。。
    。
 。

 元彼女との再会は唐突で、そして突然やってきた。
 青葉、その名は昔俺がよく呼んでいた名前だ。どの女と付き合っても長続きしない俺にとって珍しく長く続いた女だった。きっとテニス部のマネージャーをやっていたということも大きく関係しているのだろう。中高を跨いでの長期間の付き合いだった。
そいつは当時からは想像も出来ないような変貌振りで俺の前に現れた。どちらかというと守ってやりたくなるようなか弱そうな女で、控えめな女だった。意思の強い所だけが抜きん出てしまったような、そんな姿だ。高等部を卒業してから外部の大学を受験した青葉と会うのは本当に卒業式以来のことだ。あれからたった数ヶ月の間しか経っていないのに俺の知らない青葉の姿があった。黒いスポーティーな車体に真っ赤なシートを搭載した車で颯爽に登場した青葉はお決まりのようにサングラスを上にずらして 「久しぶり」 そう何事もなかったように笑った。そんな当時とは似ても似つかない姿が酷く印象に残った。
「どう、乗ってみる?」
「助手席に乗る趣味はねえな」
「自慢に付き合ってよ」
「暇な奴」
「実際暇だし、なんとでも」
 青葉はそう言うと 「お手をどうぞ」 ふざけた様に右手を差し出して跡部の手を取ろうとしたが、それに気を悪くした跡部はふんと一言呟くと早々と青葉の車に乗り込んだ。それを見た青葉はいかにも機嫌がよさそうに微笑むと運転席に向かって歩き出し、どすんと真っ赤なシートに乗り込むと豪快にエンジン音を鳴らして車を発進させた。
何だか変な気分だった。青葉がこんなにも積極的な人間だったとは知りもしなかったからだ。デートをするときだって全てを跡部まかせでただ楽しそうに笑っていた青葉の姿はもう見当たらない。左手を忙しそうに動かす青葉は暫くしてからようやく口を開いた。
「今日何も予定なかったの?」
「ああ」
「なんだ、景吾も案外暇人なんだ」
「お前とは違うがな。たまの休みを青葉に奪われただけだ」
「たまにはそういうのもいいでしょ」
「どうだろうな」
 こんな会話を青葉とする時が来ると一体どう想像出来ただろう。寧ろ会話の主導権を握っていたのはいつも跡部だった。そんな跡部の問いかけに青葉はさり気なく答えて微笑む、そんな普通の女だった青葉は今は驚くほどに攻撃的で想像できないものだ。
最近は急に夏の陽気になった。日が暮れ始めてきた外を覗き込むように見つめる跡部に気づいた青葉は窓を開けて外の空気を車内に充満させた。
 新しい風を取り入れるよう、昔の自分とは違うのだと示すよう。

「彼女、できた?」

 青葉はふいにそう尋ねると、しかし跡部の返答を聞く前にスピードを上げて車内を騒音で満たした。さりげなくかけていたラジオでさえ聞き取るのは困難な騒音に、跡部は開きかけた口を閉ざして再び黙り込んで窓から感じる臨場感のある風を感じていた。
 そこから暫くまた互いに黙り込み、過ぎていく景色を眺めるだけだった。青葉は運転に集中しているようでこちらを見ようともしない。運転しているのだから当然か。振り向かれたほうが問題だ。それにしても青葉の運転は驚くほど上手かった。高等部を卒業するまで免許など持っていなかったはずだ、つまりはここ最近取ったのだろう。その割りに青葉の運転には慣れと安定感があった。人間たった数ヶ月で何が変わるというのか、そう思っていた。しかしこの女は確かにたった数ヶ月で何かを変えてしまった。自分の知らない青葉の数ヶ月に思いをはせて見たけれど結局青葉の数ヶ月は想像すらつかなかった。何故急に車に興味のなさそうだった青葉が車を乗り回しているのかも、何故オートマではなくマニュアル車を選んだのかも、こうして突然現れたのかも、何も分からなかった。
 見慣れた景色も過ぎ去り、街の街頭も少なくなった頃青葉は突然思い出したように呟いた。

「海が、見たいの。付き合ってくれる?」

 思いつめたような青葉の表情に、跡部は茶化すことも出来ず一言 「ああ」 とだけ返事をした。


  。。
    。
 。


「ほんと久しぶりだな、海なんて」
 車内でサングラスを取っ払った青葉は冷静に言ってから急にはしゃぎ出したように海岸沿いに車を止めて駆け出した。まるで当時を髣髴させるような青葉の姿だった。砂浜に差し掛かると靴をも投げ出し、砂に足を取られながらも一直線に海を目指して走っていく青葉の姿を冷静に後ろから見ていた跡部はくすりと笑みを零した。そういえば以前海に連れてきてやった時も青葉はこうしてはしゃいでいたなと思い出したのだ。白いワンピースに白いミュールを履いた青葉は幼い少女のように浜辺で踊るようにして楽しそうに舞っていた、そんな時もあったなと。ジーパンとピンクのヒールと随分服装は変わってしまったけれど、確かにそこには以前と変わらぬ青葉の姿があった。
「景吾も早くおいでよ」
「青葉がはしゃぎ過ぎなんだろ。少しは歳を自覚したらどうだ」
「たまには若くなってもいいじゃん」
 さっきとは打って変わって無邪気に笑う青葉につい昔の感覚が襲い掛かった。呆れながらも笑ってしまうような、そんな微笑ましい関係。今はもうないはずのその感情が少し蘇ったように青葉が可愛らしく見えた。彼女だったあの頃よりも、ずっと、ずっと。
「ねえ景吾」
青葉は途端に我に返って昔によく呼んだ彼の名を口にする。
「景吾は覚えてないんだね」
 青葉が何のことを言っているのか、分からなかった。ただ青葉は何が何だか変わらず唖然とする自分を見るとしゅんと表情を落としたようにしながらも無理に笑みを繕って見せた。
「ここ、景吾と一緒に来たことあるんだよ」
 困ったように笑う青葉を見て、跡部は辺りを見渡した。そうだ。自分から何処に行きたいなどとは言わない青葉が唯一連れて行って欲しいと駄々を捏ねてデートをした場所、それがこの海だった。青葉が珍しくも自分から行きたいといった場所を忘れるなんてどうかしているのかもしれない。
それとも彼女は俺を試そうとしていたのか。
「あの時何て言ったか覚えてる?」
「・・・さあな」
「それさえ忘れちゃった?あの時ね、あたしが海に溶けてしまったらどうするって聞いたの」
「そういえばそんな事言ってたかもな」
「うん。そしたら景吾何て言ったと思う?」
 今思えば若かったのだと思う。本当は思い出していたけれど口にはしない、出来ない。
    俺がその海ごと包んでやる。
 そんな、若くて、恥ずかしい言葉、今になって口にすることなど出来るはずもない。自分にも若かったことがあったのだなと思った。何せその言葉を青葉に告げたのはもう5年ほど前の事だ。元から大人びた人間ではあったけれど5年も経てば人間大人になっていく。今の俺には口にすることの出来ない言葉だ。
 だから黙っていた。きっと目は泳いでいたと思う。すると青葉は悟ったように悲しい笑顔を浮かべて 「そう、忘れたよね。そんな大昔のこと」 言って俯いた。
「あたしが海に溶けてしまったらどうするって今聞いたら景吾は何て答える?」
「どうだろうな」
「ノーコメントってこと?」
「そういうことだ」
「ケチ」
「当然だろうが」
 夏陽気の天気でも日が暮れた海は肌寒かった。遠目で打ち上げられたクラゲを見つけると、青葉は靴を履いて 「帰ろう」 そう言って車のキーのボタンを押した。海岸沿いに止めてあった黒い車は遠くでカシャンと音を立て、それが合図だったように二人は同じ歩幅で浜辺を歩いていった。


  。。
    。
 。


「ねえ景吾。今度は景吾が運転してよ」
「なんだよ急に」
「いいじゃない。助手席は趣味じゃないんでしょ?」
「しょうがねえな」
 車のキーを跡部に手渡す青葉はまだ何か望みを持ったような、そんな表情を浮かべて笑った。不思議に思ったけれど助手席よりは運転席の方がしっくりくる。そんな安易な考えから、跡部はキーを受け取ると早々と運転席に乗り込んでエンジンをかけた。
「景吾もマニュアル乗れるでしょ」
「当然だ。なめてんのか」
「ううん、そんなの知ってるよ」
 順調に走り出した車内で青葉の視線を感じ、とてもくすぐったく感じた。手元を見られているような気がした。それでも構わず左手を動かし、スピードを上げていく跡部に青葉はようやく口を開いた。
「あたしがマニュアルなんて意外だった?」
「意外以外の何物でもねえよ」
「悔しいけどやっぱり景吾のほうが運転上手いね。あたしも随分上達したんだけど」
「青葉が俺に追いつくことは一生ねえよ」
「腹立つけど何か事実のような気がする」
「変えようのない事実だな」
 やはり人間腹が立つと言われ様が褒められると嬉しいものだ。どんどんとスピードを上げていく。再び先ほどのように車内が騒音に包まれる。会話もままならないスピードにまで達したとき、急に青葉の声が騒音の中響き渡った。 「止めて」 叫ぶようにして言う青葉にちらりと振り向くと彼女は跡部の左手を両手で握り締めてその動きを制御した。それは本当に突然の出来事だった。急停止した車内は一瞬しーんと静まり返り、その沈黙の少し後に青葉が思いつめたような顔を上げてゆっくりと口を開いた。
「景吾、抱きしめて」
 呆気に取られた。こいつは今更何を言っているのだろうかと。別に付き合っている訳でもなければ今日再会してばかりの女をどうして抱きしめなければいけない。それに第一、こいつはこんなの事を唐突に言うほど強引で積極的な人間ではなかったはずだ。驚きに何も出来ない跡部に青葉はゆっくりと近づき、自らその腕を絡めた。
「彼女いるなんて言わないで」
「・・・何でだ」
「好き、だから」
 高校三年も半ばに差し掛かった頃、俺は青葉を振った。きっと関係はマンネリ化していたのだろう。喧嘩が絶えなくなった。そして起きてしまった大きな衝突に別れを切り出したのは跡部の方だ。そして青葉は内部進学の予定を取り消して外部の大学を受験した。もしそれが俺の気を引く為だったのなら。以前免許を取った時、助手席に乗せてやったマニュアル車に自らが乗ることで俺の気を引こうとしていたのなら。別れてから例えば俺のことを忘れずに好きでいてくれたのなら。考えると急に昔の感覚が先ほどよりも色濃く襲ってきて、気づいた時には青葉の腰に腕を回していた。
「どうしても、好き、なの」
 声を振り絞るように言った青葉には昔の彼女の姿しか見つけられなかった。ハザードランプを押す手とほぼ同時に二人は昔のように、昔以上に甘く濃厚なキスに溺れていった。


  。。
    。
 。

20090514