うちの大学は特別偏差値が高い訳でもなく、ごくごく普通の学力の学生が集うこれと言って特徴のない無数にある大学の一つだ。この大学を選ぶ人間は、ボーダー関係者か、地元から大学に通いたいという特別進学に拘りのない人間の集まる場所で、私は後者に当たる。
 チャイムが鳴り響く少し前に講義を終えて、私は少ない手荷物をまとめ上げて足早に教室を後にする。私には唯一、この大学で気に入っている場所があった。
 トリオンについての研究を行っている数少ない大学ともあって、貴重な文献の多くはこの大学に集約されている。その為か、唯一この大学の設備の中でも金を注ぎ込んでいるこの図書館は、とても立派だ。無駄に吹き抜けているお洒落なこの空間は、私のお気に入りの場所だった。金を注ぎ込んでいる割に、そこを活用している学生は少なく、いつも静かだった。
 お気に入りのタンブラーの蓋を開いて、ゆっくりとコーヒーに口をつけ、持参していた小説を開いたタイミングで、隣に気配を感じた。
「…さっみい。」
「そんな薄着じゃ寒いだろうね、そりゃあ。」
「大丈夫、とかそういうのないの?」
「ああ、うん。ないね。」
 米屋はこうして、よく私の隣にやってくる。まるで図書館とは無縁そうに見えるこの男は、やはりそのイメージと期待を裏切ることなく、もちろん本を読む訳でもない。むしろ、私が本を読んでいるとそれを覗き込んで、そんな小さい活字を追って何が楽しいのかと聞いてくるけれど、私からすればそんな私を見て何が楽しいたのだろうかと思う。まるで、分からない。
 講義で使う最低限の教材を詰めるには小さく薄っぺらい鞄をテーブルへと置いて、米屋は目一杯伸びるようにしてから、その長い腕をテーブルに伸ばして、ちょこんとそこに顔を乗せてこちらを見ていた。
「なぁ、何してんの。」
「本、読んでるよ。」
「そういう答え期待してんじゃねえんだけど。」
「じゃあ何が正解?難解すぎて、分からない。」
 無駄に広いこの図書館で、あえて私の隣に座って、本も読まずにちょっかいを出してくる米屋の言動は私には分からない。気づいた頃には、こんな日常が出来上がっていた。
 彼はボーダーの人間で、うちの大学内でも顔が広い。その交友関係はボーダーの横のつながりだけに留まらず、所謂彼は人気者だ。私と違って、彼の名前を読んで字の如く、彼は陽に生きる人間だ。私とはどう間違えても、交わらない人種。
「どっか行こうぜ、ファミレス奢るじゃん?」
「いいよ。お腹、空いてない。」
 米屋と知り合ったきっかけは、二年の時に取っていた選択必修の授業だった。滅多に大学を休んだりしない私は、珍しく体調を崩して一週間以上大学を休んだ。冬になると毎年流行するウイルスに見事かかり、大層熱を出して寝込んだ。結局選択必修の授業を二度休んでしまい、その間に行われたテストを受講することができず、救済措置として設けられた補講授業で彼と出会った。
「米屋こそ何してんの。ここ図書館だけど、浮いてるよ。」
「お前が俺の誘いに乗んねえからだろ、浮いてんの。」
「ファミレスなら他にも誘う人沢山いるでしょ?もっと適任を誘いなよ。」
「いやいや、お前そりゃなくね?態々ここまで来て誘ってんだし。」
 こんな攻防戦を、私たちは何度繰り返しているのだろうか。もうかれこれこんな状況が日常に変わってから、一年以上が経つ。米屋は、私がいるからという理由でこうして図書館で私の隣を陣取る。はっきりと言われたことはないけれど、何かしらの好意を持ってくれている事は、無頓着な私でもなんとなく察知した。
 ならば何故彼は私の事を好きなのだろうか。何度か考えた事もあったけれど、直接好きだとか付き合って欲しいとかの明確な言葉を突きつけられている訳でもないしと、あまり深くは考えない。けれど、恐らくは自分の周りにはあまり居ないタイプの私に、単純に興味があるだけなのだろうと思う。でなければ、彼が私に興味を持つ要素などない。磁石が相反する因子に吸い付いていく様と、もしかすると似ているのかもしれない。
「それとも柄にもなく、言葉が欲しいタイプだった?」
「もうそれほぼ言ってるじゃん。」
「てか、ほぼお前が言わせないようにしてるんだろ。」
 彼にそう言われて、確かにそれは一理あるなあと感心して手を叩いてみたら、呆れたようにため息をつかれてしまった。私が米屋にため息をつく事はあっても、彼にため息をつかれるとは、私も中々に酷い有り様だ。確かに彼の言う通り、そういう雰囲気を作らせようとしないのは、私でしかない。と言うよりは、こうして日々私をどこかへと連れ出そうとする米屋の誘いに、私は一度だってのった事はなかった。
「どこだったら付いてくんの、お前。」
「どこであっても付いていかないよ。それが、答え。」
「こんなに甲斐甲斐しく毎日待ってる男いないぞ。」
「知らない?人にはね、タイプってものがあるから。」
「エイチピー削ってくんなよな。」
 きっと、米屋が私に向けているその感情は、恋ではない。ただ見慣れないものに興味を持っているだけで、私がこうしてそっけない素振りをしているから手に入れようとムキになっているだけだ。私が一度でも彼の誘いに乗っかってしまえば、きっとその興味の対象は消え失せるだろう。扉を開いたところで、彼が望むようなものを私は何も持ってはいないのだから。
「それに私なんて、米屋のタイプじゃないじゃん。」
「タイプとかよく分かんねえし。」
「そこまで頭が悪いとは思ってなかったよ。」
 磁石で言うところのプラスが米屋を表現するとすれば、私は確実にマイナスだろう。プラスとマイナスは磁力に逆らわない限り自然と交わるけれど、私たちは磁石ではない。私たちを磁石と表現するよりも、“陰“と“陽“という言葉の方がよりしっくりするだろう。陽である米屋の光が、私には眩しい。けれど同時に、自分にないものを持つ米屋が少し羨ましくもあって、そして自分の苦い過去に触れられるようで扉を閉ざしてしまう。
 昔、まだ今のようにボーダーという機関が世の中に知れ渡っていなかった頃、私には一人の友人がいた。それは恋と呼ぶにはあまりにも不確かで、私も子供だった。多分、憧れという名の方が正しのかったのだろうと思う。彼は、創設期のボーダーに入って、暫くして死んでしまった。ボーダーの内情に詳しくはないけれど、彼は死んでブラックトリガーになったのだと聞いた。それが何を指しているのかは、この大学に入って、この図書館で知った。
「考えて動くタイプじゃねえし、全部直感だからな俺。」
 私はきっと人一倍臆病で、現実を直視できない弱い人間なのだろう。一度経験したあの体験を繰り返さないよう、無意識に米屋を遠ざけている。それは無意識でもあって、私の本能的な自衛でもあるのだろう。始まりを意識すると同時に、終わりが見えるような気がして仕方がない。
「私ボーダーの人、好きじゃないんだ。」
「じゃあ辞めたらどうなんの?」
「どうせ、辞めないくせによく言う。」
「辞めねえけど。」
 趣味の一つとっても、性格を見ても、私と米屋がちょうどよくフィットするところなんて、どこか一つでもあるだろうか。何故補講でたった一度一緒になっただけの私に、彼はここまで固執しているのだろうか。それを気にしながらも、やっぱり臆病な私はそれを聞くことができない。なんの魅力もない自分に気づかれるのが、きっと怖いのだ。
「そんでもって、こうしてお前追っかけ回すのも辞めねえけどな。」
「…それ世間でいうストーカーってやつだよ。」
「堂々と宣言してりゃ、ストーカーじゃねえだろ。」
 もしかすると、私はこうして彼の誘いに乗らないことで、彼の気を引いているのかもしれない。そして、その先の終焉を恐れ、ずっと進展のないこんな関係を続けているのだろう。始まりもしなければ終わりもしない、そんな曖昧な関係を築くことしか精神的に脆い私には出来ないのかもしれない。
 ごほん、と図書館の職員にうるさいとばかりに咳払いをされて、米屋は薄っぺらい鞄を腕に通して、ここぞとばかりに私の腕を引いていく。タンブラーに蓋をして鞄に取り込む暇もなく、強引に引かれていく先に、私も付いていく。
「あのタンブラー、気に入ってたんだけど。」
「んなもん幾らでも買ってやるから、出かけんぞ。」
 この彼からの駆け引きに、私は勝つ事ができるだろうか。その結末がどうなるのかを考えると、柄にもなく少しどきどきする。けれど、タイミングとしてはいいのかもしれない。今日を境に、明日以降も米屋の姿が図書館にあれば、駆け引きは私の勝ちだ。きっとそうであって欲しいと、いつまで始まりも終わりもしない関係性を、今この瞬間脱ぎ捨てた。
「強引すぎると、嫌われるよ。」
 けれど今は、米屋のその強引さが、ちょうどよかったのかもしれない。  

何もなし得ぬ肢体
( 2022’02’22 )