もう間も無く冬も終わる。 日本には四季という春夏秋冬が存在していて、その四季に見合った風情や食文化が存在する。ついこの間まで寒さに震えながら早く春が来ないだろうかと電気毛布に包まって咽び泣いていた私は、春の訪れを感じ始めると急激に冬が恋しくなる。恐らくは変わった人種なんだろうと思う。自覚があるだけまだマシだと、自分に言い聞かせているのでギリギリ許されている。そう思いたい。 冬には電気毛布という文化やこたつという日本ならではの風情が存在していて、寒いながらに心も体も暖かくしてくれる素晴らしい文化が根付いている。ついこの間まで当然のように食べていた鍋が、急に恋しくなったのだ。ない物ねだりをしがちなので、あと少なくとも半年以上は鍋を食す事もないと思ったという原理原則だ。原理でも原則でもないけれど、とても鍋が食べたくなった。 「今日の最高気温十八度だけど本気で言ってる?」 「え、うん。リョータ鍋好きじゃなかったっけ?」 「好きか嫌いかの質問で聞いたんじゃねえんだわ。」 「え〜?」 「衣替えした後に鍋とかしないでしょ。」 「じゃあ薄着して鍋食べようよ。」 夏でも味噌汁は飲むし、カレーだって食べるのに何故春に鍋を食べるのがおかしいのだろうか。ある程度突拍子もない提案をしている自覚はある。けれど、相手はリョータだ。きちんと突拍子もないことを言う相手は少なからず選んでいるつもりだ。 「力士って年中ちゃんこ食べてるじゃん?」 「…お前が力士目指してたのは初耳だわ。」 言い出したら説得する方が骨だと鼻から諦めたのか、リョータは分かったと呆れ気味にキッチンに向かって行く。キッチンの床下収納にしまい込んでいた土鍋セットを掘り起こすつもりなのか、がさがさと音を響かせている。愛しさと、リョータの心を思うとちょっとした切なさと、やっぱり心強さが備わっている自分の彼こそ完璧なる存在だと胸を張って言うことができる。 「今日バイトないから夜鍋パしようよ。」 「鍋スープ売ってんの?」 「分かんないけど。最悪水炊きでいいじゃん。」 「そこまでして鍋食いたい?」 「雑炊食べたいし。」 「……ま、別にいいけど。」 リョータはキッチンの床下収納からこの間片してばかりのガスコンロと土鍋を取り出して、食卓テーブルにしているローテブルの上に箱ごと置いた。妙に今から鍋が楽しみな私は箱から鍋を取り出していれば、少ししてチーンとキッチンから音が響く。まるで回転寿司にでもきているように、皿の上に乗ったトーストと牛乳が私の前に到着する。 「遅刻するよ。」 「今日二限からにしようよ。」 「ダメ、早く食べて用意する。」 「そういうとこ結構厳しいよね、リョータって。」 「誰のせいだと思ってんの?」 一度じとっとした目で私を見ていたけれど、ゆっくりとトーストに齧り付いてからそれを牛乳で流し込んでいる私に呆れて、テーブルに置いてあったヘアクリップで私の髪をくるりと巻きつけて、そしてぎゅっと挟み込んだ。 「あとリップつけたら終わりでいいじゃん。」 「え〜、マスカラもアイラインもしてない。」 「ベンキョーしに行くんだから別にいいの。」 「そんなもん?」 「そんなもん。」 結局さっさと自分の分を胃の中へと放り込んだリョータは、朝から私の五倍はテキパキ動いて大学の支度をしている。私がのろのろと牛乳でトーストを流し終えた頃、私はリョータからリュックを手渡されてそのまま家を出ることになった。別に驚きはしない。これこそ、私たちが毎日繰り返している日常だからだ。 リョータの一人暮らし先から歩いて十三分、私たちは無事一限のチャイムが鳴り響く五分前に門を潜り、そこで別々の校舎へと向かって歩き始めた。リョータの部活が終わったら今日は鍋納めだ。当たり前のように言ってみたけれど、鍋納めという言葉はきっと存在しない、今この瞬間誕生した造語である。 全ての授業を終えた私は一足早く学校を後にして、合鍵を使ってリョータの部屋でしばし寛ぎの時間を過ごす。カーテンからは心地のいい春の木漏れ日が入ってきて気持ちがいい。このままうとうとして昼寝でもしようかとソファーに身を預けたけれど、案外眠気はやってこない。どうやら睡眠も無限という訳ではないらしく、数時間前の授業中を思い出して少し悲しい気持ちに陥った。 テレビを見ながらも暇を潰せない私は、無駄に鏡をテーブルに立てて朝できなかった化粧を始めてみる。意味は特にないけれど、たまにしっかりと化粧をするとリョータが喜んでくれるので、春先に鍋を食すというきっと疲労感のあるこれからの食事のせめてものお詫びという事にして、なんとなく意味をつけてみる。 スマートフォンがじりじりとテーブルを揺らす。首だけ覗かせるようにディスプレイを見ると、リョータからのメッセージが通知されている。横着をして人差し指を伸ばして二回タップする。どうやら想像以上に部活が早く終わり、これからスーパーに向かうらしい。 テーブルの上に立てっぱなしなっている大きな鏡を一度覗き込んで、満足気に自分のまつ毛を人差し指の縁でカールに沿わせてみる。まつ毛が上がると、気持ちも上がる相乗効果があるのかもしれない。私は鏡をテーブルに伏せて、財布とスマートフォンを持ってスーパーへと急いだ。 先に行ってリョータを待ち伏せる。 きっと学校帰りのついでに必要な材料を買って帰ってくるつもりなのだろうけれど、無駄に化粧をした私は出かけたくて仕方がない。自分のことながら、化粧を覚えたての女子中学生のような自覚はある。リョータがそれを受け入れてくれるという確信があるのでやっているまでだ。一般社会で通用しない事は理解しているので、卒業までの間に徐々に道を正していこうと思う。 「…お、びっくりした〜何してんの。」 「お買い物デートしにきた。」 「そんなバッチリ化粧して?」 「うん、だって今日パーティじゃん。」 「ちゃんこ祭りだっけ?」 「いい加減相撲から離れなよ。」 リョータの手首をぎゅっと掴んで意気揚々にエスカレータへと向かっていく。暫くは私の進行方向にリョータも付いてきていたけれど、どうも動きが鈍い。大型犬の散歩をしているように重たい。たまに外で見かける、散歩を断固拒否しているあの光景に似ている。 「ちなみに地下の食品売り場行くつもり?」 「うん、もちろん。」 「エスカレーター逆ね。」 今度は私がやや散歩を拒否している小型犬のように腕を引かれている。やや罰の悪さは残るけれど、まだ自分の中では許容範囲だ。これ間違えるの何回目?という言葉が飛んできそうだけれど、五回目を越えた辺りからその言葉は聞いていない。 「……このスーパー高級卵しか売ってないの?」 「今卵の価格が高騰してるから。」 「朝はスクランブルって決まりなのに!」 「最近朝に卵出てないの気づいてない?」 「えっと、まじか………」 社会情勢に疎い、というのにも限度というものがある。大学生だから仕方ないね!なんて言い訳も通用しないくらいまずいのも分かっているので徐々にヤバさが身にしみていくように冷えていく。あと数ヶ月で就職活動たるものが待ち受けているらしいけれど大丈夫だろうか。恐らく私が心配しているので、全人類が心配しているに違いない。 「あ、エコバック忘れた……あの袋一枚、」 「エコバックあるんで袋大丈夫です。」 リョータは自分のリュックから綺麗に折りたたんだエコバックを取り出して、買い物ビニール袋を引きちぎろうとしていた私の右手を止めにかかる。とても冷静だ。何度かエコバックくらい常備して!と言われたけれど、最早それすら言われなくなった気がする。 「……リョータ、怒ってる?」 「ん〜、別に怒ってない。」 「ほんとに?」 「うん、察してる事は流石に分かるけど。」 「……寛大で惚れちゃうね。」 多分、こんな私に呆れずに付き合ってくれるのは世界の隅から隅まで探してもリョータくらいしかいないだろう。否、呆れずにではない。正確に言えば呆れながらも付き合ってくれているのだろうと思う。能天気な私ですら、たまに不安になる。 「惚れた弱みってやつだからしゃ〜ねえじゃん。」 エコバックに鍋の具材を淡々と詰めていくリョータは、私の方を振り向きもせずに当然のように言ってのける。聞いているこちらの方がよっぽど恥ずかしくて、反応に困ってしまう。 誤魔化すように、自分よりも背の高いリョータの肩に手を置いて、背伸びをして袋の中を覗き込むようにしていると、何だしといつも通りのリョータの声がすぅっと私の中へと入ってくる。 「今日リョータの為に頑張ってお化粧した。」 「…ん、許す。」 「じゃあ特別にもう一つお願い聞いちゃう。」 「そりゃど〜も。」 リョータは予め準備していた予備のエコバックに軽めの食材を少しだけ詰め込んで、「ん」と私の方へとエコバックの右側の紐を差し出した。 「ならこっち半分持って。」 左側をリョータが持って、私も一緒に右側を持って家路へと着く。リョータの逆側の手には、ごろごろと嵩張る野菜がいくつも詰め込まれてた重そうな大きなエコバックがかかっている。 リョータは大学に入っても部活で土日に遠出する事も他の恋人たちに比べたら少ないだろうと思う。けれど、私がそれでも不自由さや他人に憧れを抱かないのはきっと理由があって、それは日常の中に有り余る満足が常に潜んでいるからなのかもしれない。 「あ、リョータずるい!」 「鍋食いたい奴がアイス食うか?」 「食うでしょ。」 「はいはい。」 ちゅうちゅうとリョータが吸い上げているその片割れは、私の口の中にも差し込まれた。 アイスも鍋も共存することのできるこの季節は、贅沢だというのが今の私の感想だ。
名もなき歌 / 2023’03’15 |