私の敗因は恐らく、自分の未来を読み違えた事だろう。
 想像してもいない事が簡単に起こりうるのが人生というもので、日々はその集合体にすぎない。水上と付き合っているという今当たり前に存在している事実でさえも、当初からすれば全くもって想像していない事だったのを考えると、人生なんて想像通りに進むことの方がイレギュラーなのである。
 水上と付き合うことになったきっかけなんて、それこそ恐らく偶然に偶然が重なっただけで深い理由があった訳じゃない。時に明確な理由がなくともタイミング次第でどうとでも転ぶ場合があるという事だ。
 水上の事が好きだったかと問われれば、当時の私の解答はかなり曖昧だ。好きでもなければ嫌いでもなく、そもそも水上がどんな人間なのかを実のところよく知らなかったというのが正解だ。
「お疲れさん。」
 カフェ&バーの私のバイト先に水上はたまにふらりと現れる。素直に“会いにきた”と言われた事は一度もなかったし、それらしい尤もな理由をつけてやってくるのが憎らしくもあって、本当は嬉しかった。私も水上も感情表現のパターンをあまり持ち合わせていないタイプの人間なのかもしれない。
「中まで入ってくるの珍しいね。」
 私より一学年年下の水上との出会いは、ボーダーだった。ボーダー隊員に副業や掛け持ち禁止という決まりはなく、今はボーダーのシフトよりもこのバイト先でのシフトの方が占める割合は多い。
 私はボーダーに籍を置きながらも、所属チームを持たない隊員という位置付けだ。迅のように“フリーのA級”と言えば聞こえはいいが、私はその言葉を借りていえば“フリーのB級”だ。もちろん迅とはフリーの意味も価値も違う。自分の所属メンバーがボーダーを辞めたことによって、必然的にフリーへなったというだけの事だ。これもいいきっかけなのかもしれないと思い、チームの再結成はせず、時折個人で入る防衛任務にだけ顔を出すくらいになった。
「夜勤やから、眠気覚ましに。」
「そっか、じゃあエスプレッソとかにしとく?」
「ほんならそれで。」
 マシンのボタンを押して、カウンター越しに窓ガラスの先をぼんやりと見つめる。今日もいつもと変わらず平和だなと思う。三門を平和と表現できるのも私だけかもしれない。けれど、いつ何処にどんな災害や戦争が起こるかなんて分からない。ボーダーという戦力を構える三門は、逆の発想をすれば他の無防備な土地よりよっぽど安全なような気さえする。
 ピピっと短い電子音がアラートで出来上がりを教えてくれて、私はそれを水上の前に差し出した。ちょうどその頃、外を歩く人々が皆足速に小走りしている様が視界に映った。
 今日の天気予報に、雨の予報は出ていない筈だったと記憶している。
「めっちゃ苦いの出すやん。」
「飲んだ事ないの?脳天突き抜く系の眠気覚ましだよ。」
「眠られへんようなったらどうしてくれるん。」
 チラリと水上のリュックが置かれている方へと視線を移動させると、そこには透明なビニール傘が引っ掛けられるようにして二本並べられている。今日は眠気覚ましにというメインテーマを提げて、予報外れの雨が降るというサブテーマを切り札にやって来たのだと察した。
「強めのお酒持って見舞うよ。」
「添い寝とちゃうんかい。」
 そうか、今はそういうボケをかますのが正解だったのか。生まれも育ちも三門の私に、些か大阪のノリツッコミ文化はいまいち掴みきれない。西と東という育ってきた環境が違うだけで、当たり前も大きく異なるものだと思う。有名なシンガーソングライターが作詞作曲したそんなそんな歌があったような気がする。
「なに、柄にもなく寂しくでもなった?」
 それは多分、水上ではなくただの私の願望だ。水上が直接私に会いにきたと言わないように、私も会いたかったと伝える事はない。皮肉じみた言葉で塗り固めないと、本音が言えなくなってしまったのは一体いつからだっただろうか。
「会いに来る理由は、俺の方が作りやすいやろ。」
 ああ、確かにそうだなと思う。最早あまりボーダーに出入りしていない私が、寮住まいの水上に会いに行くよりはよっぽど理由は作りやすい。
 一見、酷くぶっきらぼうで放任主義に思える水上はこういった所で憎い演出をしてくる。傘を二本持ってくるのだって、嬉しい反面ずるいなと思わざるを得ない。私は“雨”や“夜勤前の眠気覚まし”という外的要因がないと水上と会う事ができないのだと、複雑な気分に陥るからだ。だからと言って自分から素直に感情を解放できる訳でもないのだから、まさに詰み、だ。
「あのさ、水上。」
「なんです?」
「水上のそういうところ、結構好き。」
 案外ストレートに言ってしまう方がカモフラージュになるような気がして、さらりと言ってみれば特別抵抗感なく言えてしまった。水上は今どんな顔をしているだろうか。確認するよりも少し早く、いつもと変わらない気の抜けた緩い声が聞こえた。
「おおきに。」
 その声からも、そのかんばせからも、水上が今なにを考えていてどうしたいのか私には読み解くことができない。知れば知るほど、水上敏志という一人の男の事が分からなくなる。私の恋人でありながら、私は彼のことが分からない。
 予定外の雨に客足はピタリと止んでしまい、店長からは三十分前倒しで上がっていいよと体よくあしらわれてしまった。店のエプロンを外してカウンターに戻ると、無言で水上が事前に準備していたビニール傘を渡してくる。私が折り畳み傘なんて賢いものを持っている訳がないのだと分かっているのだろう。
「家でええんか?」
「ううん、私もボーダー行こうと思って。」
「コソ練でもするん?」
「披露する先もないからしない、かな。」
 こんな中途半端な気持ちでだらだらと現状維持を続けるのにも限度がある事は自分が一番感じていたことだ。いつかは白黒はっきり決着をつけないといけない。思い立ったが吉日という言葉が示すとおり、それが今のこのタイミングなのかもしれないとそう思ったのが理由だ。



 ボーダーが拡大フェーズに入り、県外からも隊員を募集しスカウトも積極的にし始めるようになった頃、生駒くんの入隊に少し遅れて水上もボーダーに入ってきた。生駒くんは同学年で、あの性格だ。親しみやすいそのフレンドリーな性格にすぐ打ち解けることが出来た。隠岐くんや南沢くんもそれに近い印象だった。ただ一人、何を考えているのか分からないぼんやりとしたその男が、私はあまり得意ではなかった。それが後に自分の恋人となる男だとは夢にも思わない。
 “でも、彼氏おらんのやったら付き合います?”
 突然前触れもなく水上にそう言われた時も、今のように雨が降っていた。
 天気予報を見る事なく家を出てきてしまった私は、土砂降りの中ボーダーの基地内でしばらく考えていた。ラウンジで時間を潰してみようかと思ったが、雨足は弱まるどころか強くなる一方だった。つい先ほど生身に戻ってばかりだが、トリオン体で一先ず難を凌ぐべきか。
 そんなタイミングで同じく基地を出ようとしていたのが水上だった。当時、水上とはほとんどまともに話したことすらなく、妙な空気が漂っていた。
「えっと……入ります?」
「言わせた感満載だね。」
「ここで言わんかったら俺悪者になりそうやし。」
 言わないという選択肢を失わせた上に私が断ったのではあまりに立場がないと、私は素直に水上の提案に賛同して大きな傘の下に入って一緒に雨の中を進んでいく。
「傘の位置が高い、水上くんって背高いんだ。」
 辿々しい会話の糸口を見つけるように、身長や出身について触れるのは一番手っ取り早い。けれど、本当に水上がこんなに背が高いとは知らなかった。知らないではなく、知ろうとした事がなかったのだとその時気づいた。同じボーダーという枠組みに属しながらも、私にとって水上はそれくらい関係性の遠い人間だった。
「沈黙無理系の人なんですか、先輩。」
「相手によるかな。」
「ならそんな頑張って喋らんでも大丈夫ですよ。」
「少なくとも今の水上くん相手には無理だけど。」
 取り敢えず沈黙を作らないように、一通り私は質問を投げかける。一方的に私が水上に対するパーソナルな質問を投げかけて、ダルそうに回答したかと思えばすぐに私へのカウンターパンチとなって返ってくる。結果的に何故か私が追い詰められる構図が出来上がっていた。
「そういう自分はいてはるんですか、彼氏。」
 こういう感じで全て仇となって私に特大級のブーメランとなって戻ってくる。水上は私の質問に答えているように、全部のらりくらりと交わしながら一度もパーソナルデータを開示せず、むしろ私を丸裸にしていくように私のデータを開示していく。
「水上くんはいそうだよね、彼女。」
「いませんて。上京して間もないのにそんな余裕もないし。」
 年頃の男とは思えない程色恋に対しての欲が水上からは感じられなかった。だから、不思議とそれが何故なのか少しだけ気になった。謎の多い男はモテるなんてよく言われているけれど、同時にそれは踏み込むべきではない危険な男というイコールでつながっている。この男も、そんなミステリアス感があるのだろうか。妙な興味が湧いてきたのは、自分を丸裸にされかけておきながら自分の情報をまるで掴ませない水上がどんな男なのか単純に知りたいと思ったからだ。
「でも、彼氏おらんのやったら付き合います?」
「だれとだれが。」
「ボケてんですか、俺とあんたに決まってるでしょう。」
 一体、どうしたらこんな脈絡もないタイミングでそんな提案が出てくるのだろうか。ますます分からない男だと思った。けれど、言葉や行動に対する意味をしっかり後付けの根拠として提示してくるのは水上の常套手段で、なるほどなと道筋自体は間違っていないと納得してしまう。それが嘘なのか本音なのか、それすら私には分からないし、それによる水上へのメリットもよく分からなかった。
「訓練生にストーカーされてるって聞いてますけど。」
「ストーカーってほどの大ごとじゃないよ。」
「正隊員の中に彼氏おるって分かったら悪さもせんでしょ。」
 なるほどと思う反面、そんな情報どこから仕入れてきたのだろうか。大学の先輩でもある諏訪さんにそれとなく会話の流れで話した事があったくらいで、他の人に話をした覚えはない。ボーダーという限定的な箱の中で噂のスピードは瞬く間に駆け抜けていくのを知っているので、極力口の硬い信頼のおける一部のメンツにしか話さないようにしているのだから。
「…仮に付き合ったら水上くんのメリットがなくない?」
 まさかそんなボランティア精神で私と付き合おうとでも言っているのだろうか。ミステリアスを超えてただの変人だ。彼女の選定基準がよく分からない。
「彼女いるか聞かれるんダルいからいるって言うといた方が都合もええからメリットはある。」
 尤もなのか、やっぱり皆目見当のつかない意味不明な回答なのか、水上が言うと妙な信憑性があってよく分からなくなる。だから多分、そんな水上の言葉に私も惑わされた感はあったのだと思う。相手も私を自分の駒として彼女にするのであれば、私も水上を駒にすればいいとそう思った。割り切った関係でいられる分、その付き合いも悪くないのかもしれない。そうそれば、仮にどちらかに好きな人が出来た時も未練がましく揉める事なく綺麗に後腐れなく終わらせる事ができるだろう。私の認識なんて、そんなものだった。
 偽装結婚ならぬ、偽装恋人のような奇妙な関係が始まったのはこの瞬間だった。水上のことを散々変人と揶揄しておきながらも、そんな提案をその場で容認した私も大概変人だという自覚は持ち合わせていた。私と水上を繋ぐ共通項は、多分それくらいだ。他は何一つ似ていない。
「ほんなら明日から俺彼氏なんで、よろしく。」
 きっと本気で水上のことを好きになることなんてないと踏んでいたから、私はこんな意味不明な提案を即決できたのだと今になって思う。



 あの時私が傘を持っていれば、今のこの関係はやっぱりなかったのだろうか。そこに傘を持たず佇んでいたのが私でなく他のボーダー隊員女子だったとしても、それは同じ結末だったのだろうか。
 水上との距離感には最大限気をつけながら過ごしていた事で、逆にその妙な近くも遠くもない距離感に水上の事が気になるようになってしまっていた。これも水上の戦略なのだろうか、だったら大したものだと思う。あの時付き合う事を提案してきた水上の真意がなんであったのか、どんどんと気になっていた。
 それは、水上が私に“好き”という感情表現を一度たりともしない代わりに、しっかりと私の彼氏を再現性高くやってくれているから余計と自分の中に矛盾が生まれた。百点満点という評価ができないまでも、少なくとも及第点ではあるだろう。記念日はきちんと覚えてくれているし、ちょうどいい距離感でメッセージも送ってきてくれる。大学生同士の恋愛というには些か老夫婦感はあったが、そんな脚色されていない私への気遣いに、自分自身の気持ちが揺らいでいくのが次第に怖くなった。
「水上、別れよっか。」
 偽装的な自分達の関係性を理解しながらも、しっかりと私が水上に向ける感情が恋に発展してしまっていることを理解してしまうと、そこからはただただ苦しく、どうすべきなのかが分からなくなった。
 だって、自分は今その恋心を抱いている男の彼女をやっているのだから。その環境になんの文句があるのかと言われたら、それを言語化するのはとても難しい。好きだからこそ、そもそもの付き合ったきっかけからも、もう一年以上付き合ってきても尚一度たりとも水上からの私に対する自発的な言葉はない。
「そこそこええ彼氏してると思ってるんやけど。」
「私もそう思う。想像よりもずっとね。」
「ならなんやねん。文句ないってことやん。」
 水上に悪いところなんて、少なくとも私には見当たらない。多分に贔屓目が入っていることは否定できないが、大して好きでもない筈のコーヒーを理由に私に会いにきてくれていることも、どうせ私が傘など持ち歩いていないだろうとさり気なく二本傘を持って会いにきてくれることも、だ。多分、私はもう既に充分水上のことが好きになってしまった。だから、このまま付き合い続けるのはあまりに辛いと感じるようになっていた。
 ボーダーでチームを再結成しなかったのも、いくつかのチームからオファーを貰っていても全て断ってしまったのも、じわじわと自分の水上への気持ちが高まっていくのと同時に、現状を思うとそれが反比例するかのように落ちていってしまった。だから、結局ボーダーからも少し距離を置くようになって、それが今の私の生活スタイルになっている。
「あんたなんか好きになる予定なかったんだけどなぁ。」
「付き合うてるんやから寧ろ正常やろ。」
 これだけ好きになってしまったのに、水上の隣は私にとって居心地がいいとは言えない環境だ。付き合って間もない頃は割り切っていた分、同じ目的意識を持っていた水上の隣は心地よく、時折気が向いた時に彼女っぽい甘え方をしてもちゃんと答えてくれればそれで満足だった。
 今は水上の内心が何一つ見えない不安が常に付き纏う分、彼の隣はひどく居心地が悪い。会いにきてくれたという事実に少しばかり弾んでしまう自分の心も、それは“恋人である”という関係から儀式的に生まれている行動なのではないかと、そんな考えなくてもいい事を考えてしまう自分に疲れてしまった。
「ここらで全部リセットしようと思って、だからボーダーも辞めることに今決めた。」
 結局ボーダーにだらだらと籍を置きながらも復帰しようともしなかった私は、水上との最後の砦がなくなることを無意識に恐れていたのだろうと思う。だったらそんなもの、全て根こそぎ取っ払ってしまった方がいいのかもしれない。
「ボーダーは辞めたらええ、止めるつもりも元々ない。」
「そう?それは物わかりよくて助かる。」
「ボーダー辞めるんと別れるんは別もんやろ。」
 初めて水上自身の意思表示が聞けたようで、踏ん切りがついた後でも嬉しいものなんだなとそう感じた。どこまで行っても、結局私はこの男がどうしても好きなのだろう。けれどだからこそ、もう好きで居続けるのが緩やかな地獄のような長い長い拷問のような気がしてならないのだ。
 だからもう、やっぱりここから関係を立て直すのは無理だと思った。
「一足遅いよ。」



 私の敗因は恐らく、自分の未来を読み違えた事だろう。
 どうすれば水上と正しく“始める”ことができたのだろうかと考える。けれど、きっとそんな正しい始まりは私と水上である限り施行されることはない筈だ。私が私であって、水上が水上でいる限り、永遠に正しい状態で交わることはなく一生交差を続けるしかないのだ。
 傘二本を抱えて私に会いにくる水上が本当はどんな感情を持ち合わせているかなんて、馬鹿な私でも分かっている。ただ、私たち二人が持ち合わせる同じ感情が見事合致することはきっとないのだろう。
「ならもう一回、始めてみればいいだけやろ。」
 それが出来ればどれだけいいだろうか。
 策士策に溺れる、それを体現させないよう私の左手首を珍しく力強く握り寄せた水上に、私はもう充分すぎる褒美を貰ったような気がして、振り返った。

「ありがと、水上。」

 今度は迷うことなくボーダーへと続く道へ、真っ直ぐと歩みを進める。もう自分の未来を読み違えるのは今回限りで終わりにしようと思う。過去の経験を今後に活かすことができるのであれば、水上とのこの時間も私の中では生き続けることができるだろう。


真白なざわめき
( 2022’05’31 )