を基地の表に回してきた鋼くんを待って、私はそのワゴン車へと乗り込んで控えめに来馬くんに手を振った。もしかすると聞かない方がよかった情報を耳にしてしまったのかもしれないと感じて、しばらく車中では無言が続いた。
「鋼くんにも可愛い彼女がいて安心した。」
「………」
 なんとかして沈黙を打ち破る為に発したその話題は、多分間違っていたのだろうと思う。鋼くんからの返事はない。それとも私の勘違いだろうか。しかし返事が返って来ないという事は、おそらく私の推測は間違いではなくただの事実なのだろう。
「勝手に来て勝手に帰ってごめんね。もう来ないから。」
「あんまりにも一方的じゃないですか。」
「古株が出しゃばった事しちゃいけないなと思った。」
「…俺の話は聞いてくれないんですか?」
 鋼くんはあまり自己主張をしないタイプの人間だ。そんな鋼くんがこうまでしてはっきりと自分を主張した言葉を選ぶ事には違和感があった。彼もやっぱりこの数年で変わっているという事なんだろうか。今日は胸騒ぎがしてばかりだ。
「俺にもちゃんと時間をください。」
 運転席に視線をやると、やっぱりあの頃とさして変わっていない鋼くんがいた。けれど、あの時よりももっと強い意志を持っているように見えた。




 取り敢えずはと、私の家へと鋼くんを上げる。結婚してから誰かが来たことはなかった。自分と旦那だけの空間である我が家へ、かつての知人とはいえ上げる事に抵抗がなかった訳ではない。もうホームでもなんでもない鈴鳴の基地に勝手に上がり込んだ事もあって、時間が欲しいと言った鋼くんをあげない選択肢はなかった。そして、なんとなくこんな展開になることは想像していなかった訳じゃない。
 コーヒーを入れて、それをテーブルに置いたけれど鋼くんは一向にそれに口をつけなかった。こんな所では言いたい事も言えないだろうかと反省して、話題を切り替えた。
「鋼くん、明日の予定は?」
「明日は休みですけど…」
「そっか。じゃあ飲みにでも行く?飲みに行った事ないもんね。」
 私が知っている鋼くんは未成年の時のままの鋼くんだ。もちろん飲みに行った事など一度もない。このままここにいても埒があかないと思って、私は身支度を始める。
「そう遠くもないし車はおいていけるよね?支度するからちょっと待ってて。」
 そう言って、私は鏡台の前に座る。恥ずかしくないくらいには化粧でもしようかと思ったのと、その場の雰囲気に飲み込まれそうで何かをしていないとどうにかなりそうだった。自分で家に上げておきながら、いけない事をしている感じに飲み込まれているのは私の方だったのかもしれない。
 今時嫁入り道具に鏡台を送る親も珍しいと思う。十も年上の男性のところに嫁ぐのだからと、両親が謎な気遣いを回してくれたこの鏡台に座るのは久しぶりだ。結局いつもソファーに座りながら手鏡を持ってテレビを見ながら化粧をすることが多い。旦那がいないこの瞬間に、そんなものが役に立つとは思わなかった。
「鋼くんお酒は強い?どんなお酒が好き?」
 妙なテンションで語りかける私に、鋼くんの様子は変わらない。もちろん返事もない。私はポーチの中から赤い他所行き用のブランドのリップを取り出して、唇を広げて埋めて行く。我ながらしんどい境地だった。
さんはいつもそうです。」
「…なにが?」
「そうやって俺の気持ちを弄ぶところが。」
 弄んでいるつもりは当時も微塵にはない。ただ、私には受け止められないと思っただけだ。すぐにころころといろんな事を変える私は、きっと鋼くんの事も大事できない。万が一にでも私が彼を傷つけることは、私が望むことではない。それくらいに私の中で鋼くんは特別で、大切な存在だった。だから、あえてその道を断ち切ったのだ。私が選択を迫られたときに後先考えたのはこの時が後にも先にも初めてだっただろうと思う。
「あれはもう大昔のことで、」
「大昔の事にしてるのはさんだけですよ。」
 鏡台ごしに見えた鋼くんの眼差しは痛いくらいに真っ直ぐで、あの頃にはなかった意志の強さだ。見た目はあまり変わっていないのに、ふいにどうしようもなく大人の男であるように見えてしまって、今度は私が言葉を見つけることができない。
「俺をあの頃に置き去りにしたままなのは、あなたのせいでしょ。」
 鏡台越しに鋼くんが近づいてくるのが見えて振り返る。家に上がっているとは言え、仮にも人妻に対して随分と積極的だ。私はそのまっすぐな眼差しに吸い込まれそうになりながらも、一度正気になって両手を目の前にかざした。
「鋼くん、彼女いるでしょ!」
さんにも旦那がいるでしょ?同じです。」
「全然なにも同じじゃない……」
 他所行き用の真っ赤なリップはさっき塗ってばかりなのに、鋼くんがどんどんとそれを刈り取っていく。あの頃の鋼くんにもこれくらいの強引さがあれば、今のこの変えようがない現実は変わっていたのだろうか。
「もう待ちぼうけは疲れました。」
 私のリップの色が移っている鋼くんを、私はどう受け止めれば良いのだろうか。けれど、電話をした時点でこうなる事を期待していなかったのか?と言われたらそれを完全に否定できる私はいない。
「鋼くん彼女は…」
「これが答えだって分かりませんか?」
 本当はずっと待っていた。あの時から、私は待っていたんだと思う。一時の気の迷いではなく、本当に私が好きなのだと言葉だけでなくしっかりと表現してくれる鋼くんを待っていた。私が考える不安要素を打ちのめしてくれるくらいの熱量で、彼のものにしてほしかった。忘れていたなんて、ただの嘘だ。
「きっかけを作ったのはあなたですよ……」
 鋼くんの言葉が痛い。彼の言っていることが事実だからだ。私がそのきっかけを作っておきながら拒絶しているこの状況に一体誰が得をするのだろうか。おそらくは私も彼も、他の誰でさえも得はしないだろう。それを押し通すという事は、誰かを裏切ることになるからだ。
「鋼くんの方がよっぽどずるいよ。」
さんには負けます。」
「…いつからこんな風になった?」
「ずっと根っこは変わってないですよ。」
 私の赤いリップを吸い取るように、鋼くんが啄んでくる。いけない事をしているような錯覚でいたその錯覚は、本当にただのいけない事になっていてより心を動かせるような気がした。ここまで来た私たちは、一体どうすればいいのだろうか。
 紅一色に染まった鋼くんの唇に親指をつけてそれを拭い取る。もう時期にそれはこれから私たちがすることによって拭われるのかもしれないけれど、その唇に事実が残っているようで全部剥ぎ取りたくなった。
「苦いでしょ口紅。」
「あの時の方が全然苦い。」
「ここでそれ言う?」
「言います。あの時ほど俺はお人好しじゃない。」
 お互いのこの言葉で全てが解き放たれたような気がしながらも、結局あの時のように私たちはもう自由にはなれない。こうして旦那が居ない部屋でキスをすることはできても、その先がある訳じゃない。私にも鋼くんにも、それを犯してはならない相手がいるのだから。自分が傷つくよりも、人を傷つけることの方が何倍も辛いことを私たちはよく知っている。
「何年経ってもやっぱり俺はさんが好きです。」
 私もと、そう言いかけて止める。言えたらどれだけよかっただろうかと思う。けれどこれは私の自業自得だ。私があの時しっかり鋼くんを受け止めていればこうはならなかったかもしれない。けれど、一緒になる選択肢を選んだ時点で終わりにも向かうものだ。うまく行っていたという保証はない。私は、それが怖くて鋼くんを受け入れられなかった。
「今だけでいいんです。俺を見てほしい。」
 ベッドに違う男の匂いがついた事に、旦那は気づくだろうか。




 業を背負ったあの夜のことが忘れられない。旦那が帰ってくるまでは後五日ほどある。立て直すには、もうあれきりにしなくてはいけない。そんな事はわかっていたし、きっと鋼くんもわかっている事だ。
 朝目が覚めた時、名残惜しいようにもう一度体を交えて本当にどうしていいか分からなくなった。それが求められただけのものではなく、私自身も求めていた事なのだから頭を抱えるしかない。
 何かを期待しなかった訳じゃない。暇を持て余す夏の夜に、鋼くんを求めたのはきっと私の方だ。誰のことも幸せにしないし、不幸にする人間の方が多いこともよくわかっている。けれど、そんな自制心があればこんな事にはなっていない。
 休みだから時間を気にせず一緒にもっと居たいと言う鋼くんを説得して、一旦は帰ってもらった。私を送りに行ったまま帰っていない現状は来馬くんに対しても不安にさせる要素でしかない。それに、鋼くんには彼女がいるのだ。それも同じ鈴鳴の、だ。
 朝からベッドシーツを剥いで洗濯機にかける。悪いことをしている気分は、その選択によってより確実なものへとなっていく。鋼くんと寝てしまったという事実は消す事はできない。私はいつ旦那が帰ってきてもいいように、既成事実の抹消と万が一の言い訳を考える。朝から気の重いはなしだ。
 旦那からのメッセージが入る。一日早く切り上げて帰れそうだという内容だ。一度考えて、去年実家に帰省できてないんだしそのままお母さんに顔を見せてあげたら喜ぶんじゃないかと言ったら、本当にそうするという返信が返ってきた。どこかほっとした自分がいた。
 証拠を隠滅するように部屋の掃除をする。いつものように昼下がりスーパーへと出向いて、野菜や肉を買う。自分のためだけに食事をつくることはあまりしないけれど、今日はあえてしっかり料理をした。日常を取り戻すためだ。昨日の出来事が日常から外れたイレギュラーで、そして夢だと思おうとしたのだ。
 ちょうど晩御飯を終えて食器を片付けている時にスマホのバイブが鳴る。かかっていたタオルで手を拭いてスマホを覗き込むと、その名前に再び私は心臓をギュッとさせる。旦那ではない男の名前が、ディスプレイに表示されていた。
「…もしもし。」
さん?出てくれないかと思ったからよかった。」
 昨日嫌と言うほどきいた鋼くんの声が再び耳元の至近距離で聞こえる。今日はオフとは言っていたけれど、誰かとオフを合わせることがボーダーでは難しいことを私は誰よりも知っている。今日は彼女と一緒にいる日ではなかったのだろうか。
「鋼くんあのさ、」
「言わないでください。分かってます。」
 ボーダーで同じチームメイトだった私がなんと言うかなんて、鋼くんには朝飯前の事だったのかもしれない。先手を打たれてしまった私はなにも言うことができない。あとは耳を傾けて、鋼くんがなにを言うかを待つしかない。
「やっぱり今日も会いたい。好きです。」
 私が何か言う度に先手を打って言わせないようにするくせに、こういう時ばかりはきちんと返事を待つらしい。暫く待っても鋼くんの声は聞こえない。完全に私の答えを待っている言葉らしい。
「鋼くん。」
「はい?」
 人妻でありながら、自分で仕掛けたゲームにどうしようもなく嵌っている私はどうすればいいのだろうか。誰かを傷つけると分かっているゲーム程辛い事はない。そして、私たち自身もいつかこの事実に首を絞められ誰よりも辛くなると分かっている。分かっているのに、結局答えは決まっているのだ。
「どこで会おうか?」
 この関係があと五日で終わるとは到底思えない。


くらやみの余熱
( 2022’07’09 )