大学への進学を機に、私はボーダーを辞めた。
 私がボーダーに在籍したのは、たった二年程の短い期間だった。やっていた事が“防衛任務“なんて大層な名目のものだったから、実際の二年間よりももっと長く、密度が濃いように感じるのかもしれない。青春を目的にボーダーへ入った訳ではなかったけれど、きっとそれは私にとって青春だった。
 辞めたのは、自分の力なんて過信する程のものではなくて、戦力の足しになる事はあっても、私一人がいたところで何ができる訳でもなく、たかが知れていると気づいたからだ。ボーダーに入る前の私には、希望に満ちた何かがあった。
 別に一番になりたかった訳でもなければ、目立つ存在になりたかった訳でもない。何も持っていない自分を、ボーダーに入ることで変えたいと若かりし日の私は思ったのだろう。単純で、酷く浅はかな考えだ。結局、私はボーダーというブランドで自分の価値をあげようとしたかっただけなのだ。
 身内を亡くしてボーダーに入った人もいれば、そうでなくても明確な目的を持っている人もいる中で、何にも属さない私はきっと最初からこうなる筈だったのだろう。それでも簡単には辞めたくなくて、高校の卒業と同時に辞めると決めたのは入隊してから半年程経過した時の事だった。



 あえて、大学は三門を出た。とは言っても、公共交通機関を使えばすぐに行けるくらいで、ざっと電車で三十分程の距離だ。踏ん切りをつけようとしておきながらも、何処か中途半端で煮え切らない私の性格をそのまま映し出している滑稽な距離だと我ながらそう思う。
 大学に入ってから、半年が経った。それなりに充実している生活で、適度にバイトも始めた。月に一度か二度、私は三門へと帰る。実家へ帰る訳ではなく、王子に会うためだ。
「王子、あんまりじろじろ見ないでよ。」
 王子と付き合うようになったのは、高校とボーダーを卒業して、大学に入るまでの隙間時間での出来事だった。
 元々、仲はいい方だった思う。彼と“気が合う“というのはどういう人を指すのかよく分からないので、私と彼が気が合うかは別にしたとしても、少なくとも近い距離感に王子がいる事に、違和感はなかった。
「単純な興味だよ、未知のものにこそ興味は湧くものだからね。」
「そりゃ王子くらい綺麗な顔でこの世に生み落とされたんじゃご縁ないよね。」
「君だってついこの間まで、大して化粧してなかったじゃないか。」
「何、大学入ってから浮かれてんなあって思ってる?」
 聞いておいて、何となくそれに返事は返ってこない気がした。我ながら下らない事を聞いてしまった。恐らく私は、沈黙が怖いのだろうと思う。怖いというと語弊があるが、意図的に会話が途切れないよう口を動かしている節がある。ボーダーにいた頃、もっと今よりも物理的に彼との距離が近かったあの頃、そんな事を考えた事などなかったのに。
 やっぱり王子から、その下らない質問への答えは返ってこない。まだ湯気を立てているティーカップから、上品に紅茶を啜って、まるで私を被写体にしている画家のように上から下へと舐めるように私を見る。
「噂には聞いてたけど随分と時間がかかるものだね、化粧って。」
「他にもする事沢山あるでしょ?本読んだり、連絡きてないか見たりとか、沢山。」
 時間を潰そうと思えば、いくらでもその手段を持っている筈の王子は、かれこれ十分程前から始まった私の化粧を意味もなく眺めている。こちらとしても、普段なんて事なく出来ている事でも見られていると妙な緊張感で上手くいかないものだ。恐らくは、前回彼の部屋を訪れた時も私は王子に同じ事を言ったような気がするけれど、昔から理屈が通っていない“依頼“はあまり受け入れられなのだから仕方がないような気もする。
「月に数回しか会えない恋人よりも優先すべきならそうしてもいいけど、」
 言われて、ドキッとする。自分の彼氏である筈なのに、ただただ美しい顔立ちをしたその男からの言葉が何処か他人事のように俯瞰して自分の中へと入っていく。そうやって防御をしないと、自分の身が持たない。
 ボーダーにいた頃、王子から恋愛的な感情を感じたことはなかった。そこまで鈍感なタイプではないと自負しているのもあるけれど、私たちは良き理解者で、そして一友人だった。そこから何かが発展しそうな気配はなかったし、少なくとも私はそう思っていた。
 実際、高校を卒業してボーダーも辞めるまで彼との関係性はずっと平行線で揺るぎのないものだったのに、そこから私が一人暮らしを始めるまでのほんの一週間ほどで、私たちの関係は急激に変わった。私たちは“恋人“になる前に、すぐに遠距離になった。遠距離と言えば人に笑われるくらいの距離感ではあるのものの、お互いに大学生になった事や王子の防衛任務を考えても実質遠距離恋愛にそれは近い。
「意地悪な言い方するね、王子。」
「君の方から意地の悪い言い方をしたんだから、が悪いと僕は思うけど。」
「確かに。ぐうの音も出ないやつだ。」
 私も一度化粧道具を置いて、王子が淹れてくれた紅茶に口をつける。普段テーバックの安価に購入できるものをたまに飲むくらい頓着していない私でも鼻から抜けるような芳醇な香りを感じる彼の淹れた紅茶は美味しいと、そう思う。
「美味しいね、王子の紅茶。」
「ならよかった。にも違いが分かるんなら、大成功だ。」
「何、皮肉?それとも怒ってるの。」
「いいや、君は揶揄いがいがあるなと思って。まあだから、好きなんだけど。」
 さり気ないその一言に、私は再び静かにどきっと肩を振るわせる。何事もなかったように、もう一度紅茶に口をつけて、あえて王子の言葉に返事は返さない。彼が言うように、きっと揶揄って私の反応を見たいと言うのも全てではなくとも半分くらいは本音だろう。
「好きって言ったんだけど、聞こえなかったかな。」
 彼のデフォルトであるその笑みに、私は何と返すのが正解なのかを冷静を装って考える。こんな事でいちいち心拍数を上げていては今後私はどれだけ彼に寿命を縮められるのだろうか。私も好きとそう一言返すだけでもいいし、嘘じゃない点を考慮してもきっと王子はそれ以上を追求してこないと分かっているのに、簡単なその一言が喉をつかえたように出てこない。
 私たちがボーダーにいる時から付き合っていれば、或いは実質遠距離恋愛からスタートしたこの状況ではなく付き合ってからももう少し年数が経っていれば、きっとそんな事は簡単に言えただろう。けれど、この私たちの状況と関係性が、それを拒む。言うなれば、私たちは友達のまま、突然恋人になったようなものなのだから。
「……切り返しを考えてみたけど、正解が分かんない。」
「面白い事言うね、別にゲームしてる訳でもないのに。」
「王子みたいに、私は上手く言えないから。」
「ゲームでもクイズでもないし、別に正解なんてないんじゃないかな。」
 関係はもう長く、お互いの事もよく知り尽くしている筈なのに、友人というカテゴリーを飛び越えてそれが恋人になった時、私は王子の事をよく分かっていない。今までずっと友人として付き合ってきて、友人である彼しか知らなかったのだから当然だろう。逆に、王子はそうではないのだろうかと、チラリと横目をやってみる。いつもの事ながら、やっぱり彼のかんばせは変わらず、そして美しくこちらを見ている。
「ねえ王子、ちょっと手貸して。」
「はい、どうぞ。」
 藪から棒にそう言う私に、王子は素直に両の掌を私の方へと向けて、無防備に曝け出した。化粧ポーチから取り出したチューブ型のハンドクリームのお尻を折り曲げて、ぺたんこになっている銀色を擦るように中身を捻り出す。
「王子にも塗ってあげるね。これ、ホワイトムスクっていう香り。」
 普段よりも少し多めに出して、ここまで来たら使い切ってしまおうと搾り取れるだけを手の甲に乗せて、その半分を自分の掌に伸ばして擦り込んでいく。
「嫌味のない、程よい香りだ。」
「でしょ?ここのクリームは保湿力も高いから、気に入ってるんだ。」
 残りの半分を彼の手の甲に置いて見たけれど、ずっと私が擦り込みながら手に馴染ませているのを見ていた。余った油分をカサつきがちな肘の裏に少し擦り込んで「おしまい。」とそう言うと、彼は私を見ていたのではなく、待っていたのだと何となく気づいた。
「早くやってよ。僕にも塗ってくれるんだろ?」
「あのねえ、これ怪我した時の薬とかじゃないんだから自分で塗りなよ。」
「なら今度からは言葉選びをもっと慎重にすべきだね。」
 ほぼ揚げ足を取られた形になってしまったけれど、それに対しての反論の言葉を考える方がより面倒になりそうと割り切って、私は椅子に座って王子の袖を少しめくって掌全体にクリームを伸ばしていく。
 男らしいと言うよりは美しいという言葉の似合う王子には似つかないほど彼の掌は大きくて、そしてごつごつとして男らしいのだなと今になって気づく。爪なんかも如何にも男らしい短く、横に伸びた感じで意外だなと思う。
 クリームがしっかりと全体に行き渡るよう、指の一本一本を丁寧に擦り込ませていくと、自分の指と違って指の節が強めに主張をしていて、無駄に彼が男である事を認識して、意味もなく恥ずかしい気がした。
「不思議とイケナイ事してる気分だ。」
「ばか。はい、おわり。」
 塗り終わった私の手を離さず、王子は私の手から充満しているホワイトムスクの香りを堪能しているようだった。自分の手にも同じ匂いがついてるのだからと言えば、何と返ってくるか予想がついて、その言葉は飲み込んだ。
「ハンドクリームで話題すり替えたのは、今回は多めに見ておくよ。」
「…そうやって貸しを作るのは、王子の定石だ。」
「ホワイトムスクのいい香りに免じてあげるんだ、感謝して欲しいくらいだね。」
 流れ的に上手く話題の転換及びすり替えができたと思っていたが、やはり王子を前には全て見通されているのだ。私は今までだけでなくこれからも彼に戦術で敵うことはきっとないだろう。そもそも、勝負を仕掛ける事すら本当は無意味なのかもしれない。
「次は及第点もらえるくらいには、鍛錬しておきます。」
「その答えは、今現状で最も正解に近い言葉だ。」
 友人だった王子が突然恋人になったこの事案は、私が得た中でも最も大きな収穫に違いない。“友人だった王子“というその揺るぎないポジションがスパイスとなって、より私の程よい緊張と胸の高鳴りを誇張していく。
 自分と同じ、王子のつけたホワイトムスクの香りがふわりと漂って、少しだけ私たちの距離を物理的に近づけた。


おもいはせて
( 2022'01'06 )