一年以上付き合った試しがなかった私にとって、リョーちゃんは特別だった。そもそもの人付き合い自体が苦手な私に、異性との付き合いは想像している以上に難しい。いつも苦しくなって、逃げるようにして連絡先を変えて、そして終わらせてきた。
「ん、なに見てんの〜?」
「今年の芥川賞とった小説だってさ。」
「そういうの読むタイプだっけ。」
「いや、全然読まないタイプかな。」
 読み物には昔から滅法興味がなかった。そして、流行りにも疎い。知りたくもない世間を、知った風になれるかと思ってたまたま通りがかった本屋で手に取った。それだけ。暫く読み進めていたが、三十分が経過しても物語に引き込まれる程夢中になれる描写はなかった。
 この本に魅力が欠落している訳ではない。多分、私の感性が欠落しているのだ。自覚してもなんの得もないそんな事実は、物心ついた時からいつも隣にいたような気がする。“普通”が一体なんなのかも分からないながらに、普通に憧れた。普通の人間の感覚とはズレているからこそ、憧れていたんだと思う。
「リョーちゃんも小説とか読まないでしょ。」
「だって、時間かかるじゃんね。」
「映像の方が早いし、解析度高い。」
「あ〜、めっちゃ分かるかも。」
 リョーちゃんと付き合うようになってから、随分経った。人と真正面から喧嘩をするほどまともに人付き合いをしてこなかったせいか、それともリョーちゃんとは相性がいいのか、そのどちらでもない第三の理由でこの付き合いが継続しているのかは分からない。
さ。」
「なに、改まって。」
 ソファーに座っている私を後ろから覗き込むように、リョーちゃんの顎が私の肩に止まる。パズルにピースを嵌め込むようなフィット感、慣れた重み。最初はそれがくすぐったくて、小鳥が止まり木に止まってるみたいだねと言ってリョーちゃんを困らせた。
「俺らってやっぱ結婚はできないの?」
 私が、きちんとマトモに付き合ったと言えるのはリョーちゃんくらいだ。人との距離感が昔からよく分からない私に、リョーちゃんの距離感は唯一心地が良かった。詮索もしてこないけれど、必要とした時には不思議と察知したように居場所を与えてくれた。
「なんでそんな事聞くの。」
「ジャブ打ち、気付いてないとは言わせねえけど?」
 確かに、それを全くとして勘付いていない訳ではなかった。時期的に見ても、なんらおかしくはないし、寧ろ正常だ。付き合った年数だけでなく、そもそも私たちは所謂結婚適齢期、と呼ばれる類らしい。
「リョーちゃんは結婚したいんだ?」
「うん…出来れば、したい。」
「そっか。」
「ごめん嘘。めっちゃしたい。」
 半年ほど前、リョーちゃんから一緒に住まないかと提案された時、正直私には嬉しい気持ちと同じ分量だけ不安があった。一緒に生活をする事で、今まで付き合ってきた人の時のように心が疲弊しないだろうか。そもそも、リョーちゃんは一緒に生活をしても、私を好きでいてくれるだろうか。
「私たち今もずっと一緒じゃん。寝て起きて、ご飯食べて、通勤して、お風呂だってたまに一緒に入るし。」
 今の生活だけでも充分なのに、これ以上があってもいいのか純粋に疑問に思う。満たされているものが溢れた時、今と何かが変わるのが怖かった。“不変”がこの世に存在しないと分かっているからこそ、私は変化を嫌う。
 今のこの充分幸せな同棲生活と、結婚するという事の一体何が違うというのだろうか。違わないのであれば、今のままでもいいんじゃないかと、臆病な私の思考はいつもそこで止まってしまう。
「リョーちゃんは周りが羨ましいんだよきっと。だから、それは私と結婚したいというのとは違うと思う。」
 私にリョーちゃんの気持ちを勝手に代弁する事なんて出来ないし、してはいけない事だと分かりながらも、どうしたら私のこの不安を分かってもらえるかを考えると、勝手にそんな攻撃的な言葉が口から転げ落ちていた。
 彼の高校時代の友人が続々と結婚し、父になり母になっていくその様が、きっと羨ましく見えているだけ。だから、一時的に結婚したいと、そう思ったんじゃないだろうか。それを私としないといけないという義務はもちろんないし、今のままの関係を継続する事にだって何も罪はない。
「私今のままでも充分幸せだし、リョーちゃんが好き。」
 それが本音で、今を生きる私にはそれが全てだ。




 確認をしたことはないけれど、多分私とリョーちゃんの初めてのキスは、あまりいい味じゃなかったと思う。私の吐物が含まれた、きっと少し苦味のある味だった筈だ。今になっても、どうしてあのタイミングでキスをしてきたのかよく分からない。
 私の大学時代の先輩である三井さんは、リョーちゃんの高校時代の先輩でもあって、私たちは三井さんを介して知り合った。酔った勢いで、友達の友達同士が飲み始める大学生によくありがちなやつだ。今思い出しても、出会い方は決してよくなかった。
「…アンタ、平気?」
 周りの人間に合わせて、飲み慣れていない日本酒を飲んだ私は自分が酒に強くない事をその時初めて知った。ちょっと頭が痛いと思い始めたすぐ後には、トイレに駆け込む羽目になった。
 大所帯になっていたその場で、たった一人私が席からいなくなったくらいでは誰も気づかない。寧ろそれは私にとって好都合だった。誰も気がついていないのなら、気を遣わせる事もない。
 酒を飲んで気持ち良くなることはあっても、吐くほど具合が悪くなった経験のない私は、便器と向き合ったところで嗚咽とセットで涙を出すことくらいしか出来ない。具合が良くなるはずも無く、鞄の中に入っていた水を飲みながらトイレ近くの簡易椅子に座って酔いを冷ますしかなかった。
「って、全然平気じゃなさそうじゃん。」
「…もう少ししたらきっと治ると思う。」
「いやいや、酒ってそんなにアマクナイから。」
 初対面の名前も知らない異性にこんなところを見られるのは恐らく私じゃなくても、結構なストレスだろう。早く私なんて放っておいて席に戻ってくれたらいいのに。冷めた目をしたその男は、私の隣にあった椅子に腰掛けて、何も言わずに腕を後ろに組んで座り込んでいた。
「ほんと大丈夫だし、戻って?」
「見ちゃったらそんな事できないっしょ。」
「ほんと、大丈夫だから。」
「大丈夫じゃない時ほど、そう言うタイプでしょ?」
 大して機能していない頭で、それは彼の言うとおりだと自分の特性を改めて認識した。具合が悪いからと心配して隣にいてくれている筈なのに、過剰に心配してこないその距離感が初めて会ったとは思えないほど、居心地が良かった。ただ黙って隣にいてくれるその距離感が私にはちょうど良い。
「多分嫌だろうけど、全部出しちゃった方が楽になる。」
 何かが込み上げてきたように両手で口を覆うと、初対面の彼は私の背中をそっと押して男女共用のトイレに付いてきた。何をするのだろうかと見ていれば、彼は綺麗に手を洗って、そして私の髪を掬って腕にかかっていた髪ゴムで髪を結んだ。
「口、開けて。」
「…な、何するの?」
「楽にする。」
 きっとこれ以上会話を続けても私が拒絶すると分かっていたのか、「ごめんね。」そう言って、彼は私の喉奥に指を突っ込んで、綺麗に私を吐かせた。人生でも吐いた経験は片手で数える程しかないけれど、それを見られたのは生まれて初めての経験だった。なんとも言えない羞恥心と、今すぐここから消えてしまいたい感情に苛まれて、どうしていいか分からず泣いた。
「多分もう少ししたら楽になってる筈。」
 ポケットからキチンと綺麗に折られたハンカチを出して、彼はそれで私の涙と口元を拭った。ただでさえ、こんな場面を見られ動転している私にとって、彼のハンカチまでを汚物に晒してしまった事実は相当に応えた。
 私の喉奥へ差し込まれた逆の手で、「大丈夫?」と言いながら、彼は私の前髪を掬った。自分があまりにも惨めで、より泣けてきた。必死に声を抑えて泣いていた時、初めてのキスをされた。
 トイレで。それも、吐いた後にだ。これ以上のバッドシチュエーションはどんな小説を読み漁っても、きっと見つけることは出来ないだろう。
「は?お前ら何で二人でトイレから出てくんだよ?」
「ほんと昔からアンタはデリカシーないですね。」
「女と出てくるお前の方がデリカシーないだろ。」
「女の子ってアンタが思う以上にお酒、強くないよ。」
 そう言って、私の肩を摩りながら一緒に夜風にあたりに行ってくれたその青年は静かで、そして優しかった。初めて人を好きになれるのかもしれないと、そう思った。今まで自分から人を好きになったことは一度もなかったし、付き合うことで後から好きになれたらそれでいいと思って付き合っても好きになれた事は一度もなかったのに。
「おい、宮城!」
「なんスか?俺別にやましい事してないっすよ。」
 居酒屋の自動ドアがゆっくり閉まりかけた時、彼の口からまろび出たその言葉は、羞恥心で潰れてしまいそうな私に、少しばかりの救いになった。これで終わりではなく、この先も何かがあるのかと、期待してしまったのかもしれない。
「まだやましい事はしてないけど、キスはした。」
 自分の事のようにボッと赤くなった三井さんのギャーギャー言う声が、いつまでも耳に残っていた。何も言わず、黙りながらも彼がずっと側にいてくれたからだ。なんだか、黄昏のような人だと思った。少しだけ私と同じ思考のある人なのかもしれないと、そんな都合のいい事を考えていたのかもしれない。




「今、幸せすぎて逆に怖いんだ。」
 これは私の心からの本音で、その先へと一歩を踏み出せない理由でもある。こんなにも大事に、大切にしてもらっているその事実だけでも私には出来すぎたシナリオだ。人を好きになる事すら出来なかった私に、その感情を教えてくれたのもリョーちゃんだった。それ以上に、一体何を望めと言うのだろうか。贅沢は人を駄目にする。
「なんで怖い?」
「なんでだろ。よくわかんない。」
 満たされすぎていて、それを幸せと思いながらも、どこか終わる事を考えているからそう思うのだろうか。何事にも始まりがある分だけ、終わりもあるのだから。一生とか、不変とか、そういう言葉はあまり信じないようにしていた。それに縋った時、失った時に倍以上の苦しみになって自分自身に戻ってくるような気がして。
「俺は、に拒絶されるのが怖い。」
「拒絶なんてしないよ。」
「でも俺、ずっとその恐怖は持ってたと思う。」
 リョーちゃんは、常に私の事を一番に考えてくれた。大学卒業後、社会人バスケが出来る会社に就職していたリョーちゃんは、二年足らずで会社を辞めた。バスケはもう充分やったし、いつでも出来るからと、そう言った。それ以上は何も言わなかったけれど、なんとなく意味は分かった。その後すぐ、稼ぎのいい営業職に転職した。
 営業なんて、自分でも向いていない事なんてわかっている筈なのに、それでも「あと半年して仕事も安定したら一緒に住もう。」と提案してくれた。
「飲み会で見た時、可愛いなって最初から思ってた。だからずっと目で追ってて、具合悪くて席外したのも分かってて付いて行った。」
 リョーちゃんは、必要最低限の言葉しか口にしない。私もそうだ。だから、お互い居心地が良かったのかもしれない。口数が多い訳でもないのに、愛情表現は欠かさず言葉にしてくれた。だから、得体のしれない不安を感じながらも、ずっとそれを精神安定剤としてリョーちゃんと一緒にいれたのだと思う。
「初めてがゲロチューなの、思い出しちゃった。」
「いいじゃん、一生記憶に残るやつ。」
「一生記憶には残るけど、一生恥も残る。」
「俺はあん時、あ〜死ぬ程可愛いって思ったね。」
 だとしたら、どうかしている。そういう趣味でもない限り、あれはどう考えても苦い思い出だ。しかし違うと、リョーちゃんは言う。
「俺に弱み見せてくれてるんだって、そう思ったから。」
 は多分そんな事思ってなかったのも分かってるけどね。と続けるようにして口を開いた。今どんな顔して言ってるんだろうか。背中に埋められたくぐもった声のリョーちゃんの表情は、私が振り返っても見る事は叶わない。
「俺もいつか自分の弱み、見せられるかなって。」
「そうなの?見たことないけど、弱みなんて。」
「うん。だから今見せてる。死ぬほどダサいやつ。」
 今になって、気づく。結局、私は誰にも自分の弱みを見せないで生きてきた。どうやって自分の本心を隠すのか、そんな事ばかり考えていた。だから、昔から私は現状維持を強く望む。何かを始める事は、終わる事と直結していると考えていたからだ。そうなった時、感情という存在は、厄介だと思った。だから無意識に、私はそれを捨てたのだろう。
「私さ、多分色々欠損してる。」
「欠損?」
「そう。感情とか感性とか。色々抜けてると思う。」
 自分の事が好きかと言われたら、全く好きではないと答える。地味で、特徴がなくて、感情に乏しい自分が、昔から普通ではないと感じて、意味もわからず普通に憧れた。その普通が何を定義していて、本当に憧れるべきものなのかも分からずに。
「家族になるとか、自分の遺伝子残すとか、そういうの全然想像できなくて。だから結婚ってピンとこないのかも。」
 昔から、結婚願望はなかった。でも、だからと言って一人で生きていく覚悟もなかった。そんな私に、リョーちゃんは痒い所に手が届くような、そんないい関係を築き上げてくれた。リョーちゃん以上の人がいる訳がないと分かっているのに、結婚というイメージはいつまで経っても出来なかった。
 自分のような人間が、自分から生まれてくるのは一種の恐怖のようにも感じられる。自分でも自分の事が理解できていない人間が、家族を持ってもいいものなのだろうか。今のこの幸せがずっと継続していけば、それだけでいいような気がしてならない。
「子ども居なくてもいいよ俺。二人でいいじゃん。」
 三井さんが結婚して、そして父親になった。リョーちゃんの高校時代の知人も続々と結婚して、子どもができたのだと聞いた。私も何度か誘われて、リョーちゃんと一緒に子どもを見に行った。きっと、リョーちゃんはそんな環境が羨ましいのだろうと、勝手にそう思っていた。
「え〜、欲ないなリョーちゃん。」
「ならは、もっと欲ないな。」
 どうして、こんな何も持ち合わせていない私を、こうまで大事にしてくれるのだろうか。その疑問のほうが、時に嬉しい感情を上回る。私自身にそうしてもらえる価値はあるのだろうか、そしてそれが何なのか。
「器用じゃないし、大事なモンは少ない方がいい。」
 何気なく放ったリョーちゃんのその一言が、核心をついているようで、何を考えているのか少し分かったような気がする。多分、私もおんなじだ。大事なものなんて手に握れるくらいの量で充分だ。私が今まで生きてきた二十数年間でそう思ったように、リョーちゃんもそういう人生を送ってきたのだろうと思う。
「結婚したら俺から離れていったり出来ないし、が突然いなくなったらどうしようとか、よく分かんない不安もなくなるかなって。」
 なぜ彼の事を好きになったのか、酷く納得させられた。私たちはこれからもずっと、不安を抱えて生きていくだろう。それは例え結婚という形を現実にしても、一生消える事はない筈だ。自分と同じく不安を抱えているリョーちゃんが、どうしようもなく、愛おしく感じられた。
 不安と幸せは相対しているようでもあって、きっと違う。幸せだからこそ不安になるという、幸せの証明なのだろうと、そんな事を思った。
「多分俺も欠損してる。だから、似た者同士。」
「なにそれ、痒いな〜、痒い科白。」
「痒くもなるでしょ、プロポーズしてんだから。」
「え〜、普通に気づかなかった。」
 でも、これくらいがやっぱりちょうどいい。凝りに凝った演出なんかよりも、こうして日常の一コマで、彼の重くも軽くもないしっくりくる重みを感じながら。いつまで経っても顔の上がってこない、そんなリョーちゃんだからこそ、私はきっと好きになる事ができた。
「…で、返事はどうすんの?」
「え、うん。好き。」
「それ全然答えになってねえし。」
 ついに後ろから伸びてきたリョーちゃんの両腕に捕まって、やっぱりこれは過ぎた幸せなんじゃないだろうかと、どこか他人事のようにそう感じられた。これを夢見心地と言うのだろうか。
「だって、好きなんだもん。」
 背中越しに伝わる温もりも、態度と反比例している鼓動も、何もかもが私を魅了する。返事どうこうなんて、今はどうだっていい。もう少しだけ、リョーちゃんの踊り足りない鼓動に幸せを感じていたい、ただの私の我儘だ。
 私に何処までも甘い彼は、きっとこの我儘を飲まざるを得ないだろう。



踊り足りない鼓動
( 2023’01’31 )