一見能天気で、それでありながら悪役のような彼は、本当のところ誰よりも優しく、そして正義感の強い男だ。その事実を知る者は、案外少ない。でも私は、それでいいのだと思っている。リーダー格の彼にとっての仕事とは、常にオーバーワークであり、そしてまた、本人ですらそれに気づいていない。良い意味で、彼は鈍感な面を持ちあわす。
「どうしてイギリスの淹れる紅茶はこうも美味しいのかな。料理を作らせたら、ある意味右に出る者はいないのに…紅茶だけは本当に、美味しい。」
 ふと、私は本音を漏らす。事務作業に追われるイギリスの机の片隅には、いつだって紅茶が並ぶ。仕事に熱中していたのか、イギリス自身で入れたその紅茶は、彼の喉を通ることなく、時折彼の筆圧で波を作って揺れるだけだった。冷え切ったその紅茶に私が手を伸ばすと、ようやく、彼がこちらへと視線を寄越した。構う事無く、ごくりと舌で味わいながらその紅茶を喉に通す。冷え切っていながらも、どこか、上品に香るアールグレイが、心地よく喉を通り過ぎて行った。そこはやはりイギリスの淹れた紅茶、という表現が正しいのだろう。
「おい。それ、褒めてるというよりは、どちらかというと貶してないか?」
「すみません、つい。嘘がつけない性分ですので。」
「おまえ、それ最早、ワザとだろ!言いたい事があるなら、はっきり言えよ馬鹿。」
 アメリカがイギリスから独立し、一つの国になったのがつい先日の事。当たり前のように、ここにあった、三人での会話はもう見受けられない。イタリアの料理がまずいのだと罵るポジションのアメリカは、長年育ったこの場所を離れた。
 何がアメリカを独立へと駆り立てたのかは、私には分からなかった。私には、独立なんて得たいの知れないものよりも、今までのように変わらず共に在れる日々のほうが、天秤にかけられない程に、大切だった。あれほど当たり前にあった日常に、それは穴が空いてしまったように、この空間を虚無感で苛める。日常の片隅にも、彼の姿はなかった。
「…何を仰いますか。私の育ての親でもある貴方に、文句などある筈がないでしょう?」
「お前を育てた覚えなんて毛頭ねえよ。お前が、勝手に住みついていたんだろ。まあ、追い出しもしなかったがな。」
 彼の、棘のある言葉の一つ一つが、今になってとても愛おしく感じられる。彼の言葉は、一見冷たくあしらっているように見えて、実はどうしようもなく不器用な優しさが隠されているのだ。それは、例外なく、今も尚。ストレートに優しさを出せないのもご愛敬、それが尚、彼への愛おしさを加速させるのだろう。
「わたし、イギリスの淹れた暖かいアールグレイが飲みたい。」
「自分で淹れろ。俺は忙しいんだ。」
「滅多に我がままを言わない私のお願いくらい、聞いて下さいな。」
「……滅多に我がままを言わないとはよく言ったもんだな、お前。」
 ほとほと呆れながらも、彼は、一度体をバウンドさせてから、黒革のリクライニングチェアーから立ちあがる。少し先にあるキッチンへと向かう彼の背に、私も後をつけるように、追いかけた。
「そう言いながらも、私の為に淹れて下さるなんて、やっぱりイギリスはお優しいのですね。」
「青葉の口からこうも人を褒める言葉が出るとは、一体何事だってんだよ。」
「何を今更。私は、ありのままを述べたに過ぎない。」
「……今、俺の肌一面には、鳥肌が踊ってるぜ。何の嫌がらせの類だ。」
 着々と、アールグレイが仕上がってゆく。翡翠色をした、眩いほどのカップを二つ取りだし、丁寧にアールグレイが注がれていく。何も言わずとも、片方のカップには角砂糖が二つ、ぽん、ぽん、と落とされた。最初は、アールグレイに砂糖など、邪道だと私を叱った彼も、今となっては、何を言う事もなくなっていた。
「おい。これ飲んだら、仕事の邪魔すんなよな。」
 彼が、私の望んだ通りのものを指しだしてくる。今まで、あまりまじまじと見た事もなかった彼の指には、いくつものささくれが目立っている。
「ささくれ、出来てますよ。ささくれが出来るのって、親不孝してるって事なんですって。」
「なんの迷信だ。くだらねえ。」
 吐き捨てるようにそう言った彼は、いつまで経ってもカップを受け取らない私に痺れを切らせたのか、乱暴にテーブルに置き捨てる。
「…ていうか、あれだ。お前が毎日毎日俺に紅茶を淹れさせるからだろ。」
「それは言いがかりというものです。紅茶を淹れるだけでは、そんなささくれは出来ませんよ。…貴方は少し、頑張りすぎなのです。国として、貴方は優しすぎる。オーバーワークって言葉、知っていますか?今の貴方の為にあるような、そんな言葉です。」
 そっと、イギリスのささくれ立った手を取り、指を絡ませた。さすれば、彼は恥ずかしそうに私から目を背けたけれど、薙ぎ払う事はしない。それが彼の優しさで、その優しさこそが彼であり、また、彼を苦しめる根源なのである。それに、彼は気づいていない。優しいだけでなく、彼は、どうしようもない鈍感を患っているのだ。
「…ささくれは親不孝者だからだったんじゃねえのかよ。」
 優しくて、鈍感で、そして不器用で、全てにおいて効率がいいとはお世辞にも言えない彼だからこそ、私の心は、こんなにもざわめき立つのだろう。彼のささくれは、今後増える一方なのではないだろうかと、そう思えて仕方がなかった。




 きっと、最後になるであろう、アールグレイを飲みほした私は、しばし黙ってイギリスを見ていた。そんな私に気づいたのか、それとも仕事にひと段落つけたのか、彼がようやく私の方へと視線を向けた。やはり仕事に集中していたのだろうか、彼のアールグレイは先ほどと同じように、冷たく弧を描いていた。
「…行っちまうんだな、お前も。」
 嗚呼、やはり。鈍感な彼でさえ、今の私の行動は手に取るように読めたという事なのだろう。動揺の類はなるべく出さず、いつものように接していたのが、アメリカが独立して間もない今だからこそ、逆に不自然に彼の目に映ったのだろう。
「ええ。貴方が、引きとめて下さらないので。」
「俺がお前を引きとめる理由が、一体どこにあるんだよ。」
「…貴方ならそう仰ると、そう、思っておりました。」
 私は、彼の口から出る事のない、その言葉をずっと待っていた。アメリカが独立して数日が経った今尚、こうして彼の隣にいる時点で答えは出ていたのに。彼は、鈍感にも度が過ぎているものがある。
 けれど、それは今回ばかりは違うのだと、私は知っていた。それは彼が鈍感だからという結末ではなく、彼の優しさの方が幾分か勝っているのだろう。自分の事よりも先に、他人を無意識に優先してしまう彼だからこその、結論に違いないのである。
「イギリスの一言があれば、私は国を捨てる覚悟など、とうに持ち合わせていたのに。」 「兄妹が引き裂かれていい事など、きっとなにもないだろう。兄妹とは、そういうもんだ。」
「…何処までお人よしなのかな、イギリスは。」
 兄妹が離れ離れになってはいけないのであれば、ある意味で私とイギリスも、それと同様ではないか。そう、紡ぎだしそうになる唇を、何度も、何度も、堅く噛みしめた。言えば、彼を苦しめるだけになると、分かってしまうから。この時ばかりは、イギリスの性格を熟知している自分が途方もなく、悔しい。言ったところで、彼の答えはNO。所詮、頑固な彼の答えをYESに変える事は出来ない。
「俺が青葉を必要としている以上に、あいつにはお前が必要って事だ。時期に分かるさ。」
 兄が、アメリカが、独立などしなければ、私のこの終着点の知れぬ淡い恋心も、はっきりと決別に至る事はなかっただろうに。実の兄でありながらも、今は彼が酷く憎らしい。
「別に敵対国になろうって訳じゃねえんだ。また、いつでも会えるだろうが。」
 うっすらと涙の浮かんできた私を見た彼は、慌てたように、優しげな言葉を選びながら私に与えた。その優しさこそが、今は残酷だというのも知らずに。彼も、自分の事を第一に考えてくれる人であれば、よかったのに。彼は、確かに私を必要としてくれた。大した進展もなければ、表面上は何も分からない互いの感情には違いなかったけれど、それでも、うっすらと私達の想いはきっと同じだった。嘘をつくのが下手な彼の態度は、見ているこちらが恥ずかしくなって、思わず笑ってしまうようなものだったから。それは、兄というよりは、果てしなく、憧れの異性に近い。
「イギリスのささくれが増えないか、心配です。」
「そんな下らない事を泣きながら心配するなよ、馬鹿。」
「私なしで、ちゃんと生きていけますか?」
「馬鹿野郎。俺を、誰だと思ってやがる。」
 見え透いた強がりに、胸が熱くなった。イギリスの淹れたアールグレイに、ついに零れた私の涙が、音を立てた。我慢しか知らない男が、ようやく本能のままに、私を欲し、抱きしめてくれた。幼いころの抱擁の記憶とは重なりあわない、それは、大人の男と女がするものであった。
「その心配性、次会う時までに治しておけ。」

物語は終わってしまった
( 2011’07’28 )