人は定期的に過去を振り返り、そして思い出す。
 過去というものは多くの場合美化されがちだが、全てがそうとは限らない。私が定期的に振り返り・思い出す過去は高校時代の恋人のことだ。その彼はとてもシャイで、繊細で、心の内側を言語化するのが苦手な人だった。例えばアイラブユーを囁くような、そんな事は間違ってもできないそんな男だ。
「ねえ、」
「ん〜、どうかした?」
 バイト先の同僚に押し付けられたお勧めの本を読み進める事で今の私は忙しい。押し付けられた、という表現には多少ばかりかあまり歓迎しない感情が含まれている。しかし物は試しとは言ったもので、蓋を開かなければ分からない事は私が想像するより遥かに多いのかもしれない。
「どうかしてる。」
「へえ〜、」
「どうかしてるって言ってるんだけど。」
「うん、そうなんだ?」
 ずっと伏線を張られていた真相に辿り着きそうで、ページを捲る指が震えるのを必死に堪える。何だか武者震いに近い感覚だ。真相を知りたくて仕方がないのに、けれどその真相に辿り着くともう間も無く物語は終わりを迎えるという事になる。
「ねえって!」
 随分適当な相槌を打っている自覚がないという訳じゃない。そろそろタイムリミットが近い事だって分かっている。しかしそれを忘れさせるほど面白い展開が目の前にあるのだから致し方ない。悪いのは私ではなく、この本を押し付けてきたバイト先の同僚だ……そもそもタイムリミットってなんの?
「ごめん、お腹すいた?」
「そうじゃなくて。」
「じゃあなに?」
 会話の流れがほとんど母と子のそれでしかないが、私はまだ母にはなっていないし、おそらくこんなに筋肉の発達した幼児も存在しないだろうと思う。
「ずっと本読んでるじゃん。」
「本ってそういうものじゃなかったっけ?」
「本って暇潰したい時に読むもんでしょ。」
「え〜……それは人によると思うけど、」
 三十分ほど前に家事を終わらせて、拳五つ分ほど間隔をあけて座った筈の隙間は当然のようにぴったりと無くなっている。私は自動的に横移動する生き物ではないので、私が意図的に動いたのか、もしくは彼が私に寄ってきたのかの二択になるがまず後者で間違いないだろう。前者だった場合、私は何科の病院を受診すべきか教えてほしい。
「ご飯じゃないならお風呂?」
「……違う、てか普通に風呂くらい沸かせるし!」
「じゃあなに、言葉にしないと分かんない。」
 今にして思えば、この言葉こそが彼を変わらせるきっかけだったのかもしれない。そもそも何を訴えたいのかあまりに不明瞭で対応しようがない。お腹が空いていると言うのであればそれは仕方がないと思うが、違うと本人が言っている。
 ならば一体何なのか。まさかいい大人にもなった男が構ってほしいとでも言うのだろうか。こんなごつごつした大層大きな筋肉を纏った大の大人が?まさかあり得ない。子どもじゃないし、する事くらいいくらでもある筈だ。
「……好き。」
 次のページを捲る事に必死になっていた筈の私は、クライマックスを迎えようとしている物語の真実を浴びる前に、金槌で叩かれたような衝撃を受ける。思わず口をあけて視線を紙から移動させた。
「……なんか言いました?」
 聞き間違いかもしれないし、その前に何か単語を発していて私が聞きそびれただけかもしれない。突然なんの脈絡もなくそんな言葉が出てくる筈はない。多分あれだ、ハンバーグ好きとかそういうやつだ……それこそ脈絡がなさすぎる。
「好きって言ってんだけど聞こえなかった?」
 あまりにもはっきりとそう言うから、何だか私の方がおかしいような感覚になる。そんな筈はないのに、このアタリマエ感がそうさせる。ちょっと口先は尖っているようだったけど、でもこんなにもはっきりと聞く日が来るとは思ってもみなかった。
「聞こえたから聴力はまだ平気っぽい……」
「ならよかった。」
 普段聞き慣れていない分、勢いをつけたように大きく衝撃の波紋が広がったのかもしれない。付き合ってばかりの初々しい感じでもない筈なのに、あの頃を彷彿とさせるような胸の高鳴りに支配されていた。
「好き、」
 繰り返されるその言葉に、自然と私も本を置いて言葉の元へと吸い込まれるように返事をした。
 つい数分前まで夢中になっていた物語のクライマックスより私を夢中にさせたその言葉はとても意味のある言葉で、聞き慣れないからこそ特別な意味を持って私を突き動かした。





 照れくさいのが嫌いなんじゃない、照れくさそうにしてる俺自身を見られんのが無理だった。平気なふりするったって限度あるし、全然隠せてる気もしないからどうしても後回しにしてしまう。それに言わなくても分かるはずって、自分に思い込ませてたのかもしれない。
 アメリカの大学生活ももうそろそろ終わろうとしていて、一旦まとまった時間が出来た。
 アメリカのプロリーグで所属元を早々に決めた俺は日本に帰ってきていた。今までどれだけ長くても一週間の滞在が限度で、一ヶ月も日本にいるのは何年振りなんだろう。兎に角物凄く久しぶりだった。
 高校時代から付き合っている彼女の一人暮らし先に来て二週間が経った。
 長い間遠距離してたってのもあったし、最初のうちは計画立ててどこ行くかとか何したいとか色々動いてたけど二週間も経てば結構新しく出来る事は減ってくる。ちょっとずつ日常になっていって、今となっては俺がいんのに本読み出す始末だ。
「……好き。」
 呼んでも全然こっち見ないし、お腹すいたのかとか子ども扱いしてくるし……普通に考えてわかるでしょと思ってたけど全然分かってもらえない。ソファーでこんだけピッタリひっついてんだから分かんない方が逆におかしいと思うけど、俺の彼女は多分ちょっとおかしい。
「……なんか言いました?」
 絶対聞こえてる筈なのに、こんな感じだし。マジなんなんだよ。しょげたくなる気持ちを必死に押さえつける。彼女が何か言う前に言わなきゃ負けだ。多分「ハンバーグの事?」とか聞いてきそうな気がする……何となくだけど。
「好きって言ってんだけど聞こえなかった?」
 平気なふりしてそう言ったら、彼女の方が逆にぽかんとして拍子抜けた感じだ。普通これ喜ぶところじゃなくて?少し心が折れそうになった時、意外にも本が閉じられた。少しだけ手を伸ばすと、彼女の方から珍しく歩み寄ってきた。
 え、ナニコレ。
「好き、」
 もう一回冷静を装いながらそう言ったら、もっと距離が近くなった。
 ずっとそんな言葉言わなくたって伝わってると思ってた。それに彼女の方だって滅多にそんな事言わないし、そんなタイプでもないから気づかなかった。気持ち伝えるのが大事ってもしかして……こーゆー事?
 普通にこの後ハマったのは言うまでもない。





「ねえ、好きなんだけど?」
 口を開けばこれだ。多分呼吸するタイミングと同じ頻度だと思う。数年前の恋人の事を思い出して少し恋しくなるし、その更に前の恋人の事を思い出してもやっぱり恋しくなってしまう。
 これは私が過去の男を忘れる事ができず引きずっている訳ではない。数年前の恋人も、その更に前の恋人も、今の恋人も全て同一人物なので私の心は浮ついちゃいない。怪奇現象のように見えて、ただの現実の話だ。
「お腹空きました?」
「好きって言ってんじゃん。」
「恥ずかしげもなく言うものじゃないんですよそれ……」
好きなの恥ずかしい事じゃないし。」
 以前の恋人達が恋しくなるのは、これが理由だ。いろんな男を侍らせてきたという話ではない。昔のリョータは口下手で、こんな顔色ひとつ変えずアイラブユーを紡ぐことなんてできなかった筈なのに……人は進化する生き物らしいけど、これが成長かどうかはまた別の話だ。
「キスしたいんだけど、」
「……あのさあ、」
「キスして。」
「この状況、見えていますか?」
 好きと言えばキスできるって……犬が芸をすると餌がもらえると覚えるレベル、これは恐らくそれと同じではないだろうか。欲望に忠実というか、欲望に塗れた筋肉質な犬だ。筋肉つきすぎてるお蔭で、ハグというよりはがいじめなんですが?
「料理してるので向こうで待っててもらえます?」
 私はカウンターに置いてあった砂時計を持ち出して、逆さまにする。リョータに見せつけるようにして、ハイ!そう言うと何だか随分と不服そうな顔をしている。毎日この繰り返しだ。リョータとの同棲生活は、愛の言葉を浴び続ける繰り返しだから。
「これ何分?」
「五分。」
「じゃあ五分で終わるってこと?」
「三セット終わったらね。」
「は?そんな待てないし。」
「待てなくても待つんだよ、リョータ。」
 聞き分けのないゴツい大人を飼育していると言った方が早いかもしれない。流石に本気でそんな事は思っちゃいないけど、でも少なくとも火を使っている時くらいは離れて欲しい。年中着火しているような人なので物理的に無理なのかもしれない。
「そろそろスポーツニュースやるんじゃない?」
 流石にこの砂時計の砂が三度底をつくまでは何を言っても無駄だと察知したのか、ようやく筋肉による制圧から解放される。私の反応が思うように釣れないと徐々に力強くなる抱擁、多分リョータにその自覚はないのだろうけど。
「……あと何分?」
「まだ一セット目の半分も終わってない。」
「で?だから何分なの!」
「詰問しないでください。」
 渋々リビングへと戻ったリョータの後ろ姿はふて腐れて尻尾を下げた犬そのものだ。ちょっとはむすっとしながら黙っているかと思いきや、二分三十秒も経たないうちに残数を尋ねてきた。砂時計の意味や効力なんてまるでない。
 今日もリビングの向こうからずっと一点を見つめる視線を感じるし、スポーツニュースは確実に耳に入ってなさそうだ。私の料理の生産性が著しく下がるのでやめてほしい。まるで集中できないし、気を取られて怪我をしかねない。
 筑前煮という手間と時間のかかる料理を選んだのが災いしたようだ。待てが苦手なリョータには結構な待ち時間らしい。お腹を空かせた犬ではないので、料理が完成したら機嫌が治る訳でもないから困ったものだ。
 とても強いタイプの眼光(視線)を感じながらようやく三回目の砂時計をひっくり返すと、圧を感じずにはいられない。あと五分以内に終わらせないといけないという自分で作り上げた呪縛に縛り上げられている状況だ。砂時計三回分という言質も取られている以上、終わらせるしかない。地獄の五分クッキングが始まってしまった。
「終わった?」
 砂が落ち切る少し前にカウンターテーブルからこちらを見ているリョータを見て、私は火を止める。何とか時間内に筑前煮は完成したらしい。しかしながら完成してもこの達成感のなさと、一息つけない空気感は何事なんだろうか。
 リョータは砂時計を上下に回しながらソファーへと戻っていく。恐る恐る私もエプロンの裾で手を拭いながら一息つけないソファーに腰掛けた。
「美味しいご飯作ってくれてありがと。」
「……美味しいかどうかは分かんないけど、」
の作った料理が美味くなかった事ないし。」
「そ、そうなんだ……」
 純粋に嬉しい気もするけど、醤油を入れすぎたなと思う日もある訳なのでもしかすると舌が少しおかしいのかもしれない。愛情の持つパワーや可能性は凄まじいものだ。舌を麻痺させているのだとすればその元凶は私だろうから。
「じゃあご飯にしよっか。」
 思い立ったように両手を叩いて席に着こうと立ち上がった私を、力強い腕を伸ばして引き止めるこの光景。凡そ想像していた通りだ。振り返った時に見えたリョータのその表情も概ね九割は私の想像の中のそれと一致している。考えるまでもなく、これは私の日常に組み込まれているものなので最早勝手に浮かんでくるレベルだ。
「疲れただろうしゆっくりしなよ。」
「……ゆっくり、」
「ご飯は別に逃げないでしょ?」
 ご飯が逃げないように、私も時間を置いても逃げる属性のものではないと言いたい。とても言いたい。でも無駄骨は折りたくないので今まで言えた試しはない。
の好きなテレビ始まってる。」
 いつ私が好きと言ったか、まるで記憶にない番組が映っている。おしりたんていって誰ですか。あまりにもシュールすぎる。
 リョータの筋肉を前にすると勝ち目はないので、もう一度ソファーに沈み込むとすぐにその隙間を埋めるように距離を詰めてくる。
「こ、これからご飯……」
「ちょっとだけ。」
 彼はそう言ってローテーブルに置いていた砂時計をひっくり返して、私に見せつけるように視線で訴える。先程自分が同じ事をした手前、文句が言える状況でもない。
 大きな手で私の頬を包み込むと、左手の親指が優しく弧を描いてからゆっくりと唇が重なる。固まっていれば、後頭部へ手を伸ばしたリョータが物理的にもっと近くなって、どんどんと呼吸が浅くなっていく。
「……ん、」
 時々息継ぎをしないと呼吸が持たないそんな施しは、時間の感覚を狂わせる。そして、リョータがその意図を持ってそうしているのが分かるのに、結局私も呼応するようにリョータに手が伸びる。
 柔く噛み付くように、けれど奥深くにそれを感じた時。コトンと音が鳴った。聞き逃してしまいそうなその小さな音に薄っすら目を開くと、明らかに裏返しにされたとしか思えないしっかりと溜まっている砂がサラサラと小さい穴を潜り抜けていた。
「……リョータ、」
「まだ五分経ってない。」
 本当は既に五分経過している事を知っているのに、それを言い出せない私もどうかしている。言葉とは裏腹に、私自身それを拒む理由を持っていないのだから仕方がない。
 結局私も人の事を言えたものじゃない。彼のウェイトの重すぎる独占欲も、こんな事に砂時計を汎用する少し可愛いところも、愛おしいのだと認めざるを得ないから。
「料理冷める。」
「……筑前煮は冷ました方が味染みる。」
 どこでそんな知識を得てきたのだろうか。不思議だ。けれどちょうどいいのかもしれない。甘え下手な私にとっては、最高に相性のいいパートナーでしかないだろうから。
 まだ高校生だった頃の初心なリョータを思い出して、心の声がよく聞こえる今のリョータに私ももう一歩体を近づけた。
 砂時計がリョータの所有物になった事は言うまでもないだろう。



ノスタルジーと夜
( 2023’08’29 )