彼女は、実に、五年ぶりにこのイタリアの地に降り立った。
 いい思い出が多くある分辛い思い出も同じだけあるこの地に、彼女は本当に久しぶりに訪れていた。空港で飛行機を降りてからバスに乗って数時間、青葉の視界に少し前に日常としていた風景が広がった。
 聳え立つ趣味の悪い城を見て、彼女は少し前にあった日常を思い出していた。自分は、人殺しをしていたのだという当然決まり切った過去の事実を噛みしめる。ヴァリアーを脱退してから五年、それは青葉がヒットマンを辞めてから経過した年数と同じだった。


 都市街へと歩く事数十分、彼女は花を買いに花屋の門をくぐっていた。数年前、彼女が馴染みにしていた花屋だった。当時の店の主はもうそこには居なかったけれどそれでも何も変わらない店の佇まいに青葉は少しだけ気を許したように、まだあらかた覚えている、久しぶりに使うイタリア語を口にする。
「薔薇を下さい。黒い、薔薇が欲しいのですが。」
 暫く使っていなかったイタリア語を辿りながら青葉は告げる。しかし当然、ただの花屋に不気味な黒い薔薇など置いている筈もなく、主人は不思議そうな顔をしながら店には置いていないとだけ告げた。
 すると彼女は案外すんなりと「分かりました。」とそう言って馴染みのその店を出てしまった。


   ざく、ざく、ざく
 彼女は薄暗い場所を歩いていた。きっと昨日割と長い時間雨が降ったのだろうと思わせる水たまりと所々湿ってぬかるむ土を踏みしめながら。ただただ目的の場所へと足を進ませていく。
 青葉は懐かしい人名を見つけるとそこにしゃがみ込み、自らの幻術の能力で作りだした黒い薔薇をそっとその上へと置いて立ちあがった。
 不気味な程に静かなその場所に、しとしとと雨が降り始めていた。
 しかし彼女は予め持っていた傘をさす事もせず、ひたすら雨に濡れていた。まるで何かを思い出す様に、そして愛おしむように、天から注ぐ大地の恵みに体を浸していた。
 彼女は何かを待っているようだった。十分が経っても、三十分が経っても、一時間が経っても、青葉は一向にその場を離れるどころか微動だにする気配がない。彼女はずっと、待っていた。その時を。
   きた。
 ようやく彼女が言葉を発した時、その場に彼女の姿はなく、蠢くような煙が立ちあがっていた。






「……青葉、かあ?」
 青葉は懐かしい声に目を開く。彼女は思い描いた通りの展開に身をおいていた。見慣れた景色と人が彼女を見ている。青葉は、十年前の自分の家にいた。弟のツナがいて、優しい母がいる、我が家に。
「なんだあ?今の爆発でちょっと老けたんじゃねえかあ?」
 彼女は今にも泣きそうになる眼を一度擦ってから、何ともなかったように「何いってるの?頭だけじゃなくて目まで悪くなったの?」言って笑って見せた。
 嗚呼、やはり思った通りだ。彼女は心の中でだけそう呟きを入れる。彼女は十年前の世界にやってきていた。
「うおおおい!口の悪さも上々ってかあ?」
「もう煩いな。耳、潰れるって。」
 そう言えば十年前のスクアーロが立場をなくしたように一度黙り込んだ。酷く幸せな夢のようなこの過去の現実を、青葉は知っていた。確実に十年前にそこに在った現実だった。
 あの長くて艶やかな彼の髪も、アイラブユーを囁くには煩すぎるその声も、確かにスクアーロのものだったから。あ、でも少し髪は短いかもしれない。彼女はそんな些細な違いに、小さく笑みを漏らした。
「何が可笑しいんだあ?頭可笑しくなったのはてめえの方なんじゃねえか?」
 スクアーロは本当に不思議そうに、でも少し心配げに青葉を見やるとちょこちょこと家中を走り回るまだ幼き頃の姿のランボを摘まみあげて、罵声を浴びせていた。
「てめえ!一体こいつに何しやがったんだ?余計可愛げのねえ女になっちまったじゃねえか。」
「ランボさん知らないよ。」
 器用にスクアーロから逃げ惑うランボの姿も、何もかも、全てが実際に青葉が十年前に見たものだった。彼女はこの展開を知っていたかのように、落ちついてスクアーロの隣に腰かけた。
 時は今から丁度十年前、青葉はリング戦を終え、同僚であるスクアーロを連れて自宅へと来ていた。イタリアへと帰国する、少しの時間だけだからと説得して彼を家に招いたのを、彼女は今も尚鮮明に覚えていた。
「ねえスクアーロ。」
「ああ?何だ?」
「ちょっと聞いてもいいかな。少し、真面目な話。」
 そう言えば彼は一度場の雰囲気に沿わない青葉の表情を見て、「ああ」と了承した。どうして突然ここで真面目な話が出てくるのかと、そんな理由を聞く事もなくただ一言返事を返した。
 彼は見かけによらずに聞きわけのいい男だと青葉は言う。
 まるで空気を読むという事に関して無縁そうに見えて彼はいつだって読めない筈の空気を読んでくれる男だったと。聞いて欲しくない事には沈黙を与えてくれ、そして欲した言葉を与えてくれる、そんな男だった。そんな彼だからこそ、青葉は決心を下したのだ。例えそれが十年前の自分よりも幼い彼であったとしても。
「スクアーロはこれからどうするつもり?」
 リング戦を終えてひと段落したにしても、きっと彼には酷く唐突で曖昧な質問だったに違いない。しかし彼は戸惑う素振りも見せることなく、強い眼差しのままに言ってのける。
「どうするもこうするもねえだろうが。俺は俺の信じた道を貫くだけだ。」
 やっぱり。青葉は予想していた彼の言葉に一度言葉を失った。やはり彼がヒットマンであるのは、今も昔も変わらない意志なのだと。まさに生まれながらのヒットマンのような彼に、彼女は無謀な事を考えていたのだ。ヒットマンを、辞める気はないか、と。
 しかし青葉はそれを言葉にすることはしなかった。その言葉を紡ぎそうになる唇を何度も噛みしめ、飲み込んだ。
 自らの私利私欲に満ちた願い一つの為に、不用意に未来を変えてはいけないと、なんとか思いとどまった。そして、例えそれを助言したとて彼は間違いなく撥ね退けるだろうと青葉は知っていたからなのかもしれない。
「……信じた道は、本当にヒットマンにあるのかな。」
「どういうこった。」
「言葉のままだよ。私達はこのまま進んで行っていいのかって。」
 明らかに彼に理解される事のないこの言葉に、やはり彼は青葉の思った通りの言葉を口にした。ある意味で彼らしいと、昔の事ながら安心させられる程に、違う事のない彼のただ一つの揺らがざる決意を。
「愚問だ。…俺にはこれしかねえからなあ。」
 彼は幼いころからヒットマンになる為に育ってきたような男だった。青葉がスクアーロとイタリアの学校で出会った頃には、彼は既にこの言葉を口にしていた。自分にはこれしかない。他には何もない、とも。
「そういうお前はどうするつもりだあ?」
 思ってもみなかったスクアーロの質問返しに青葉は面食らったように固まった。
 まるっきり予定外の事に思考が働かなかったのか、はたまた最早ヒットマンを辞めてしまった自分に対する負の感情に何かを感じ取ったのか、そのどちらとも取れる状況に、言葉が上手く出てこない。
「人様に聞いておいて自分はだんまりかあ?」
   私はね。青葉が自分が未来からやってきたと告げようとした時、スクアーロがその言葉を遮るようにしてあの懐かしい程に響き渡る大きな声で、彼女の名を呼んだ。
「青葉。」
 突然の事に青葉はふいに背筋を伸ばして「はい。」と返事をして、背の高い彼を見上げた。
「お前が何を考えてんのかは知らねえ。だが未来に怯えてちゃ何も出来ないだろうが。怯えるなとは言わないが前を向く事を止めようとすんな。」
 青葉は再び言葉を失った。やはり彼は欲しい時に欲しい言葉を、必要な言葉を的確に与えてくれる。例え、十年という年月が遡っていても、立派に彼は青葉を支えるだけの言葉を持ち、そして知っていた。
「逃げる場所を間違えるな。」
 やはり自分の言葉など届かない。彼に助言などしようとした事がそもそもの間違いだったのだと彼女は思った。何の言葉を持ってしても、彼の道を遮る事など出来なかったのだ。そして自分もそんな彼を望んでいたのだと青葉は十年経ってようやく気付いたのだった。今も、昔も、そしてきっと未来も、ブレることのない、強い彼を求めていた。
 ひょっこりと姿を現したリボーンに、青葉は覚悟を決めたように頷いた。
「それは十年バズーカ。そこに居るのは十年後の青葉だ。もう時間はねえぞ。」
 徐々に薄らとしていく自分の体を見ながら青葉は心の底から、とても穏やかにほほ笑んだ。ようやく理解の追いついたスクアーロが青葉の体を手繰り寄せるように手を引いた。触れた先から、彼女の体は風化していくように淡く色を残していく。
「青葉!」
   ありがとう。




 青葉は再びあの薄暗い、足のぬかるむ様な酷い雨の中にいた。
 先ほどの出来ごとがまるで夢であったかのようにふわふわとした心地で、しかしまた確かに触れたスクアーロの温もりにそれが現実であったのだと悟った。
 彼女は墓地にいた。五年前に青葉を庇って死んだ、スクアーロの墓の前に、彼女はいた。
「やっぱり馬鹿。スクアーロは大馬鹿者だ。」
 こうなる運命を知っていながら、彼は青葉を庇い、そして死んでいった。それがまるで自らに課された使命と言わんばかりに、その死に顔が酷く誇らしげだったのを彼女は片時も忘れる事が出来ない。もっとやらなくてはいけない事、あった筈なのに。その道を遮ってしまったのは他でもない自分であると、この五年間自分を責め続けてきた。
 十年前のこの日、青葉はランボが誤爆させた十年バズーカに打たれ、この場所に来ていた。
 薄気味悪い墓地に降り注ぐ雨が、何か不吉なものを感じさせた。理解の出来ない状況に青葉は目を背け、その場にたたずんだ。その場に刻まれた名を、見ようとはしなかった。ただそこに黒い、不吉な薔薇が置かれていたのを目にしただけで。
 今とは違って気が遠くなる十分がただ早く過ぎ去ってくれと只管に願った。冷たく降りしきる雨が、未だ嘗てない程に恐ろしく、そして不気味に感じられた。
 そして十分が経った時、青葉はスクアーロの元に戻った。
 恐怖に怯えてスクアーロの胸元に飛び込んだ青葉を、彼も何も問う事無く抱きとめた。そして先ほど青葉が聞いた言葉を彼は言った。ようやく、現実と過去が、繋がったような気がしていた。
「未来を恐れるんじゃねえ。」
 きっと十年前、バズーカで入れ替わった時の十年後の自分は彼に死んでほしくないと懇願する言葉を言ったのだろうと青葉はこの時ようやく理解した。だからこその、彼のこの言葉だったんじゃないかって。
 未来が分かっていてもスクアーロは逃げなかった。逃げては、くれなかった。
 しかしそれこそが青葉の知っているスクアーロであり、彼女の愛した男の形骸だった。馬鹿なスクアーロにはこの未来しか待ち受けていなかったのかと、青葉は苦笑を洩らした。抜け殻になった、彼の見えない体を瞼の裏に映し出して。


 
   ざく、ざく、ざく
 青葉はぬかるむ地面に足を取られながらも、スクアーロの墓を背にして進んでいく。もう決して振り向く事はせず、彼が言う未来を恐れないようにただ真っ直ぐにその視線を前へと見据えて。
 不可解な夢は、十年という長い年月をかけてようやく完結した。もうそこに主役の一人は居なかったけれど、暖かな夢の結末を喜んでいるかのように降りしきる雨に、青葉は立ち止まった。しかし振り向きそうになる自分の体に鞭を打つように、再び歩みを進めた。

 そこには夢の完結に相応しき、黒い薔薇が供えられていた。
 花言葉の、『死ぬまで恨みます』『化けて出ます』そして言葉の裏に隠されている『決して滅びることのない愛』という本当の言葉の両方を、当てつけるようにして。

 青葉がその場から完全に姿を消すと、幻術の解けた黒い薔薇は無に帰していた。

20110317
長いゆめの続き