洗濯にお金が必要な事には些か納得がいっていない。
 ボーダー本部基地内に住むようになってから随分経つが、私はこのコインランドリーで何枚百円玉を使ったのだろうか。洗濯機本体を買うという事を考えれば安いものなのかもしれないけれど、何事も全てはチリツモだ。多分元が取れるくらいにはここで洗濯をしているだろうと思う。
 ボーダーに入った当初私は防衛隊員を希望していた。
 ボーダーではC級のうちに当人の属性を見て配属先を決める。私はB級へ上がる事なくそのままオペレーターになった。先の大規模進行で両親を失った私は一大決心を決め込んでボーダーに入ったけれど、性格的に戦う事にはどうも向いていなかったらしい。
 両親の代わりに育ての親をしてくれていた祖母が亡くなり、私はそのままボーダーに就職した。このコインランドリーと私の付き合いも、それからという事になる。

 ここ最近のビッグニュースは、あの二宮匡貴が防衛隊から本部運営へと回ったことだろうか。彼がこちら側に来るとは思っていなかった。少なくともこのタイミングではないだろう。トリオン器官の成長が止まったとしても、二宮くんのトリオン量や技量は隊でも間違いなくトップクラスだ。
 二宮くんはボーダー内でもちょっとした有名人だ。
 私は実質彼との関わりはない。私が防衛隊に所属していた頃、まだ二宮くんはいなかった。ちょうど私が本部側の仕事に移ったタイミングで、トリオンモンスターが入ってきたとたちまち噂は広がった。
 ここ最近はよく二宮くんと会う。このコインランドリーでよく姿を見かけるのだ。まだ話しかけた事はない。洗濯の待ち時間を過ごせるよう設置されているベンチで本を読み始めたのはその頃からだ。二宮くんがコインランドリーに入ってくると、私は一度軽く会釈をして終わりだ。私は彼を知っているけれど、彼は多分私を知らない。
 二宮くんは私の命の恩人で、ヒーローだ。ここ最近彼がこのコインランドリーに来る事を逆手にとって大して読まない本を読み始めるようになったのはそんな背景がある。よこしまな気持ちは特にない。ただ、いつかあの時のお礼がしたいとそう思っていただけだ。
「本が好きなのか?」
 いつか自分から声をかけて、そしてお礼を言おうと思っていた筈だった。けれどそのタイミングときっかけを失った私を見透かしたように、二宮くんは声をかけてくれた。
「そうでもないよ。」
「その割にいつもここで本を読んでいるんだな。」
「うん、これ諏訪くんが貸してくれたんだ。知ってるでしょ、諏訪くん。」
「…………」
 諏訪くんの名前を出すと、突如二宮くんは黙り込んでしまった。諏訪くんと仲が悪いのだろうか。確実に私と二宮くんの共通点となると思って諏訪くんの名前を出したが迂闊だったのかもしれない。
「諏訪くんと仲悪かった?」
「別に。悪くもないが良くもない。」
「そっか。」
 どきどきしている心拍音を極力隠して、何事もなかったように話を続ける。二宮くんがお喋りではないだろうという事をなんとなく察知している私はここぞとばかりに話題を作って言葉を紡ぐ。本当はお喋りなのかもしれないけれど、私はそんな基礎的な彼の情報すら知らないのだ。彼がどんな人間であるのか、私はまるで知らない。
「シャーロックホームズなら面白いだろうからって。」
「……あれは名作だからな。」
「二宮くんも読むんだ?似合うね。」
「似合う?本に似合うも似合わないもないだろう。」
「まあそうなんだけど……」
 我ながら意味の分からない事を言っている自覚はあるし、初めて話す女からこんな事を言われても反応に困るだろうと反省する。多分、二宮くんに限らずこの会話で盛り上がることはきっとないだろう。
「二宮くんは知らないだろうけど私お礼が言いたくて。」
 もう次に続く会話が思い浮かばなくて、ここぞとばかりに本題へと移ってしまった。随分と性急だったと思う。シャーロック・ホームズの話をしていたかと思えば、突然の告白だ。愛の告白ではない。けれど、これでは二宮くんのストーカーみたいだ。ここ最近の自分の行動を振り返れば、限りなくそれに近いのかもしれないけれど。

 アフトクラトルが攻め込んで来た時、私は多分死ぬはずだった。
 周りのオペレーターが薙ぎ倒しになっていた時、私はその恐怖に何もする事ができなかった。一先ずはトリオン体になって難を凌ぐという基礎的なことすら頭には浮かばず、数秒後にやってくるであろう自分の死を間近に感じて、ただ震える事しかできなかった。
 もう終わりだと固く目を瞑った時、私の前に立っていたのが二宮くんだった。薄緑色の硬いシールドで、私は命を繋いだ。私からすれば彼はヒーローだけれど、彼からすれば数多くいる隊員の一人を助けただけに過ぎないだろう。だから、私が彼を一方的に知っているだけなのだ。
「アフトクラトルの時の事か?」
「え、そうだけど……覚えてないと思った。」
「そこまで記憶は悪くない。」
 固く目を瞑った後に視界に移った二宮くんはとても大きくて、そして頼もしく見えた。恐怖で動けなくなっている私に「平気か?」と言葉短げに声をかけてくれたのは多分幻覚じゃなかったと思う。その時は咄嗟に感謝の一言が出てこなかった。
「えっと……あの時はありがとう。」
「ああ。」
 ようやく何年も心のうちに秘めていた言葉を伝えきってすっきりしたのはほんの数秒で、これで私は二宮くんとの話題を失ってしまったと思った。次に出てくる言葉は、もうない。
「洗濯物終わったみたいだから私行くね。」
 私は大して内容が頭に入っていないシャーロックホームズに栞を挟んで、本を閉じた。ビーと控えめに終了を知らせるブザーに吸い寄せられるよう、洗濯された洋服や下着を洗濯籠に取り込んで、最後に一礼してその場を後にした。
 言いたいことだけを一方的に言ってしまっただけで、変な女と思われただろうか。そう思ったけれど、それを二宮くんに確認する勇気はなかった。
 人は恋をしていなくても、心音を煩くさせる生き物なのだと初めて知った。それは恋や愛とは違うけれど、もしかすると憧れというものに対して感じていたものなのかもしれない。これから先、どんな顔をしてあのコインランドリーに行けばいいのだろうか。




 二宮くんと初めて数回会話のラリーをしたあの後から、心理的にコインランドリーへ行きづらくなってしまった。だからと言って洗濯物を溜めるにも限度がある。不衛生な女にはなりたくない。なんとなく、下着は部屋で手洗いして風呂場に干した。
 コインランドリーへ来るのは一週間ぶりだろうか。洗濯物を疎かにした事で分かったのは、週に数回の洗濯でも人は生きて行けるという事だ。そんな小銭をケチったところで別にどうにもなりはしないけれど。
 数日分の寝巻きと制服だけを籠に入れてコインランドリーに向かうと、そこには二宮くんがいた。私の存在に気づくと、特別そのかんばせを変える事なく「随分溜め込んだんだな。」と言われて恥ずかしくなった。
「二宮くんはそんな頻繁に洗濯を?」
「一日のルーティンに含まれているからな。日課だ。」
「そう。潔癖?」
「潔癖の基準を知らないので何とも言えない。」
「そういう人は大抵潔癖だと思うよ。」
 二宮くんの洗濯物はいつも少ない。籠も持たず、いつも片手で持って帰れるくらいの量しか洗濯していない。毎日洗濯しているというのだから、それもその筈だ。二宮くんが洗濯している時は、コインランドリー全体にふんわりとした甘い柔軟剤の匂いがした。
「それ、シャーロックホームズ?」
「そうだ。久しぶりに読んでみたくなった。」
「面白いよね、シャーロックホームズ。」
 私が今読んでいるものの続きを二宮くんは読んでいるようだった。面白いよねと言いながらも、大して内容が頭に入っていないのでどの辺りが面白いのか言及されたら終わりだ。ノリと勢いだけで会話を進めるのは危険な事だと身をもって知ったような気がする。
「もうすぐ読み終わるんだろう?」
「終わったら続きを諏訪くんに借りる約束してる。」
「面倒だろう。今ここで俺が貸してやる。」
「でも二宮くんも今読んでる途中でしょ?悪いよ。」
「何度も読んでいるから内容は頭に入っている。」
 私が返事をする前に、二宮くんは途中まで開いていたページを閉じて私の方へと本を差し出した。ここでそれを突き返す程の度胸もないし、理由もない。私はその本を受け取った。熟読していると言っていたその本は、驚く程に綺麗だった。私が今持っている諏訪くんから借りたものと比較してみても、違いは歴然だった。潔癖の人は本の管理も一流なんだろうか。
「ありがとう。早く読んで返すよ。」
「別に構わない。ゆっくり読めばいい。」
「うん。汚さないように気をつけるね。」
「どうやったら汚れるんだ。」
 私は二宮くんからシャーロックホームズを受け取ると、籠の中に入れていた一週間分の洗濯物を洗濯機の中へと放り込む。財布の中身を開いて、銀色に光る小銭を探している途中で二宮くんが百円を投入してくれたのか、洗濯機は動き始めていた。
「ごめん、今度本と一緒に百円返す。」
「経済状況が芳しくないなら返さなくてもいい。」
「流石にそれは馬鹿にしてるよね?」
 私は空になった籠を持って、二宮くんの隣に腰掛ける。いつも二宮くんは洗濯機が回ったのを確認するとそのまま何処かへと行ってしまうけれど、今日はどうしたのだろうか。先ほどまで読んでいた筈の本は今、私の膝の上だ。長い足を組んで、ただ真っ直ぐ回っている洗濯物を眺めているようだった。
「なんだ、俺がここにいるとそんなに気まずいのか。」
「そんな事一言も言ってない。」
「なら何か話せ。この間のお前は、そうだっただろう。」
「多分二宮くんが思う程私お喋りじゃないかな。」
 やっぱり二宮くんがどういう人なのか、私には良く分からない。洗濯機が回っている音だけが響きわたるコインランドリーでの沈黙は、私にとってとても気まずい。二宮くんはそんな事はないんだろうか。どんな話を投げかけるのが正解なのか分からない。取り敢えずどんな話をしても彼がにっこりと笑うような人間ではない事は分かっている。どっしりと足を組んでいる二宮くんは、この沈黙に逃げ出すような気配はなかった。ならば、会話をリードしてくれたらいいのに、そんな気配もない。
「今日は上がりか?」
「うん、今日はもう終わり。コンビニ行くくらいかな。」
「そうか。焼肉は好きか?」
「……なんで突然焼肉のはなし?」
「俺の好物だからだ。」
 初めて二宮くんの情報を一つ手に入れたけれど、とても唐突だ。二宮くんに会話の流れとか段取りというものはないのだろうか。突然焼肉が好きかどうかの話をふっかけられて、そしてそれが自分の好物だと言われた後、どんな言葉を返すのが正解なのだろうか。やっぱり二宮くんは不思議な人だ。
「そ、そうなんだ。美味しいよね焼肉。」
「なら食いに行くか。」
「え、今から?」
「なんだ、腹は空いてないのか。」
「そんな事はないけど随分突然だね。」
「駄目なのか?」
 駄目じゃないと言うと、二宮くんはその長い足で立ち上がって、そして私を置いてコインランドリーを出ていく。洗濯物は放置でいいのだろうか。本当によく分からない人だ。私はそんな後ろ姿を見つめたまま、呆然とベンチに腰掛けたままだ。
「なんだ、行かないのか。」
「あ、えっと…あれは焼肉に行こうってお誘いなの?」
「……日本語に通訳が必要なのか?」
 どうやら私を焼肉に誘ってくれていたらしい。随分言葉足らずだ。二宮くんの全貌を私が理解するまでは後何年あっても足りないような気がする。言葉と言葉の間に、必要な接続詞となる文脈がまるっと抜けていて汲み取るのが大変だ。
「でも焼肉なんて匂いつくから嫌なんじゃない?」
「その為に洗濯をしている。」
「まあ、それはそうなんだけど……」
 私もベンチから立ち上がって、いつかに見た二宮くんの背中を追ってコインランドリーを後にする。下着を洗濯していなくてよかった。焼肉を食べた後に取りにくればいいだろうし、誰も私の寝巻きや制服は取らないだろう。ボーダーに変質者はいないと信じたい。
「あとそれ、貸せ。俺から返しておく。」
「でもまだ読みきってないし……」
「ちょうど明日会う用事がある。いいから貸せ。」
 大して真剣に読んでいた訳ではないけれど、そんなことをしてもいいのだろうか。諏訪くんも急に二宮くんから自分が貸していた本が返ってきたら驚くに決まっている。けれど、不思議と二宮くんには逆らえない。それは私が命を助けてもらったという恩人だからなのだろうか。
「どんな用事?」
「いちいち言う必要はない。」
 多分明日、私は焼き肉の匂いが染みついた洋服をまたここで洗うだろうと思う。恐らくは潔癖である二宮くんの姿も、そこにあるんじゃないだろうかとそんな事を思った。


まちがいだらけ
( 2022’06’19 )