一週間分の疲労を溜め込んだ体はちょっと重い。帰りの電車の中で、右足左足と交互に変えながらヒールの中でずっと背伸びをしている爪先に限界を感じて靴の上に伸ばす。これから最寄りの駅に降りた所でまだ家までの道のりが残っているのだと思うと疲労感がより増していく。 長いホームを渡り切って、視界には階段とその奥に見えるエレベーターが映っている。寸分も迷う事なく階段よりも三歩余分に動いて、左手人差し指でボタンを押しつけた。ガコン、と少し不穏な音を立てたエレベーターに若干の不安を覚えながらも、背伸びをし続けているこのヒールに足がとてもじゃないが耐えられそうもない。これで万が一閉じ込められて生涯を全うしたとしても仕方がない。話が飛躍しすぎたとは思うが、それだけ疲弊している証明にはなったと思うので良しとする。 カツカツと音を綺麗に響かせて颯爽と歩く元気はなく、足をもつれさせながらズルズルとたまに格好の悪い音を響かせて最後の気力を振り切って改札を抜ける。この後も歩道橋を降りるという難関が待ち受けているのを思い出して遠くなりかけた気力を戻した時、そこには見覚えのある顔があった。 「足が痛い〜!」 「……第一声間違ってるでしょ。」 「だって痛いんだもん。」 「まじで学習しないよな。」 リョータはたまにこうして駅まで私を迎えに来てくれる。鞄の中に入っているスマートフォンを取り出してみるとディスプレイは真っ暗なままで一向に明かりを灯さない。どうやら充電が切れているらしい。連絡もつかない状態でどれくらい待ってくれていたんだろうか。 「この酔っ払い。」 「うん、リョータも酔っ払おうよ。」 「酔っ払いを風呂に入れたらね。」 「保育士さんだ。」 「そう、でっかい子供の面倒見てんの。」 特別感情をかんばせに乗せる事なく、パソコンの入ったずっしりと重い私の鞄を持ってくるりと背中を見せて家路へと向かって歩いていく。ずるずるとたまにヒールを擦りながらゆっくりと進む私を確認するように、たまに立ち止まってこちらを見た。 「…ん、早く帰るよ。」 歩道橋を途中まで降りているリョータが、まだてっぺんにいる私を見上げている。少し躊躇われがちに伸びてきたリョータの右手。私も少し手を伸ばしてみると、力強い男の人の手がすっぽりと私の手に覆い被さる。片手を預けているだけなのに不思議と体が軽くなったような気がした。 「リョータの手って年中あったかいよね。」 「あっためてんの。」 「え〜、そうだったの?」 「どっかの誰かがすぐ繋ぎたがるからな。」 そんな事言っていただろうかと考えてみるけれど、これはリョータなりの愛情表現なのかもしれないと考え直す。多分、自分が繋ぎたいからとは性格的に言えないのだろうと思う。不器用ながらもとてつもなく大きな暖かいその感情に、いつも私は殺されてばかりいる。付き合ってばかりのあの頃の感情に、リョータは簡単に引き戻す。 「ねえさ、」 「なに?」 「足限界だからおんぶして。」 「は〜?恥ずいから嫌だし。」 コンビニの明かりに集って、虫がバチンと音を響かせる。そんな音が耳につく程辺りは静寂を保っていて、私とリョータの声くらいしか周りからは聞こえない。終電に乗って帰ってきたという認識はあったけれど、私が足を引き摺りながらゆっくり進んでいる間に多くの終電帰りの人々はとっくに駅周辺を離れていたらしい。 「彼女が足痛くて千切れそうって言ってるのに?」 「千切れるとは聞いてないし、物理的にないだろ。」 「普段甘えない彼女の可愛いお願いじゃん。」 「甘えない分普段から甘ったれてるけどな。」 「え〜、手厳しい〜。」 甘ったれんなと私の不意を突いて、リョータの指がポンと私の額を小突いた。本当に足は限界を迎えていたけれど、どうやらおぶってはくれないらしい。 私がずるずると引きずるよう小股で進んでいくと、リョータも二、三歩歩いては立ち止まって私を待っている。キョロキョロと辺りを見渡して、私たち以外に人の気配がない事を確認したリョータは私の鞄を肩にかけ直すと体勢を低くして振り返る。 「一生家つかないから乗って。」 「……あれ冗談だったんだけど。」 「いいから乗る!」 勢いに押されて、リョータの首筋に腕を通すと「っしょ」とそう言って、私を担ぎ直して両膝裏にリョータの腕が収まった。なんだかとても恥ずかしい。冗談半分で言ったことが現実になってしまって、ふわふわとしていた筈の酔いが少しだけ引いていく。 「おも。」 「…そこは嘘でも軽いって言ってよ。」 「大人なんだし軽い訳ないじゃん。」 「愛がぎっちり詰まってますからね〜。」 「そうだな。」 「…肯定しないでよ、調子狂う。」 「だって俺の事大好きじゃん。」 いつも私がリョータを振り回している分、逆襲を受けたように心臓が煩い。私もいつものように軽口で返せばいいのに、今日は調子が悪いのか、疲労で頭が回っていないのか、はたまた酒で頭がおかしくなっているのか。多分、その全てに該当するような気がする。 「なに、もう降参?」 「惨敗。」 「そりゃ残念。」 ポスっとリョータの背中に顔を埋める。お風呂上がりの優しい匂いがして、疲弊している体に染み渡るような安堵感が広がっていく。悪足掻きをするように、ふわふわとしている猫っ毛なリョータの髪の毛を手に取って指で遊ばせる。 「くすぐって〜な。」 「そういう意図だもん。」 交差点を抜けて暫くすると、築年数の経っている私たちのアパートが見えてくる。とても綺麗とは言えない古いアパートで、冬は寒くて夏は暑い。でも、私はそんな自分の住処をこれ以上なく気に入っているのだろうと思う。 家が近づくごとに開放的な気分になって、リョータの背中にしがみ付きながら私はヒールを脱いで右手の人差し指と中指に引っ掛けて踵からヒールをぶら下げる。ようやく窮屈な環境から放り出された足をぷらぷらさせてみる。 「早くお風呂入らせてもらわないと。」 「甘ったれんなし。」 結局、甘ったれるなと言うリョータが私以上に私に甘い。 既に沸いていたお風呂に飛び込んでリビングへと戻ると、大きなバスタオルを手に私を待ち構えるリョータがそこにいる。髪を乾かすという行為がこれ以上なく面倒で苦手と知っている私を知らないと出来ない行為だ。今日も私はリョータとバスタオルに捕捉されて、わしゃわしゃ髪を揺さぶられる。 「お風呂終わったから酔っ払おうよ。」 「髪まだ乾いてねえじゃん。」 「一本飲んだらドライヤーかけるから。」 「…それやんの誰?」 「俺?」 言葉として聞こえてくることはなかったけれど、やっぱりねと言う言葉が聞こえるようなリョータのかんばせがとても愛おしい。毎日見ても見飽きない程だからよっぽどだ。誰よりも私を甘やかす事に長けているリョータは、冷蔵庫で冷えているビールを二本持って戻ってくる。私が一足先にプルタブを開けていると、冷凍庫で冷やしていたであろうキンキンに霜をつけたビールグラスがテーブルに置かれた。 「あ、そのまま飲むなよ。」 「缶ビールごくごく飲むの美味しいじゃん。」 「こうやって注いだ方がうめえの、貸して。」 今まさに口をつけようとしていた缶ビールをリョータが奪い去って、見るからにヒエヒエと冷気を放っているグラスに綺麗に注いでいく。グラスを斜めに傾けながら、終盤にかけては少し勢いをつけて上から流し込む。芸術的とも言える完璧な割合のビールになって私の元へと戻ってきた。 「百二十五点だね。」 「二十は分かっても五点どっから来てんだよ。」 「ん〜、愛情分の五点。」 「愛情少なすぎだろ。」 テーブルの下でリョータの足をつんつんと突いてみると、両足で閉じ込められた。無駄と分かりながらも抵抗を続けてみたけれど、ものの三十秒で観念して私は目の前の大好物に手をつけて、喉の奥へと流し込んでいく。 もう少しの抵抗を期待していたのか、些かリョータは不満そうだ。正面を向いて座っていたリョータが立ち上がって、トンと私の隣の椅子に腰をかける。何かを言いたげに、こちらを見ているので気づかなかったふりをしてもう一度ビールに口をつけようとしたタイミングで、ぐっと顔を捻じられた。 「愛情少なすぎだろ。」 「さっきも同じ科白聞いたね。」 「今日の礼は?」 「ん〜、柿の種たべる?」 「……恩知らず。」 私がどれくらい酔っ払っているのかこうして確かめているのだろうし、想像以上に私が素面だったのが面白くないらしい。私はあまり甘え方を知らない。私の方から甘えなくても、リョータがいつも私を甘やかしてくれるからその必要がなかったのかもしれない。 最近、そんな私に気づいたのかリョータは少しだけスキンシップを減らした。きっと私が自分から甘える境遇を作りたいのだろう。その意図が分かるからこそ、小っ恥ずかしい。 「もう一本飲ませてくれたら酔うかも。」 「お前の彼氏って辛抱強くないと務まらないのな。」 「その分だけ特別感あるでしょ?」 「むかつく………」 結局、むかつくと悪意でしかないそんな言葉を放ったリョータの方から引き寄せられて、ひんやりとした唇がより体を火照らせていく。リョータは待っているかもしれないけれど、私もこうしてリョータが待ちきれなくなっているこの瞬間をただ待っているだけでしかない。 「むかつくのは当たってるからでしょ?」 「……まじで黙って。」 物理的に黙らされてしまったのでは、反撃のしようもない。二度目のキスで私も再びリョータの首すじへと腕を通して、椅子から身を下ろしてリョータの太ももの上に膝をついた。 この状況に既視感を覚えるのは何故だろうか。もはやこれが日常だからだろうかと考えてみて、それがぼんやりと覚えている昨日の夢の内容に似ていたからだと思い出した。
正夢のかたまり |