―――諏訪は、優しい男だ。
 私が声をかければ、どんな状況でも私に時間を取って、そして会いに来てくれる。数多くいるボーダーの後輩隊員のうちの一人でしかない私は、まるで彼女のように、諏訪に丁寧に扱われる。それを、私は隠れ蓑にしていたのだ。なんて、ずるい女だろうかと我ながら、そう思う。
 東に振られた。直接的に振られたのではなく、それはとても間接的で神経を研ぎ澄まして察しない限り気付かないような、直接言葉で受け入れるよりも残酷な答えだった。遠回しに好きではないと緩やかに振られるくらいであれば、もっとはっきりと振られた方が幾分も楽だった筈だ。生殺しにされたようなこの苦しみは、しばらく消えそうにもなかった。
「こういう時、どうして諏訪さんに電話しちゃうんだろうな、私。」
 すぐに何かを察知したように、受話器の向こうから、落ち着いた諏訪の声が私の耳を掠めていった。
「…交友関係浅い奴だな、お前は。」
 東隊の作戦室を出て、考える間も無く私はすぐに直近の着信履歴をタップして、諏訪に電話をかける。私の心が幾分か救われる分だけ、諏訪の心を抉り取っていくのだと分かっていながら、私はそれを理解していない頭の悪い女を演じる。一体、私はいつまで頭の悪い女を演じていくのだろうか。
 “火のない所に何とやらって言うし、いっその事、噂を本当にしちまうか“
 諏訪隊の隊員でもない私を、諏訪の彼女と思っている人間も多く、一部の人間が私達が付き合っているのではないかと邪推しているようだったが、それに対して否定すれば逆に面倒だし、肯定するのも事実に反するので今までずっと放っておいてきた。
 そんな噂をフックに、諏訪は私に鎌をかけてきたのだ。もう一年も前の事になるけれど、私はそれに対して白黒つけず、今日までなあなあに諏訪と変わらず一緒にいる。私が東にされていたような生殺し状態を、きっと私は諏訪にも体現してしまっているのだろうと思う。けれど、私には諏訪しか頼る人がいなかった。
「諏訪さん、今日暇でしょ。」
「どこに確認する前から断定して言う奴がいやがんだ。」
「残念ながら結構身近な後輩にいたみたいだね。ところで、今は家ですか。」
「さりげなく受け流してんじゃねえよ。」
 一言、私が会いたいニュアンスを醸し出せば、きっと間違いなく彼は私の元へと姿を現すだろう。それは私の自惚でも何でもなく、今までも何度となく見てきた、限りなく再現性の高い根拠だ。けれど、今日は一歩立ち止まって、私は言葉を変える。
「じゃあ諏訪さんの家行きますね、今から。」
 許可は、敢えて取らなかった。許可を乞えば、きっと断られると思ったからだ。何となく私が何を考えていて、どういう根拠でこんな事を言っているのか察しはついているだろう。
 東が好きだった事も、東と近づきたくて麻雀を始めたというきっかけも、そのきっかけの為に諏訪を利用した事も、恐らくは全てわかっている筈だ。私が諏訪の気持ちに気づかない頭の悪い女を演じているように、恐らく諏訪も知らないふりを決め込んでいるのだろう。
「付き合ってもねえ男の家に上がって何するつもりだ。」
「別に、何も。付き合ってなきゃ男の人の家行っちゃダメって法律ないし。」
「ろくでもねえ女だな、まじでやめとけ。何もねえぞ。」
「何もなくていいよ。だって諏訪さんが、いるじゃん。」
 こう言えば、断れない事を私は知っている。知っていて言っているのだから、ただ狡く、そして悪い女だ。けれど、狡い女が溢しそうな戦略的な言葉にも聞こえる一方で、それは私に取っては違う事なく、心の底からの本音だった。諏訪に、会いたいのは私なのだから。
「何もいらないから、私が酔っ払いになれるくらいのお酒だけ用意して待っててください。」
「…控えめに見せかけた、とんだ強情女だな。碌な死に方しないぞ、お前。」
「冗談きついなあ。私が碌な死に方する前に、諏訪さんが助けちゃうくせに。」
 私がぼろぼろになっても、諏訪自身がぼろぼろになっても、きっと彼は私を助けるだろう。今までの行動が、それを根拠として、私にそう思わせている。諏訪だけは、私を裏切らない。だからこそ、私が一番諏訪を裏切ってはいけない筈なのに、その余裕はなかった。ボーダー本拠地を後にして、私はまっすぐと続く諏訪のアパートへと向かった。楽になる為には、もうこうするより他に手段を私は持ち得ていなかった。




「諏訪さん、全然飲んでない。」
 普段あまり酒は飲まない。飲めない訳ではなかったけれど、酒自体を魅力的に感じない。自らその許容を超えてまで酒を摂取する事に何の意味があるのかが、私には分からなかった。諏訪を含めた面子で麻雀をやる時は決まって酒が手元にあったけれど、私はあまり口を付けずに、いつだって東と話すきっかけを探していた。万が一にでも泥酔して、見窄らしい自分の姿を見られるのも怖かった。
 私は、そんな酒に今まさに酔っているのだ。我ながら哀れだと思う。今の私は、皆が酒を飲むという気持ちの部分で同じ土俵に立っているのだろうか。
「お前、いい加減にしとけ。飲み過ぎだ。」
「諏訪さんだってよく言うじゃん。酒でも飲んでないとやってならんねえって。」
「一丁前に気取んな。」
「B級のくせに。」
「タイマン張りに来たんだったら帰れ。」
 ふわふわと気持ちが良かったのはほんの一瞬ばかりの刹那のようなもので、どんどんと酔いが冷めていくような気がして、どうしていいのか分からなくなる。酒に酔ったから、と言う口実がなければ、諏訪の家に無理に押しかけてきた意味はないのだから。
「帰らない、そんなの諏訪さんだって分ってたでしょ。」
 酔いが残ってる間に、仕掛けないとその勢いに乗ることはできない。東に振られたという傷を上書きするには、それが一番早いと思った。こんな簡単に思いつくような事を、諏訪自身が全く想像にすらしていないと言うのはあり得ないのだから、私都合で考えればほぼお互いの合意が取れているようなものだ。
「酔って醜態晒すのか。お前が一番嫌ってる事だろ。」
「酔ったのは手段に過ぎない。目的は、酔っても酔わなくても同じだから。」
 自分自身の目的を伝えることができた時点で、酒も酔いももう必要がない。目的の為の手段を使い尽くして、私の方から諏訪への距離を詰める。ただ向かい合って麻雀を打っていただけの私達の一線を越えるように、諏訪の手に触れた。
「……冷やっこい手、してんな。」
「知らなかった?」
「知らねえな。なんせ、初めてなもんで。」
 私の冷え切った手を握り返して、今度は諏訪の方から距離を詰めてくる。少し身構えたように待ち構えていると、サッと私の前髪を諏訪のごつごつした男らしい指がかき分けた。じっと、こちらを見るようにして、私を覗き込んでいる。
「泣いてたのか。」
 キスでもしてくれるのかと、そう思っていた私の予想は大いに外れた。少し前まで、そんな雰囲気があったのに、不意に私を覗き込んだ諏訪からはキスをしてくる気配は感じられない。
「泣いてたら、慰めてくれるんですか。」
「どうやって。」
 いつかに諏訪が私にやって来たように、私も鎌をかけてみる。こう言えば、諏訪はどう答えるのだろうかと。口では荒っぽく否定的な言葉を紡ぎながらも、私に対してはどこまでも甘く、そしてそこが諏訪の弱みでもあるのだからきっと私の望む言葉や行動を与えてくれるのだと、そう思った。
 けれど、待てど暮らせど、諏訪は返事をしないどころか、何もしてこない。私の思惑通りに、行動をしてくれない。いつだって私の欲しいとしている事を理解して、強請る事をせずとも実行に移してくれる筈の諏訪は、ただこちらを見るだけだ。
「噂、本当にするんじゃないの?キス、してよ。」
 非番で、既に風呂に入っていたのか、普段とは雰囲気の違う諏訪に、私も強請るようにして手を伸ばす。重力に逆らう事なく、真っ直ぐに落ちる髪を指で掬って、少しだけ垣間見えた肌色に、唇を落とした。すぐに、サラリと諏訪の髪が口元へと落ちてきた。
「デコにするくらいの覚悟しかねえなら仕掛けんな。」
「諏訪さんが意気地なしだから、私がきっかけ作ったんじゃん。」
「人を童貞のように言うな。」
「諏訪さんも処女みたいに扱わないでよ。私、処女じゃないんだから。」
 今だ、かろうじて繋がっている手に指を絡めて、諏訪の手を強引にこちら側へと持ってきた。処女であればこんな事をしないだろうと言い聞かせるように、引き寄せた諏訪の手を強く握り直した。こうすれば、一時的とは言え、今日の出来事を上書きできるだろうか。
「自分で自分の首絞めるとか、お前マゾか。」
「やめてよ。普通だし、アブノーマルな趣味はない。」
「今アブノーマルに走ってるって、分かってっか。」
 全てを見通している諏訪の発言に、全身の力が抜けていくようだった。自分の失恋の傷を、別の男で埋めようとする事に対しての言葉なのだろう。まだかろうじて残っている酔いが冷めた時、辛い思い出を塗り替える為に更に自分を貶めるような事をしているのだから、諏訪の言っている言葉の意味は概ね正しい。ほぼ自殺行為に近いくらい、私は自分で自分の首を絞めようとしているのだろう。
 きっと翌朝、自分と同じベッドで私が絶望している姿が、この男には安易に想像できたのだろう。おそらくは、私に対する忠告であって、彼自身も惨めにならないための予防線だ。噂を本当にしようと、遠回しに告白をしてきた諏訪にとって、こんな形で私を手に入れるのは本来であれば不本意だろう。
「じゃあ、目覚めたのかも。だとしたら開発したのは諏訪さんだから、その責任とってよ。」
「惨めになるくらいなら、やめとけ。」
「惨めにならないし、後悔もしない。だから、お願い。」
 懇願するように、今にも泣きそうな私に、ようやく彼の体温を感じた。二度、三度と私に忠告した諏訪は、四度目となる忠告の代わりに、冷えた唇をようやく重ねた。どんな味がするのだろうか、やっぱり煙草の味がするのだろうかと思っていた私の予想は裏切られた。
「諏訪さんは狡い。キスも、優しいなあ。」
 涙が出そうになる程、罪悪感が上乗せされるくらいに、優しかった。
 結局、諏訪は静かに私を抱いた。何も聞いてほしくない私を察知していたのだろうと思う。ベタベタと引っ付き過ぎない、程よい距離感のあるセックスは初めてだった。耳元でその場かぎりの安っぽい愛の言葉は、紡がない。
 全てが終わって眠りにつく時も、必要最低限の言葉を交わして、そのまま眠った。多くを話すのは無粋だし、翌朝の私自身が罪悪感で苛まれそうになるのを、諏訪は想像してくれていたのだろうと思う。彼はやっぱり、ずっと、優しいままだ。私がこんなに卑怯な女と知りながらも、それは変わらない。
 カーテンから溢れる日の光に私が目を開けた時、諏訪はまだ眠っていた。日の光にさらされると、暗闇と違って何も包み隠すものがなく、やっぱり想像していた通りの罪悪感が込み上げた。罪悪感とも似て、諏訪の言う惨めさに支配されているようで、苦しい。
 このまま、そっと部屋を出てしまおう。この後、諏訪とどう向き合って、話をすればいいのか分からないのだからそうするしかないだろう。ベッドの下に散らばる下着を拾い上げようとした時、それを遮るように諏訪の手が私を制す。
「お前、昨日言った事覚えてるか。」
 忘れるはずもないけれど、なんだっけなあと言ってはぐらかす。自分で言っておきながら、しっかりと諏訪が危惧していた結果になっているこの状況を、少しでも感じさせないように努めた。
が思ってる程、俺は打たれ弱くねえよ。」
「こっちは罪悪感で、いっぱいだけどね。」
「俺がそれでいいって言ってんだから放っとけ。」
「やだなあ。諏訪さんもマゾ?私たち二人して、どうしようもないね。」
 私がそう言えば、昨日の余裕のある大人の諏訪とは少し様子が違うようで、余裕がなさそうに後ろから私を抱き寄せた。正面からではなく後ろから私を抱き寄せたのは私への配慮でもあって、そして彼自身も余裕のない自分を見せない予防線なのだろう。
「諏訪さん、私なんか好きになるのただの物好きだよ。」
 いつだって言葉でだけは諏訪に勝てない筈の私のこの言葉に、諏訪からの返事はなかった。
 代わりに、もう一度だけ強く私を抱く腕に力が篭っていた。

前向きな自殺論
( 2021'12'23 )