百八十四センチの割と巨体な男が運ばれているのを車中から見ているが、これは死体遺棄現場に同席をした人間の感想ではない。私の現在の会社の先輩で、リョータにとっても高校時代の部活の先輩に当たる三井さんは心地よい酔いに任せて眠ってしまった。
 数ヶ月前、エヌビーエーから日本のプロチームに移籍したリョータが高校卒業ぶりに日本に戻ってきた。
 リョータとは随分と長い間遠距離で付き合っていたけれど、離れていた期間と距離が遠すぎたのもあってか、スキンシップと成人男性とは思えない程の独占欲と嫉妬を私に正面からぶつけて来る。それはほぼタックルを受けているような衝撃で、これが車なら間違いなく衝突事故が起きている。
 遠征で家に戻ってくるのは明日になると聞いていて少し羽を伸ばして会社の飲み会の三次会へ行こうとしていた時、イカついジープで現れ、ごっついネックレスとサングラスをかけてリョータが襲撃(強制的なお迎え)してきた結果がこれだ。
 何故か車に乗り込んだ三井さんは車が揺れ始めて三分も経たずすうすうと寝息を立てていた。勝手に乗り込んで勝手に眠りこくっているのだから結構面倒くさい人だ。ベースの人柄と顔がいいのでなんとかなっているというだけの話。
 十五センチ以上も体格差のある三井さんをひょいと担ぎ上げてリョータが三井さんのマンションへと入っていく後ろ姿を見ていたという訳だ。死体遺棄の現場中継ではない。
 五分ほどが経過しただろうか、ふぅ……と息をついているリョータの姿が見えて、手を首に当てながらこちらに戻ってくる。巨体を担いで首をやってしまったんだろうか。
 リョータの帰還を待っていると、何故か彼は運転席ではなく助手席側に座っている私のドアを開いて、そしてドアを開けたまま足場の高いジープに登ってくる。
「……ん?」
「ハァ〜。」
「ん?」
「もう無理。」
「え?」
 私のその声が響いたのとほぼ同時にシートがガタンと少しだけ傾斜をつけて倒れ込む。私は何も触っていないので、もちろんリョータの采配だ。倒し切らず、程よく傾斜をつけたこの角度はとてもよく彼の顔が見える。
 はむっと下唇を啄むような焦ったい交わりをしている間に、力強く私を固定するかのように腕をシートへ押し付けて、そして再び指を絡ませた。
「あ、あのリョータ!リョータさん?」
「なに。」
「……いやそんな目で見られましても。」
「さっきあんなキスしといて普通に無理でしょ。」
 ふぅと息をついていたあれは一体何のため息でしたか?重たい三井さんの体を担いで一仕事終えたふぅではなく、もしかしてご自身の欲と戦った末の息でしたか?……完全にスイッチを入れてしまったようだけれど、こうなったリョータは物理的に私には止めることができない。
 車に乗り込んで暫くは野次を飛ばしていた筈の三井さんは早々に眠りに落ちて、普段から濃すぎる独占欲が最大限まで膨れ上がっているリョータは、ミラーで三井さんの眠っている姿を確認すると赤信号で止まった車中で私を引き寄せて、そしてキスをした。
「場の雰囲気とかテンションとかあるじゃん!」
「……じゃあそのテンションになって。」
「そんなスイッチのオンオフできないよ。」
 男の顔をしたそんな彼の顔が、徐々にむうっとしていって昔から何も変わっていないように口を尖らせ始めた。雰囲気を一変させてしまいそうで、そしてより彼を怒らせてその口の先は尖っていくと分かりながらもくつくつと笑ってしまう。
 こんなガタイの良い筋肉を纏っているのに、その表情や仕草は高校生の時に出会った時から何も変わっていない。見た目と比例しない可愛らしさが対比になっているようで、何だか絶妙におかしい。
「……ふふ。」
「なんで笑うんだよ。」
「可愛いなと思って。」
「は?」
 彼にとってあまりこの言葉は歓迎されるものじゃないらしい。今までも直感的にそう思って口にしたことがあるけれど、今と同じようにこうして右側の眉を高くへの字に歪めてこちらを見ている……そして口が尖るので、完全にこの仕草は無意識のものなのがよく分かる。
「だって他のひとにはこんな顔見せないでしょ?」
「……こんな顔?」
「なんか私が独占してるなって思うとさ。」
「……なんだよそれ。」
 心の底から思っているただの感想のようなその言葉は、結局再びリョータの「ふぅ」を引き出していたようだけれど、今度はしっかりと私の目を見てふっと優しい顔で笑うと唇を押し付けるように短く浅く何度かフランクに触れてくる。
「ハァ、」
「今度はなに?」
「どうしよ、俺チョ〜幸せかも。」
「それはよかった。」
 恐ろしい程の独占欲と嫉妬で時には私を驚かせるリョータの素の姿を見れたような気がして、私も似たような気持ちを宿していた。幸せが何を定義しているのかは分からないけれど、少なくとも胸が痛いほどに愛おしい。
「三日ぶりだから余計幸せ。」
「そっか、じゃあまたプチ遠距離する?」
「それは無理。」
 助手席のシートに膝を割り入れてぎゅうっと私を摂取するように倒れ掛かっているリョータが、何だかいつもと違うような感じでとても可愛らしい。母性を自分に感じたことなんて一度もなかったけれど、それは近しいものなんだろうか。
 いつも力強く私を包み込むリョータに対して受動的すぎたかもしれない。
 胸囲のあるその体ごと包み込むようにして、私しか知らない本当はふわふわと猫の毛の如く柔らかい髪を撫でると、本当に猫のように擦り寄ってくるリョータがそこにいる。ゴツゴツと彼の首元を彩るネックレスが回した自分の腕に当たって、少しひんやりしていた。まるで首輪をつけられた飼い猫の如く、甘え慣れている様子だ。
「三日が限界。」
 彼と顔を合わせて、そしてもう一度だけキスをした。





 週に一度程しかないオフ以外、毎日忙しそうだったリョータがオフシーズンに入って家にいる事が増えた。
 少し前に会社の飲み会でリョータが遠征中で不在なのを良いことに三次会へ行こうとしていた途中、急遽前倒しで車を飛ばし遠征先から帰ってきたリョータに車で拾われてとんでもない独占欲と嫉妬をぶつけられた所だ。
『……暫くは飲み会行かないよね?』
 私がノーと言えないタイミングを狙って、リョータは私に言質を取る。私が不可抗力になっている時なんて就寝中か、もしくは彼に全てを委ねている時の少ない選択肢しかない。つまりはそういう事だ。言質を取った、というよりは言質を取られたようなもの。
 年に何回もオフシーズンがある訳でもなく、それも彼が帰国してから初めてのオフシーズンだ。その意味は大きい。
 職場で「本当に行かないんですか〜?」と後ろ髪を引かれるような言葉をかけられて、ぐっと堪える。三井さんと会うとややこしい事になりそうだったので、彼が外回りから帰ってくる前にタイミングを見計らってすり抜けるようにオフィスを出た。
 最寄りの駅について、流れ作業のようにコンビニへと入る。
 私と違って体が資本のスポーツ選手にとって、あまりアルコールは日常的なものではないらしい。何度かリョータと飲んだ事もあるけれど、日本人の童顔と日本よりもアルコールに対して厳しい国という事もあってアメリカではほとんど一緒にお酒を飲んでこなかった。
 彼が帰国して、一緒に住む事になった初日にお祝いと乾杯したけれどビールを飲んだ後はどこから仕入れてきたのか泡盛をロックで喉に流していて大層驚いた。沖縄の血は健在なんだろうか。
「シークワーサーか……」
 ふと自分が普段飲み慣れていない酎ハイが目に入って、カゴに入れ込んだ。一人暮らしをしていた時は二本だったカゴの中身は四本になっていた。その分カゴの中身が重たくずっしりと腕にかかった。
 前回迎えにきてもらった時、彼も久しぶりに飲みたいと呟くようにして言ったのを急に思い出した。早くに会社を出た事も幸いして、まだ時刻は十九時まで時間を残している。これならゆっくりと一緒に晩酌ができるかもしれない。
 ──ガチャン。
 鍵を差し込んでドアノブに手をかける。リビングへと続く廊下を歩いていくと、そこには既に入浴を済ませているのか猫のようにふわっとした髪の毛が重力に逆らう事なく正しい位置に収まっているリョータがいた。
「ん、おかえり。早かったじゃん?」
「うん、昨日まででそこそこ仕事片付いてたから。」
「そっか、お疲れさん。」
 リョータは一度だけチラリと私の方を見たけれど、再び視線を自分の手元に戻してしまう。何だか素っ気ない、そう思うかもしれない。私以外の人ならば、の話だ。
「お風呂沸いてるけど入るでしょ?」
 こうして会社から帰ってきて風呂掃除も湯沸かしも終わっている状態は正直ありがたい。一人暮らしでは絶対に預かれない恩恵だ。けれども、それは「入る?」という好意ではなく「入るでしょ?」というほとんど強制力しかないものだ。つまりは入ってくれというそういう事だ。
「ご飯もまだだしお酒も買ってきたよ?」
「なら風呂上がったら飲む?ご飯チンしとくし。」
 私はノートパソコンが入った重たい鞄を椅子に置いて、少し先にあるソファーで真剣に作業をしているリョータを見る。それは私だけに分かるサインのようなもので、直接言葉で言われるよりも何だか恥ずかしいような気がする。
 リョータの爪はスポーツマンらしく、とても短い。
 短い、というよりはやや深爪気味かもしれない。バスケは激しいスポーツだ。人を傷つけないという最低限のスポーツマンシップに則っている。だからリョータは爪の手入れを欠かさない。パチパチと爪を切ると、その後は丁寧にヤスリで表面と切った先を丸く整える。
「……ん?早く入ってきなよ、準備しとくから。」
「う、うん……」
 うんと言ったはいいものの、準備って何の?と考えて顔が熱くなる……冷静に考えたらご飯の準備だと分かって余計に恥ずかしくなった。
 リョータは私に触れる時、こうしてしっかりと爪の手入れをする。入念にヤスリで滑らかにして。彼にとっても明日は休みで、土日休みの私にとってもそれは同じな訳で。意図はないのかもしれないけれど、その作業が少し先のことを彷彿とさせて何だか居た堪れなくなった。
「ん?まじで何?」
「……なんでもない。」
「あ〜、ごめん忘れてた。」
「ん?」
 お互い「ん?」のオンパレードだ。この状況は一体なんだ?一緒に住んでいるのにどうしてこんなよくわからない事になっているんだろうか。リョータは爪やすりをテーブルに置いて、裸足でぺたぺたと音を鳴らしながらこちらへと近づいてきて、軽く私の腰に手を回して唇を落とした。
「これでしょ?」
「いやそうじゃなくて……でもそうです、そうでした。」
「……なんだよ変な奴。」
 あたかも毎日していたものを忘れたようにおかえりの合図を示してきたけれど、こんな事今までやっていただろうか?記憶を引っ張り出してみると、いつも先に帰っているのは私の方なのでそれを私が求められる方だったらしい。
 朝先に出ていく私に何故か見送る側のリョータに「行ってきますのヤツ…」と強請られ、私より遅く帰ってきて「…おかえりのヤツ」とそう言えば形は違えど毎日やっていたようだ。それがいつもと逆転しているというだけで。
「いいから早く風呂入んなって?」
 お風呂に入るという行為は一日のリセットでもある。疲れを落として、もう何もすることがない状態にできる場所だ。食事を作ったり、その後片付けをしたり、明日の用意をしたり……午後七時でまだ何もかもリセットする程私の一日のルーティンは終わっていない。
 つまりこれは彼の陰謀で、早くその状況を作り上げようとしているという訳だ。離れていた時間が長いからと言ってもリョータと高校生の時から付き合っている私にそれがわからない筈がない。
 取り敢えず落ち着かなくて烏の行水の如く最短で風呂から上がってリビングへ戻ると、昨日私が作り置きをしていたおかずが食卓に並んでいる。そして、グラスにはキンキンに冷えた氷が背を高くして積み上げられている。
「……用意してくれたんだ?」
「ん?用意するって言ったでしょ、それとも飲みたくなかった?」
「ううん、そんな事ない全然ない。」
 風呂から上がったらすぐに手を引かれて寝室にでも連れて行かれるんじゃないかと思っていたが、どうやらそんな事はないらしい。もしかすると私の取り越し苦労だったのかもしれない。
 リョータだって年がら年中そんな事ばかり考えている訳じゃないだろうし……こっちが色々と恥ずかしい。
 カチンとグラスを響かせて飲み始めて、そして昨日作り置きをしていたおかずに箸を伸ばす。一日置いていたからか味がよく染みていて、味が濃く美味しい。味が濃いと必然的に酒が進む。あっという間に一本を空けた頃には何だかいつもよりも酔っているような感覚に襲われた。飲み慣れないものを飲んだからだろうか。
「もう一本飲む?」
「…ん、リョータは飲まないの?」
「なんだよ、一緒がいいの?」
 全て思考が読まれているようで、むず痒いし、珍しくちょっと構ってほしい気持ちを宿している自分が何よりもむず痒い。そう思うのは私が慣れない種類の酒を飲んで酔っ払ったからなのか、それともいつもよりも少しドライで距離を置いているリョータに感じているものなのか。
 食事が終わってもリョータは私の正面に座ったまま、時々テレビを見ながらグラスを傾ける。いつものリョータは私よりも先に食事を終わらせて隣の椅子に移動して距離を詰めてくるのに。
「リョータ。」
「ん?」
 何だか自ずと口が尖っていく感覚があって、まるで自分がリョータになったような気がした。なるほど、こういう感覚なのか。一瞬なるほど!というよくわからない感情にハッとしたけれど、何だかリョータの気持ちが分かったような気がしてちょっとだけ手を伸ばしてみる。
 ん?とまた先ほどと同じ言葉を紡ぐだけで、彼はカラカラとグラスの中身を揺らしながら喉を潤していく。
「もういいです。」
「……ふはっ、ごめんごめん。」
 今まで堪えていたものが吹き出して堰を切ったように笑うリョータはとても珍しい。そんなに面白いことなんてあっただろうか。酔っ払って少しぽやぽやとしている頭では理解が及ばない。
「この間迎えに行ったでしょ?飲み会。」
「それが?」
「お酒入ると珍しく甘えてくるのに気づいちゃってさ。」
 どんな女だと思っているんだろうか。そんな鋼で鉄壁のような女じゃない。少なくとも酔っ払えば人肌恋しくもなるし、人並みには甘えたいと思うことだってある。
「だからもうちょっと酔わそうと思って。」
「……もう酔い覚めた。」
「嘘つけ、顔真っ赤じゃん。」
 それがアルコールによる火照りか、それ以外のものか。そのどちらでもあるような気がして、何だか釈然とせず残りの酎ハイを流し込んだ。
 私が甘えるだけの理由は、その時点で出来上がった筈だ。
 結局誰よりも私に甘いリョータは、食事が終わった後の定位置である私の隣に腰を下ろした。握られた手を握り返して、珍しく私の方からその手を伸ばした。



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( 2023’06’25 )