番外編/Case9-4
エッセンシャル


 余裕のないリョータの表情に出会したのはいつぶりだろうか。
 かく言う私もまるで余裕はなくて、けれどいつだってそんな私にペースを合わせてくれるリョータがこうまで余裕がないのは本当に久しぶりだ。少なくとも日本に帰国してからこの表情を見るのは初めてかもしれない。
 独占欲の強いリョータは私が思うように甘えてこなかったり、お預けを喰らわされると口を尖らせて不機嫌を余す事なく表面に出すけれど、帰国してからはとても余裕があるように見える。
 人の事に気を取られている余裕もない筈なのに、そんなリョータが気になって仕方がない。
「……ん、どうした?」
「ううん。」
「ごめん、痛かった?」
「……ううん。」
「……なら続けてい?」
 リョータのネックレスが胸元に落ちてきて、少しひんやりと冷たい。いつものリョータならそんな私の反応に気づいてネックレスを外してベッドボードに置く筈なのに、今日はそれすらも気づく余裕がないらしい。
 よそ見をしていると、リョータにしては強引にぐいっと私の顎を正面へと引っ張ってきて、そしてもう既に欲望を埋め込んでいるとは思えないほどに欲情した、表現し難い切ない顔をしている。
「……ちゃんとこっち見てって。」
 プロのアスリートである彼は、想像以上の体力があって、いつも私を安心させるだけの余裕を生む。馴染むまでの暫くの間、私の表情をしっかりと確認しながらペース配分をしてくれる。そして考える隙を与えないよう、唇で隙間を埋められていく……けれど、今日の彼にその余裕は見受けられない。
 するすると入り込んできたリョータは左腕をベッドのスプリングに沈ませて、少し斜めに傾きながら遠慮なく欲を打ちつけてくる。
「ん、あっ……」
「……ねえ?」
「っあ、な、なに?」
 いつものような段取りやペース配分なく急に始まった刺激の強い衝動にうまく言葉が紡げなくて、自分の声を自分自身の耳に通すのが酷く恥ずかしい。
「……イイんだ?」
 終始余裕がない顔をしながらも、こうして私に問いかけてくるのはやめて欲しい……どんな答えでも恥ずかしいのは十ゼロで私に決まっているから。
「な、なんで急に……そんなこと、」
「普段そんな声出さないじゃん?それに……、」
 少し動きを緩めると私の胸の頂を時折ふにゃりと押しつぶしていたリョータの右手が降っていく。焦ったいようにボディーラインをなぞり、あえてそれを見せつけるように腰を引いて、私達が繋がっている事を誇張する。
 そして、その右手で先ほどと同じ刺激を与えるように親指の腹をぐりっと押し込むと、ゆっくりと円を描いている。
「擦れる度に主張してくるんだけど……知ってた?」
「っあ!………や、や…だっ、」
「……ほんとに?」
 私の反応を試すようにリョータはあえて大きく腰を引いて、先端部分が逃げ出す一歩手前のところで止まる。そしてその突起をなぞるようにして再び私の中へと戻ってくる。いつも私とリョータを隔てる薄い膜がないだけで、こうも違うものかと思い知らされた気分だ。下唇を前歯で噛み締めて、自分の欲に塗れた声を掻き消した。
「当たるから刺激されてまたイきたくなった?」
「んぅ、ふぁ…やめて、」
「……もう一回イっとこうか。」
「ま、まって、リョータ、」
 私の弱々しく紡がれるその言葉はまるで耳に届いていないようだ。静止するどころか言葉の意図を逆さに取られたように、引いていたリョータの腰が勢いをつけて戻ってくる。その刺激にふわっと腰が浮いた瞬間、リョータの指が円を描いてから弾くようにそれを三度ほど跳ね上げて、リョータの言葉の通り二度目の刺激に耐えかねて弾けた。
「ちゃんとイけた?」
 やっぱり今日のリョータはいつものリョータと違う気がしてならない。
 私の反応を伺いながら、ちゃんと確認しながら一つ一つの工程を進めていく普段のリョータと比較しても強引さが目立つような気がして。
 薄い隔たりなくして感じられるリョータの熱量がどうしようもなく気持ちがいい反面、どこか物足りなさを感じてしまうのは何故だろうか。
「こ、こんなの……いや、」
「…え?」
 その言葉にようやくリョータは豆鉄砲を喰らった鳩のように目を丸くして動きを止め、私をまじまじと見ている。今のいままで理性を失っていたかのように急に冷静になっていくリョータは珍しく慌てている様子だ。
「ごめん、ほんとに嫌だった……?」
 継続的な刺激と刹那の刺激が二重に重なった快楽と、いつもと違うリョータへの戸惑いの感情と。彼が冷静になったのはそんな私の感情が形になって生み出されたからのようで、人差し指で私の瞼を拭った。
「……私だけじゃ意味ないから。」
 リョータの思い遣りのある交わりにいつも心の底から安心感と満足感を得られていた事を思い出して、その差分を見出した気がした。物理的な刺激だけでなく、お互いの感情と思いやりが重要なんだと、ふとそんな事を思った。
「ん、ごめん……」
 いつも通りのリョータの表情にどこか安心しながらも、体と頭が一致しない状態が続いていて、お互い冷静になるとより一層刺激に耐えかねた体の伸縮が手に取るようにわかってしまって視線の向け先に難儀する。
「……ほんとは、」
「ん?」
「キモチすぎて余裕ないとこ見られんの嫌でさ……それでつい、」
 余裕がなさそうで、そしていつもと違うリョータの理由がきちんと彼の口から語られて急に全てが愛おしく感じるから不思議なものだ。ここ最近のリョータは随分と余裕があるようだった事を考えても、久しぶりに見るこんなリョータも彼本来の姿のような気がして。
「……どうしたら許してくれる?」
 こんな時でも素直に甘える事の出来ない自分を呪いながら、言葉に出来ない分態度と行動で示すしかない。私はリョータの鍛え上げられた首筋に腕をかけてぐいっと引き寄せる。バンっと倒れ込みそうになった所でリョータの腕がそれを支えて、指を絡ませながら唇を絡め取っていく。
「っん、ふ、」
 絡め取った先で舌を啄むような長い長い交わりの後、息の長いリョータに吐息で限界を伝えると、離れた瞬間にプールの底に潜っていたようにぷはぁ…と呼吸をした。
「……こっち来れる?」
 両膝をついていたリョータは上半身を起こして、まだ息の整わない私の腕をクイっと引き上げて手繰り寄せる。胡座をかいた上に私を膝立ちさせて、そして腰を持ち上げて今度は下からゆっくりと天井を探すように突き上げてくる。
「っあ!……ん、あ、」
「こっち向いて?」
 両足を前に開いてリョータの体にしがみ付くと、いつもとは違う刺激を感じていっぱいいっぱいになる。すぐ正面にはリョータの、やっぱり余裕がないそんな表情があってすぐにそれを覆い隠すように唇を絡め取られる。
 漏れ出る吐息を閉じ込めるような唇の戯れと、リョータのがっちりとした両腕で自分の体がゆっくりと宙に浮く。小刻みに上下に揺さぶられるその感覚におかしくなりそうになっていると、息が続かなくなって苦しさによって正気に戻る。
 息継ぎの為に放たれて肩で息をしていると、いつも以上に交わりの音が耳を劈くようでどうしようもなく恥ずかしい。
「腰しんどいっしょ?全部任せていいから。」
 小刻みな動きを重ねていたかと思えば、徐々にその幅が長くなっていて、リョータの腕が軽々と私を高く持ち上げ、そして元ある場所へと戻していく。その繰り返しによって入り込んだ気泡が潰れ、その激しさがしっかりと音で木霊する。
「リョータぁ……」
「ん、なに?」
「もう……だめ…、ムリだか、ら……」
 普段と違う慣れない刺激と、耳を突くその音に体の軸がじんわりしてくる感覚。そこにリョータの質量が重なって言葉の通り本当に限界を迎えそうな所で私の訴えは聞き入れられたらしい。
 リョータの上で踊らされていた体は再びベッドに横たわっている。
「……じゃあそろそろイくね?」
 加速をつけたように弾かれる刺激に、一度耳元で名前を呼ばれたような気がして、彼自身を受け止めるように引き寄せたそのタイミングだった。
 多分無言の時間は三十秒では済まなかったと思う。もしかすると一分か、それ以上はあったかもしれない。最初の数十秒は予期せぬ事態への混乱と、リョータの熱が吐き出されるまでの時間で、そのあとは二人して言葉を失ってしまった。
「ご、ごめん……私が変なタイミングで抱きついたから……」
 一度全てを吐き出したリョータはなんとも言えない顔で私を見ている……こういう時にどんな言葉をかけるのが正解なんだろうか。多分誰もその正解を知らないだろうし、百科事典を引いても答えは見つからないだろう。
「リョータ、あの、あのさ……さっきも言ったけど私大丈夫だから、ね?」
 これ以外に伝えられる言葉なんてあるだろうか。本当にこの事故のような状態でも“大丈夫”と言える自分自身のバイオリズムが幸いしたとしか言いようがない。
「……なんかすげえ悪い事した気分。」
「……じゃあもうしない?」
「……………する。」
 罰の悪そうな顔をしたリョータが顔を埋めるように額でぐりぐりとしてくるので何だか擽ったい。猫が懐いて甘えてきたような感覚で、思わず髪を撫でたくなる。
 自分の弱さを他人に見せたがらないリョータだからこそ、こんな瞬間が余計と特別に感じるのかもしれない。
 私自身が人に弱みを見せたり、本音を読み取られる事に対して苦手意識を持っているからきっとそう思うんだろう。どんなリョータであってもそれが恋である事に違いはないけど、私たちは根本的にきっと似ている。出会ってから八年以上が経った今でも私の人生において恋は彼だけなのだから。
「……でもさ、」
「ん?」
「良過ぎてもう戻れなくなりそうで怖い気もする……」
「ああ、うん……まあそれは追々考えるとして、」
 自分から提案しておいて、お互いその後の事を何にも考えていなかったのだと痛感させられる。結局熱に浮いた自分の欲を優先させてしまったのだから私もどうかしている。そもそも飲む必要もないそれでバイオリズムを整え続けていたのは他でもない私自身だけど。
「この後どうしよっか?」
「……それは追々考えるとして、」
 なんの知識もない状態で結果的にこうなってしまったので、この後どうするのが正解なのかがイマイチ分からない。多分私だけじゃなく、リョータも同じようだ。寧ろテキパキと処理されたらそれはそれでアメリカで何を学んできたのか不安になるので結果オーライという事にしておく。
 追々考えるとして、と言葉を止めたリョータは私の前髪を捲り上げて唇を落とす。普段の余裕のあるリョータでありながら、けれどもその小鳥のようなキスに覚えがあってちょっとだけ可笑しい。
 人生で初めてのキスの相手はリョータで、そして小鳥のようなキスだったけど、あれはもう何年前の話なんだろうか。少し遠い過去の記憶の中にいるような気がして、その頃の自分に今の自分のこの幸せでしかない状況を教える事ができればいいのにと、そんな事を思った。
「小鳥さん。」
「ん?」
「リラックス中に申し訳ないんだけどさ、」
「申し訳ないと思うなら言わないでよ。」
「……そんな理不尽な。お風呂入りたいんだけど、」
 そろそろ離して貰える?と聞こうとした……つもりだった。リョータが勝手に沸かしたお風呂は既に私の事を一時間程待っているのでそろそろ入るべきだろうし、物理的にこの状況において入らない訳にはいかない。
「……掴まって。」
 少しだけムスっと口を尖らせた後、リョータは私の腕を自らの首に回してヒョイと再び私を抱き抱える。つい先程同じ体勢で繰り広げられた時間を思い出して体が熱くなるのを感じていれば、太ももを抱き直すようにしっかりとフィットさせながらそのまま立ち上がり、前へと進んでいく。
「わっ!…なに、下ろしてよ!」
「今下ろしたらこぼれるけどいいの?」
「…………」
「大人しく運ばれといてクダサイ。」
「……はい。」
 体の軸がしっかりしているからか、物凄い安定感を保って脱衣所まで到達するとそのままリョータが風呂場のドアを開いた。ようやく自分の足で降り立った私は、ふうと息をつく暇もなく再び羞恥心に囚われる。すぐにとろみのある感覚が内腿を通り過ぎていった。
「……なんで見てるの?」
「見るなって言われなかったから。」
「じゃあ言うからやめてくれる?」
「もう遅いだろ。」
 じい………効果音が付きそうな強い眼光で私の腿を見ているリョータには最早後の祭りでしかないようで、もったりと時間をかけて腿を下っていく自分から吐き出された欲望を見ている。本当にやめて欲しい。
 もう言っても無駄な事は理解したので、諦めていれば屈んだリョータが私の片足を担ぎ上げるように肩の上に引っ掛ける。
「ちょ、ちょっとなにするの?」
「気持ち悪いでしょ?」
「……質問の答えになってない!」
「確実にこれ以上は出した。」
 真顔で言ってくるものだから、何だかその言葉が正当化されているように思えてしまうので不思議だ。言葉とは裏腹にそうっと様子を見ながら人差し指と中指が入ってゆるゆると何度か動かすと、リョータの言う通りまだ処理しきれていないものがどろりとリョータの腕を伝って、白濁している。
「じ、じ、じじ自分で出来るから!」
「…………」
 まるで聞こえていないのか、しばらく沈黙の時間が続いてからようやく放たれる。また時間差で内腿に付着したそれを見たリョータの様子を確認すると、一気に羞恥心から別の感情へと変わっていくのが分かる。自分でも分かった頃にはやっぱり後の祭りでしかない。
「……リョータさん、あの、」
「視覚情報やばい……」
 試合前夜というその事実を、きっともう彼は覚えていない。



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