現在の課題に対する今後の改善策を考えている。 現在の課題、それ即ち体力のなさ。それもその筈だ。学生の頃から特別運動もしていなかったけれど、大人になってからはそれが如実で体たらくでしかない。それは振り返って反省している点である。これは完全なる私の落ち度だ。 一方で今後の改善策について考える。 やっぱりジムにでも通うべきだろうか。基礎体力を付けないことには何も始まらない。あまり頑張ることは得意じゃないけど大丈夫だろうか。もう今から不安しかない。 スマホを握りしめて寝室へと戻る。バタンキューという効果音は確かに存在していて、そしてそれを私は今しっかりと体現している。もう何も出来る気がしない。握りしめたスマートフォンで、つい先ほどそれを会社に伝えてきたところだ。あとはベッドに深く深く沈んで、そして目を瞑るだけ……罪悪感と、どこか背徳感を覚えながら。 「……怒ってんの?」 「ううん。」 「絶対怒ってるじゃん……」 「怒ってはないよ。」 もう一歩たりとも動きたくはない。それは誰のせいでもなく私のせいであって、私たちのせいでもある。もっとも、そこには私の同意があるのだからもしかしたら私たちのせい、というのも烏滸がましいのかもしれない。 リョータが半年ぶりに日本に帰ってきた。 高校三年生になってから付き合い始めて、卒業の一ヶ月前に渡米することを告げられた時は大層驚いた。あまりに突然すぎて、泣く暇もなかったのを覚えている。 逆に泣いていたのはリョータの方で、本当は付き合う前からほとんどアメリカでバスケをすることは決まっていたらしいのだけど、なんでもそれを言えなかったのだと彼は泣きながら言った。 言ってしまっては付き合うことすらできないと思ったと、そんな言葉を言われてしまっては私には彼を責める言葉は出てこないし、出せるはずもない。どれだけその想いがしっかりと確立されているのか身をもって知ってしまったからだ。 あれから数年が経って、私たちは今も付き合っている。最初の一年以外はずっと遠距離だけど、不思議と物足りなさや他の人への心移りもなくリョータとはうまくやっている。 「会社の人なんだって?」 「……まあさん普段頑張ってるから今日くらいはしっかりゆっくりしてねって。」 「じゃあ会社公認で俺とゆっくり?」 「……寝る。」 本当に意識が混濁していて今にも落ちてしまいそうな状況で、きちんと会社に連絡したのを寧ろ褒めて欲しいくらいだ……やってる事はほとんどズル休みに近い訳だけど。こういう時疑われる事なく逆に気を遣われるくらいには真面に働いていてよかったと心の底からそう思う。 「……ねえってば。」 「ん?」 「やっぱ怒ってるんでしょ。」 「ただただ眠いし、動けません。」 「俺のせいってこと?」 「そうは言ってないし……、思ってない。」 そう言えば、リョータがそっと私のシャツを掴んで手繰り寄せた。そんな控えめな行動に、昨日のことを考えて全然人格が違うなとそんな事を思った。怠さが全身覆っている筈なのに、不思議な充実感が私を満たしていく。半年ぶりのリョータの香りに、私も身を埋める。 「ごはん俺がちゃんと作るから許して?」 「最初っから許してるって。」 「なに食べたい?」 「とりあえず今は花より団子より睡眠かな。」 少しだけ口をツンと尖らせているリョータを見て、彼がちゃんと日本に帰ってきて今他の誰でもなく私の前にいるんだと実感する。ふにゃふにゃに力の抜けた体がより一層とベッドと彼の胸元へと沈んでいく。 急にフラッシュバックしたかのように、昨日の出来事を思い出す。 午後休暇の有給を取得して向かった成田空港、午後四時三十六分。まるで現行犯逮捕する警察官のように時間をはっきりと覚えていて、半年ぶりのリョータに手を振った。控えめにニッと笑ったリョータに、心臓の音がうるさかった。 彼が渡米することによって気持ちが離れないか心配に思ったのは最初の半年くらいなもので、逆に離れているからか会うたびに初恋のような感覚が襲ってきて毎回苦しくて、そして抱えきれないほどの充実感に殺されそうになる。とても幸せなことだ。 半年分の会話をしながら和気藹々と帰っていた帰り道、時々私の指に触れるようにかすめてくるリョータの指がくすぐったい。多分私から握り返される事を待っていたんだろうけど、私はそこまで甘え上手じゃない。そしてリョータも、どこか自分に自信を持ちきれない人だから。自信を持ってもバチは当たらないのに。 チラチラとぶつかる小指を感じながら一緒に買い物をして、ようやく私の部屋へと辿り着いた時だった。 さっきまであんなに初心な中学生男子のようだった彼は豹変したように目つきを変えて、玄関のドアを閉めた瞬間に私の肩にぐっと力を入れた。驚いている間に壁側へと追いやられて、急にゼロ距離になっていた。 私が感嘆詞を口にする前に塞ぎにかかったその唇に全て飲み込まれていく。 スーツケースから伸びている持ち手に上着を脱いで投げかけると、両手で彼に捕捉される。きっと私に何も言わせないつもりなのだろうとそう分かって、観念してその唇に飲まれながらぎこちなく応える。 近くにあるシューズボックスまでズルズルと引っ張られて、その上にひょいとかつぎあげられて流石に驚いた。 「ちょ、ちょっと…!」 「黙ってて。」 手を繋ぐことにも躊躇していた男は、しっかりアメリカナイズされて私の元へと帰ってきたのだ。半年前に見た時よりも随分と立派な筋肉をつけて、そして大きくなってだ。たまらない気持ちを抱えながら本能に従って、そして溺れていった。 「リョータ?」 「……いいから。」 とても強引で、そして男らしいたまに垣間見せるそんなギャップに私はなす術がない。背の低い私にとって、ちょうどいい高さに彼の顔があるというそんな状況。そんな状況に、逆に飲まれない人間なんているんだろうか……少なくとも、私には無理だ。 満たされているとは言っても半年会えていなかったその大きな感情を、私も彼に手を伸ばすことで満たしたのだから。 「ちゃん寝るの?」 「ん〜、寝かせて。」 「じゃあ俺何しとけばいい?」 「何もしなくていいよ。」 そういえば、そっかと声が聞こえて再び私の方へと腕が伸びてきた。初心なのかそうじゃないのか、本当によくわからない人だ。隙あらばと手元が膨らみに沿っている事に気がついていない訳じゃない。反応するだけの元気がないだけ。 「……次は怒るよ?」 「分かってるって。」 私にいくら体力がなくて、相手がプロのエヌビーエーの選手だとしてもこうまで違うものなのだろうか。何事もなかったようにケロッと元気な彼の姿には驚かされる。本当にお化けだし、どこを触ってもガチガチに鍛えられているのでそもそもの構造が違う。 「ちゃん。」 「寝かせて。」 「……。」 私のことをちゃん付けで呼ぶくせに、こうして不意をつくのはずるい。ただでさえ私のエイチピーはゼロどころかマイナスでしかないのに、また削ってくるのだから。 普段は私をちゃんと呼ぶのに、そういう時のリョータは私を呼び捨ててと呼ぶ。そんなの意識せざるを得ないと、分かっていてやっているんだろうか。だとしたらとんでもなくあざとい。どこぞの女優なんかよりもそれはよっぽどに。 「……それやめてよ。」 「なんでだよ。」 「ちょっと冷静でいられないから。」 そう言えば、結局またより近くにリョータの心音が聞こえて本当に悪循環だ。いつになったらこんな心臓に悪いことをやめられるんだろうか。少なくとも私の心臓には優しくないのをリョータは分かっているようで分かっていない。 「…あ、」 「なに?」 「ピンキーリングがない。」 「昨日つけてたやつ?」 「そう。」 仲のいい会社の先輩が誕生日にくれたピンキーリング。私が可愛いと言っていたのを覚えてくれていて、この間の誕生日にもらったものだ。ない体力を振り絞ってベッドの上を見てもそれはなくて、ベッドの溝を見てみるとキラリと光るものがあった。 「…これ?」 「たぶん!」 リョータの体越しに見ていたそれには中々手が届かなくて、リョータが体を起こしてベッドの溝へと手を伸ばす。簡単に拾い上げられたそれを、「ん」と渡される。けれど、それは私の知っているものとは少し形状が違っているような気がして。 「……違うんだけど。」 「うん、違うと思う。」 「じゃあなに?」 まるで働いていない脳みそをフル回転させてもまるで分からなくて、そして突然それは私の指へとはまってしまう。ピンキーリングを探していたのに、違う指に嵌って。 「違うに決まってる、俺が買ったやつだから。」 なにを言われているかわからなくて、へ?と首を傾げていれば私の薬指にはピッタリとサイズのあった輝かしいものが嵌っている。ほんとに、どういうこと? 「俺からの気持ち。」 思っても見ない形で、それも体が動かないこの状況で、会社を休んだ日に想定しないことが起こってしまった。やっぱり冷静になろうとしても正しい判断は下せなくて。 「夏から日本のチームに所属することになった。」 「……聞いてない。」 「言ってないし、言ったらこの反応見れないだろ?」 普段からリアクションの薄い私を知っている彼なりのイタズラなのだろうか。それにしてはタチが悪すぎて、そしてあまりにもそれは───。 「……今日会社休ませるのも全部俺のシナリオ。」 怠すぎるこの体が、どうしようもない多幸感に苛まれてどうにかなりそうだ。そんなの聞いていない!そう言いそうになって、それはあまりにも彼のシナリオ通りすぎるような気がして口を結んだ。 「私に幸せにされちゃうんだ、リョータ。」 「は?逆だし。」 ようやく慌てふためく本来のリョータが見れて、私は些か満足だ。泣きそうになるのを堪えながら、そしてもう一度馴染み深い彼の匂いを嗅ぎたくて懐に身を埋める。それは、自分の緩みすぎた表情を見られたくないからという意味もあるから。 「……どっちかだけじゃ駄目なことだもん。」 「うん。」 大きな胸板にしがみついて、どうしようもない幸せを噛み締め会社をサボった、金曜日のこと。あと二日ある私の休みは、かつてない有意義な時間になるに違いがない。 「……夏まで待てるかな。」 何年も待っていたその時間が、急に遠く長く永遠のように感じられた。
溝に落ちたリング |