ラブホテルの大きなバスタブに浮かんだアヒルを突っついて、エージはとても機嫌が良さそうだ。時折思い出したように私の躰に手を伸ばして、へへへ〜とダラっとした笑みを浮かべて私を後ろから抱きしめる。その様は、まるで飼い主に懐いている大型犬そのものだ。 「どう、いい匂いでしょ〜。」 「いい匂いだねえ。アメリカって感じだわ。」 「アメリカの匂いってなにそれ。」 「わかんない。行ったことないもん。」 エージと会うのは半年ぶりだ。一年に二度、エージはオフシーズンに合わせて日本に帰国する。そのほとんどを秋田で過ごしながら、東京にいる私とほんのわずか数日ばかりの時を共に過ごす。成田空港でキャリーバックをガラガラ引きながら、随分とアメリカナイズな方法で大袈裟に私の元へと駆けてきて、そしてこれでもかとハグをする。帰国するエージを一番最初に出迎えるのも、最早半年に一度のルーティンになっている。 まるで恋人同士の、感動的な再会のように思えるけれどそれは違う。私たちは付き合っている訳でもないし、エージは私の彼氏じゃない。 ならば、一体なんなのか。恋人ではない事は間違いないけれど、私たちのこの関係性にしっくりくる呼び名を私は知らない。綺麗な形をした関係性を言葉で表そうと考えてみても、結局蓋を開けばやっているのはセックスなのだから、やっぱりただのセフレなのかもしれない。 「沢山買ってきたね、入浴剤。」 「これなら一緒に入ってくれるかな〜と思って。」 「言い方可愛いだけで下心しかないじゃん。」 「少しでも一緒にいたい俺可愛いでしょ?」 空港からほど近いホテルに入ってキャリーバッグを収納すると、“待て”から解放された犬のように私の元へとやってきて、ぎゅうぎゅうと締め付けるように抱きしめてくれる。体格に恵まれたエージにすっぽり埋まってしまう私は、抱きしめられているというより羽交い締めにされているような気がする。 苦しいからギブ!そう言うと、とびきりの笑顔でにこにこしたエージが楽しむように小さく音を鳴らして啄んでくる。これもアメリカナイズされたものなのだろうか。あとはとても簡単で、身を委ねてベッドへと沈んでいくだけだ。 「いつも風呂一緒に入ってくんないでしょ?」 「私シャワー派だから。」 「だから入浴剤いっぱい買ってきたんじゃん。」 泡立つタイプのものから、白濁色がベースとなった少し肌が隠れそうなミルキーでカラフルな入浴剤は日本のそれよりも随分と香りが強くて、なんだかクラクラする。一緒に風呂に入る為にわざわざアメリカで入浴剤を選ぶエージが可愛く思えて、しかしながら下心しかないなと笑えてしまう。 アメニティからヘアクリップだけを取り出して髪を纏めてバスタブに浸かる。そんな私の頸を眺める位置で、エージは楽しげに鼻歌を歌いながら波間に揺れるアヒルを無邪気に追いかけている。 「ねえ、さんってさ。」 「ん〜?」 「なんで彼氏作んないの?」 「なんでなんだろうね?」 「も〜、完全にはぐらかされた。」 今更なにを聞いてくるかと聞き耳を立てていれば、ものすごく初歩的な質問がするりと通り抜けていく。私に彼氏がいるかどうかの確認じゃなくて、なぜ彼氏を作らないのかを確認するのか。毎回こうして成田空港からホテルに直行しているのだから、阿婆擦れでもない限りは彼氏がいないという前提は正しい。 「たぶん、いらないんじゃないかな?」 「いつも全然チャンスくれないじゃん。」 「え、そう?そんな鉄壁のディフェンスしてる?」 「自覚ないの?超してるけど。」 「まじか〜無自覚だった。」 彼氏がいなかった訳じゃない。エージが海外にいる間に彼氏ができた事もあったけれど、結局そう長くは続かない。エージとはこのペースでずっと会っているので、必然的に最長でも半年も持たないという事だ。夢中になれる程に好きになれる男はいなかった。 「そんなに深津さんが特別?」 随分と久しぶりにその名を聞いた気がする。それは私が高校時代に付き合っていた元恋人だった男の名前で、エージにとっては青春を共に過ごした一つ年上の仲間だ。 「深津が?」 「忘れられないって事でしょ。」 私と深津は高校二年生の頃に付き合って、深津にとって最後の夏となるインターハイ直前に別れている。エージはこの事を知らない。多分、私が深津に振られる形で終わった事も知らないだろうと思う。 深津と付き合うまで、正直バスケに関する知識や興味はほとんどなかった。バスケの名門と全国からも注目される山王工業にいながら?と今になって思うと逆に不思議なくらいだ。 ややこしい事はインターハイが終わってからではなく、しっかりとインターハイに集中すべく深津はしっかりと私をそのタイミングで振った。仲が悪かった訳じゃないし、喧嘩をした訳でもなかった。ただ、深津は私の本質的なところを見抜いていたんだと思う。だから、振られた。 「忘れられないくらい個性的ではあったよね。」 「やっぱりまだ忘れてないんじゃん……」 「ないない。もう随分経ってるしね?」 深津と付き合ってばかりの頃、興味本位で部活を見に行ったことがあった。完全に浮ついた気持ちから発せられた行動なので、私も昔はミーハーだったのかもしれない。そこにあったのはキラキラした世界なんかじゃなくて、見ているこちらが吐き気を催すくらいの激しい運動量でとても歓声を送るような光景ではなかった。 まだ入りたての新入部員だったエージは、バスケットセンスは抜群ながらも鬼のような運動量とフットワークが必要とされる練習に度々根を上げて泣いていた。具合が悪いと体育館の縁で体力の回復を待ちながら吐きそうなエージと、気づいた時にはよく話す関係になっていた。 「エージは彼女欲しいんだ?」 「う〜ん、欲しいけど欲しくないっていうか……」 「めちゃくちゃ優柔不断だね。」 「欲しいけど誰でもいいって訳じゃないしさ。」 「あ〜、それはそっか。」 深津と別れるつもりなんて、微塵にもなかった。不思議な人ではあったけれど、深津はとても誠実で、彼なりに私のことを大事にしてくれていた。そんな関係に私は満たされていたし、不満に思う事だって特別なかった。 しとしとと体育館の縁で泣くエージが、どんどんと強く逞しくなっていくその様を見て、私は体育館に行くのをやめた。理由はよく分からないけど、私は深津の彼女であって、深津だけいればそれでいいと思ったのかもしれない。本能的に、それ以外の情報をシャットアウトしたかったんだろう。 「でもエッチもするしお風呂も入るし彼女としそうな事は全部してるじゃん。付き合ってなくても同じじゃない?」 「はあ〜?満たされ方が全然違うじゃん!」 「え〜、こんなに引っ付いてるのに?」 「いや……うん、満たされてない訳じゃないけど。」 「じゃあいいじゃん。」 「もっと満たされるような気もすんだよな〜。」 そう言って、エージは再び私を後ろからすっぽりと覆い隠すように長い腕で私を巻き取っていく。ざぶん、ざぶんと波を作るように縦に揺れながら。ゆらゆらと気持ちよさそうに浮かんでいたアヒルは、横転して裏返しになっている。 「それは独占欲って言ってね?」 「そうそれ、独占欲。」 「手に入らないから欲しいだけなんだよ。」 「え〜?なにそれ。」 「だからエージも、そんなの捨てちゃえ。」 そうだ、きっと私も。エージが絶対に手の届かない存在だと分かっているから、欲しくなる。だからこれはない物ねだりであって、恋じゃない。ちょっと泣き虫の可愛い大型犬のような後輩でしかない筈だ。エージも、私に懐いているというそれだけの事。 「深津、元気かな?エージ最近会った?」 「ほら!やっぱ忘れてね〜じゃんか!」 「だってもう随分会ってないから気にはなるよ。」 「会わなくていいよ…その分俺が会っとくんで。」 最後の年の夏、私が深津に振られた夏。エージが渡米することが決まっていた夏。私は深津との関係を無条件で解消するのを条件に、たった一つだけ彼に嘘を付かせた。私と別れたことは高校を卒業するまで、誰にも言わないで欲しいと。 今になって考えてみると、酷い女だとあまりに酷すぎて笑えてしまう。付き合っている彼女が、自分が最も可愛がっている後輩の方に向いているのを気づいて別れを切り出しているのに。切り出させてしまったのに。別れてもなお深津の事を縛りつけたも同然だ。一生償うべき、私の罪で、深津への借りだ。 「会いたいんですか?深津さんに。」 「ん〜、会いたいっていうか借りがあるんだよ。」 自分の気持ちに気づくのも、向き合うのも怖かった。だから、深津との関係を表面上続けていくことで、それに蓋をした。 こうしてエージが私に固執して、そして彼女にしてくれるような発言を匂わすのは、きっと私を好きだからという本質的なものじゃない。深津が私のそれを分かったように、私にはエージのそれが分かるのかもしれない。もしそうじゃなかったとしても、臆病な私はそれを確認するメンタルを持ち合わせていない。 “深津の彼女”という肩書きを持っていた私が、少し羨ましく見えただけだ。隣の芝生は青いように、現物以上に良く見えるものなのだ。遊び飽きた玩具を忘れたように放置していても、別の誰かがそれで遊び始めたら急にそれを手に入れたくなるようなあの感じにきっと近い。 「俺明後日には秋田帰るんですよ?」 「うん、そうだね。」 「もっと寂しがってくれてもいいじゃん。」 「だから今いっぱい一緒にいようよ。」 きっと、これくらいの関係性じゃないと壊れてしまう。なにが真実なのかは私にも誰にも分からない。本当にエージは私の事を好きでいてくれているのかもしれないし、やっぱりそれは固執や執着から成り立っているものなのかもしれない。でも、そのいずれであっても私にはこの距離感以上に縮めることはできない。 寧ろ、どう足掻いても物理的に手の届かない遠い異国の地にいるからこそ、こうして自制心が働いてくれている。だから、これくらいの距離感できっと正解なんだろうと、そう思う。 「はあ〜、さんずりい……」 「スリルあっていいでしょ?」 転覆していたアヒルを指で摘んで、元に戻してやる。沈まぬよう、まっすぐ前に進めるよう、私のようにならないよう。ふぅっと誕生日ケーキの蝋燭を吹き消すようにエージの方へと泳いでいくアヒルが、こつんとバスタブの縁に躓いた。 「全然伝わってね〜。」 戯れ付く様に私の頸にかぷっと齧り付いたエージに、私も同じ言葉を心の中で反復して、もう一度体をバスタブの底へと沈めた。
もぎたての欲望 / 2023’03’08 |