宮城リョータという男は、きっと誰よりも優しい。 どちらかと言えば、恋人というよりは、卒業して社会人になって、どちらかが結婚しても、時期を見て会っては下らない話を永遠にできるような、そんな友達としての将来の方が容易くビジョン化できた。でもそれは、リョータが彩子を好きだからという、そもそもの前提があったからなのかもしれない。 「どう、熱くない?」 「うん、ちょうどいい。なんか眠くなる感じ。」 高校三年の夏が終わった頃、リョータから好きだと言われた時の私はこれでもかという程間抜けな顔をしていたと思う。想定外だったからだ。彩子はどこいった?なんて聞く余裕もなく、気づいた時には、私も!なんて勢い余ったように言ってしまった。 もう少しその嬉しさを噛み締めて焦らしてやればよかったのに、人間パニックになるとそんな駆け引きなんてできるもんじゃないらしい。私自身、リョータの事が本当は好きだったのだと気づいたのはまさにその時だった。優しいリョータが、多分最初から好きだった。 「ちょっと寝ないでよ。」 「…ん〜?なんで。」 「なんでって、……俺がいるから?」 「俺様発言と思いきや質問系なのがリョータっぽい。」 「俺にカッコつけさせるつもりとかない訳?」 その返事にはキッパリ迷う事なく答える事ができる。返事は「ないね。」の一通りだ。何でも一生懸命になって相手を喜ばそうとするのは間違いなく彼の長所だろう。もちろんそんな彼のことが好きでしょうがないと思いながらも、彼が何も考えずに安らげる存在を場所を与えたいと思っていたからだ。 「カッコつけてなくてもリョータ結構かっこいいよ。」 「前から思ってたんだけど言っていい?」 「言わなくていい。」 「なら尚更言う。そういうとこ、ずるい。けど好き。」 最初は彩子への一方的な恋心に疲れて、適当で手頃な付き合えそうな女として私を選んだのだろうかと思った。事実として、彼は過去に彩子への恋心を断つため、彼女探しをしていた事があったからだ。自惚れている事を前提にしても、そんな邪な気持ちじゃないと気付いたのは付き合って間もない頃だった。 「もっとガシガシやってくれないと永遠乾かない。」 「いいじゃん、やってんの俺だし。」 友達の延長線上にあるような付き合いになるのだろうと思っていた私にとって、リョータの行動はかなり想定外だった。一緒に通えるのもあと数ヶ月だからと、毎朝私の家まで迎えにきて通学した。帰りも同様だ。 友達だった時の関係性とは変わって、しっかりリョータは私を彼女にしてくれた。それはいくら何でも過剰すぎないだろうかと私が口にしてしまうくらい、本当に優しい男だった。夏が終わったタイミングに告白したというのもしっかりとした理由があったのだと知ったのは、数年が経過してからだ。この間彩子と飲んだ時、酔っ払ってより饒舌になった彩子から聞いた話だった。 夏のインターハイ。最後の夏。夏が終わるというのは、部活をやっている学生にとっては大きな意味を持つ。問題児というレッテルを貼られていた男が、鬼のキャプテンと恐れられるようになって一年、その役目を終えた翌日、私は彼の彼女になった。 「リョータさ、髪触るの好きだよね。」 付き合ってからリョータは私の髪をよく触った。不意に意味もなく頭を撫でてくることもあれば、何も考えずぼうっとしている時に気がついたら右手の人差し指でくるくると髪を巻きつけている時もある。そして、今のようによくドライヤーで私の髪を乾かした。 「自分にはないもんだし、女の子だなって思うから。」 「なんかすけべな響きだ。」 「男なんかみんなすけべっしょ。」 「あ〜そうか、それはそうだ。」 リョータに髪を乾かしてもらうと、決まって眠くなる。程よい温風に晒されるのは気持ちがいい。美容室とは違って、それをやってくれているのもリョータだから気を許している分余計なのだろうと思う。 「でもそれじゃあ本当に乾かない。終電なくなる。」 「そんなん無くせばいいじゃん。」 いつも以上に丁寧に、そして時間をかけてやっているのが手に取るように分かってしまってどうしようもない気持ちに苛まれた。時刻は十一時四十五分、本当にあと少しで実家に帰る電車が無くなってしまう時間だ。 「だってここの家だし。」 そんな事もあったなと、他人事のように思い出す。二人でバイトを沢山入れて、節約して買った大きな白いソファーも、機能性よりも見た目重視で買った四角い大理石のテーブルも、配置換えをする度に困る二メートル六十センチの長すぎるテレビ台も、全部リョータと一緒に選んだ思い出の詰まった部屋だ。 「なに言ってんの、もう二ヶ月前にはリョータの家。」 大学に入学して三ヶ月も経たない頃には、リョータに一緒に住みたいと提案された。理由を聞いてみれば、高校の時と違って一緒にいれる時間が減ったからという少女漫画の正解のような返事が返ってきた。告白の時と違って、私もと素直に喜ぶ事はできなかったけれど、リョータからしっかりと大切にされていると噛み締めるように喜んだ、あの時の感情を今でも思い出せる。 「泊まればいいじゃん、ベッドキングサイズだし。」 「そうだね。私がキングがいいって言ったんだっけ。」 「一人でキングサイズ地獄な俺の話していい?」 「しなくていいよ。」 「じゃあしないから、今日くらい一緒にいてよ。」 リョータのその言葉の一つ一つがどうしようも嬉しくて、そして氷柱のように私に突き刺さる。刺されるだけでなく、その傷を抉るようにぐりぐりと奥の方を穿られるこの感覚が、嬉しいと共存している世界線は一体なんなのだろうか。 時刻は十一時五十分。この家から最寄りの駅までは徒歩十分。最終の電車は十二時五分。私の髪の進捗は六割といったところだ。 「リョータ、本当に終電だからもう髪いいよ。帰る。」 「今冬だって知ってる?」 「うん。でもリョータが時間稼いでるのも知ってる。」 こんな寒い真冬の夜に、乾ききっていない髪でリョータが私を帰してくれる筈などない。そんなことは分かっている。それは彼の優しさでもあって、優しさを一種の道具にして私の事を拘束してくる。その真意がわかるこそ、どうしようもなくしんどかった。 「リョータ、こんな事してもお互いしんどいじゃん。」 もうやめよ。この言葉を彼に告げるのは、一体何度目だろうか。もう数えるのも忘れてしまった。それくらい、私は心を痛めながら毎回この言葉を口にする。 二ヶ月前、私たちは別れた。別れたのだから一緒に生活はできないと必要最低限のものだけを段ボールに詰めて、私は翌日には実家に戻った。リョータが泣いたのを初めて見たのもこの時だった。子供が駄々を捏ねるように、頼むから一緒にいてほしいと言われた。そんなリョータの願いを断ち切って、私は家を出た。 「しんどいけど…でも俺の彼氏でいたいから。」 「別れたでしょ、私たち。」 リョータとの付き合いは、三年で終わった。私は今フリーで、リョータ以外とキスをしても、セックスをしても、何ら問題のない身だ。そう、本当に終わったのだと、頭では分かっているのに、結局リョータ以外とキスもセックスもできる筈がなかった。 「分かってるよ。それは受け入れてるつもり。だからこそ、最後のギリギリまでの彼氏でいさせてよ……」 私とリョータの考えは最後まで交わらなかった。 たった一つ、二人で合致したのは別れるというその選択肢だった。別れたのだから今すぐに関係を全て切りたいと考えた私と、別れても“その時”が来るまでは一緒にいたいと望むリョータと。 結局私が一方的に出ていく形になってしまったけれど、それでも“もうこんな事はやめよう”と何度言ったか分からなくなる程、リョータと会っているのも他でもない私だ。意志がないと成立しないのだから、結局は私も意志が弱い。意志が弱くなる程、別れても尚、リョータの事が忘れられない程に好きだった。 「渡米、いつだっけ?」 「あと二週間後。」 「全然片付いてないじゃん。家具どうすんの?」 「全部持ってく。」 なんで?なんて言えるくらい、自分がもっと無神経だったらいいのにと、そう思う。多分私との思い出をそのまま捨てる事なく持っていくという事なんだろうと思う。単身向けの家でこんな馬鹿みたいに大きい家具を持っていくなど、破産コースまっしぐらだ。アメリカは単身部屋でも広いのだろうかなんて、見たくもない彼の近い未来を想像して悲しくなった。 「…乾いたよ。まだ全力ダッシュしたら間に合う。」 時刻は十一時五十五分。辛うじて、帰るか残るかの二択が残されているものの、考える時間はまるでない。多分、こうして天秤にかけられているのだろうと思う。考える時間を与えずに、こうして最後の最後で私に判断させるリョータは優しい筈なのに、どうしようもなくずるい。 「それはずるいんじゃないかな。」 「…なんで?」 「そんなん、帰るって言えなくなる。」 乾いてばかりの私の髪を掬って、後ろから私をそっと抱きしめるこの男と、本当に私は別れたのだろうか。そう錯覚する程に、リョータはどうしようもなく私の彼氏でしかない。別れたという事実の方が不思議に思える程に、大切にされているのが分かるから。だから、それがより一層傷に塩を塗りたくられたように痛んだ。 「俺と一緒に来てよ、……」 「いやいや、私大学生だし就活生だよ?」 「俺もダイガクセーじゃん。」 「そうだね。アメリカの大学生だね。」 多分、リョータはバスケ選手になろうとか、一生バスケで食べて行こうとか、そんな事は考えていなかたっと思う。ただバスケが好きで、バスケをする事で二人分を生きていると感じられていたのだろう。彼が渡米するなんて、夢にも思っていなかった。 「自分で決めた事でしょ、宮城リョータ!」 けれど、バスケが彼にとってどれほどに大切で、そして切っても切れないものなのかを、側で見てきていた分だけ知っていた。一緒にいるだけでそれが分かっていたから、マネージャーになる事もなかったし、練習も見に行かなかった。 それが彼の目指したい未来だというなら、私に反対する権利も怒る権利もない。何より、毛頭私にそんな感情はなかった。それが願っても、努力しても、運があっても、そのいずれも持ち合わせていないと叶わない壮大な事だと知っているからだ。彼自身いろんな事を考え、そして淘汰した結果なのだから、間違いなくそれが最善だとそう思う。 「…だから、もうちょっとだけの彼氏させて。」 「言ったじゃん、しんどいだけでしょって。」 「は平気かもしんないけど、俺は無理だから。」 その言葉に数秒喜んで、そしてそこからは地獄だ。渡米までの二週間、あとどれくらい私は喜びと地獄が共存する世界線を生き抜かないといけないのだろうか。彼の手を振り切って、全力で走って終電に乗ることもできるのに、別れているのだから会わないときっぱり断ればいいのに、それでも根負けしてこうして会いに来てしまうのも。結局は、自分の意思である事。 「ねえ、リョータ。」 「なあに?」 後ろから体温の高いリョータの温かみを感じながら、別れると決めた時のように今度こそしっかりと自分の意思を通さなければならない。そうでなければ、今度は私自身が壊れると思ったからだ。 「今日は一緒にいる。でも、これが最後。」 「…… はいつもそう言う。」 「言えば来る女と思ってた?」 「違う。でも俺が無理だから……」 根本的に私とリョータの考え方は違う。好きな状態で別れる事なんて普通はない。極限の状態だからこそ、本質的な部分が出るのだろうと思う。 別れまでのカウントダウンをしながら一緒に過ごす事程辛い事はないと思った。それは死刑囚が死刑宣告や執行日までの猶予を与えられた時と似ているような気がした。私にはそれを堪えられるほどの忍耐力も、大人の対応力もなかった。だから、すぐに家を出た。 対するリョータは最後の一日まで彼氏でいたいと言って泣いた。人に弱みを見せることを極端に嫌うリョータが泣いたのだから、その真意はよく分かった。けれど、到底それに賛同する事はできない。渡米する前日、リョータも含め自分もどうなるか考えると恐ろしかったし、何よりこれから心機一転頑張らないといけない男にとって、絶対的によくないと考えた。 「リョータ、案外私の事知らないね。」 私たちは似ていると思っていた。価値観だとか、なんてこともない時にぼうっとしても次の瞬間にはテレビを見て同じところで爆笑したりとか、買い物に行ってもいいなと思う服が一緒だったり、全部が全部一緒だと思っていた。 別れることになって、根本的に私とリョータが違うのだと初めて知った。好きだからこそ一緒に最後までいたいと望んだ根気のあるリョータと、好きだからこそ一緒にいるのが辛いと拒んだ弱い私と、最後の最後で分かった。 「私は平気かも?全然平気じゃないし、目一杯平気なふりしてるだけだよ。平気な訳、ないじゃん……」 後ろから、私の背中に当たってくぐもった「ごめん。」という声が聞こえた。多分泣いてるんだろうと思う。こっちの方が泣きたいのに。泣き虫の元彼がいると困るなと思っていたら、自分自身も泣いている事に気がついてからは止める事ができなくなってしまった。 「俺らチョー似た者同士じゃん。」 「……そんな辛い話ある?」 「あったらしい、しんど。」 「あんたが言うな。帰るよ。」 「嘘、うれしい。」 恋人繋ぎも、キスも、セックスも、全てが全てこの男しか知らない私に、これから生きていく道なんてあるのだろうか。リョータにはバスケがあるかもしれないけれど、私にはなにもない。けれど、リョータがやりたいと思ったその未来に、否定だけはしたくないと昔から思っていた。 だから面倒な女になる前に、きっちりとリョータが好きでいてくれた自分で終わらせたかった。泣いて、縋って、バスケなんて辞めて日本に残ればいいと感情のままに言う自分が容易く想像できて、冷静になるごとにリョータと会ってはいけないと思った。すぐに家を出た理由でもある。 「…好きだよ。」 私も、とは言わない。言う事で崩れ落ちる自分自身を止められなくなるからだ。それすらしんどい。 リョータは留学の話を、数ヶ月私に隠していた。発覚したのは、私と同じ大学に通う一学年上の三井さんがなんとなしに漏らした一言からだった。家に帰って確認した時には「あー、あれ?もう断ったから。」とどうって事がない顔をしたリョータが酷く痛々しく見えた。 自分自身でも何故そこまでムキになったのか不思議しかない。夢を簡単に諦めていいのかと、なぜかこの時ばかりは私が泣いた。私が泣いた後、リョータも泣いていた。お互い何のことで泣いているのか、よくわからなかった。今になって思うのは、別れに向かって進んでいる事を何となく感じていたからなんじゃないだろうかと、そう思う。 「だからそういうのやめてよ、しんどい。」 「でも好きなんだから仕方ないでしょ。」 「…あ〜、サイテー。」 「そうだね。ほんと、ごめんね。」 一言、帰ってくるまで待っててと言ってくれたら、どれだけ長くても待てたのにと思う。けれど、それを言わなかったのもリョータの優しさなのだろうと、そう思った。いつ戻ってくるかも分からない状態で、待っていて欲しいなんて言えるほど、リョータは図々しくない。だから、今こうして最後まで彼氏でいさせて欲しいというのは、リョータの最大限の我儘だ。 「今も好きで、ごめん……」 別れてからこうして体を合わせるのは何度目だろうか。別れた彼氏とこうして、別れた後も関係を続けるなんて、付き合った当初の私からしたら理解できないことだろう。嫌いあって別れる以外の選択肢がある事を、あの時の私は知らなかった。 けれど、それも仕方がないのかもしれない。今もなお限りなく愛おしく、バクバクと心音を鳴らすこの男以外に、私は恋をした事がないのだから。全てがリョータで満ちているこの状態を、他の人間で更新するのは気が引けた。 「後二年後に言ってくれたら、違ったのにな。」 そして、今も待ってて欲しいと言えば、全てを犠牲にしてでも待つのに。けれど、それを言うと優しいリョータにとって、未来の枷になってしまう。だから、言わない。好きだから、言わないことにした。 今日の夕方も、先週も、先々週も、一ヶ月前も、結局別れてからも私はこのベッドでリョータに抱かれる。それは彼の願いのようでもあって、結局は私の心からの願いでしかないのだ。 「オフなリョータ見れてる私、贅沢だな。」 一緒にお風呂に入ったのに、自分の髪なんて放ったらかしにして私の髪を大事に大事に乾かしてくれるリョータも、いつも上がっているリョータの髪が無造作に散らばって幾分も幼く見えるのも、全てが全て愛おしい。だから、早く終わらせたいのに。 「高くつくかも。」 「ちょーしに乗るな。」 終わりに向かって始まっていく。 幸せで、そしてどうしようもなく何かを抉られるような表現しようもない苦痛を背負い込んで、総合的に感じるのは、リョータが好きだというたった一つの事実しか残らなかった。 いつかこの恋が、昔々こんな恋があったと人に言い聞かせる事のできる話になるのだろうか。とりあえず今現在そんな話にはできそうもないので、別れてはいてもしっかり私の彼氏でしかないリョータに甘えて、しっかり彼という存在を覚えておこうと思う。 付き合ったことが過ちだったと思わぬよう、しっかりと幸せだった記憶を刻み込んでいくことにする。リョータの肩に、指をグッと入れてから、重心をかけた。
Long long ago |