番外編/Case9-6
エッセンシャル


 リョータが普段とても静かに寝ているのが良く分かった夜だった。三井さんの立派なイビキの話をしている。ぐぅ……とテンプレートのようなイビキで逆に感心した程だ。
 リョータがテーブルの上に残っている食器や残った料理を下げてくれている。
 私の状況を見てしっかり自発的に動ける所があるので、優しいなとそう思う。確認される事もなく、私の代わりにキッチンで皿を洗っているリョータを見ていると急に眠気に襲われる。少し、ほんの少しだけ……瞼が降りてきて、ふっと意識が落ちていった。



 何だか体が痛い。
 まだ目は開けていない。半分起きているようで実際にはまだ寝ているというあの状態だ。体は痛いし、何だか聞きなれない物音がしている気がする。でもまだ目を開けたくはない。私のこのぼんやりした記憶が正しければ今日は日曜日で休みだ。もう少しばかり寝ていたい。
「お前らいつまで寝てんだ?」
 そんな私の細やかな願いは叶わず、あまり聞き馴染みのない男の人の声で目を覚ます。バチッと開いた視界に飛び込んだのは、ソファーの背もたれを飛び越えてこちらを覗き込んでいる三井さんの顔だ。
「……お、おはようございます、」
「はよ〜。」
「リョータ起きて?」
「……ん?」
 私に絡み付くようにして眠っていたリョータを剥がして揺さぶりをかける。まだ寝ぼけているようで、剥がした甲斐もなく再びリョータの腕が私を巻き込んで、そして首元をくすぐる様に彼の鼻が擦り寄ってくる。
「お、起きてって!」
「……なんだよ。」
「三井さん起きてる。」
「あ〜……そう言えば居たね、アンタ。」
「おう、腹減った。」
「開口一番それかよ、マジ遠慮ねえな。」
 リョータはぼんやりと体を起こしたものの、珍しく目覚めが悪いのかキレのない口調だ。昨日、三井さんに対してキレッキレな突っ込みを見せていたリョータは今のところまだ見当たらない。
「そういや何で俺がベッドで寝てたんだ?」
がソファーで寝落ちしてて……曲がりなりにもアンタ客人だしテーブルでそのままって訳にも行かないから。」 「今の文章に曲がりなりには要らないだろ。」
「……朝からうるさいんだけど。」
 ふわぁ……と伸びをしながらマイペースに起き上がったリョータは冷蔵庫から水を取り出してごくごくと喉を鳴らす。それはいつもの朝のルーティンに違いないけど、普段から重たげなリョータの瞼はより一層重たそうだ。
「てかベッドにちゃんとシーツ敷いた方がいいぞ。マットレスすぐ駄目になっちまうだろ?」
 三井さんが何か言っていると聞き流していたけれど、もう一度脳内で咀嚼して、急に目が覚めた気がした。そう言えば一昨日の夜に洗濯機に入れたままでまだ洗濯できていない。そもそも何故洗濯する必要があったのかを考えると自ずと目が覚めた。
「……ぶはっ、」
 どうやらリョータも同じ思考に至ったのか、黒目を丸くさせて水を吹き出しそうになっている。まさかちょうどシーツを汚して洗濯してますとは言えない。口が裂けても言えない。
 私たちのあからさまな態度の変わり様に何かを感じ取ったのか、私とリョータを交互に右に左と見比べている三井さんは特別遠慮も懸念もする事もなく口を開く。
「……お前らもしかして昨日ヤった?」
「は、はあ?」
 もし仮にそう思ったとしても普通は言わないだろう。というかそんな事普通の人なら聞ける訳がない。でももっと困るのは、その質問に対して私たちがどう足掻いても嘘をつかないといけない事だ。
 冗談にしてはタチが悪い!と怒ってもよさそうなものだが、ただの大正解でしかないその質問に私たちは当然目を白黒させながら慌てふためいている。リョータがよく三井さんをデリカシーがないと言っていたけど、付き合いの長いリョータでさえこれ程までに彼のデリカシーのなさに困惑した事はないだろう。
「んな訳ないか、仮にも人様が寝てる間に。」
「……当然でしょ、変な事言わないでくれます?」
 何様だよ!とそんなリョータの心の声がそのまま聞こえてきそうな気がして、自分自身も笑える程余裕のある状況ではないのに可笑しくなって思わず笑いそうになる。リョータの三白眼が機嫌の悪さを開示しながら私を一度チラリと見ていた。
「てか起きたなら早く帰んなよ三井サン。」
「ツレねえな?朝飯くらい一緒に食おうぜ。」
「なんでアンタ主体で動かなきゃなんないんだよ!」
「朝飯はな〜、ちゃんと取らないと健康に、」
「そんなの知ってる!」
 三井さんのボケっぷりが想像以上で逆に潔い。リョータは比較的のんびりした口調で話すことが多いけど、三井さんの前では昼夜問わず声を張り上げないと会話がままならないらしい。高校の時からこうだったんだろうか。きっとそうに違いない。
「じゃあ私ご飯、」
「いいよは……ソファーでゆっくりしてて。」
「でも、」
「ほんと大丈夫だから。」
 体きついだろうから、きっとそう言おうとして言葉を止めたのが分かってそれ以上は私も口を閉ざした。昨日の事を思い出して、それ以上話を続けることが物理的に難しかったというのもあるのかもしれない。朝に思い出すには随分と刺激的な内容だ。
「んだよ、宮城料理できんのか?」
「どの立場で言ってんの?」
が作った方が普通にうまそうだからよ。」
「マジで口塞いでくれる?」
 私の体を気遣ってくれたのかと思う一方で、昨日リョータに言われた言葉を思い出す。そう言えば私がリョータのために作った手料理を三井さんに出した事を大層怒っていたけれど……もしかするとそんな子どものような理由もあるのかもしれない。
「これ食べたらマジで帰ってくださいね。」
「この後予定でもあんのか?」
「入り浸る気……?少しは気つかってくれる?」
 リョータの知らない一面を見たような気がした。私にはまず見せない、そんな表情をたくさん見られてこんな朝も悪くないと思う。もう出会ってからも、彼に恋をしてからも、長い長い年月が経っているのにまだ知らない事があるのかと思うとなんだか妙に感慨深い。
「……ハイ、五分で食べて帰ってね。」
 リョータお手製のスパムオムレツが食卓を彩っていた。卵、スパム、トマト、あとはチーズに胡椒。私もアメリカで何度か振る舞って貰ったことのあるメニューだ。一人暮らしが長かったのも手伝ってか、リョータは結構家事が出来る。
「宮城のくせに洒落たもん出すんだな?」
「……文脈考えてから喋ってくれる?」
 朝からとても元気な三井さんを何かに例えるなら、それは台風という表現が一番適切な気がする。
 トーストとスパムオムレツを食べた三井さんは食後のコーヒーを求めてリョータからコーヒーとゲンコツを食らって、ようやく帰宅した。元気な人だ。あれだけ寝たから余計にそうなのかもしれない。
「ごめん色々させちゃって。」
「平気だから気にしないでゆっくりしてなよ。」
「でもお昼も作んないといけないし。」
「適当に出前でも取るしさ。」
「あ、……うん。」
 一通りの片付けを終えたリョータが私のいるソファーの隣に腰を下ろす。握り拳二つ分ほどあった私たちの隙間を埋めるようにリョータが更にこちらへと近づいて、目線を合わせるように体勢を低くした。
「眠いんでしょ?」
「ん〜、まあ眠いっちゃ眠いかな。」
「あんま無理すんなって。」
 髪を撫でたかと思うと、そのまま首筋に腕を下ろして巻き込むように私はリョータの腕の中にすっぽり埋っていく。いつからこんなに逞しい人になったんだろうか。
は時々平気なふりするから。」
「そう?」
 これほど長い付き合いがあっても私はまだリョータに心配して貰える立場なのかと思うと、なんだかそれも悪くない。困らせたい訳じゃないけど、やっぱりこうして気にかけてもらえるのは純粋に嬉しい。真っ直ぐに私を見てくれているのが分かるような気がして。
「初戦もデビューもバッチリだったしさ、」
「ん?」
 急になんの脈絡もなく話が始まって首を傾げていると、もう一度私に視線を合わせたリョータが視界に映っていた。
「ちゃんと一緒に暮らさない?」
「……ちゃんとって?」
 突然振られたその言葉からはまだ何も読み取れなくて、今もこうして二人で生活をしている訳だがそれ以上に何をするのだろうか。
「でっかいダイニングテーブルが置けるくらい広いリビングでさ、」
「あ〜、いいね。ダイニングテーブル欲しい。」
が欲しいって言ってたミストシャワーついてる風呂もあったりなんかして、」
「ブルジョワ〜。」
「寝室は狭くていいけど、が家で仕事の時に集中できるようにちゃんと仕事部屋もあってさ?」
 これからの夢や希望を語るにしては随分とそれは具体性があって、現実味を帯びているような気がした。冗談半分で聞いていた私の口が、次の言葉を返せずに止まっている。いつになく真剣なリョータの顔が、そこにあったからだ。
「…………」
 リョータと出会ってから十年近くが経った今、こんな彼の顔を見るのは初めてだった。何かを訴えかけるようにとても真剣で、ずっと見ていられるそんな顔だ。
 それは私じゃなくずっと彩子に向けられていたあの顔だったから。照れくさそうに、けれど真剣で少し困ったように笑うリョータの顔が好きだった。自分に向く事なんてきっとないと思っていたのに、今はそれが私に向けられている。
 私がよく知っているその顔は、今初めて私の方向にしっかりと向けられている。
「あと半年もしない内に、ちゃんと形にするから。」
 手を伸ばせばリョータに触れられる生活こそが、既に私にとって理想の形でしかないのにこれ以上何をくれるのだろうか。なんとなく感じ取って、気づかない振りをする。自覚すると感情が乱れてしまいそうだから。
「だからちゃんと一緒に生活しよう。」
 どうしてこんなタイミングで言うんだろう。髪も寝癖がついたままで、部屋着のシャツに下はリョータが貸してくれた高校時代の部活のジャージだ。なんて決まりのない状態の時に、そんな事を言うのか。でも、この状況こそが私たちにとっての“生活”と言えばそれもそうなのかもしれない。
「……どうしよう、ちゃんと出来るかな。」
「長く待たせた分、今度は誰よりも近くに居させろって。」
 私にとっての必要不可欠、つまりエッセンシャルはたった一つだけでいい。
 幸せが共存する先は、リョータの隣以外に他ならないのだから。それは決定事項で、そして今後もずっと揺らぐことのない私たちの真実だ。


エッセンシャル / 完