Case8.
ロマンスはこれから


 終電のなくなった成田は想像以上に静かだ。
 私たちは狭いシングルベッドの端と端に転がりながら話をする。高校一年生の時にクラスメイトになってからもう随分と経つのに、お互い知らないことがまだまだあるんだなとそう思う。今まで知らなかった新しい一面を知る度に好きが加速して、恐らく生きてきた中で一番時間の流れが早かった。
「眠くねえの?」
「うん、今のところは。宮城こそ飛行機で寝た?」
「もちろんばっちり起きてた。」
「ふふ、だよね。」
 午前二時を回って時計はレの字になっている。
 普段であればぐっすり眠っている時間だ。多分私だけじゃなく彼もそうなのだろうけど。ごろりと彼の方へと転がってよく見てみると目の下にうっすらと色がついていて思わず笑いそうになる。
 笑うことでも何でもないのに、箸が転んでもおかしい年頃が今頃やってきたのかもしれない。
 長く彼の近くにいた筈なのに、こうしてきちんと間近で彼の顔を見たことがなかったのだと改めて気付かされる。好きだと思いながら、自分から宮城を遠ざけていた。いつだって私はそんな矛盾する自分と葛藤していたのだろう。
「……久しぶりにその顔みた。」
 宮城の前で心の底から笑ったのは、最後はいつだっただろうか。
「アメリカの最後らへんすごいよく笑ってた。」
「……楽しかったからね、そりゃ。」
「俺じゃない奴のこと話して笑ってたけどな?」
「知ってたけど結構根にもつタイプだよね。」
「そりゃ……俺の彼女なんでしょ?。」
 付き合おうの一言も、好きだという告白もなく私たちは恋人になったらしい。宮城が言わなければ私も言っていないので同罪だ。けれど思うのだ。あれだけ望んだ言葉はもう要らない。言葉はなくても、充分に満たされることを身をもって証明したからだ。
「なんでお前はそうなんだよ。」
「……ん?」
「いつも平気な顔してさ、俺ばっか必死な感じじゃん。」
「そうかな?そんなの思った事なかったけど。」
「そ〜なの!だから……なんか腹立つ。」
「腹なんて立てないでよ、……最後じゃないからいいけど。」
 いつかに同じようなやり取りがあったことを思い出して、あえて皮肉っぽくそう言ってみる。もう一度視線を宮城の方へと向けると何とも言えない複雑な感情を乗せてこちらを見ているので、やっぱり私はもう一度小さく笑ってしまう。
 ずっと宮城のことが好きだった。
 普段あまり笑わない宮城の笑顔が好きだった。少し重たそうな瞼がバスケをしている時はくりっとその全貌を見せるように生き生きと輝いて見えて好きだった。彩子だけに見せるとっておきの表情が好きだった。
 でも今は違う。
 しっかりと私の方へと向いている、私にしか見せないこんな頼りなくていじけた子どものような一面をのぞかせるとっておきの表情が好きだ。好きが溢れるとどうしようもない幸せに包まれながらも、風船がぱんぱんに膨らんだ時のような感覚もあって。
 報われることのない感情をどこに向けていいのか分からずただ苦しかったあの時の気持ちと、それは少しだけ似ているような気がした。幸せすぎても、時々ちくちくと痛くなる。
「俺ばっかみたいでずり〜しかっこ悪いだろ……」
「全然ずるくないしかっこ悪くもないよ。」
 自分の手で捉えられるはずがないと思っていたものを独占しているその感覚に、本当は私の方がどうかしているのをきっと宮城はまだ知らない。私がただ平気なふりが得意なことを知らないのだろう。こればっかりは教えるつもりはないけれど。
「それは宮城と私の歴史の差だねえ?」
「……なにそれ。」
 私の腕を力強く握りしめながらここまで連れてきた宮城の右手が震えていたのを思い出す。今にして思えば、それはこれから未知のものへと遭遇する恐怖だったんじゃないだろうかとそう思う。私がかつて、そうだったように。
「片思い歴で言ったら私の方が先輩だもん。」
「……全然はなしが見えないんだけど。」
「なら見えなくていいよ、見る必要ないし。」
 十六歳のまだ本当に子どもでしかなかったあの頃から私が誰を好きだったのかなんてきっと私以外誰も知らない。だから宮城の震える手にも理解ができて、そして私の方が平気で余裕そうなのも間違いじゃない。
 冷静で、余裕ぶって、平気なふりをしないと宮城に恋をしていられなかったから。私はそんなことばかり得意になってしまって、結局肝心なところが抜けている。
「俺さ、明日の昼の便で帰るって言ったよね?」
「うん、言ってたね。」
「次いつ会えるのかも分かんないだろ?」
「うん、分かんないね?」
 何が言いたくて、何を求められているかなんて本当は分かってる。けれど、それは私の得意な分野ではなくて、きっと宮城にとっても同じなのだろう。いつかの安田くんの言葉を思い出す。私と宮城は結局のところ、似ているのだと。本当にそうなのかもしれない。
「これ、もう一回渡しておくよ。」
 ずっとポケットの中に入れていたコインを取り出して、そして手のひらに握らせた。このコインは一体何度私と宮城の間を行ったり来たりするのだろうか。
 一ドルの四分の一の価値しかない二十五セント。日本円でおおよそ二十五円の価値しかないのに、私にとってその価値は計り知れないものだ。私にも信じて進めば何かができると、そう教えてくれたものだから。
「……はあ、俺マジで無理かも。」
「なんでよ。」
「会えないじゃん。」
「いやいや、この半年ずっとそうだったでしょ。」
 私の知らない宮城の半年間。こうして一緒に転がりながらいろんな話を聞いたし、私の知らない宮城も知ることが出来た。けれど、不思議とその会話の中にこの直近半年間の話はまるで含まれていなくて。この半年間を、彼はどう過ごしていたのだろうか。
「無理だったからこうして来てるんじゃん……」
 少しの沈黙のあと「言わせんなよ」と言われて私まで思いっきり気まずくなった。気まずくなったと言うよりは、平気なふりをしていられなくなった。流石に想像の斜め上をいったその言葉の破壊力が大きすぎて、顔が熱い。
「そ、そうなんだ……」
「そう。」
「へえ?」
「へえ?じゃないだろ。」
 平気なふりを出来ていない自分が急に恥ずかしくなって、俯くようにして手を伸ばして彼のこだわりの強そうな洋服をきゅっと握りしめて、くいくいとこちらに寄せる。そんな拙い表現しかできないのが自分でも逆に恥ずかしいけれど、早く包み込んでくれないだろうか。
 こんな顔、見られるのはあまりにも恥ずかしいから。
「そこはアメリカナイズされろよ。」
「……そっちこそ野獣になりなよ。」
「だから!帰れなくなるから我慢してんの………と一緒にすんなし。」
 そうか、本当に明日には帰ってしまうんだ。その事実に一抹の寂しさを感じるものの、けれどそれはつまり私の為だけに日本に帰って来たという意味でもある訳で。それも渡米してから一度も帰って来ていなかったのにだ。
 ずっと片思いをしてきた私に対する褒美なんだろうか。それはあまりに贅沢で、そして突拍子もなくやってきたから。到底一日で消化できないだけの多幸感を抱きながら、次に会うのはいつだろうかと考える。
 ゆっくりと、甘い匂いのする彼のパーカーが数時間ぶりに私を抱きしめた。
「……次はいつ会えんの?」
「どうかなあ、私就活生だから忙しいよ?」
「半年に一回は来れるだろ。」
「ご〜いんだ〜。」
 久しぶりにアメリカを恋しく思う。甘すぎる柔軟剤の香りも、平屋の馬鹿みたいに広いスーパーも、他にも思い出がありすぎて何かが溢れそうになる。半年しかいなかったと言われたらそうなのかもしれない。けれど、その半年が今も尚私の中で輝き続けているから。
 そして、今ようやく閃いたことがある。
「離れてるけど多分大丈夫だよ。」
「なんだよ、その根拠は。」
「何だろうね?」
「……教えてくんねえのかよ。」
 明確な目標を持たずに、なんとなく周りに流されて生きてきたこの人生。だとすれば今こそ自分のしっかりとした意志を持って前に進もう。それは誰のためでもなく、私のために。
「やっぱりこの二十五セント私が持ってていい?」
 今思いついてばかりの事なのに、もうやる気でいる自分に私自身驚きながら。二十五セントを握りしめて、そして幸せな気持ちで宮城の大きな腕の中で静かに目を閉じた。





 宮城が日本に一時帰国してから数年が経った。
 二度ほど日本で会ったこともあるけれど、アメリカで会うことの方が圧倒的に多い。半年に一度、私はアメリカに行く。もちろん宮城に会いに行くためだ。
 アメリカでのデートコースは決まっていて、思い出しかないあの場所を少し遠くから見て、昔の話をする。もう大学生でもないので、流石に中へと入ることはないけれど、いつかの、毎週木曜日を共に過ごしたキャンパスを遠くから見てもそれは十分な満足感を与えてくれる。
 そして半年ぶりに、再び私はアメリカの地を踏んでいる。
「てか何で一時間半も遅れてんだよ?」
「飛行機に言ってよ?私全然悪くないし。」
「……むかつく。」
 付き合い始めてから三年が経っていた。遠距離に不安がなかった訳じゃないけど、それなりに私たちは上手くやっている。私たちが高校生だった頃よりもネットワークの設備が随分と発展して、時差があっても時々文章でやり取りができるようになった。
 国際電話は驚くほどに高いのであまりかけないで欲しいと何度も言っているのに、一ヶ月に一度は彼の声が私の耳元に響いていた。そんな、生活。
「今あのスーパーにいるからもうちょっとで着く。」
「待てないんだけど?」
「そこは待ってもらっていいですか?」
 宮城は大学を卒業して、プロになった。なんでも日本人で初めてのエヌビーエー選手ということで一躍時の人だ。結局日本へと帰って来ることなく、彼は自分の夢をアメリカで叶えたのだ。偉業中の偉業でしかない。
 アメリカの賃貸に更新という作業があるのかは分からないけれど、彼は私と出会った時と同じ部屋に住んでいる。相変わらず壁は薄いし、シャワーの音は漏れている。
「…おっそい。」
「いいじゃん、ちゃんと来たんだから。」
「一分一秒を惜しめよ。」
「……相変わらず強火だねえ。」
 出会った頃のままの部屋で、私たちは出会った頃よりも随分と歴史を重ねて、そして成長した。無くしたら困るからと断った合鍵をキーケースにつけて、細い鍵穴に捩じ込むとその先には少し機嫌の悪そうな宮城がスタンバイしている。
 多分怒っているんだろうと思う。私が平気な顔をしているから。
 怒っているくせに、彼の行動は伴わない。いつものことだ。そこだけはアメリカナイズされているのか、痛いくらいに強い力で私を抱き寄せて、確かめるように私へと知らしめる。
 何事にも一途な宮城が好きで、その一途は今私に向いているらしい。三年が経った、今でも。
 会いたいと思っても会えない距離、それがそうさせている彼の原動力だったらどうしようかと少し心配になる。彼の一途さを知っているので、それは取り越し苦労だと分かっているけれどそれくらいの惚気は全世界に許されたい。
「……で、今回はいつまでいるの?」
「いつまでなんだろう?」
「こっちが聞いてるのに疑問系やめてくれる?」
 大学を卒業して、私は日本の企業に就職した。もう立派な大人だ。時間を費やした分だけ、きちんと給与として対価が支払われるそんな大人になった。まだ分からないことも沢山あるけど、それでも何とか社会人として生きて半年が経った。
「三日?四日?五日?」
「人の話聞く前に問い詰めるのいい加減やめなよ。」
 半年ぶりにやってきたアメリカで、今までと違うことが一つだけある。それは荷物の量の多さだ。一回り大きいスーツケースを新調した。いつも以上に荷物を沢山詰め込む必要があったからだ。
「しばらくはずっといるかな?」
 彼の家の鍵を右手に持って、そしてもう一本とても似た形状をした鍵を左手に持って見せつける。その意味を、一体いつ彼は気づくのだろうかと内心ドキドキしながら、そして楽しみながら視界に映るその表情を見ていた。
「しばらく仕事でこっちに住むことになった。」
 結局耐えきれず自分から言ってしまう私もどうかしている。自分のキャラじゃないし、きっと今私の顔はどうしようもなく緩んでいるはずだから。本当はそんな顔を見られるのは恥ずかしいけれど、でも自分で制御できるものでもない。
 一生懸命自分をコントロールしようとしたところで、そんなのものは焼け石に水でしかない。それは制御できない物であって、コントロールできないからこそ恋とそう呼ぶのかもしれない。
 多分、そういうことだ。
「少なくとも朝ご飯と晩ごはんは暫く一緒に食べられるくらいかな。」
 すぐに言葉が返ってくると思っていた。聞いてない!ってそんないつかに聞いた言葉が耳を掠める筈だったのに、いつまで経ってもその返答はない。勢い満々に言った私の方が何だか逆に狼狽えてしまって、彼の顔を見ると唖然と呆けているようだ。
「……流石に反応してよ。」
「その鍵どこの?」
「このマンションの四階の部屋。」
「なんで部屋借りるんだよ?」
「普通に借りるでしょ?仕事で来てるんだし。」
「……そういうとこだよ、ほんと。」
 同じマンションに住めば宮城なら喜んでくれると思っていたけど、そういう訳じゃないらしい。そして、すぐにその意味が分かった。どこまでも直向きで、そして自分に向いているその感情がくすぐったくて、とても心地いい。
「宮城?」
 転勤先にアメリカがある会社に入った。半年しか留学の経験のない私にとってそれはかなりハードルの高い難関でしかなかったけれど、最後の最後まで諦めずになんとか形にすることができた。二十五セントと、一緒に。
「……俺の名前知ってる?」
「何を急に。」
「だってずっと呼ばないじゃん。」
 周りの皆んなが呼んでいた彼のその名前、憧れながらも呼ぶことができなかったその名前を今も尚私は呼べないでいる。もうあの時と状況は違うのに、それでも呼び慣れた宮城という今まで通りの彼の名前に甘んじていたのかもしれない。
 宮城も私のことをと呼ぶくせに、そう言おうとして思いとどまった。
 付き合ってから三年、思い出してみても彼の口からと呼ばれたことがないような気がして、多分それは気のせいではなくて───ずっと、それを聞いていないことに気づいてしまった。
「……次宮城って言ったら俺と同じ苗字にさせるから。」
 彼は時々こうして私を圧倒させる。多分平気なふりが得意な私に対して随分と痺れを切らせているのだろうと思う。けれど、そんな言葉は反則中の反則だ。
 アメリカを離れて四年、彼と再会して五年、出会ってから八年、私はずっとこの男に翻弄されて、そして囚われて魅了されている。それは否定しようもない事実で、私にとって唯一の恋だ。
「おかえり、。」
「……ただいま。」
 彼の口から紡がれた初めて聞く私の名前に、どうしようもない幸せに堕ちていく。付き合っている事実がありながらも、ようやく私の片思いが終着したようなそんな気がしたのだ。
 彼の名前を呼ぶために、唇を象っていく。  



名前を呼ばない理由
2023/05/27~2023/06/03...end.