私がこの男に警戒心を抱くようになったのは、一体いつからだっただろうか。いつのタイミングからだったのか、今となってはよく覚えていない。もしかすると、初対面の時から警戒心と共に、苦手意識があったのかもしれない。
 あの笑顔は、私を恐怖とへ貶める。
 犬飼は、いつだってその笑顔を崩さない。常に表情は笑顔一択なのだから、ある意味ではポーカーフェイスとも言えるだろう。何を考えているのか、よく分からない。王子隊の王子もいつ如何なる時も犬飼と同じく笑顔を崩さないけれど、王子の方がよっぽど人間のソレらしいと、私なんかはそう思う。
 犬飼の笑顔には、血が通っていない。温かみがなくて、ただ只管に、無機質だ。私たちと同じ体のメカニズムで生きているのかさえ、疑わしい。人が息をして生きているのに対して、犬飼も同じような条件下で生きているのだろうか。私には、彼が自分と同じ人間という生き物とは思えなかった。
「王子はさ、いつも楽しいからずっと笑ってるの?」
 純粋に、どういう心理なのかを聞いてみたかった。生身の人間なのだから喜怒哀楽があって当然なのに、彼らは全くとして、負の感情を表には出してこない。悲しい時、辛い時、感情の処理ができないような時、彼らは一体どんな気持ちで笑みを浮かべているのだろうかと、単純な疑問だ。
「悪意が肌を差してくるなあ。強化五感ってこんな感じなのかな。」
「質問の答えになってないんだけど。」
「僕は質問に答える、とは言ってないからね。それは、君の早とちりだ。」
 王子も犬飼も、話の論点をずらしていくのが得意だと思う。そうして、いろんな事を擦り交わして、自分の本心を隠しているのかもしれない。一見お喋りに見える彼らは、口数を多くする事で自己開示する事から回避しているのだろうか。
「ネチネチしてて面倒な性格って、よく言われない?」
 人の心を見透かすように話してくるのも、もしかすると犬飼と似ているのかもしれないと、そう思う。将棋を指すように、何手も先を読んで、相手の言葉を誘導しているようにさえ感じる事があるのだから、エスパーに近いものを感じる。頭の回転が速く、地頭がいい人は私とは脳みその構造が違うのかもしれない。だから、私は犬飼を理解できないのだろうか。
「さあ、取り敢えずのところ聞いたことはないね。尤も、気にしてないだけかもしれないけど。」
「きっと後者だよ。私も、王子みたいにポジティブな性格だったら楽なのに。」
「弟子入りするなら大歓迎するよ、君なら。」
「遠慮しとくよ。ポジティブ以外の部分も、色々染められそうだし。」
 何の縁があったのか、私は結局本当に王子隊に入った。元々自分の所属していた隊が、隊長のボーダー引退を持って解散になる直前のタイミングだった。誰と隊を組もうか、どこに入ろうかぼんやりとも考えてはいたけれど、特別ボーダーに対して固執していない私は、このまま辞めてしまうのも一つの手だと思っていた。
 そんな時、他愛もない雑談を交わした王子に、数日後正式に隊に加入しないかと、そう言われた。辞めることも視野に入れていた事を伝えた時、一年だけ続けてみて嫌だと思えばその時はボーダーを躊躇うことなく辞めればいいと、王子はそう言った。逆に言えば、一年はチームに所属するのが、提示された条件だった。私はその取引に応じて、今も辛うじてボーダーに在籍している。



 どこか、王子隊に入って、私は安心していた。自分の居場所とまで言うつもりはないけれど、その居場所が犬飼から遠ざかった事が、そう思わせてくれたのかもしれない。隊を解散して浮き球になっている私に、彼であれば積極的に寄ってくるのではないかと、そう思ったのだ。
 きっと、私がどういう反応をするのかを、面白がっているのだろう。自分の意に介した反応をしない私に対して、きっと執着しているだけだ。それは異性として興味があるからというソレとは違う。ただ単に、思い通りにいかない女を振り向かせることに、暇を注ぎ込んでいるのだ。
 だからこうして、不意に、前触れもなく私の前に現れて、そのよく分からない感情で、私の感情を揺さぶってくるのだ。そうすれば私が嫌がるとわかっているのだから、ほぼ嫌がらせに近い行為だと思う。
「本当には、俺から逃げたがるよね。何でなの。」
「そんなの、聞かなくても知ってるくせに。」
「やだなあ。俺、エスパーじゃないよ?言葉にしないと、理解できない。」
 こういう所が本当に、苦手だ。じわじわと距離を詰めてくるくせに、自分の事は何も開示してこないこの感じは、苦手を通り越して少し怖いとまで思う。私に付け入る隙を探しているように見えた。
「そんなに嫌われるような事、した覚えないんだけどな。何かした?俺。」
 犬飼の質問は、一見しらばっくれているように聞こえるけれど、実の所、割と的を得ている。私自身、それは理解しているつもりだ。何故なら、私は犬飼に何かひどい事をされた訳ではないからだ。いつだってこうして声をかけて、気遣いや労いの言葉をかけてくれる。私を罵ったり、否定する事は一切しない。寧ろ、その逆だ。
 だからこそ、私はこの男がわからないのかもしれない。優しいだけが正義ではないし、その真意や裏側が全くもって見えないのは、逆に怖い。私が犬飼を苦手と思うのは、どちらかと言えば、そういった部分の要素が大きい。
「どうして、王子隊に入ったの。」
「声をかけてくれたから、それだけ。他に意味はない。」
「それはないな。青葉の戦力を考えても、他からもオファーが来てたでしょ。俺が聞いてるのは、何で王子隊なのかって事。」
 こうして、私の考えを読んだように、私自身が答えを導かれているようでドキッとする。犬飼といる時、私はいつも何かに怯えるように、彼の言葉を待ち構える。次は何を言われるのか、どこまで自分の思惑を読み取られているのか、それはまるでエスパーの如く、私に降りかかる。
 犬飼がいう通り、隊を解散した時、他の複数の隊にも声をかけられていたのは事実だった。新しく隊を組み直そうという提案もあれば、私なんかでは分不相応なチームからの参画依頼もあった。そんな中でも、私が王子隊を選んだのには、もちろん決定的な理由があった。
「言いたくないなら無理に言えとは言わないよ。なんとなく、検討はついてるしね。」
 ――― を困らせたい訳じゃないしね。そう言って、私に歩み寄ってくる。この感覚を、私は嘗てから知っている。寧ろ、懐かしいとすら思うまでに、だ。
 犬飼が、自分自身で検討がついているというのだから、私の本心はきっと彼に筒抜けて見えているのだろうと思う。いつだって、犬飼の予想が私が考える事実から外れた事はない。感情を遠隔操作されているかのように、彼は確実に私を見抜いてくる。
「ピアス、開けたんだ。」
「…犬飼先輩、近いです。」
「先輩だなんて他人行儀な呼び方しないでよ。色々、知ってる仲じゃないか。」
 まるで、自分の専売特許のように、私へと忍び寄る。私が拒絶するよりも速く、けれどもどこかゆっくりとスローモーションにすら見えるくらいに、私との距離を詰めてくる。
「元彼だからってそんな邪険にしなくてもいいでしょ。」
 犬飼のいう通り、彼は私の嘗ての恋人だった。振ったのは、私の方だ。だから、今もこうして、私にちょっかいを出して、反応を見ているのだろうと思う。大して私に興味がある訳でもない癖に、如何にもまだ私が好きであるかのように、犬飼は私に接する。
「別れてもう一年も経つのに、今更何言ってるの。」
はそうかもしれないけど、俺は未練しかないよ。振られた方、だしね。」
 こういう所が、ずるい所だと思う。その表情と、本心と、言葉は全てが一致しない。きっと、私に対しての未練など、犬飼には存在し得ない感情だろう。寧ろ、私の本心を知って、犬飼は私の心を弄んでいるのではないかと、そう思う。
「ピアスを開けたのは、俺への嫌がらせ?それとも、見せつけ?」
 以前、犬飼と付き合っていた頃、彼にピアスを開けたいのだと言ったことがあった。年頃の女であれば、ピアスを開けたいと思うことくらいおかしくは無い事だろう。けれど、何でもかんでも私を許容していた犬飼が、初めて私を否定した。
 きっと、私が推察するに、自分以外の誰かに私に傷や跡をつけるのが好ましくなったのだろうと思う。付き合っていた頃から、ランク戦の時は必要以上に犬飼は私に集中砲火を浴びせて、私を誰よりも先に緊急脱出させた。そんな事実を垣間見ていたからこそ、私もその思考にたどり着いたのだろ思う。決定打になったのは、犬飼の一言だった。
“ピアスどうしても開けたいんだったら言って。俺が、開けてあげるから“
 その言葉がずっと私の中で、残っていた。残響するようなその呪文のような言葉が、逆に私を駆り立てたのだろうと思う。こうする事で、私はもう犬飼からきちんと卒業して、自立しているという何よりの証拠になるのではないかと、無意識のうちにそう考えたのかもしれない。
「そうやって、俺の気を引いて、は何がしたいの。」
「別に気なんて引いてない。別れたんだから。」
「そうだね、確かに俺とは別れた。けど、別れた理由覚えてる?」
 そう言って、犬飼は私への駆け引きをするように、巧みに言葉を羅列する。振ったのは私のはずなのに、何故彼の方に優位性があるのだろうか。振った私には余裕がなくて、振られた犬飼には余裕しかない。この不安定で、不平等な関係に痺れを切らした時点で、私の負けは、確定していたのだろう。
、俺のこと好きでしょ。まあ、その背景には俺の願望も含まれてる訳だけど。」
 この男は、全て知っているのだ。私が振った、その理由を、言葉にしていなかった本当の理由を、違うことなくきっと知っている。―――私が彼を振ったのは、犬飼を好きだと自分を認めさせない為だった。
 最初は、ただの調子のいい男だと思っていた。ルックスにも文句はなかったし、何より彼は優しかった。彼の一学年後輩に当たる私は、面倒見のいい先輩くらいにしか当初は思っていなかった。いろんな経緯や背景があって、私たちは付き合ったけれど、日に日に私には恐怖が広がっていった。どうしようもなく愛されているようで、一方的に自分ばかりが彼に取り憑かれたようにハマっていくあの感覚は、恐怖でしかなかった。手を出してはいけないものに心を持って行かれたような、そんな感覚に近いものを感じていた。
 本当はもう自分の中でも犬飼への気持ちを認めざるを得ないほど、膨れ上がってきていたのを理解していた。そうなるのと反比例に、犬飼が何を考えているのかが分からなくなって、正気でいられなくなった。その時点で、惚れたのは私で、惚れた時点で私の負けだったのだと思う。
 それを認めたくなくて、まだ不完全なままの状態で、私は自分都合で犬飼を振った。もちろん彼は何故かと問うたけれど、こんな事を正直に言えるはずはなかった。結果的に、私が一方的に理不尽な形で犬飼を振った、という形で事は収集していた。
「好き同士がこうして離れてる意味、ないよね?」
 すっかりと犬飼のペースに嵌ってしまった私は、何も言い返すことができない。もう既に、犬飼のテリトリーに、私は入り込んで抜け出す事ができないでいる。開けてばかりのピアスの跡をなぞる様に伸びてきた舌が、ぬるりと私を跳ね上がらせる。意図してやった訳ではなかったけれど、潜在意識の中で、きっと、私はピアスを開ける事で彼の関心を引いていたのかもしれない。だとすれば、私も大概な策士で、ただの馬鹿でしかないだろう。
「俺は、が好きだよ。」
 私自ら別れを切り出したその男の言葉こそ、私が一番求めていた言葉なのだから、自分がよくわからない。
 世の中は未知数で、そして、不条理だ。
 

懐かしい地獄
( 2021'12'14 )