人間は精神的に酷く脆い生き物だ。
 思ってもみない些細な事で喜び幸せを感じることもあれば、冗談のような一言で簡単に傷つくからだ。言語を持つということは、きっとそういうなのだろうと思う。
 なんて事のない細やかな友人の本音が酷く私を貶めた。酔っている人間の発言程、何の忖度もない本音でしかないものだ。だから傷つく。一気に酔いが覚めた。
 言われなくてもそんなことは自分でも自覚していたし、正真正銘目の前で酔っ払っている友人のその本音は的確で正しい。本人に多分悪気はないだろうし、後日それを言ったことすら忘れてしまうようなレベルの言葉だろう。
「え〜、そんな状態で付き合って嬉しい?」
 彼女はそう言った後、すぐに「いや、それでも嬉しいか〜」とさぞご機嫌にそう言った。つい先ほどまで私も同じようにくったりとしたいい感じの酔っ払いだったのに、一瞬にして冷静になって惨めさが直面した。
「この歳になって正攻法も逆に恥ずかしいじゃん?」
「あ〜、それは言えてるかも。」
 若干二十歳でなにを言っているのだろうか。この時ばかりは相手が酔っていてよかったと思う。大した付き合いを経験してきた訳でもないのに、なにが“この歳”だろうかと自分でも愚かな発言で失笑する。
「ずっと宮城くんの事、好きだったもんね。めでたい!」
 私はこの話を振った時から、この言葉を待ち望んでいた。自分だけではリョータの優しさが本物なのかどうか確信が持てなくて、わざわざ高校時代の友人を久しぶりに呼び出して飲みにきたのだから。会いたかったんじゃない、第三者からそう言われる事でリョータの優しさが紛れもない本物であると思いたかっただけだ。
 当人がどう思うかが全てなのに、今になって自分の愚かさがより惨めだった。
 リョータと付き合ったのは今から半年ほど前に遡る。言うまでもなく、告白したのは私の方からだ。十五の時から思い続けて、実に五年以上の片思いでようやく実った恋で、まともな付き合いをするのは私にとってリョータが初めてだった。
   さわ子泥酔、そろそろ帰ろうかな。
 同じ大学に進んだ同級生の彩子に彼氏ができたのがきっかけだった。いずれどこかを経由してリョータの耳にも入るだろうと思った。案の定そんな真実でしかない噂が彼の耳に届くまでに大した時間は必要なく、真相へと辿り着いたらしい。
   まじ?さわちゃんってそんな感じだっけ?
   それ、私がびっくりしてる。
 学生時代の五年間という価値は、きっとそれ以降のどの人生よりも貴重な時間だろう。私はそんな貴重な時間を彼に片想いしていたのかと思うと、なんて一途なんだと思いながらも、その反面執着心の塊でしかない自分が垣間見えて嫌になる。
 すぐに告白はしなかった。長い片思いを、そんな一瞬にして散らしたくなかったからだ。
 今までにない千載一遇のチャンスに、告白をすることは決めていた。けれどそれは彼女になるための告白と言うよりは、万が一のYESが返ってきたらラッキーだし、駄目で元々だと玉砕前提のものだった。
 年頃という事も多少はあったけれど、恋愛というものに憧れを持っていた。だから、駄目もとで上手くいけばこれ以上ない収穫で、駄目だったらキッパリ諦める材料になると思ったのだ。他の人を好きになるチャンスを、私は五年も失ってきたのだから。
   なんか食う?
   え、なんか作れるの?
   テキトーでよければ。
 頃合いを見て、駄目もとで告白した私に対してリョータの返事は想像以上に静かなYESだった。返事をもらった時は我を忘れて喜んだけれど、思考が正常になっていくと嬉しさ以上に侘しさが溢れた。正反対の感情が同居する事を初めて知ったのはこの時だった。
 いいよ。たった3文字だけをあまり感情のない言葉で返してきたリョータと自分のギャップを感じながらも、自分から告白しておいて振る訳にもいかない。晴れて私たちは付き合うことになった。
 当初思い描いていた結果とも相違していれば、あまりにも冷静に返事をしてくるリョータも私には全てが想定外だった。得たものはリョータという彼氏だけで、それ以外なにも手に入れた気がしなかった。
 付き合ってからのリョータは、あんなに淡白な返事をしたにも関わらずとてもいい彼氏だった。毎月記念日と言って休みを合わせてどこかに連れて行ってくれたし、半年記念日の先日はディズニーシーのホテルまで予約してくれた。点数にしたら百を振り切る完璧な出来た彼氏でしかない。
 なぜリョータがここまで私によくしてくれるのかを考える。
 私がリョータを想い続けたように、彼自身が恋焦がれた彩子と比較するとより如実に違いがわかる。声を振るわせ、ありったけの高音で周りの目を気にすることなく彩子に愛情を言葉にしていたのに、リョータは私にはそれをしない。
   テキトーの度合いが気になるから食べたい。
   はいよ。
 記念日を毎月忘れることなくしっかり私をもてなしてくれるのに、彩子の時のように言葉での愛情表現はしない。それは一体なぜなのか。思案して出た答えが、やっぱり私を惨めにさせた。
 おそらくは、彼のこの優しさは私に対する贖罪だ。
 長年想い続けた彩子への想いが届かなかったという現実に、とりあえず告白してきた女と付き合うのもアリだとどこかで思っていたのかもしれない。けれどその相手である私は高校時代そこそこ仲良くしていた友人でもある。だから、付き合ったきっかけを正当化する為にも、リョータは私をしっかり彼女として扱ってくれているのではないだろうか。
「んだよ、お前もしっかり泥酔じゃん。」
「それは認める、だからおかえりのチュウして。」
「は〜?キャラちげえじゃんか、何だそれ。」
 彩子を追いかけていた時のリョータを考えれば、こんな事くらい乗り気でしてくれそうなのにこのザマだ。蔑ろにされている訳ではないけれど、そのバランスが私にはよくわからなかった。もうほとんどシラフに戻っているこの状態で、軽い酩酊状態を演じている私は一体どうしたらいいのだろうか。
 リョータが間違いなく好きで、なりたくてリョータの彼女になった筈だし今もその気持ちに変わりはない。けれど、それ以上に私は彼女にしてもらってから場面場面でよく惨めになった。
 リョータの彼女になればリョータを手に入れられると思っていたのに、現実はその真逆だった。付き合ってからの方が前よりももっと一方的な片思いを間近でさせられているような辛さが付き纏っていたからだ。
「ほれ、食え食え。」
 唇の代わりに飛んできたのは、卵とスパムが海苔で巻かれた私にとっては初見の食べ物だった。警戒しながら口にするといろんな味が広がって想像以上に美味しかった。
「……美味しい。」
「そう?母さんがスパム大量に送ってきたから。」
「スパムおにぎりは処女だった。」
「お前の処女二つも貰えてラッキーだな。」
 こんな事言われたら慌てるだろうかと思ったけれど、この反応だ。動揺のどの字もない。寧ろ下ネタに下ネタで切り返してくる分、リョータの方がこの件に関しては格上だ。多分これで私が酩酊状態ではないことは簡単に伝わっただろう。
 沖縄を体現したようなおにぎりをほうばり終えて、まだほんの僅かに残る酒の力に任せて手を大きく広げてからリョータを捉える。半年付き合って抱きつく事に酒の力を借りないといけない程ピュアな関係でもないのに、軽いスキンシップの方が難易度が高い気がしてならない。
 何か冗談ともとれるような言葉を添えながら甘えればよかったし、そうしようと思っていた。けれど実際のところはなにも言葉は出てこず、言葉を考え紡ぐ事に既に疲れている自分には気づく事なくただぼうっとしていた。
「ねえ、もしかして俺なんか不安にさせてる?」
 思っても見ないタイミングで、まさかの言葉が出てきて急に狼狽えた。彼女が酔って帰ってきて少し甘えたスキンシップをしている時にこんな言葉がくるとは私以外でもきっと思わないだろう。
「なんかあるなら言ってよ。」
「…逆に急になに?」
「普段こんなに甘えてきたりしないでしょ。」
 その通りだ。自ら告白をして、事実五年間も彼に片思いをした上でリョータは私の彼氏になってくれたし、私はリョータの彼女になった。けれど付き合う事がゴールではないのだと、この関係性が私にそう思わせた。そうなってくると、単純な動作やなんて事もない言葉の一つ一つに意味があるように感じられて、なにも出来なくなってしまった。
「頭いい方じゃないし言わないと分かんない。」
「いい方じゃないだろうね、もちろん。」
 私たちは“共犯者”なのだろうと、そう思う。
 彩子を媒介に、私たちは自分を殺す事で、自分の欲しいものを得たのだろうと思う。私は長年思い続けてきたリョータの彼女という枠を、リョータは彩子という叶わない恋からの脱却を得る道を。
 だから私たちはお互いを利用している、謂わば共に違う罪を背負った共犯者なのだとそう思っていた。そうでなければ辻褄が合わないと思っていたからだ。リョータが私と付き合うメリットがそれ以外にあって欲しいと思いながら、ついにこの半年をもってしても私は見つける事ができなかった。
「昔から茶化す時、死ぬほどしんどい顔してる自覚ないの?」
 自覚はなかったけれど、思い当たる節しかなくてついに私は黙り込んだ。




 私が告白したきっかけを、リョータは知っているのだろうか。彩子に彼氏が出来てリョータに微塵にも可能性がないとある意味での言質をとったような状態で告白したことを。
 リョータはそんな事を知らない。多分、私が長く片思いをしていたという事実すら知らないだろう。私はそんなリョータの鈍感さを逆手にとって、卑怯な告白をした。今自分で思い出しても嫌気がするような思い出だ。
   リョータがいいなら、うちら付き合う?
 五年間も純粋に片思いを続けてきた女の告白にしてはあまりに可愛げがない。自覚はある。というか自覚しかないし、言う前も言った後も、何なら今も後悔しているくらいだ。それも彩子に彼氏が出来たという話をお互い世間話程度にしていた、そのすぐ後に私はこんな事を言ったのだ。
 千載一隅のチャンスに賭けていた癖に、どうしてこうもそれが伝わらない言葉でしか言えなかったのだろうか。こんな言葉でよくリョータも私を彼女にしてくれたと思う。そんな可愛くない女に、望むような甘い言葉なんて烏滸がましい。自分のことながらそんな事を思う。
「…ずっと片思いしてる感じだから。」
「なんだよそれ。」
「人の弱みに付け込んで自分を売り込んだ私の罰なんだと思った。」
「は?なに言ってんの。」
 不安と幸せが同居するのは最初だけはなく今も継続されていることだ。好きだから幸せで、好きだからこそ不安だと思うこの感情に名前はあるのだろうか。私がもっと誠実に告白していれば状況は変わっていたのだろうか。そうであったとて、もうそこには戻れない。どう足掻いても後悔しかないその状況は絶望に似ていた。
「彩子になれないなって、そう思った。」
 付き合って自分の処女まで捧げているのに、常につきまとっていたこんな言葉すら言う事ができなかった。リョータと付き合うことが私にとっては最高の褒美であって、そして同時に自分を苦しめる事だったとは思いもしなかった。
 要因はわかっている。私が最初から自分を曝け出せなかったからだ。
「ちょっと待ってよ。はアヤちゃんになりたいの?」
 自分でも考えた事がなかった。リョータの事が好きだったから、彩子にならないと付き合えないんだと思っていた。でもそれは彩子になりたいという気持ちではない筈だ。彩子に憧れを感じたことはあったにせよ、成り代わることなんてできないのだから。それに今以上にそんな事をしたら惨めで仕方がない。
「なれるものならなりたかったんじゃないかな。」
「何でそうなるんだよ?」
 私を私として好きになって欲しいと思いつつも、長年の片思いと彩子という存在でそれが叶うなんて思っていなかった。だから手に入れた瞬間から、私の罪と罰が始まった。本当に私の事をこれから好きになってくれるのかという不安と、そしてリョータの弱みを握ってまで自分の欲望を叶えた自分への罰が。
「私と付き合ったの、彩子に彼氏が出来たからでしょ?」
「…違うよ。」
「そうじゃん。だから私リョータに告白したんだよ。」
はそうだったかもしれないけど、俺は違うよ。」
 しっかりと私と距離を保って、しっかり肩を両手で押さえてこちらを見ているリョータに私は視線を合わせる事ができない。いつも優しいながらも、これだけ正面から向き合ってしっかりリョータが私に何かを伝えようとしていることはなかったからなのかもしれない。
「卒業してから、の存在の大きさにすぐ気付いたよ。だから、本当に嬉しかったよ俺。」
 半年間疑心暗鬼になっていたのは一体何だったのだろうか。口の上手い男であればその場凌ぎの言葉なのかもしれない。けれど、私が長年見てきたこの男にそこまでの上手さはない。到底そんな駆け引きができる男ではないのだ。だから、好きになった。
「でも彩子に対する態度と全然違ったから…」
「なら、そうして欲しかった?」
 憧れがなかった訳じゃない。でも、私たちは高校の時からの知り合いで、付き合ったからと全てが変わってしまっては辻褄が合わない。そもそもそんな状況が続いた場合、今以上にその愛情が本質的なものなのかと疑心暗鬼になるのは目に見えている。
はそういうの反応に困るでしょ?」
 今までも十分にいい彼氏だったリョータは、私の真髄をきちんと見抜いた上でこの半年間私と付き合ってくれていたのだとこの時ようやく確信する事ができた。彩子の代わりにとりあえず付き合ってみたなんて一瞬でも思った自分が心底憎い。
「…困るし、困る。」
「だからから甘えてくる時はしっかり話聞こうと思ってた。」
 想像以上に大切にされてるいるらしい。自覚した頃には、既に号泣に近いくらいの涙が出ていた。自分の後ろめたさを罪にして、そして勝手にリョータにも罪を背負わせて私たちは“共犯者”だと思っていたのに、“犯罪者”は私一人らしい。
「俺のエゴだけど、アヤちゃんと同じような感じで好き好き言うのは違うと思ったしアヤちゃんとは違うでしょ。」
 完全なる“犯罪者”でしかない私にも、彼は驚くほどに甘美だ。私には共犯者なんて最初からいなくて、私が最初から単独の悪事を働いていたのだ。けれど、そんな囚人にも彼はとても寛大で何事をも許すので、やっぱり彼も共犯なのだ。
「リョータもういい、ごめん。好き。」
「そう?ならいいかな。」
 今この瞬間、私たちは共犯者を卒業した。


共犯者のエピローグ
( 2023’01’07 )