昔、とある男が言っていた言葉を思い出した。
 その時にはよくその意味がわからず、首を傾げると彼は少しはにかんだ様に笑って、「ま、今のお前には分からないかもしれないけどな。」そうくしゃくしゃと私の髪を撫でて、私を子供のように扱った。それが分かった私も、不機嫌そうにその手を振りほどこうとした。   今にして思えば、まだこんな話が出来ていたあの頃は、今よりもよっぽど平和だったのかもしれない。
「よく言われない?左之さんって、すぐに人を子ども扱いするって。」
「まあ、平助あたりはよく言うかもな。」
「少し年が上だからって、左之さんは私を子ども扱いしすぎ。平助ならまだしも。」
も平助も似たような齢だろうが。」
 自分で墓穴を掘って、私は何も言えなくなってしまい、その場で口を閉ざした。少し困ったようにこちらを見てくる彼は、ずるい男だなといつもの事ながら思ってしまう。いつだって、彼にあるのは余裕というただ一つの揺るぐことのない姿だけだった。私なんかが背伸びをしても到底届きなどしないとでも言われているような、そんな気がした。
 巡察から帰ってきた彼は私を見つけて隣に大きな体を降ろした。何をする訳でもなく、彼と話をすることが多かった。年頃の女と呼ばれる私を前にしても、彼は余裕を崩さない。私など女として見ていない証拠なのだろうか。少しだけ、もどかしい気持ちがいつだって介在していた。私が彼の年齢に追いつけば追いつく程、彼もまた私を置いて行くように年を重ねていった。
「左之さんって、昔からそんな感じ?」
「そんな感じってなんだよ。」
「うーん、何ていうか。落ち着いてて余裕があるっていうか。」
「何だ、には俺そんな風に見えてんだな。」
 いつだって酔ったときに伊予にいた頃の切腹話は聞かされてはいたが、伊予での話はそれ以外にほとんど聞いたことがない。それは彼が意図的に話したくないとどこか思っている事は分かっていた。触れられたくない事に触れてしまう事に抵抗もあって、今まで積極的に聞いたことのない話題だった。
「俺は今だってそんな大人じゃないな。多分。」
「ふうん。なんか意外だな。」
「潔さを潔しとする事も時には大切ってことだ。」
 私は彼が土産に買ってきてくれた団子に手をつけて、「そう。」そう言って、大人びたように取り繕って特にそれ以上を聞かずにいた。そうすれば、少しでも彼のように大人になれるだろうかなんてまったく自分の等身大を認めないように潔さを認めずに。
「平助なんかまだまだ可愛く思えるくらい、俺は手に負えないガキだったかもな。」
「左之さんが?変なの。想像できないよ、それ。」
「今よりももっと血気盛んで、口も悪かった。」
「口が悪いのは今もそうだけどね。」
「まあ、それも違いねえな。だから俺はまだ大人じゃないのかもな。」
 二人分の茶を入れて、私たちはのんびりと中庭で他愛のない話をした。過去のことや、これからの事。これからの事なんて、想像したところで想像の範囲を超えないだけのものだったけれど、暇をつぶすには頃合な話題だった。彼らはいつまでのもこの京の街を警護して、その一生を終えていくのだろうか。新撰組局長ともなればそれも本望なのかもしれないが、彼もそう思っているのだろうか。誰よりも包み隠さず本心を話してくれる彼に相反して、実は私は彼のことをよく知らないのかもしれないとそう思った。
 今日は天気がいい。天気がいい分、京の冬は寒い。日の光にあたりながらも、時折私たちの髪を揺らす冬の風が冷たかった。
「最初に人を斬った時、思ったんだよ。」
 突然、思いもよらぬ言葉が彼から漏れて、私は首を傾げる。今までしていた話と、今の彼の言葉に関連性を見つけることが出来ず私はただ黙って聞いていた。
「誰かを斬るって事は、誰かの家族に恨まれて生きていく事だって。」
「…でもそれは、京の人たちを守るって事でしょ。」
「理由がそこにあっても、斬られた側の人間からしたらそうじゃないだろ。」
 言われて見て、初めてそんな当たり前の事実を思い知った。ただ単に平然と守られるだけの私には考え付かない事だった。それだけ彼は、今までに心を痛めてこの京で生きてきたのかと思うと胸が軋むように、ちくりと痛んだ。
「ま、今のお前には分からないかもしれないけどな。」
 少しだけしんみりとしてしまったその場を和ませるように、いつもどおりの威勢のいい彼の私をからかう言葉で私もふいに先ほどまでの気持ちを何処かへと飛ばして、茶を啜った。
がそんな事考える必要もないしな。」
 ならば言わなければいいのに、そんな事。そう思ってその言葉を紡ぎかけたが、それも止めた。彼が口の中へと放り込んだ団子のように、私の考えはいつまで経っても甘いということなのかもしれない。



。」
 ふいに名前を呼ばれて、私は足を止める。彼も暇でも持て余しているのだろうかと思い、近づくと彼の手元には一枚の紙が大きく広げられていた。日本地図だ。京から一度だって出たことのない私にとって、日本はこんなにも色んな国があって広いものなのだなと認識するものだった。
「左之さんの故郷って、どの辺り?」
「伊予か?多分ここらへんか。」
「京から結構遠いんだね。」
 彼はここで生まれて、育ったのかと思うと色々と聞きたい気持ちもあったが、取りあえず止めておいた。京しか知らない私には、他の街の話をする事は出来ない。私以外の人間であれば、きっと自分はどのあたりの生まれで、そこがどういう街であるかを話せるのだろうけれど、私にはそんな持ち合わせもない。呼ばれて立ち寄ったが、それ以上私が話を広げることはなかった。
は行ってみたい所とかあるのか。」
「うーん。どうかな。どこも知らないから、考えたことなかった。」
「何だよつまんねえな。色々あるだろ、食い物のうまい所とか、景色のいい所とか。」
「だったら京の紅葉は綺麗だし、桜だって沢山あるからなあ。」
「まあ、それも確かにそうだな。」
 京しか知らない私に、彼は色んな事を教えてくれた。江戸前寿司が美味しい事、伊予も海に近く新鮮な魚が取れるという事、全て私が知らないことばかりだった。他の国を知らない私が引け目を感じないように、何処にいきたいか夢を抱かせてくれる気遣いに違いなかった。こういう所が、口調に似合わず彼のどうしようもなく気遣い上手な所なのだろうと思う。
「左之さんは、どの国が一番好きだった?やっぱり伊予?それとも、江戸?」
「どうかな。どこもそれなりの思い出があるが、俺は土地柄に縛られる感じじゃないからな。」
「左之さんならお酒があれば、何処でも生きていけるね。」
「酒と女は癒しって言うしな、案外どこでも生きていけるかもしれない。」
 ふいに出てきた女という単語に、私は驚く。彼の口からそんな類の話を聞くのは初めてだった。きっとこれだけ端正な顔をしているのだから、それぞれの地で色恋沙汰を経験してきたのだろう。今は新撰組という勤めがあるからあえてそれをしていないだけで、彼がその気になれば女を作ることなんて簡単なことだろう。
「左之さんから女って言葉が出てくると思わなかった。」
「そりゃ俺も男だからな。まあ、俺は遊びで終わらせる程器用じゃないから女遊びはしないけど。」
「ふうん。色男は言うことが違うね。」
「何だよ。女遊びしてますってそう言った方がよかったか。」
 別に、と無愛想にそういうと決まったように彼の大きな右手が頭上でゆらゆらと揺れ動いた。子ども扱いをされているようで不貞腐れたくなる気持ちと、その反面いつだってそこの同居するのは喜びだった。本当に、彼には適わない。
 私は机に大きく広げられた日本地図を眺めながら、まだ踏んだことのない様々な土地に想いを馳せた。



 桜の時期が近づいて、私は勝手場で大人数の宴会に備えた準備をしていた。隊士という訳でもなく、ただ彼らに屯所を貸し与えている隣人の娘でしかなかったが気づいたら彼らと共に行動をする事も多くなっていた。そんな時、思いもよらない一報が私の耳へと届けられた。
 その信じたくもない事実に、私は取り乱したが、数日も経てば落ち着いた。人間とはそれがどれだけ辛く悲しいことでも、順応するという自分を守るための術を持っているのだと気づかされる。
 彼が死んだと聞いたのは、もう一ヶ月も前の事になる。景色を覆い隠すほど広かった、彼の背中はもうここにはなかった。その事実だけが日に日に濃くなっていた。
 いつだか彼が言った言葉を思い出す。あの頃の私には分からず、彼が知る必要もないと言ったその心境を、彼は皮肉にも自分の身をもって私に証明しているかのようだった。
    誰かを斬るって事は、誰かの家族に恨まれて生きていく事だって。
 私はあいにく彼の家族ではなかったけれど、彼の言っていた言葉が身にしみてよく分かった。例えそれが、何か目的があって成された事であっても私には何も関係がない。ただ、彼を失ったという事実しかそこにはなく、残ったのは憎しみだけだった。
 彼はこんな気持ちを抱きながら生きてきたのかと思うと、どうしようもなく居た堪れない気持ちになる。そうなった所で、彼が帰ってくる訳でも、何かが解決するわけでもないのだから意味がないことと分かりながらも私にはその言葉を思い返す事しかできなかった。
 そんな事を考える必要がないと言ったはずの彼は、私にそんな事ばかりを考えさせた。
 地図を片手に、他愛もない会話をした彼はもう何処にも居なかった。


( 2020'03'10 )