例えばの話を、しよう。空っぽのバケツの中に、一滴ずつ雫を垂らす。ゆっくりと時間をかけて水嵩を増やし、表面張力を使ってギリギリのところで止めてみる。少しでも刺激を与えたならば、すぐにでも堰を切ったようにバケツの水は崩壊する。

 そのバケツは、きっと、今の私の状態に酷似している。

 何とかギリギリの所で、私の精神状態は保たれている。それを保っている、所謂蛇口としての役割を果たしているのは、義勇ではない。違う男だ。
 義勇は、私の恋人だ。それも、所謂前世からの恋の人で、出会うべくして出会ったような、まさに運命の相手とも呼べる相手だ。ただ真っ直ぐに私に向いてる彼のその視線は、どうしようもなく暖かく、私はきっと、他の誰よりも義勇に大切にされている。
 そんな私は今、義勇の隣ではなく、違う男の隣にいた。お互い一人暮らしのくせに、態々ホテルで会っているのだから、色々と訳ありだ。どうしてこうも私を大切にしている義勇の事で、私はここまで思い悩んでいるのだろうか。我ながら、滑稽な状況だと思う。
 義勇が好きだからこそ悩んでいるのに、その辛さを違う男とホテルに来ることで、何とか保っていられるのだから。本末転倒も、いい所だろう。
「おーい、サン。」
 冷蔵庫に水を取りに、私はベッドから立ち上がる。そうすれば、彼は半ばふざけた様に、普段呼びもしないさん付けで、私に声をかけてくる。けれど、私はそれに答えない。もともと何も無かったかのように、自分の意思のままに、行動をする。
「お前さ、ピロートークって知らねえのか。」
「宇髄さんは賢者タイムって、知らないの。」
 このやり取りは、何も初めてではない。毎度、私たちは同じような会話を繰り返している。宇髄とこうしてホテルで会うのは、一体これで何回目になるだろうか。もう片指で数えられる回数は、ゆうに越えている。最初はその回数を数える分だけ、罪悪感も掛け算になって、ある時から私は数えることを辞めた。
 宇髄と私の付き合いの長さは、義勇との付き合いを遥かに超える。前世での付き合いが長かった、とでも言えばいいだろうか。現世で彼と再会したのは、半年ほど前の事だった。宇髄を視界に映したその時、まるで鏡に写したように、彼は私と同じかんばせで、私を見ていた。
 言葉を交わす前に、お互い共通した記憶を持っているのだと、直感でそう思った。
「冨岡とも、そんなんなのか。」
 ちょうどタイミングよく、否、悪く、義勇の事で悩み始めた頃、私は宇髄と再会した。精神がいつ崩壊してもおかしくないバケツギリギリの表面張力の状態の私に、彼は蛇口をつけたのだ。もっとも蛇口をつけただけで、水の嵩は今も減らず、現状維持を保つのがやっとだ。
「そんな訳ないでしょ。義勇は、特別。」
がこんなに薄情な女って知ったら、泣くんじゃないか。割と、本気で。」
「そうかもしれない。というか、引くと思う。」
 そもそも私が悩んでいるのは、彼である義勇の事だ。宇髄とどうこうなりたくて悩んでいる訳ではない。義勇の真っ直ぐすぎるその愛を、私は真っ向から受け止める自信がなかった。私には、義勇にそこまで思ってもらえる程の価値はないからだ。
 けれど、私は彼に愛されたかった。私自身が、誰よりも義勇を好きと思っている事に、偽りはない。嘘偽りなく、私は義勇のことが好きだった。好きだからこそ、少しずつバケツに水を溜め続けてしまったのかもしれない。何処で水を抜いたらいいのか、私にはそのタイミングが分からなかった。気づいた時には、もう自分の意思でコントロールすることはできなくなっていた。
「お前の本性、どっちだよ。」
 ―――俺の前のと、冨岡の前の
 言われて、初めて考える。確かに宇髄の言う通り、本当の私は、どっちなのだろうか。宇髄といる自分がノーマルなのだろうけれど、そう仮定してしまうと、義勇と一緒にいる時の私は何者なのだろうかと、義勇を好きでいる気持ちすら否定されたような気がして、口には出さない。
「宇髄は誰の前でも宇髄だからね。羨ましいよ。」
「三百六十度どっから見られてもいい男だし、取り繕う必要がないだろ。愚問。」
「変わらないね。少しは謙遜という言葉を覚えた方がいい。」
 義勇に愛して欲しいと思っていながらも、自分にその価値がないと思う私は、一体何をすることが正解なのだろうか。その答えは永遠に分からないような気がするけれど、確実に、宇髄とこうして頻繁に体を重ねることが正解ではない事くらい、私にだってわかっていた。
 これでは、昔と何も、変わらない。私はまた、同じことを繰り返そうとしているのだろうか。
「お前、何考えてんだ。」
 しばらく会話が止まると、宇髄はこうして私の顔色を伺う。何を考えているかなんて、聞くまでもなくわかっている筈なのに、あえてそれを言葉として私に伝えてくるのだ。そうすることで、私がそれ以上考えることが出来ないよう、意識的にそうしているのだろう。
「宇髄は、何考えてる?」
「質問返しか?二回戦目のお誘いをいつ繰り出そうか、考えてた。」
「最低。タチの悪い冗談。」
「嫌いじゃないくせして、よく言うわ。」
 私にその気がないことは、宇髄が一番よくわかっているだろう。一見宇髄は強引そうに見えて、ある一定の距離感を保つのが上手い。私が、宇髄とこうして定期的に一緒にいれるのは、その絶妙な距離感からもたらされているものだ。
「ラブホの風呂って、結構いいもんだぞ。」
 体の大きい宇髄は、丸く模られた大きな浴槽にお湯を溜める。二人が入ってちょうどいいくらいの湯量を貯めて、私を手招きして呼び寄せる。彼はいかんせん、水の管理が得意なのだろうと思う。私と宇髄の体重を受け止めた風呂の湯は、ちょうどよく肩まで浸かるいい湯だった。
「宇髄、熱い。のぼせたから上がる。」
「まじかよ。お前風呂苦手なの、変わってないんだな。」
「宇髄が異常に風呂好きなだけでしょ。」
 ゴツゴツとした彼の腕を掻い潜って、私は風呂から出て行く。私は、いつも宇髄から逃げるようにして、距離を置く。彼とこうして定期的に会って、セックスをする事は、双方合意の上での出来事だ。けれど、必要以上に馴れ合わないよう、あえて私は距離を置く。そして、宇髄もそんな私を追いかけず程よい距離感を保っている。だからこそ、私たちの関係性は、こうして継続されているのだろう。
「早く髪、乾かせよ。」
 皆して同じ事を言うのだなと、そう思う。義勇もいちいち私のタオルを奪い取って、丁寧に手櫛をしながらドライヤーで乾かしてくれる。普段から私がいかにずぼらで、ぼうっとただ流されるままに生きているのか、よく体現されていると思う。
 ザブンと大きな波音を立てた宇髄は、体を拭いて、こちらへとやってくる。ぼうっと、ただ流れているだけのテレビを視界に写している私にバスタオルを投げつけた。
「聞こえてます?風邪ひくだろって言ってんだよ。」
「ああ、うん。後で乾かすよ。」
「今やんないと冷えるから今やれって言ってんの。」
 そう言って、バスタオルで私の髪をワシワシと豪快に拭きあげる。義勇が私にしてくれた時とは、随分と違うなと、そんなどうでもいい事を考える。壊物を扱うように丁寧に優しく扱う義勇のその様は、割れ物注意のステッカーが貼られた段ボールを扱う様に似ていると、ぼんやりとそう思う。
 そんな義勇の優しさが嬉しい半分、私の感じている負い目にじわじわと侵食してきて、私を窮地へと追いやって行くのだ。豪快にワシワシとバスタオルを揺らす宇髄にその繊細さは欠けるが、私は心のどこかで、こっちの方が自分にとっては楽なのだと、そう思う。そして、宇髄はきっと、私が気を張らずにいられる関係性をそうする事で作り上げているのだ。
 この男が、何をするにしても、全て原理原則に基づいた考え方で、全てに意味があると私は知っている。
 鬼殺隊としての役割を終え、痣者としての運命を受け入れ若くして死んでいった義勇に、私が心を病んでいた時、それを救ったのが、まさにこの男なのだから。知りすぎていると言っても過言では無いほどに、私は実体験として、それを知っている。
「お前、いつまでこんな生産性のない事続けるんだ。」
 不意に、紅い瞳が、凍てつくように私の視界を捉える。吸い込まれて行くように、目を離すことが出来ない。私はこの目に、弱い。それは昔からずっと、変わらずに。
「言ってる意味、わかんない。」
 言い逃れるようにそう言ったところで、彼の視線は変わらず私を射抜いてくる。私を責めたり追い詰めたりする為ではない。むしろ、その逆だ。いつだって、宇髄は私を助けてくれた。義勇を失って精神的に荒れたのち、空っぽの人形のようになった私に、感情を取り戻させてくれたのは、宇髄だった。
 少しずつ、ゆっくりと時間をかけながら、一定の距離を保って、私が苦しくならない程度に、ずっとそばに居てくれたのが彼だった。鬼殺隊員も最後には数を大きく減らし、義勇と関わりが深かった人間も、皆時を同じくして、死んでいった。私のこのやり場のない気持ちを理解し、共感して寄り添ってくれるのは、宇髄しかいなかった。他の誰にも替えのきかない、宇髄にしか務めることの出来ない役割だった。
「自分の感情に枷をつけるな。もっと、自由になれよ。」
 彼の言葉は、いつだって正論だ。それは頭の悪い私でも分かるくらいに、正しい。心を、感情を、自由に出来ていないからこそ、私はこうして永遠に悩まされているのだと、そう頭では理解しているつもりだった。
「私は、義勇が好き。」
 反射的に、その言葉がでた。宇髄に本心を見透かされているようで、義勇が好きだと、自分の中にある、唯一ブレることのない真実を私は述べる。
「お前、それを理由にしてるだけだって自分で分かってるんだろ。」
 そうだ、私が義勇が好きというその軸で、自分を保っている一方で、自分を自分で壊しにかかっている。結果的に、私は生涯義勇だけと言っておきながら、今目の前にいるこの男と、最期の時まで寄り添い、生きた。
 人の気持ちは移ろいやすく、死者との思い出は日に日に薄くなっていく。きっと、義勇には鬼殺隊として役割を全う出来たという達成感と一緒に、沢山の未練があっただろう。そんな沢山の未練のうちに、きっと優しい義勇であれば、私を傍で見守ることが叶わないと気に病んでいるだろう。そんな彼に対して、私が日に日に義勇との思い出をすり減らして行くことで、立ち直り、宇髄と生涯を共にしたとなれば、それは立派な裏切りに違いない。私が、二度までも義勇を裏切ることは、私の中で許されないことだと思うのだ。
「別にお前が冨岡を裏切った訳じゃない。気を病む事でもない。」
「…裏切ってるよ。」
「なら、新しく理由作ればいいだろ。」
 宇髄は、一体これから何を言おうとしているのだろうか。私には、その真意がわからない。新しく理由を作るとは、一体どういう事なのだろうか。どういう理由を作り上げれば、私は楽になれるのだろうか。
「全ては俺がそうしたと、そう理由をつければいい。悪いのはじゃなく、俺ってことにすればいい。」
 そうすれば、お前が気に病む事も無いだろとそう言って、初めて宇髄は私との距離感を詰めてくる。いつだって、寸分の狂いもないヨミで私との距離感を保っていた彼が、そのボーダーラインを超えてくる。すっぽりと厚い胸板に包まれた時、空っぽになった自分に、また暖かな何かが流れ始めた感覚を、今になって思い出す。
「もういい加減、認めろよ。」
 その先の言葉は、宇髄の口から語られることはなかったけれど、その余白が尚のこと、私にその感情を教えてくれる。

    私は、宇髄が好きだ。

 前世で宇髄を選んだ私は、現世でも宇髄をきっと、選ぶしかないのだ。それが、私の運命で、答えなのだから致し方ない。強引に宇髄が作った理由を、私は新しい理由として、自分の中に埋め込むのだ。
「全部、宇髄が悪い。」
 言葉とは裏腹に、私も宇髄の大きな背中に、腕を回した。

 私たちは、罪深い。

ミッドナイトスキャンダル
( 2021'11'30 )