いつだか楽しみに見ていたドラマのテーマソングが脳内を颯爽と駆け巡っている。私の記憶が正しければ、このテーマソングが流れる時は決まって絶体絶命のピンチに立たされている時だ。万事休すという表現が恐らくは的確だろう。第三者目線で見ているときはコミカルでしかないピンチは、自分事になった瞬間コミカルなんて表現は消え失せる。絶望という日本語をこれだけ的確に当てはめられる状況を私は知らない。

 世の中は便利になったと思う。何でもスマホ一台あれば事足りる世の中だ。電子化が進んだ現代で、私は愚かな選択ミスを犯したのかもしれない。
 まさかの昭和世代?と思うかもしれないが、手塚国光と同級生なので恐らくは平成生まれだと思う。あえて分かりづらい釈明をしているのは、今の私に判断能力というものが壊滅的にないからに違いない。成人はしているが現役の大学生である事はまだ酔いが覚めきっていない状態でも嘘ではないと私自身信じたいものである。

 通学定期券はスマホの中で電子化されているし、コンビニでのちょっとした買い物も最早現金は特別必要ではない。東京の都市部で生活をしている私に車という手段も大して必要でもなく、免許証を携帯する必要もない。今の時代飲み会で割り勘をする時でさえ電子マネーを送金すればポイントがついて得をする時代だ。本題から大幅に外れてしまったが、つまり今の私は財布を持っていない。頼みの綱であるスマホはどうやら電車で船を漕いでいる間に紛失したらしい。

 文明発展の恩恵に預かっている利便性の高い現代をこれ程までに恨む事になろうとは夢にも思わない。
 この絶望的な状況下で唯一残された希望の光、光輝く五十円玉をポケットの中で見つけた私は駅改札内に辛うじて設置されていた公衆電話に縋り付く。
 スマホを紛失した事で改札すら出ることができないこの状況の中、希望色に光り輝く小銭を慎重に入口に充てがうとガチャリと音を立てて沈んでいった。遠すぎる過去の記憶の中でかすかに覚えているのは、この緑色の旧式電話はお釣りを出してはくれないという事だ。つまりチャンスは一度限り。土日休みではない両親に期待することができない今、私が架けられる先は一つしかない。かつて何度も架けたことのある幼馴染の自宅固定電話の番号だ。
 カチカチと音を立てながら祈るようにダイアルを押し込んで、コール音を耳に刻みつける。こんなにドキドキする電話は久しぶりだ。多分恋はしていないと思う。どちらかと言えば動悸がするタイプの方だ。
「はい、手塚です。」
 願いが通じたのか、受話器からは聞き慣れた堅苦しい幼馴染の声。一気に体から力が抜けていくように崩れ落ちそうだ。なんとか持ち直して体制と気持ちを整える。なにせ私はこれから五十円分で通話が出来るリミットのある状態で現状の報告とSOSを出さないといけないのだ。伝わりきらずに終話するのも最悪だが、電話を切られてしまえばジ・エンド。もう一度言うがお釣りは出ない。
「手塚〜!結論から言うけど、助けて!」
「…どちら様ですか。」
「悪い冗談やめてお願いだから助けてください。」
「新手の詐欺か。」
 第一声目で私としっかり判別している手塚は話を聞く前から電話越しでも分かるくらいにどっと疲れているようだった。これから何が起きるのか、察しのいい彼であれば概ね想像がついているのかもしれない。伊達に幼馴染やってないね!なんて言ったら二度と口を聞いてもらえないかもしれないのでぐっと押さえ込んだ。私の幼馴染というポジションに毛程の価値もない事は織り込み済みだ。
「簡潔に状況を説明しろ。スマホはどうした。」
「紛失して改札から出られません。財布もない。」
「場所はどこだ。」
「千代田線直通に乗ったみたいで千葉にいます。あの…後生だから迎えにきてください。」
 手塚のため息が聞こえてきた所で五十円分の仕事をやり切った緑色の旧式電話はブーブーとアラート音を鳴らせて役目を終えた。これが百円玉であったのならプラス五十円分の説教を食らっていたはずなので、今回はいい仕事をしてくれたと思う。世の中文明が発展しても尚、公衆電話が無くならないのは私のような人間がいるからなのだと妙に納得できた。突っ込んでくれる人は誰もいない。



 不二と菊丸が早々に就職の内定を勝ち取ったのを口実に、久しぶりに三人で飲んだのが昨日のフライデーナイトの話だ。誰一人としてツッコミキャラが存在しない面子で飲み始めたのが運の尽きか、それともそもそもそれを口実に朝まで飲みたかったのかは今となってはよくわからない。
 目覚めた時には既に電車から差し込む光は眩しくて、そして他線直通の快速電車に運悪く乗り込んだ私は千葉県まで冒険をしていた、というのが事の真相だ。ついでに握りしめていた筈のスマホは手元にも鞄にもなく、どうやら落として紛失したらしい。お陰で私はこの見知らぬ土地で通信手段もなく、いつ来るかも知れぬ手塚をじっと二日酔いと戦いながら待つしかないという現状だ。あのドラマのテーマソングが流れるにはうってつけの状況だろう。
 おそらく不二が持たせてくれたのであろう水の入ったペットボトルも既に底をついてしまい、私は本当に何もすることがない。スマホがないと現代人は弱い。唯一水を飲むという動作で重くのしかかる現実を一時的に回避できていたのに、それすら無くなってしまった。絶望の上に重なる絶望は想像している以上に重たい。
「…かろうじて無事のようだな。」
「体は無事だけど精神的には無事じゃない。」
「自業自得だ。」
 事の経緯を確認すべく不二に連絡を取っていた手塚は私のこの愚かな現状がどう齎されたのかを概ね理解している様子だった。私の交友関係が手塚に割れているのは仕方のない事だが、狭い交友関係を少し恥ずかしく思う。もっととんでもなく恥ずかしい現状がある事は今だけは忘れていたい。
「とりあえず次の電車に乗るぞ。」
 数分後にやってきた電車に乗り込み、そっと座席に座る。ずいぶん長い時間電車の中で船を漕いでいたせいかあまり眠気はない。自分の粗相のせいでわざわざ県を跨いで幼馴染を呼び出したという罪悪感がそうさせているに違いない。
「お前も懲りない奴だな。何度目だ。」
「寝過ごして千葉県まできたのが?」
「違う…というか過去にも千葉まで来ていたのか。」
「ん〜、千葉埼玉、神奈川超えて静岡もあるかな。」
「…………」
 言葉にならないのか、手塚の吐息だけが聞こえてきた。多分これは小田和正の“言葉にできない”とはニュアンスの違う言葉にできない感情なのだろうと思う。言った後に、おそらく聞かれてもいなければ答える必要もない余計な情報を言ってしまったのだと悟った。
 手塚の怒りポイントを今日も地味に積み上げた気がする。幼馴染のよしみという恩恵がなければとっくに口を聞いてもらえない類の人間だろうと思う。呆れながらもこうして迎えにきてくれて、そして口を聞いてくれているだけでも最早ありがたい。
「スマホを無くしたのは何度目だと聞いている。」
 手塚の質問に答えるには回想モードに入らないと正確には思い出せない。それほどに私はこの愚かな失態を繰り返している。つい数ヶ月前手塚に常に首からぶら下げて肌身離さず着用していろと言われた気がする。流石にそれは恥ずかしいからと次は失くさないと渋々手塚を説得したという回想までしっかり残っている。夢でもそんなものは見たくはないが、どうやら夢ではなく現実の回想らしい。
「答えたくないなら俺が答えるか?」
「ごめんって、反省してるしもうしないから!」
「お前はいつもそう言う。」
「今度こそは本当に本当だってば!」
 最早何を言っても自分の非を覆せない事くらい酔いが覚めきっていなくても分かる。後から後悔するにしてもまだ泥酔している状況の方がメンタル的にはよかったのかもしれない。後悔の前借りをしているこの状況はとにかく最悪だ。如何にして話題をすり替えるか、私はその一点に全集中力を向けている。
「そう言えばよく声だけで分かったね。」
 我ながら言い逃れるには苦しい話題転換をしたという自覚はあった。何の回避にもなっていない。この状況でこんなすっとぼけた事を言い始める女の口車に手塚が乗ってくれるなんて微塵にも思わない。私自身が手塚の立場だったと仮定しても、そんな碌でもない女の口車には乗らないだろう。如何に私が今崖っぷちの境地に立たされているのかよく分かる図式だ。
「なんの名誉にもならない。」
「それは仰る通りな訳だけど。」
「開口一番に苗字を叫ばれる事もそうない。」
 本当にその通り過ぎて言葉も出ない。こんな愚かな事をする人間は確実に彼の周りでは私しかいないという不要な自負があった。中高時代のライバルだった跡部くんや真田くんも何かと付けて彼の苗字を声高々に叫び上げる事はあったと記憶しているが、受話器越しに突然そんな事をしてくる人間は恐らくいないだろう。別にマウントをとっている訳ではない。
「前にも何回か同じ事あったもんね……」
 自分に学習能力がないという事を自分の口から言っている事に気がついたのは言って暫くしてからだ。全てが悪いように後悔の連続として積み重なっていく。最早何を言えば自分の罪が軽減されるのかを私は知らない。
「こんな遠出をさせられたのは初めてだ。」
「最近試験勉強で大変そうだったしね…?」
「そうだな、大変な時期である事には違いがない。」
 手塚ならこれ以上勉学に励まなくとも、迫り来る資格試験も難なく乗り越えられるでしょうという言葉だけは口から出かけて必死の思いで止めることに成功した。しかし、だからと言って状況は然程好転しない。
「あの…ほんと反省してます、ごめんなさい。」
「あたりまえだ。」
 中学高校時代によく聞いた彼の口癖をかけてもらえる事はないし、その権利は私には微塵もない。
 ことは既に“油断せずに行こう”という状況を飛び越えているからだ。それは油断しかしてこなかった私の結果の上に成り立っている。予防策ではなく、もう最終的な対策が必要である事は認識していた。
「四年に上がるまでお前は外に飲みにいくな。」
 全くもって想定していなかった言葉、という訳ではない。しかし彼は私の身内の人間でもなければ彼氏という訳でもない。流石にそこまで制限されるのは如何なものかと考えながらも、冷静に今の現状を考えるとすぐに反論はできない。
「流石にそれは…、もう未成年って訳でもないし。」
「同じ過ちを犯さないなら構わないが?」
 即答できない代わりに、その言葉の意味を考える。即答で“しない”と答えるべきなのだろうけれど、私にそれを確約することはきっとできない。何より私自身が一番私を信頼していないからだ。アルコールという凶器は恐ろしいものだと思う。人を楽園へと誘った後、簡単に奈落の底へと突き落とすからだ。酒を飲まなければ、こうも怒られる事はないのかもしれない。
 一瞬過去の記憶を遡る。まだ酔いという魔物のような感覚を知る前は全く彼に迷惑をかけていなかったのだろうか。過去の青い春は酒を介していない分記憶の中にはっきりと残っているが、私のこの境遇や立場は今とさほど変わらない様な気がする。多分気のせいではない。
「…というかまだ私の事見捨てないでいてくれるんだ?」
 彼の前で鉄拳を喰らうレベルの醜態を何度晒したかは分からない。なにせ物心ついた頃からの付き合いだ。まだかろうじて学生とはいえ、もう就職手前の年齢に差し掛かっても尚、幼馴染という繋がりを持ってして手塚は私に寛容な心を見せてくれるのだろうか。
 もう次はないというプレッシャーをかけてきながらも、今までを含めても本当に彼は面倒見がいい。だからこそ、反省をしてもきっと私は彼を無意識に頼ってしまうのかもしれない。
 電車の揺れに少し眠気を感じ始めたのは、そんな気心の知れた手塚の前だったからなのかもしれない。その問いかけに対する返事はなかった。
「じゃあ今度は手塚も一緒に参加して見張っててよ。」
 その問いかけに対しても返事はなかったけれど、概ね容認してくれたからの無言なのだろうと勝手に解釈した。まだ酔いの覚めていない体に、心地の良い揺れが眠りへと誘っていく。
 無意識にもたれかかれる場所を探した終着地が、鉄パイプだったのか人の温もりのある場所だったのかはよく覚えていない。ただ、眠るには心地のいい温度だったのだろうと思う。



 最初に言い訳をさせてほしい。
 何も先日の失態を記憶から抹消した訳ではないという事だ。寧ろ泥酔していて全て覚えていないという状況の方が幸せだったのかもしれないとも思う。現実という正解はいつの時代も当人に厳しいもので、そういう事にもできないのを二十年ほど生きてきた私は知っている。過去を凌駕する!と言いたいところだが、過去を反省はしている。
「お前がまるで反省していないのはよく理解した。」
 何も状況を把握していない大石から食事に誘われたのがきっかけだ。大石の事でいえば私よりも手塚の方がよく知っているだろう。彼が朝まで私を飲み回す事はないし、仮にあったとしてもそれをやるとしたら私の方だ。
「相手大石だよ?ただご飯行くだけじゃん。」
「それはきっかけに過ぎない。後々関係者が集まってくるのは想像に容易い。」
 たまたま大石と出会したところを見られてしまった。これが菊丸や不二であれば手塚のいう事にも理解できるが、相手は大石だ。久しぶりに出会してご飯に行こうという状況に、制限をかけられる必要はないだろうと当初憤りを感じていた私は、手塚の言葉にグッと言葉も行動も制御される。言わずもがな、彼のいう通りだと思ったからだ。
「じゃあ私が粗相しないように手塚も来てよ。」
「強引だな。」
「菊丸達も呼ぶならどうせ手塚にも声かかるでしょ?」
「誘い方にはもう少し思いやりを持て。」
 しばし彼の言葉に思考を巡らす。恐らくは私の解釈が間違っていなければ、私が大石と食事に行くのを止めている訳ではない。寧ろ案じているのはその後のことだろう。全てを否定するような事を言っている訳ではないのかもしれないと都合のいい私は考える。
「手塚も来てほしいって言えば来てくれるの?」
 その問いかけに対して頷きこそはしなかったが、否定もされなかった。記憶から抹消したい、あの電車の中での会話を思い出してこれは辛うじて許されるのかもしれないと静かに思う。相手が大石だったのもあるのかもしれない。
「じゃあ一緒に来てよ。私のこと見張ってていいから。」
「随分と面倒な仕事がついてくるんだな。」
「一生のお願いだから!」
「これが一生の願いならもうお前は一生を終えている。」
 自分が今まで“一生”とつく願いを何度呪文のように唱えたのかは思い出したくない。手塚の言う通り、それを数え出したら私は既に不死身のレベルで何十回か生き返っていることになる。言葉の重みって一体なんだろう。
「…最後から二番目のお願いかもしれない。」
「そんな願いは聞いたことがない。」
 我ながらいいキャッチフレーズを見つけたと思ったが、おそらく私の口から出てくる願いの類はこれからも“最後から二番目の願い”になるのだろう。ちなみに私は一度たりとも彼から“一生のお願い”をされた事はないし、そもそも“お願い”レベルのものさえされたことがないような気がする。世の中は私にだけ不条理に成り立っている訳ではないらしい。
「行けば手塚だって楽しいじゃん。」
「そういう問題ではない。」
「記憶無くすまで飲まないから!」
「当然だ。遠征費がいくらあっても足りない。」
 私を制限する一方で、万が一私が同じ事を繰り返しても手塚は迎えに来てくれるのだろうかと考えてしまう私は酔っ払っていなくても多分お気楽主義なんだろうと思う。どこまで行っても結局手塚は私に甘いし、そして私はもっと私に甘い。反省しながらも同じ過ちを繰り返してしまうのは私だけのせいではないのかもしれない。万が一にもこの心の声が筒抜けていたら鉄拳どころの騒ぎではない。
「息抜きがてらね?じゃあ七時にいつものお店で!」
 結局言い逃げをしてしまえばいつだって私の勝利だ。私と手塚という二人だけの狭い世界の中では、いつだって手塚に世界は不条理に動いている。これでも反省をしていない訳ではないので、あえてそれをここに補足しておこうと思う。



 全国の覇者になった事もある青学レギュラー陣は、皆が想像しているより遥かにマイペースだ。もちろん全員が該当する訳ではないが、そちら側の人間の方が遥かに多い。天才にはマイペースが多いのかもしれない。私は中高ときちんと帰宅部に所属していたので、今回はその括りには入れないものとする。
 馴染みの居酒屋の暖簾を潜ったのは待ち合わせの時間から五分が経っていた。例の如く反省はしているが、先日の出来事を思い返せばまだ常識人が仕出かす非常識の範囲内だ。もはや基準がどこにあるのかは私にも分からない。
「ごめん、お待たせ。」
 そこには想像していた通り大石と手塚がドリンクを注文する事なく待ち構える姿があった。私の習性を知っているのに律儀だなと思う。心の中で言ったつもりだったがどうやら声に出ていたらしい。
「五分の遅刻だ。」
「先飲んでくれててもよかったのに。」
「お前と違って酒に対して中毒にはなっていない。」
「まあまあ手塚、集まるのも久しぶりな訳だし……」
 こうして場の雰囲気を和ませてくれる大石の存在は中学時代から今に至ってもその存在価値は変わらない。彼が副部長を務めてくれたおかげで、かつてのテニス部は安泰であったのだろうと思う。中学時代の三年間を彼と同じクラスで過ごした私にとって、大石という存在もまた手塚と同じくらいに重要な人物だ。
「大石と飲むのすごい久しぶりだね?」
「折角いつも誘ってもらってるのにすまない。」
「私たちの学部と医学部じゃ全然違うしね。」
 河村くんは高校卒業と同時に実家の寿司屋に就職してしまったし、大石は専攻している学科も相まってこうして集まるのは随分と久しぶりな事のように思えた。乾のことを忘れたわけではないが、彼は滅法下戸らしく飲み会という名の会合へはやってこない。
 いつも集まっては碌な遊び方をしないのは私と菊丸と不二の三人だ。二軒ほど梯子をしてカラオケに行って朝を迎えて記憶をなくすのが通例だ。手塚には割れているが、できることなら大石には知られたくない。
「手塚も最近家に篭りっぱなしだったし今日は飲もう!」
「……誰かのおかげで先日千葉まで遠征してばかりだ。」
「たまには遠征するのも楽しいでしょ?」
 この切り返し以外他に何か正しい言葉があっただろうか。私にはすっとぼけたようこう言い放つ以外に選択肢はないだろう。とりあえず今日は手塚を乗せて酒を飲ませるしかないと思った。
 ドリンクを頼んで乾杯をした頃に不二が来て、そして一時間ほどが経って菊丸がやってきた。皆心なしか中学時代より更なるマイペースになったように思う。けれど最早それに何かを言う人間もいないこの環境こそが一番素でいられる。友人に恵まれているとはこういう事なのだろう。多分、まだ酔っ払ってはいないと思う。
 午後十時を回った頃には私と菊丸は程々に酔っていて、他の三人はいつもと変わらないように見えた。不二に関してはただ酒に対する抗体が強いだけとして、大石と手塚はあまり飲んでいないからというただの物理的な問題だ。何度か注文するタイミングで手塚にも酒を勧めてはみたが、自分のペースで飲むと逆に目を光らせて牽制されてからは、それがチェイサーの如く酔いが覚めた。
「てか今日は何の会?」
 集まることに理由なんて必要としていない筈の菊丸が何となく放った言葉に、一瞬会話が止まった。私と大石が久しぶりに校内で出会したからというだけの理由でしかないが、改まって言われてしまうとどう返していいのか案外困るものらしい。
「もしやついに手塚とが付き合ったって報告会?」
 何の悪意もなくただ思ったことを口にしただけの菊丸とは裏腹に、不二の言葉には裏と悪意しかない。何も今に始まったことじゃない。絶妙な間を使って自分に主導権を持っていくのは、昔から彼の常套手段だ。
「不二、なんの話だ。」
「そんなに怒らなくてもいいじゃない、手塚。」
「誰が怒っている。」
「怒ってると言うより…まさか牽制?」
 この男は人を挑発するのが趣味なのかもしれない。どう考えてもおちょくっているようにしか聞こえないその言葉は、全体を凍りつかせる。   そう思っていたのは私の取り越し苦労らしく、案の定碌でもない遊び方する仲間の一味である菊丸が身を乗り出して目を輝かせている。
「なに、ついに二人付き合っちゃった?」
「英治悪ノリがすぎるぞ。不二はデリカシーに欠ける。」
「僕は思ったままを口にしただけなんだけどな。」
 悪ノリやらデリカシーやらと言っていた大石すら、私と手塚を見比べるようにしているのだから何と答えるのが正解なのか私自身わからなくなる。大石に非がないと分かりつつ、今日食事に行こうと誘ってきた本人がそれをそのまま全体に伝えないのはもっとタチが悪い。一緒にドキドキしながら何かを待つような仕草はやめてほしい。
「久しぶりに大石と校内で会って飲みに行こっかってなっただけだよ。ちょうどその場に手塚がいたからこの間の反省も込めて手塚には見届け人になってもらった。」
 そう言えば、菊丸は「なんだぁ〜」とあからさまにつまらないとため息をついたし、不二はこの後の展開にいらぬ期待を抱いているようだった。私にとって唯一の救いである大石でさえ、心なしか落胆しているように見えて無性に居心地が悪くなる。酔いが覚めていくという感覚はきっとこの事を言うのだろう。
「…ところでこの間の反省ってどういう事だ?」
 大石のその言葉に意気揚々と話し始めたのが誰だったのかは言うまでもないし、私の口からこれ以上は語りたくない。
 酔えない酒がこの世に存在していることを初めて知った瞬間だった。



 自分から飲みの途中でもう帰ろうと言ったのは初めての事だったかもしれない。私にそんな自制心があったのは今初めて知った。人間立場が悪くなると酔えない生き物らしい。不完全燃焼という感覚を初めて思い知った。
 終電の三本ほど前の電車に乗り込む。私と手塚と、そして他の三人はそれぞれ別のホームから電車に乗り込む。こんな冷静な状態で終電間際の電車に乗るのはもしかすると初めてのことかもしれない。
 この時間帯の地下鉄は混んでいる。いつもは酔っていて然程気にならない筈のそれが、まじまじと気になって窮屈さを感じた。
「随分と不服そうだな。楽しくなかったのか?」
「ううん。…でも今までのバチは当たったのかも。」
「バチ?」
「自分の醜態をツマミに飲まれるのはキツい。」
「いい薬だな。」
 本当に手塚が言うように良い薬なのかもしれない。人に何を言われても恥じないように生きるべきだと思ったし、そもそも何かを言われる人間にならない努力をすべきだと思った。大石の“開いた口が塞がらない”というあの表情が目に焼き付いている。本当に良い薬になった。大石に嫌われたら人間としておしまいだ。
 私が勝手に悶々としている電車の中で、手塚はもっと呆れているのだろうかと一度彼を見上げる。忘れていたけれど、彼は如何なる時でも表情を変えない。微々たる心境の変化さえ読み取ることが困難な手塚のかんばせを見上げて見たけれど、やはりその感情は読めない。
 大石は「そういう時もあるよ。」と励ましてくれたけれど、もう私と校内で出会しても今日のように食事へ誘ってくれることはないのかもしれない。そんなことを考えるとどうしようも無くなって、そしていよいよ寛容な手塚も私を見放すのではないだろうかとそんな事を考える。
。」
 聞き慣れた私を呼ぶその声に、いつになく怯えてしまう。最悪の事態を想定して固く目を瞑っていると、聞こえてきた彼の言葉は意外なものだった。
「駅近くに馴染みの店がある。」
 俺には馴染みの店があると言うマウントかと思って驚きに目を開いたが、どんな状態でも彼が私に対してマウントを取るわけがない。理由は簡単だ。マウントを取るまでもなく、私よりも彼の方があらゆる意味で上だからだ。
「それとももう泥酔したか。」
「…そんな事ない。」
「そうか。ならもう少し付き合えるか?」
 その言葉の全てが本音でないことは、悲しいことに冷静でいる私にはよく分かった。手塚が飲み足りないなんて言うはずもない。そもそも飲み足りないのであれば、あの面子がいる時にそう言うこともできただろうに、あえてこの場で言ってきたのは彼の優しさに他ならないだろう。
「外で飲むなって言ったのに?」
「そう言った俺が見張っている、問題はないだろう。」
 多分お墨付きという言葉は、今の状況を持ってして初めて使う許諾を得るのだろうと思う。全くもって酔っていないという自負があるにも関わらずふわふわした気持ちだ。彼から飲みに誘われたのは私にとって初めての経験だ。
 割と頻繁に酔っ払って記憶を失うので確証は持てないけれど、それでも手塚と飲みに行って二軒目に誘われたことなど記憶の中では一度もない。そもそも今になって思い返せば、ほとんど彼とは飲みに行ったことがない。いつだって飲みに行った後の最悪の状態で拾ってもらっているだけで、まともに飲みに行ったことなどないような気がする。
「酔っ払うかもよ?」
「想定の範囲内だ。お前が気にする事じゃない。」
 私たちが最寄りのホームに降りた反対側の電車は最終電車なのだとけたゝましくアラートを鳴らしている。こんなに余裕を持って最寄の地に帰ってきたのは初めてのことかもしれない。
「ここで飲むなら千葉まで行くこともないだろう。」
 返す言葉もない。



 時刻は上り方面の終電がなくなった深夜十二時半。
 そんな世間の人間が寝静まる時間に、手塚の誘いで彼の馴染みの店で私は着席している。高級フランス料理店に来ているくらいには緊張している。手塚と飲みに行ったことはあるが、こうして二人で終電が無くなった後に飲んだことはない。
 物心ついた時から知っている手塚は、今も昔もその感情を誰にも読み取らせない。自分自身の記憶がはっきりしてからも最古で知っている人間といえば彼の筈なのに、妙な緊張感を覚える。つい数日前、スマホを紛失して改札すら出れなかった一番の窮地と羞恥の状況をおっ広げた相手だとは思えない。
「…手塚くん、何飲みます?」
「中途半端に気を使うな。」
「こんな時間に連れ回してる訳だし。」
「誘ったのは俺の筈だ。」
 本当に馴染みの店なのか、オーダーすることなく水割りセットとボトルキープしていたのであろうボトルがテーブルに置かれて私はより驚いてしまう。元々老け顔ではあるが、まさかこんな中年サラリーマンのような飲み方をしているとは夢にも思わない。
「えっと……キャバ嬢みたいに水割り作ればいい?」
「生憎キャバクラに行ったことはないが自分で作れる。」
 とても綺麗な仕草でトングで氷を掴んで、三と七の割合で酒を作り上げていく。その様はまるでバーテンダーだ。作っているもの自体はもっと和テイストだけれど。
「お前も飲むか?」
「……泥酔しない程度に飲もうかな。」
「いいだろう。」
 キャバクラを知らないと言いつつ、キャバクラ嬢のように正確に酒と水を割って私のグラスにちょうどいい水割りを作ってくれるこの男をキャバ嬢と言わずなんと言うのだろうかと思う。けれど私自身キャバクラに行った事などない。分からないながらも、それでも彼は限りなく完璧なキャバクラ嬢の動きをしていたと思う。この時点で酔えるはずなどない。
「薄めに作った。確認してくれ。」
「……うん、美味しい。」
 世の中のサラーマンはきっとこういう酒を美味いと思うのだろうという味がした。何故私が接待されるような形になっているのだろうか。不二がこの場にいなくて本当に良かったと思う。
「えっと……酔う前に乾杯しておこうかな。」
「何に対してだ?」
 キャバクラ嬢にしては随分固く、そして圧のある感じだが思い返すと私はキャバクラに来ていた訳ではなかったらしい。今までのことを考慮してもたんこぶの三つや四つ作っていてもおかしくはないが、今目の前にいる手塚は見る限り穏やかそうだ。
「二人で初めて飲むお酒に…?」
「そうか。」
 言う言葉に対して全てが穏やかで、なんだか拍子抜けする気持ちだ。反省会もとい説教会の為にこの場を設けられたと思っている私の予想を裏切り、文句を言うことなく淡々を彼は馴染みの酒を喉に通していく。
「……手塚も飲むんだね。」
「なんだ、意外か。」
「お酒強いのは知ってたけど、本当に趣味渋いね。」
「お前のように気は飛ばさない。」
 ここにきてからの手塚のペースは早い。飲むスピードの落ちる私に構いもせず、どんどんと飲み進めていく。その様は本当にサラリーマンの金曜日の飲みっぷりだ。サラリーマンと飲んだことなんてないから知らないけれど。
「どうした、酔ったのか?」
「酔うなって言ったのに酔ってほしいの?」
「酔うなと言った覚えはない。」
 四年生になるまで飲むなと言ったのは紛れもなく手塚だ。そんな彼が酔うなとは言っていないとはどういうことなのかまるで分からない。そういうイリュージョンなのだろうか。摩訶不思議アドベンチャーだ。
「飲むなって言ったじゃん。」
「お前が千葉まで行かなければそれでいい。」
「千葉どころか神奈川超えて静岡にも行くよ?」
「それは大いに反省しろ。」
 ようやく二口目となるアルコールを体内へと入れ込んだ時、彼の言葉を整理して見る。よく分からない。千葉まで行かなけれないいらしいが、この言葉は何を意味しているのだろうか。彼との付き合いは一番長いと自負しているが、矛盾しかないように思えるのは気のせいだろうか。
「今度は山梨まで行くかもしれない。」
「中央線が好きだとは知らなかった。」
「私も知らない間に手塚が電車に詳しくなってたの知らなかった。」
 彼が何を考えているのかは分からない。もしかすると山梨に旅をしたいのかもしれない。そんな事を言えばため息をつかれるのだろうと思うけれど、私が範囲を広げる限り手塚も迎えに来る範囲を広げてくれるのだろうかとそんな愚かな事を考える。
「新幹線に乗って寝過ごしたら大変だ。」
 ありえないだろうという言葉と、そんな非現実的な話をしている時点で相手にもしてもらえないと思っていた私に、手塚の言葉は本当にただの衝撃でしかなかったのかもしれない。
「迎えに行く人間の気にもなってみろ。」
 もしかしたら手塚も珍しく酔っていたのかもしれない。
 その言葉に対してそれ以上のことは考えなかった。もしも、なんて言葉はいらないと思ったし、何よりそのもしもが現実にならないに越したことはない。
 千葉以上に遠征させる必要などないのだから。
「手塚、私の事大好きじゃん。」
 ほぼ素面で放ったこの言葉は、酔っている時以上に脈を持って血流を活発にさせたような気がする。返事を待つ事なく、珍しく酔っていない私はキャバ嬢のように正確に三と七の割合になるよう手塚のグラスを満たした。
「それはお前の方だろう。」
 本当に私のこと好きだったりする?と聞けるほど、今の私は酔っていない。
「手塚の方が絶対好きでしょ。」
「根拠はなんだ?」
「そんな顔してる。告白するなら今なんじゃない?」
 こういう話題は軽くネタにしてしまうくらいがちょうどいい。掘り下げてもいい事があるとは思えない。手塚が告白などする筈がないと分かっているからこそ口にすることができた壮大なジョークだ。
「記憶を失くすと分かっている人間に言ってどうする。」
 この言葉をどう解釈するかなんて、私の勝手だ。けれど、それ以降水割りだった筈のそれが水のように感じられたのは事実だ。酔いたい時ほど酔えないものらしい。



 あれからニヶ月が経つ。
 私も就職の内定をもらった。菊丸がもらった内定先からの紹介でなんとかもらった内定だ。多分菊丸には一生顔が上がらない。彼と同期としてこれから生きていく訳だが、癪に思うのと同時に感謝もしていた。なかなか内定が出ない私へ、助け舟を出してくれた形だ。
 私には、就職が決まったらすることが一つある。
「カンパーイ!」
 二ヶ月前、不二と菊丸の内定祝いで鳥肌が立つような醜態を晒したが、手塚は覚えているだろうか。多分手塚以外の人間も覚えているだろうと思う。私は二ヶ月前と同じ過ちを犯そうとしている。
「この間手塚に怒られたし今日は帰る。」
「え〜、そんなのじゃないしつまんない。」
らしくないね。」
いないと盛り上がんないじゃん。」
 私はこの言葉に弱い。菊丸はずるい。女以上にあざといからだ。そこに不二が加わると無敵だ。猫のように菊丸から帰らないで攻撃を受け、不二からは真顔で「帰る必要なんてないんじゃない?」と言われてしまえば、酒に酔っている私の意志は簡単に傾いてしまう。
「流石に手塚の彼女とかならオールなんて誘えないけどね〜。」
「ないない!」
「百パーセントないとは言い切れないのが怖いよね。」
「いや、普通にないでしょ。」
 これから記憶を無くす自信があるので、とりあえずスマホだけは無くさないようにしようと思う。これさえなくなさければ私は困らない。それは手塚に対して迷惑をかけないという意味と、そしてスマホを無くしたことによって音信不通になる相手に対してだ。
「あと一年で社会人だし、今のうちにやりたい事やっとかないと。」
「それは言えてる。」
 結局私たちはいつもの定番パターンを辿っていく。二軒梯子した後はカラオケに行って、定番の曲を歌う。この面子なら周りを気にせず本当に歌いたい物が歌えるのが本当にちょうどいい。
 卒業してしまえばこの面子はおろかみんなと会えないのかと少し気に病んでみたけれど、今も私たちの関係が続いていることを考えると、この先も私たちは安泰なのかもしれない。
 菊丸と不二との関係のように、私と手塚の関係もきっとこれからも変わらない。手塚は私にとっては切っても切れない存在なのだろうと思う。
 初めて二人で飲んだあの時の感情は、菊丸や不二とは違う感情だ。物心ついた時からの知り合いなのだから違って当然といえば当然なのかもしれない。
 けれど、私の中で本当に頼れるのは一人だけなのだろうと思う。
 何故こんな事を考えているのかという質問に答えるとすれば、私は今千葉県にいるという回答になる。少し前に見た、覚えのある景色が広がっている。つまりはそういう事だ。こんな中で頼れる人間は一人しかいないだろう。
 鞄の奥底に五百円玉を見つける。駅構内にあるコンビニで水を買って、細かい小銭を作りながら喉を潤す。緊急事態にも慣れてきたものだ。今のこのポテンシャルなら無人島でも数日生き延びれるかもしれない。ちなみになんの自慢にもならない事は自覚している。
 この緑色の旧式電話にこうも頻繁にお世話になるとは思わなかった。一礼するように頭を下げて、十円玉を投下する。架け先はもちろん決まっている。自宅の番号以外に暗唱できる番号など他にない。
「はい、手塚です。」
 あの時ほどの焦りは感じられない。それはあの時よりも持ち金に余裕があったからかもしれないし、あの時とは心持ちが違うからなのかもしれない。驕っていると言われたらそれまでだが、彼は私がどこにいようと迎えにきてくれるという妙な自信があったからだ。
「手塚〜!」
「…………うちは結構です。」
「セールス電話じゃない!」
 手塚もお笑いセンスをあげてきているのだろうか。ブーブーと終了時間を知らせる公衆電話にもう一枚十円玉を突っ込む。こんなところで会話が終了したら笑い話にするまで数年はかかる。
「今度はどこだ。」
「なんか予測してたみたいに落ち着いてるね。」
「予測ではなく事実として知っているからだ。」
「……なに、未来予知までできるようになった?」
「不二にスマホを預けただろう。」
 記憶を遡って思い出してみると、確かにそんな出来事があったような気がする。カラオケにいく前、今度こそ失くすわけにはいかないからと一番紛失リスクの少なそうな不二に預けたのが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。その判断に至った自分を猛烈に殴りたい。一番渡してはいけない相手だからだ。その時の愚かな私の行動が、いい具合に泥酔していたのだと証明している。
「それで、回収先はどこだ。」
「回収先って……」
「どこであっても呆れはしても驚きはしない。」
 居た堪れない気持ちになって、なんとなくポケットに手を突っ込んでみると硬さのある何かを感じて、手にとってみる。久しぶりに切符というものを見た気がする。
「どうした、切符でも見つけたか。」
「なに、やっぱり見えてるの?」
「帰り際不二がお前に切符を買ってから見送ったと連絡を受けている。」
「…それ私も悪いけど確実に不二の方が悪くない?」
 私にスマホを返す気など微塵にもなかったのだろうと思う。さぞかし不二は楽しかっただろうし、そして今も彼の手の内で私が踊らされているのだから楽しみは継続されているだろう。本当に根っこから性格が歪んでいる。
「取り敢えず切符あるから帰れるし一人で帰る。」
「もう遅い。」
 気配を感じて振り返った先には手塚の姿。流石に手塚の携帯番号まで暗記はしていないが、何故彼がここにいるのだろうか。
「携帯へ転送されるようにしておいた。」
「抜け目ないね。」
「お前と違ってな。」
 もうさすがとしか言いようがない。事前準備と咄嗟の対応力がえげつない。感動はしているが、ストーリーの全容を思い出すと感動よりも自分の醜態と不二の悪意が勝って霞んでしまう。本当にただただ人がいいとしか言いようがない。
「…千葉じゃなかったらどうするつもり。」
「その時はそこへ向かうまでだ。」
「ほんと、人が良すぎるよ手塚は。」
 いつまでこんな私の愚行は許されるのだろうかと考えながらも、きっと手塚ならそんな私に手を差し伸べてくれるのだろうとも思う。私がこの甘ったれた思考を改められないのは、やっぱり手塚のせいなのかもしれない。いつだってこうして私を救ってくれるのだから。
「そうでもない、相手は選ぶ。」
 私も相当懲りない女だが、手塚も結構懲りない男なのかもしれない。それともこれは何かの誘導なのだろうか。もし本当にそれが誘導なのであれば、手塚の作戦は完璧だ。こんな事を手塚に言われて動じない女など、世界を一周してもまずいないだろう。
 はっきりと、何かを自覚した気がした。



 千葉から帰る足でそのまま不二からスマホを返してもらえるだろうという私の願望は脆くも崩れ去った。大学生になってから菊丸と不二と三人で呑むことが多いが、それでも尚不二は私の想像を右斜め上にぶち抜いてくるらしい。
 今日は用事があるのだと不二は言う。普通に考えてスマホを取りにいく時間くらい確保してもらえそうなものだが、不二周助とはそういう男なのだと納得するしかなかった。
 不二からは日曜日七時に河村すしで、というメッセージだけが残されていた。もちろん私のスマホは発信者の不二が持っているので、手塚のスマホ経由だ。取り敢えず私のスマホは明日まで戻って来る事はないらしい。何か仕返しをしたいと思いついて、倍返しになって帰ってくる未来が予想できてすぐに考えを改めた。
「お邪魔します〜!」
 スマホのない私を哀れんでくれたのか、私の家まで迎えにきてくれた手塚と久しぶりに河村すしの暖簾をくぐる。ここへ来るのは中学生の時以来だ。河村くん自身も高校卒業後は進学せずに職人になったのだから、彼と会うのも実に数年ぶりだ。
に手塚!よく来てくれたね!」
「調子はどうだ。」
「うん、ぼちぼちってとこかな。」
 奥の座敷へ通されると、珍しく皆が揃っている。手塚と一緒に行動している事もあるが、約束の時間まではあと十五分ほどある。不二と菊丸が揃っている事にも驚いたが、大石や乾の姿までそこにはあった。
「……なに、天変地異でも起きるの?」
「やだな、困ってると思って早めに来たんだよ。」
 呆然と立ち尽くしている私を前に、不二が私の見慣れたスマートフォンを手渡した。ようやく生きた心地がする。一日スマホがないだけで随分な不便を被ったが、その怒りを彼にぶつけるのは二次被害がありそうなので今日も我慢する事にする。
「ほら、も早く座ってくれよ。これからどんどん運んでいくからさ。」
 運び込まれてくるのはみるからに高級そうなご馳走だ。一体誰が会計を持つのだろうか。少なくとも私にはそんな余裕はない。ただでさえ寿司は高級な部類の食べ物だ。大学生がおいそれと勢いで来ていい場所ではない。
「僕が今日はお祝い事だからってタカさんに頼んだんだよ。」
「それは“スマホが私の手元に戻ってきた”お祝い?」
「それもゼロじゃないけど、いい報告が聞けるかなと思って。」
 ようやく手塚と席へとついて見たものの、この不二周助という男が何か不穏な事を言っているので全くもって気が抜けない。普段から頻繁に飲みに行く、謂わば身内の一人にこんな敵がいたとは知らなかった。と言いたいが、多分知っている。それでも彼と一緒にいるのは楽しいのだから仕方がない。
「今日こそ手塚とが付き合った報告会かな?」
 前回同じようなことを言っていた時から、不二が何かしら悪巧みをするであろうことはわかっていたが、本当に遠慮というものがない男だ。せめて菊丸のように純粋な気持ちで言われた方が幾分もマシだ。
「概ね間違いはない。」
 ここは不二に対して怒りをぶつけていいところだと認識しているが、それは違うのだろうか。怒りを表すどころか手塚は何故か肯定している。状況が飲み込めない。今の言葉で詰まりかけていた沢庵は無事飲み込めた。
「新しいお笑いのスタイル?」
 一体手塚はどうしてしまったのだろうか。先日千葉に迎えにきてもらった時から薄々とは感じていたが、お笑いの秘密特訓でもしているのだろうか。想像の斜め上どころかどうかしている。
「お前は俺を馬鹿にしているのか?」
「私の方が馬鹿にされてるでしょ?」
 いつの間に私は手塚と付き合っていたのだろうか。千葉から帰っている時の電車の中で何かがあったのだろうか。そもそも一回目の千葉と二回目の千葉のどっちだ?ニュアンス的なもので汲み取れば二回目なのだろうけれど、終始反省しながら最寄り駅まで寝ずに起きていたはずだが、そんなシーンなどあっただろうか。
「そんなの聞いてないし!」
「当然だろう。言ってないからな。」
 今日は右斜め上をぶち抜かれる日なんだろうか。聞いていないと反論すれば、言っていないと更なる反論を食う。それも真顔でだ。溜まったもんじゃない。
「ちょうどいい、今なら酒で忘れる事もないだろう。」
 すでに今の時点で随分と私は窮地に立たされている。この状況でどう冷静でいればいいのだろうか。しかもギャラリーは多数。見知らぬ人間という訳ではなく、そのギャラリーは全員私たちの知り合いだ。
「…つまりは、そういう事だ。」
 覚悟をしたように両目を固く瞑ってみたのはいいものの、この言葉には目を丸々として開けなければいけない。「つまりはそういう事」とは一体どういう事だろうか。意味がまるで理解出来ないほど馬鹿ではない。だからこそ、これだけその言葉を想像していた自分が急に恥ずかしくなる。
「それじゃあ私が返事できないじゃん。」
 全員が唖然としている。そして、私も唖然としている。よくもまあこんなことが言えたものだと我ながらそう思う。そもそも私は手塚にこうして偉そうに言える立場でもない。“一生のお願い”を何度聞いてもらったかも分からない相手だ。多分手塚がいなければ私の人生は何度か終わっている。それくらいの恩人だ。
「彼氏になってよ、手塚。」
 ついに言ってしまった。自分の中で感じていた違和感と正直な気持ちを突き合わせた時に、自然と出てきた言葉だ。二十年近く一緒にいたのに、今になってこんな感情を新たに感じるとは思いもしなかった。
「……お前が言うな。」
「手塚が言わないから悪いんじゃん。」
「これから言うつもりだった。」
「そんなんじゃ全然遅い!」
 本当に遅い。ある程度匂わせるような事を何度か言いながらも決定打にかける手塚が悪い。結局待ちきれず自分から言ってしまったことへの恥ずかしさとちょっとした後悔で、全然正気ではいられない。おそらく、人はこういう時に酒を好んで飲むものなのだろうと思う。
「これは手塚が悪いんじゃないかな。」
 私を見た不二が、そう言った。何故あの不二が私に無条件に味方してくれるのか考えてみて、そして自分が泣いていることに気がついた。何に対して泣いているのかは分からない。悔しさなのか、それとも安堵なのか。多分そのどちらも当てはまる。
「泣かせるつもりはなかった。」
「私だって泣くつもりはなかった。」
 珍しく手塚があたふたしている様を見れたので、それでおあいこにしようと思う。付き合ってもいないのに随分と大胆な事をする男だと思ったし、それ以上に私自身が男前を超えた“漢”であることを自覚せざるを得ない。そもそもこの会は一体何なのだろうか。
「えっと…なんかよく分かんないけど二人が付き合ったって事〜?」
 沈黙を破った菊丸は少し気まずそうにしながらも、場を和ませる。元々キラキラした顔だが、そのキラキラ顔の裏で私を自由に飲みに誘いにくくなったなという感情がある事を私は理解していた。これから社会人になっても彼とは長い付き合いになるのだから、それくらいは読めている。
「手塚もこんな公衆の面前で言うとは思わなかったよ。」
「そう仕向けたお前には言われたくないな。」
 既に隣同士に座らされている手塚と私はよく分からない野次に、酒を飲むしかない。これがお互いここへ来る前から理解している事であればなんて事はなかったのに、とんだ誤算だ。少なくとも手塚にも想像していない飛び火があるように見えた。都合が悪い時、眼鏡は都合よく曇ってその先を見せないらしい。
「手塚、もう十一時過ぎたよ。」
「今日くらいはいいだろう。」
 珍しくまだ冷静さを保っている私は、河村くんが迷惑だろうとそう思った。店を閉めようにも閉められない状況はただの迷惑行為だと思う。そろそろ帰ろうと皆を促して駅へと向かうと、案の定二次会の話が出てくる。どうしようかと少し迷ったものの、けれど私にはその前に確認したい事があった。
「今日は帰る。次は絶対オールするから。」
「え〜、次はいらないから今日しようよ〜。」
「菊丸ごめん、今日は帰る。」
 私の意図を察してくれた不二が、菊丸を宥めるようにあやしている。スマホを一日半掻っ攫っていたという罪はあるにしても、やはり空気を読んでくれるのはありがたい。恨みは一旦忘れようと思う。
 え〜、とわんわん言う菊丸を尻目に、私と手塚は駅へと向かう。歩いて帰ることもできる距離だが、電車を使った方が早い。それに、今彼と二十分ほど話しながら帰るのは心が持ちそうにないと思ったのだ。真相を聞くにはいささか酒が足りない気がしたが、もうそんな事も言ってられない。
「空いてるから座ろ?」
 冷静になって座ってみる。私は手塚国光の彼女になったらしいが、どうしたらいいのだろうか。そもそもそれがドッキリの類ではなく事実なのかを私は確認しないといけない。決意を固めて首を右斜め上へと移動させる。
「私、手塚のこと多分好きだ。」
 多分この言葉は記憶の中から抹消される事はないだろうと思う。どくどくと感じるくらいには酔っ払っていたはずだけど、それを言った時だけはスゥッと道が開けた気がした。クスリはやってないと思う。
「…少し黙っておけ。」
 少し黙っていれば期待する言葉が聞けるのだろうか。そんな淡い期待を抱きながら、彼に誘導されるように頭を引き寄せられて、そこからはこれ以上ないほど健やかに眠った気がする。気のせいであればこの上ないラッキーだが、私は電車で寝る天才らしい。そして、どうやら手塚にもその才能があるようだ。



 徒歩二十分ほどの道のりをわざわざ電車に乗った事で、時折悲劇は起きるらしい。
 それまで気を張っていたのか、私と手塚は座って間も無く綺麗に寝入ってしまったらしい。急に酒が回ってきたといえばそうでもあるが、黙っておけと言っておいて本当に自分もそのまま黙っていた手塚にも非がない訳でもない。
 しかし残念ながら今は責任の所在をなすり付け合っている場合ではない。
「……千葉が私たちを呼び寄せてるのかな?」
「物理的にはあり得ない話だ。」
「今はそういう冷静な回答が欲しい訳じゃない。」
 見覚えのある景色だ。それもかなり直近で見た景色だ。最寄りの駅という訳でもなく縁もゆかりもない筈のこの景色を私は一体あと何度ほど見ることになるのだろうか。生まれも育ちも東京だが、先祖を辿るとルーツは千葉にあるのかもしれない。偶然にしてもこの怪奇現象はもはや恐ろしい。
「これはいっそ潔く朝まで飲み明かすか〜。」
「大学はどうするつもりだ。」
「そんなこと私に聞く?いや、言わせちゃう?」
 終電で乗り過ごしているこの時点で、もうムードも何もない。そもそも私たちの関係性に元々ムードなんて存在しないのかもしれない。
 自分の感情を自覚したとはいえ、物心ついた頃から知っている手塚と突然ムーディな感じになるはずも無いし、もはやそれは私と手塚ではない他の何かだろう。だからムードなんて求めない。その代わり、ちょっとした手応えだけは欲しいとそう思ったのだ。
「大好きな彼女の我儘くらい聞いてよね。」
 しばらく“一生のお願い”は封印しようと思う。
 理由は二つ。一つ、“一生のお願い”はいつだって“最後から二番目のお願い”になるのだから大した意味を持たない。二つ、一生を掛けずとも幼馴染から彼女に昇格した今の私であればそれを特権にできるであろう。それを答えとして今は満足しようと、そう思ったのだ。
「元々断ったつもりはない。」
「愛想ない顔してるくせにノリ良いじゃん。」
「お前はいつも一言余計だ。」
 どんな状態の私でも受け入れてくれる手塚と、この返事だけでも私は相当な幸せ者だとそう思う。仮にもし満たされなくなったその時は愛を確かめればいい。また遠路はるばる駅のホームから公衆電話で連絡をして手塚を困らせながらも迎えにきて貰えばいいのかもしれない。私も中々の性悪だ。レベルで言うと不二に近い。
 そんなことを考えていると、良からぬ私の顔に手塚は言いたそうだった言葉を飲み込んで前を向き直した。
「そう?でもそんな手塚が好きなんだもん。」
「…あまり安売りするな。」
 こんな居た堪れない手塚の表情を収穫できるとは思わなかった。しばらくは遠路はるばる彼を困らせるゲームはお預けされそうだ。胸が苦しいようなそんな恋よりも、緩やかに上昇していくこんな関係が私たちにはちょうどいいのかもしれない。


Oh,well.
( 2022’11’01 )