正直に言えば、それは私にとってはどうでもいい事だった。そして、十分にあり得る事態だとも思った。今月のランキング戦で手塚に敗れた桃城が、レギュラー落ち。私から言わせれば、手塚が桃城に負けるはずなど絶対にありえない。それはもちろん、相手が桃城でなく他の誰であろうとだ。 疑問は何一つないと思っていた筈のその日の夕方、私は先ほど燃えるように目をギラギラとさせながらランキング戦に挑んでいた手塚の姿を思い出し、茫然としていた。彼は強い。それは言ってしまえば当然の事。しかし今日の彼はいつもと違って見えた。いつものあの冷静沈着な手塚ではなく、何かに取りつかれたように熱くスリルを感じているように、私には見えた。 無性にイライラする。大好きな彼が勝ち取った当然の勝利にも、気分は上がるどころか下がる一方だ。無表情を貫き通す彼の見た事もない表情が脳裏に焼き付いて離れず、私に他のことを考える余裕を与えない。 ずっと知らないふりをしていた初歩的な事を、いまようやく確信する。私はやっぱり、テニスに勝てない。 確信したところで別に何も変わらない。前からそんな事は薄々と気づいていた。テニスと恋人を比重にかけるなんて事をすれば、それこそ手塚は嫌がるだろうからあえて考えないようにしていただけ。そして、確信してしまった所で、私に残された選択肢は“現状維持”以外に他あるまい。 好きだから、テニスに負けてしまってもそれでも好きだから。臆病な私は、手塚からの別れの言葉を恐れて、何をするわけでもなくただ日常を全うするしかないのだ。けれど、そんな生活にも嫌気がさしていた。小さな反抗でもしてみたいとも思い始めた頃、誰もいないマンションにチャイムの音が鳴り響いていた。 「なに、しに来たの。」 煩く響くチャイム音で開けたドアの先にいた見覚えのある男に、私は思わず目つきを強めた。先ほど手塚に見事なまでに惨敗した彼だった。 「いや、今青葉先輩何してんのかなってね。」 彼は気まずそうにポリポリと髪を揺さぶった。何故今更この男に何をしているのかを気にされなくてはいけないのだろうか。話しかけるだけなら機会はいくらでもあったはずだ。休憩中や部活中にだってそれは出来た筈なのに。でも本当は知っている。彼はきっと今もあの手塚の表情が脳裏に焼き付いて離れないのだろう。私と同じように。 「…なんて家まで来て聞く事じゃないっすね、ストーカーじゃあるまいし。」 アハハと空笑いを響かせた彼は「あ、断じてストーカーではないですからね。」とまるで茶化したようにそう言った。会話に困ったのか、二言目には彼から別れの言葉が紡がれる。 「それじゃあ、また明日。」 「ねえ、桃。」 「……なんっスか。」 手を上げていつもと同じように装っている彼の背中がやけに小さく感じて、思わず私は彼の名を叫んだ。すると彼は罰の悪そうなかんばせを見せて、私は言葉を続けた。 「知ってるんだから。」 「気のせいッスよ。俺が何か考えて行動するタイプの人間だと思います?」 まだしらを切る。知らないって。笑いながら。 「そう見せかけて案外思慮深いのが桃だと思うけど、違う?」 また彼の表情が一瞬固まった。すぐその後に笑顔でその場を取り繕っていたけれどその笑顔が余計とぎこちなさを育んでいく。誰よりも嘘を付くのが下手なのを知っているから。手塚と同じくらいに。 「そういう青葉先輩こそ思慮深いんですね。」 場を誤魔化すように言う桃城にも私は怯むことなくそのままの面持ちで口を開く。 「私が手塚の彼女って事忘れた?」 「…そうでしたね。」 まだ核心には迫って来ないのかと、少し焦ったい。本当は、彼から言ってきてほしかった。そうすれば私が悪者になる必要がないからだ。しかし、彼は言ってきてはくれない。ならばこちらから言うしかなく、一呼吸おいて決心をつけてから、決心が揺らがないうちに、私は禁断の一言を桃城に向かって吐き捨てた。 「桃、キスしよっか。」 また桃城の表情が固まる。イエスとも言わなければノーとも言わない彼に私はもう一度覚悟を決める。 「キスしようよ、桃」 もう一度言って彼に近づくと何かをふっ切ったのか、近づいてきた唇に私も拒む事無くそれを受け止めた。 罪悪感に駆られた以外はいつもと何も変わらない生活が待っていて、そしてそれに従った。私はまだ手塚の彼女という肩書を持つ事が出来ている。桃城との誤ちなんてなかったように、穏やかに日々は流れて行った。 あの日の事を考えると罪悪感でいっぱいになる。同時に、スリルで溢れる。いけない事をしているという感じてはいけないスリルが体からなかなか抜けようとしてくれない。それは桃城との体の関係が忘れられないのではなく、なんだか手塚に勝ったようになっている勝手な妄想だ。 桃城が私の事を以前から恋愛対象として気にかけていたのは何となくわかっていたし、何より物事を隠すのが下手な桃城の好意は手に取るように理解出来た。テニス部のマネージャーとして桃城から注がれた熱い視線を私は利用した。 桃城は手塚とは違った。そして彼は私が当初望んでいたような言葉を、沢山与えてくれた。優しく呼んでくれる名前も、言葉も、全ては私が手塚に望んで得られなかったもの。もともと口数の多い方ではない私にとって、桃城は理想的なパートナー像にほど近い。彼は私が手塚に望んだもの、全てを持っていた。でもそれは全て手塚に望んだものであり、桃城に望んだものではなかった。 手塚に望むものというよりは、望むものが手塚だった。 「国光。」 隣のクラスに足を運ぶと、一人難しい顔をしている手塚を見つけた。 「今日は部活ないのに、何してるの。」 彼の元へと近づいていくとそこには次の試合オーダーが並んでいた。やっぱり何をするにも手塚の中から“テニス”が消える瞬間はないのだ。知っていながらも、改めてテニスに嫉妬する。いつだって彼を熱くさせたり、悩ませたりするのはテニスの事ばかりだった。 「帰るのか?なら先に 「国光、キスして。」 そう言ったところで絶対に相手にしてもらえないのは承知の上だったが、思いのほか手塚の両手に体が包みこまれるまでそう時間は必要としなかった。いつもの彼からは想像も出来ない濃厚な口付けに、私たちは場所を忘れたように互いの唇を貪りあった。 「青葉。」 無口な彼から出るこの単語は、やはり一番心地がいい。 なだれ込むように家の戸を開け、自分の部屋のベットへと手塚となだれ込んでいく。幸せと同居する罪悪感に満ち溢れたセックスは、この上なく快感だった。 つい先日の桃城とのセックスを思い出すと、余計と快楽は増していった。 桃城は手塚に負けた。それは変えようのない事実。テニスでは覆す事のできない勝敗だった。彼が私の元に現れたのは、きっと私を抱く事で手塚に対する負けの意識を軽減できると思ったからなのだろう。こう言えば桃城は全力で否定するだろうけれど、何かひとつ手塚のものを奪う事で得られるものがあると思っての行動に違いない。その確証たるものは、私自身もその考え方を持つ一人だからだ。少しでもいい、手塚の興味の対象をテニスからずらしたかった。私だけを見てほしかった。だから桃城を利用した。けれど、自らそんな事を申し出る事は出来ない。ならば結局は一体何がしたかったのか、分からなくなってしまった。 「桃城が、来ていたのか。」 あまりに冷静すぎる手塚の発言に私は冷静を装って答える。何故バレたのか考えながら。 「何、言ってるの。」 自分でも分かる。私は今酷い顔をしている。筋肉がひきつって上手く表情を整えられない。手塚の顔を見ていれば自分の顔がいかに動揺を隠し切れていないのかを理解することができる。けれど彼はそんな一目瞭然の態度にも屈することなく表情を変えずに言ってのけた。 「そうか。」 そこで会話は終了だ。明らかに私が動揺しているのを理解しているくせに、それが嘘だと知っているのに、私を追求するどころか、その嘘をそのまま信じようとしている。強引に。彼は彼でバカだけど、私はもっと大バカだ。手塚のその言葉で終わっておけば何事もなく済んだはずなのに、妙な感情が邪魔して上手くはいかない。 「なんで嘘だって分かってるのに、何も言わないの。」 私が浮気をしたという事を知っても動揺すらせず勝手になかったものにしてしまおうとする手塚が、許せなかった。私の事なんてまるで眼中にないと、そう言われているような気がしてならなかった。しかし、彼は言う。表情ひとつ変えずに。 「…追求すればそれが事実になるからだ。俺はお前と別れたい訳ではない。」 罪を犯してからこんな暖かいものに触れてしまってもいいものだろうか。どれだけ自分が大切にされていたのかをこんな形で知ること程、相手にとって残酷な話はないだろう。 暫く無言の時間が流れた。私も口を開かなければ、手塚も口を閉ざしたまま。しかし、私が左側を視界に入れようとした時、まるで何かを隠すように、見せないように手塚の腕の中で抱きしめられた。男物のソックスが片方だけ、無造作に転がっていた。 靴下と浮気もの |