リョータと三週間ぶりに会った。
 高校二年生から仲良くなって約四年という長い時間、おそらく一番長く一緒にいたひとだ。それは家族よりも長い時間、そしてどの友人よりも一番近くて。何気ない日常に、たくさんの幸せが存在していたのだとそう思う。さっき久しぶりに会って、改めてそう思った。
 リョータがアメリカに行く決心をしてくれた事実を聞いて、寂しいという気持ちがありながらも純粋に嬉しかった。リョータはチャンスと言っていたけど、チャンスという表現は少しだけ違うような気がしていた。それはしっかり真摯にバスケに向き合い、そして一生懸命に取り組んできた結果でしかなくて、だから、自分を認めて欲しいとそう思ったのだ。
 私と一緒で、肝心なところで自己肯定感が低いリョータだから。何故自分にそんな誘いが来るのだろう、きっとそう思ったんじゃないかな。自分の努力と実力を分かっているようで分かっていないそんな感じがあるリョータだから。
 ベッドの棚にさっきリョータから貰ったピアスを置いてはみたけれど、これはどう使うのが正解なんだろう。右耳につけてみようかと耳たぶを触ってみる。何だか急に気恥ずかしくなって、もう一度巾着の中に戻した。
 時刻は四時三十七分、リョータと解散してから約半日が経っていた。全く寝れる気がしない。今日、あと数時間でリョータがアメリカに行ってしまう。おそらく眠れないのはそのせいだ。
 朝が早いからと見送りには行けないと言ったけれど、この状況のまま過ごす方が辛い気がしてきた。思えば昨日もまた肝心なところで言うべきたった一言を伝えることができなかったらしい。あのマンションを出た時も言えず後悔したのに、結局今回もまた言う事ができなかった。ただ一言、アメリカで頑張ってきてというその簡単な言葉が。
 寝るのはやめて、私は鏡の前に立つ。コテのスイッチを入れて、閉ざされていた鏡を両手で開く。あの時の精一杯の私を、もう一度作り上げてみようと思ったのだ。何だか恥ずかしい気もしたし、万が一リョータと会えなかったらどうするのかという懸念がありながら、とても丁寧に自分を作り上げていった。
 始発の電車が何本か過ぎた時間に、私は電車に乗る。
 千葉の、成田に行くためだ。




 午前七時四十五分、私は千葉の成田空港までやってきた。遠いというイメージを持って覚悟してきたけれど、ちゃんと想像以上に遠かった。電車一本で行ける分、余計と長く遠く感じたのかもしれない。ようやく着いたと視界に入れた腕時計はまだ八時前で途方に暮れた。そして、どっと眠気が襲ってきたような気がした。
 あと何時間したらリョータは現れるだろうか。
 心配性なリョータのことだ、きっと一時間前の九時十五分には来ていそうな気がした。案外一時間と少し待てばちゃんと会えるのかもしれない。会って何をすればいいのかも未だに分からないのに?
 成田空港はドラマや映画で見た事があった。
 ドラマや映画を見ているといつもタクシーか車でフライトギリギリの時間に駆け込んできて、そして一気にラブシーンに入るけれど、私には今の時点でその選択肢は残されていない。
 けれどそんなドラマのような展開なんて必要ない。
 伝えるべきその一言を伝えられさえすればいいのだから。今まで二度も言おうと決心して言えなかったその言葉。とても簡単な言葉なのに、言うことができなかった。だから今日こそは、どうしても伝えたい。伝えなきゃいけない。
…?」
「…へ?え、ちょ、なに、早くない?」
「いや、こっちの科白なんだけど……」
「何しにきたの?」
「アメリカ行くんだろ、何言ってんの……」
 人混みを掻き分けながら何とか出会ってハグ。それがドラマや映画の鉄板なわけだけど、こんな一時間半前に出会うことなんてあるだろうか。しかも待ち合わせをしていた訳でもないのに、こんなに正確に、的確に。人はとても疎らで、想像以上に少ない。
「なんか……ちょっと手持ち無沙汰だね?」
 今すぐに送り出せる状態でもなくて、勢いのまま感情をぶつける様な状況でもない。あと一時間半、どうしようかと考えていたちょうどその時、先程まで冷静に私のボケのような科白に突っ込んでいたリョータが、今まで生きてきた中で一番近くにいた。
「来たんだ?」
「……うん、寝れなかったから。」
「なんで寝れなかったの?」
「それ本気で聞く?」
「欲張りだし確証が欲しいから、聞く。」
 はじめて感じるリョータの温もりは心地いいとは言えなくて、私の心拍を上げていく。それは私自身の心拍を聞かれているという緊張と、そしてものすごい勢いで血流を巡らせているリョータの心拍と。
 高校二年生からの約四年の付き合いがある中で、こうしてお互いの体温や心音を感じるほどに近づいたことはなかった。あれだけ近くにいたのにどうして、そう不思議に思うくらいに。「アンタ達は近すぎるのよ」ポストカードを託した時、彩子に言われた言葉だ。
「リョ〜タ。」
「ん?」
「結構時間あるけどこのテンションどうする?」
「そ〜なんだよな、心臓とか色々死にそう……」
「死ぬのはちょっとやめて欲しい。」
 リョータがぎゅっと腕を回してきて、私も恥ずかしいという感情を捨てて同じように腕を伸ばした。きっとこんな未来を望んでいたはずなのに、望んでいただけでそんな未来が現実にあるとは思っていなかった私には信じられない出来事で。でも、しっかりと満たされていて。
「なんで今から泣いてんの?」
「意志が揺るぎそうだから。」
「……あ〜、めっちゃ分かる。」
 あの家を出てから、リョータと会う度に泣いてばかりだ。泣かないと強い意志を持って挑んでも、まるで意味がないくらいにすぐに感情が溢れてしまって。過去数年を振り返ってもほとんど泣いた記憶を思い出せなくて、その記憶が全てリョータになってしまった。これでは私が泣き虫みたいじゃないか。
「…このままだと言っちゃいけない事言いそうだから一回離してくれる?」
 きっといつものリョータなら突っ込んで聞いていただろうけど、私の泣きそうな顔を見て理解してくれたのか何も言わずに離してくれた。このままだと、本当に離れられなくなってしまう。あと一時間以上も時間があるから、それは余計と。
「俺さ、多分に甘えてた。」
「…そう?」
「勝手にずっと一緒にいれるもんだと思ってた。」
「随分甘ったれてるじゃん?」
「自分でも結構呆れてる、でもここまで来たらもう振り切って甘ったれておこうかなとか思ってさ、」
 どんな甘ったれかなのかは知らないけど、聞く前から私のライフゲージは限りなくゼロに近い。自分の恋心に気づいた時、全てを失った気でいたから。一番の友人であるリョータも、実は十七歳の頃からずっと好きだったリョータへの恋心も。全部、失ったとそう思っていたのに。
「─────。」
 今のこの現実だけでも充分すぎて、それ以上を聞いたらもうリョータを見送れなくなってしまう。全てを受け入れられるほどの強い心なんて持ち合わせていないから。
「彩子みたいに髪もメイクも全然頑張れないし、多分これからも私はズボラだと思うんだ。」
「少しは背伸びしなよ。」
「だってつまさき痛くなるじゃん?」
「うそ、背伸びなんてしなくていいよ。」
「しなくていいんだ?」
「俺の身長超えちまう。」
 人の流れが多くなってきて、腕時計を見るとリョータが渡米するまでの時刻が迫っていた。あんなに早く来たと思っていたのに、実質一緒にいられる時間なんてあっという間に過ぎていくものらしい。名残惜しくて、自分からリョータの首元に腕を巻き付けて、忘れないようにリョータの匂いを沢山吸いに行った。
「離れたくね〜。」
「…うん。」
「フライト明日にしたら怒る?」
「うん。」
「何でだよ。」
「明日やろうは馬鹿野郎。」
 いつかに聞いたリョータの言葉を、私はそのままオウム返しする。寧ろそんな言葉があってよかったと思う。なければ、きっと明日まで一緒にいようと言ってしまっていただろうから。過去の自分に助けられた。
 何とか弱音と本音を腹の奥底に沈めて、言いそうになった色んなことを堪えながら、そして言うのだ。
「行ってこい馬鹿野郎!」
 さっき耳元でこっそりと言われたリョータの言葉を噛み締めながら、だからこそ言えた言葉でもあった。
「─────。」
 十時十五分、アメリカに向けた飛行機が飛んでいくのをこの目で見送った。




 あれから三年が経った。
 私は社会人になって、そして今日まさに新居へ引っ越してきてばかりだ。会社に入ってようやくイロハを理解して落ち着いたところだ。随分就職活動には苦労をして、結果私は三井さんに一生足を向けて寝られない状況を作り上げてしまった。今の会社は、三井さんの紹介がきっかけで入った会社だ。
 もう間も無く二十三歳になる。姉が結婚した歳だ。残念ながら今のところ私はまだ結婚もしていないし、その予定もない。社会人になったばかりで、そんなことにうつつを抜かしている場合じゃない。
 けれど、確かに恋はしたのだとそう思う。
 ずっと恋をしたことがないと思っていた。けれど今ははっきりと言うことができる。私は確実に恋をしていたのだと。それがどういう結果だったにせよ、私は恋をしていたのだ。
さん、あと十部コピーしてくれる?」
「はい、喜んで!」
 どこかの居酒屋みたいだね、会社でよくそう言われている。
 社会人になって落ち着いたこのタイミングで引っ越した我が家は、とてもしっくりきて落ち着く感じがあった。会社への通勤経路は少し遠くなってしまったけれど、帰宅が遅くなる分、最寄りのスーパーにある好物の唐揚げに値引シールがはられる時間帯なのでちょうどいい。
 学生の頃に住んでいたあのマンションに、私は戻ってきた。
 もっと都心のマンションに住む事も出来たし、何でそんな離れたところに?会社の同期にはそう不思議がられた。その意見は正論だと思うので、特別反論はしない。それは私と、私以外では、ただもう一人にだけ分かってもらえればいい事だから。
 このマンションを出た時に随分と断捨離をした筈なのに、今回の引っ越しは沢山段ボールが運び込まれた。つまりは、そういう事だ。人間そんな簡単に性分や性格を変えられるものじゃないという事らしい。私の段ボールの中には無駄なものが沢山詰め込められている。
 片付けが落ち着いたタイミングで、菓子折りを買った。
 少し遅れてしまったけれどご近所さんに挨拶をするためだ。引っ越しが落ち着いたタイミングで久しぶりに帰って来いと言われた湘南に帰省した。だから菓子折りは鳩サブレーだ。
 二◯五号室のインターフォンを鳴らす。
 お隣さんはどんな人だろうか。十八歳の時にはじめて越してきたことを思い出して、大学生だろうかと考える。
 妙な緊張感があって、一度佇まいを整え、そして髪を整える。右耳に髪をかけると、少し引っ掛かる感じがして、確かめるようにピアスを触ってみる。
 結局お隣さんは留守だったようで、誰も出てこない。また時間を変えて挨拶をしに行こう。そんな事を思いながら、ついでにポストに郵便物がないかを確認するために一階へと階段を降りる。
「……やっぱここに戻ってたか。」
 聞き馴染みのある声、何度も隣で聞いてきたその声を忘れるはずもない。ずっとこの三年待ち望んだその声と、私を泣かせてばかりのそのひとがマンションのロビーに佇んでいる。まるで三年前にそのままタイムスリップをしたくらい違和感のない状況で、それでいてこれでもかと待ち侘びた遠い記憶と重なり合った。
「日本に帰ってきたら初心に戻ってここに住もうと思ってたんだけど……、まさか住んでたりする?」
「残念だけどうちで最後の空き部屋埋まったよ。」
「ふうん?」
 私が持っている菓子折りを許可なく受け取った神奈川県が地元の彼は、確かに私がよく知っている男だった。私が三年間、ずっと待っていたひとだ。
「あの時言った事、ちゃんと守ってる?」
「……偉そ〜に。」
「その反応はそういう事でしょ?」
 何も確信的なことは言っていないのに、アメリカ帰りのその男はとても自分に都合がいいような捉え方をする。そして、アメリカナイズされたそのスキンシップで、私を抱き寄せた。これがアメリカで習得したスキンシップではなく、ただの下心だったとしたら?
「……待ってた。」
 それでもいい。ずっと待ってたその温もりが、ちゃんと私の元へと帰ってきたのだから。文句を言いたい気持ちを抱きながらも、けれど実際は何も出てはこない。結局、私の願望は全て叶えられたのだから。
 ───待ってて。
 あの時、空港で聞かされたその言葉がどんな意味だったのか、それを確認することなく三年が経ったけれど、今まで不安に思っていたものは全てこれから回収すればいいと思えるのだから不思議なものだ。
 けれど、不安に思った三年に対しての褒美は必要だ。それが彼の言いつけを守って一途に三年間も彼の帰りを待った私への褒美だろうと思うから。
「お待たせ。」
「……おかえり。」
 私の初恋は、ようやく終着地を見つけたのだ。  



end.
2023/04/27 ~ 2023/05/03