愛称は、ポロ。実家で飼っている犬ではなく私の彼氏の愛称だ。何だか可愛らしい雰囲気を想像しがちだが、別にそんな事はない。中学までバレー部に所属していた理系男子大学生、好きな食べ物はししゃもフライ。ポロとは、彼が毎日飽きる事なく着衣しているポロシャツから取った安直なあだ名だ。今話した内容は全て私の彼氏の話である。もちろん私がポロと呼んでいる訳ではない。
「あ、さん!」
「小林くん、おはよ。」
「おはようございま〜す。」
 入学早々同じクラスだった彼とは必修科目の度に顔を合わせる関係性だった。どこなく緩く抜けているように見えて、案外出席率も高くそこそこ真面目に講義を受けている何だか不思議な人だった。第一印象は良くも悪くもない。
「これこの間借りてた本、ありがとね。」
「もう読んだの?はや〜。」
さんプレゼン力あるから読む前から読むモード入っちゃって。」
「それはどうも。」
 印象が良くも悪くもないこの男は、少々顔のいい男でもあったのだ。整った顔に、垂れ目の涙ぼくろ。喫煙所で何やらぼんやりしながら煙をふかしているのは中々に様になっていた。
「え、てかその顔の跡!」
「あ〜これの事?」
 そんな男を世の中の女子大学生が放って置くはずもなく、定期的に彼女がいたのを私は知っている。多分私だけでなく、学部内ではとても有名な話だ。付き合うのと同じ数だけ、別れがあるという事がそれを物語っている。
「また平手打ちされちゃった〜、オマケに振られた。」
 驚きよりも、またかという気持ちの方が大きい。これは彼に見られる定期的なイベントのようなものだからだ。付き合っては振られ、赤い手形をつけて授業に現れる。その度に教室は人知れず騒ついていた。
「全然悲壮感ないね、その感じ。」
「そう?」
「実際そうじゃないの?」
「ん〜、どうなんだろ。俺もわかんないや。」
 まるで悲壮感のない顔をした彼は、一体何故彼女と付き合ったのだろうかとその度に考える。一方的に別れを告げられた事に対し、喜怒哀楽どの感情も発動しないのであれば付き合う必要はあったのだろうか。そもそも彼は彼女の事を好きだったのだろうか。毎度の事ながら理解に及ばずに首を捻る。
「その様子だと二発はくらったみたいだけど。」
「あとキックも一発もらったね。」
「なにしたらそんな怒りを買うの?よっぽどでしょ。」
「え〜、なんだっけな。」
 無関心・無頓着にも程がある。本当に彼はなにを考えているのかわからない。けれど拘りがない訳ではなく、制服の如くポロシャツを毎日着こなしている。どこのブランドかは分からないし、そもそもブランドなのかどうかも分からないけれど毎日違うロゴの入ったポロシャツを着ているので、拘りがあるのかないのかもイマイチ判断しかねる部分だ。なにも分からない。
「あ、そうそう。本読んでたら怒られてね〜?でも本読むって決めてた後に来たのは彼女の方だから本読み続けててさ、ちなみにこの本なんだけど。」
 まさか自分の貸した本が火種になっているとは夢にも思わない私は急に恐ろしくなって、返却された本を早々に鞄へと仕舞い込む。金輪際二度と彼に何かを貸し出す事はやめようと誓いを立てた瞬間でもある。
「『本と私どっちが大事なの!』とか聞いてくるから本だよって言ったら顔真っ赤にして怒っちゃって、このザマ。」
「……仮に嘘だとしても言えなかった?」
「嘘つく方が相手に失礼でしょ〜。」
 昨夜顔に跡が残る程の平手打ちを受けたとは思えないいつも通りの形相で、寧ろ私の方がソワソワと落ち着かない。彼にとってはそれくらいの相手だったという事もあるのだろう。
「この間言ってたもう一つの本も今度貸してよ?」
「……普通に嫌なんだけど。」
「え〜?なんで?そんな意地悪しないでよ〜。」
 こうして人懐っこい部分がありながら、おそらくは人に干渉される事をあまり良しと思っていないのだろう。ポロはよく分からない。けれど憎む事のできない奴だとも思うのだ。そんな男は、その後私の彼氏になっていた。



 ゼミで飲み会を行ったとある日のこと。人付き合いがいいのか悪いのかよく分からない彼は、その日珍しく飲み会に顔を出していた。何度か個人的に声をかけられ二人で飲みに行く事はあったが、こうして大勢の飲み会に彼が参加するのはとても珍しい。理由を聞けば、たまたま今日はそういう気分なのだと言う。気まぐれにも程がある。
「好きだよね、ほんと。」
「え、俺の事を?」
「ししゃもフライ頬張ってるタイミングでそれ言うと思う?」
「ハハ、そりゃそうか〜。」
 彼は無類の魚好きらしい。二人で何度か飲みに行った時のラインナップを思い出す。メニューを彼に一任したので文句はないが、見事テーブルの端から端まで魚料理がずらりと並んでいた。
「ポロってとは仲良いよな〜。」
 人付き合いを積極的にしている訳でもないのに、彼の周りには人が寄ってくる。そんな彼に、ポロリと漏らしたなんて事もない言葉が事の発端だった。いつも授業では近くに座る事が多く、今日も自然と私の隣には彼が腰を下ろしていた。
「ポロお前好きなの?」
「え、ししゃもフライを?」
「今の文脈だろ。」
「ごめん俺理系だから文法とか読解得意じゃないんだよね。」
「俺らも全員理系だわ。」
 とぼけているのか、本気で言っているのか分からないのが彼の不思議なところであり、恐ろしいところでもある。何を考えているのか分かり易いようで分からないところ。しかしながら一方で、それは彼の魅力でもあるのかもしれない。
「な〜んてね、さん好きだなあ。寧ろ嫌いな人なんているの?」
 一瞬ギュッと心臓を鷲掴みされたような息苦しさを感じた。人前で何を言い始めるのだろうか。よくよく言葉を咀嚼してみると『好き』の種類にも様々あり、何も私が懸念するような『好き』ではないのだと理解できたが、それでもまだ心臓は容赦なく私を打ち付ける。
「じゃあお前ら付き合えばよくね?」
 お酒と若さの足し算は時に言うべきではない事まで紡ぎ出すものだ。求めている返答は軽くあしらう言葉、そしてその後のひと笑い。結局その場が盛り上がればいいだけの勢い任せで責任感のない言葉。
「いやいや、それじゃさんに失礼でしょ。」
「じゃあがよければポロはいいのかよ?」
「まあ、俺さん普通に好きだしな〜。」
 普通って何?本来気になるであろうその言葉も何故か耳を通り過ぎて行く。『好き』という言葉だけが誇張されたように耳元で木霊していた。もうその時点できっと、私は恋に落ちていたのだろう。今まで理由をつけて自分を認めていなかっただけで、きっともっと前から私は───、
「って皆んな言うんだけど、さんはどう思う?」
 結果的にこの飲み会で私たちは彼氏と彼女になり、付き合う運びになった。けれど今にして思えば、彼から付き合ってほしいと言われた訳でもなく、全てが私に委ねられた状態でボールを投げられただけだ。この時の私はそれに気づいていない。完全に浮き足立っていたのだろうと思う。



 ポロ改め慶二くんはとても穏やかなひとだ。
 時折何を言っているのか私の理解が追いつかない事はあれど基本的に彼は優しく、そして穏やかだった。友人の時から恋人になっても何も変わらない。そう、本当に何も変わらないのだ。
「慶二くん。」
「ん〜、なあに?」
「ねえって。」
「ん〜?」
 付き合う前とほとんど変わらない日常だ。そんなの分かっていた筈なのに、何故私は予測できなかったのだろうか。ポンポンと私を宥めるように頭上を揺らす彼の右手は私に触れているのに、彼の目線は雑誌に向いたまま私を捕えない。
「慶二くんってば!」
「え!なに、どうしたどうした?」
 どうして彼と付き合う人は彼のマイペースさに合わせてあげられないのかと不思議に思っていた自分を思い出す。私ならきっと合わせる事ができるのに、と。でもそれは私の思い違いで、結局は何事も先人たちは正しいのだと証明している。
 私は彼の付き合ってきた彼女たちとは違って、特別なのだと心のどこかでは思っていたのかもしれない。私は彼に選ばれたのだと、そんな驕った思想が心の奥底にはあったのだろうと思う。潜在的に、私は自分を満たそうとしていたのだ。
「私達もうすぐ卒業して社会人になるんだよ?慶二くんは学校勤めで、私は会社勤めで会える日だって少なくなるじゃん。」
 元々彼の事を知っていた私は、そんな彼でも私なら問題なく受け入れられると思っていたのだ。恋焦がれていたという訳でもなく、ひょんな事から付き合う事になっただけの相手。飄々としている彼に私が夢中になる事もないと、そう思っていた。
「あ〜、そんな事かあ。」
「……そんな事?」
 彼の飄々として掴みどころのないこの様はどんどんと私を溺れさせていく。こちらに向かない視線を捉えたくて。結局今までの彼女達と私も同じルートを辿っているのだろう。
「慶二くん私の事全然好きじゃないじゃん。」
 自分の口からは一生出ないと思っていた言葉が出てあまりにも惨めな自分に涙がポロポロと溢れ出していた。その涙も彼の目に止まる事はなく、その視線は再び雑誌を捉えている。
 自分だけは彼にとって特別だと、皆そう思っていたに違いない。第三者として冷静にそれを見ていた筈の私がそれを証明しているのだから。
 平手で人を打つという行為は相手にダメージを与えるだけではない。同じ衝撃波を受けた自らの掌も同じ分だけ痛みというダメージを受けるのだ。
 身をもって知るのはあまりに辛い。先人の残した軌跡という名のレールに乗っかった私は、自らの掌を痛めるほど彼のことを好きになっていたのだから。


ピリオドを打って
(2024,02,22)