半年前まで、当たり前に見慣れていた、彼女と、彼にとっての、風景が一つ、崩れていく。狭い路地には似つかない、中型のクレーン車が、青葉の目の前で全てを崩していった。
 今まさに、解体の始まっているその場所に、青葉とブン太は住んでいた。家族として、兄妹として、つい、この間まで住んでいたその場所に、彼らの見慣れた家はもう、存在しない。白い壁がむき出しになった、少し前の我が家を、青葉は見ていた。
 まさにこのようにして、家族がバラバラに解体され、消えてなくなっていったのかもしれないと、彼女はそう思う。この十七年間の思い出だとか、それまでの軌跡だとか、きっともう少しすれば、跡形もなくなってしまう。まるで、何もかもが全て、最初からなかったかのように、無に帰すのだろう。
 これで彼とも、本当に、赤の他人になったのだと、青葉はようやく理解を追いつかせた。ついこの間まで、ごく当たり前に、兄だった彼が、最早兄でもなければ、何の繋がりさえもなくなってしまった。そこに残ったのは、血の繋がりという、最も厄介で、不要なもののみだった。




 ブン太と青葉は、ごくごく一般的な家庭に生まれ育った。他と比べても、何一つ秀でたところもなければ、劣っているところもない、本当に絵に書いたような、傍から見て理想的な家族に違いなかった。
 それが終焉へと向かったのはつい半年前の事、話はとんとん拍子に進んで行き、離婚という結論に至るまでに、そう時間は必要なかった。
「おうい、青葉。今のうちに“お兄ちゃん”って呼び溜めしといた方がいいんじゃね?」
「……“お兄ちゃん”としての役割、何もしてない人がよく言う。」
「可愛くねえの。普通、女ってもんは、もっと素直で可愛いもんだろい。」
「それはすみませんね。」
 一度だって彼の事をそう呼んだ事のない青葉は、やはり、この家を去る日までその名を口にする事はなかった。青葉にとっての彼の存在は、兄であって、兄以上の存在だった。
 年下の兄弟の多い青葉の家で、一つしか歳の違わない彼女とブン太は、まるで、双子のように育った。何をするにしても、当然のように一緒にいた、兄というよりはどこか、双子のようで、同級生の友達のような関係だった。下手をすると自分よりもやんちゃで、幾分も年下に見える彼が、弟に見える事はあっても、青葉にとって、ブン太が兄に見える事はきっと一度だってなかったのだろう。
「なんだよ。お前、もっと寂しがると思ってたんだけど。」
 この時既に、青葉とブン太の引き取り手が違う事は決まっていた。彼女に悲しい感情がなかったのかといえば、そうではなく、ただ、おぼろげにしか思い浮かばない新しい生活に、ブン太が居ない事をどこか想像できず、夢物語のようにしか考える事が出来ない。悲しみが襲ってくるほどの、現実味はまだ、何処にもなかった。
「……もう、お互いを依存する年齢でもないでしょう。」
「可愛くねえ奴。」
 それが、その時の青葉の本心に違いなかった。別に今更、バラバラになった所で、きっと何も変わりはしないと。兄弟を縋る歳でもなければ、無くては死んでしまうようなものでもないと、そう考えていた。両親の離婚によって離れ離れになったところで、一生会えなくなるという、今生の別れでもなく、特に最近は前のように常に一緒にいたり、何かをしたりすることもなくなっていたのだから、何も変わりはしないのだと、青葉はなんとなくに、ぼんやりと考えていた。
「ブン太だって年頃なんだから、歳の近い私がいない方がいい事だって、きっとあるでしょ?」
 何も気にすることなく、彼女を家に連れ込む事も出来るだろうに。そう言えば、彼は酷く機嫌を損ねたように、兄とは思えない程の幼いかんばせに、更に若さを塗り重ねた。彼は思うように事が進まない時は必ず、同じ表情をした。まだ、幼いころから、ずっと、変わらずに。
「……ほんと、可愛くねえの。お前、いつからそんなんになった?」
「なにそれ。別に私は、何も変わらない。どちらかと言えば、変わったのはブン太でしょ。」
 険悪な雰囲気が漂い、弟たちがすぅっとその場を離れていく。最早、家族を分散すると分かり切ったその家に、明かりはない。父と母は、顔をあわす事すらせず、互いの自室に閉じこもっていた。残された青葉やブン太を含む兄妹たちだけが、寂しくリビングを囲んでいる。
 弟達が消え、さらに静まり返ったあと幾ばくもない命のこの家で、彼女はブン太と二人きりになった。
「…よく言うぜ。変わったのは、青葉の方だろい。」
 ブン太が、階段を上っていく。青葉は、一人、リビングに取り残された。人に比べて、ブン太が我がままなのは今も昔も変わらなかったが、改めて思い直すと、これが、初めての兄妹喧嘩だったのだと、青葉は知った。今までの、絵に描いたような順風満帆な生活が、突如、音を立てて崩れていくようだった。
 それから程なくして、青葉は一番下の弟を連れ、家を出た。残されたブン太と結局口をきく事もなく、そのまま長年住み慣れた我が家を、彼女は出た。それから一カ月ほどが経った頃、青葉は人づてにあの家が、売りに出され、そこにブン太とかつての父がもう住んでいない事を知った。
 幸いと言うのか、そうではないのか、二人は奇遇にも同じ立海生だった。両親の離婚によって青葉の姓が変わった事に、周りの人間が気づかない筈もなく、その事が原因で、彼女は学校でブン太とすれ違う事はあっても、それ以上言葉をかわそうとはしなかった。
 離婚が成立し、ブン太と青葉が別々の生活を初めてひと月が経った頃、青葉は未だ途方に暮れる寂しさを感じてはいなかった。ただそこにブン太が居ないだけで、特別何も変わらなかった。
 それからまた数カ月が経つと、ブン太が学校から消えた。正確に言えば、未だ立海生である事には違いなかったが、彼は、高校を卒業し、高校とは別のキャンパスにある、立海大に進学したのだ。今まで会話はせずとも、かろうじて姿を見ていた、その事こそが重要だったのだと、青葉は最上級生にあがった春に、思い知らされることになった。
 学校にも姿がなければ、家に帰っても彼はいない。ブン太が、彼女の前から、姿を完全に消していた。ふと立ち寄ったテニスコートにも、あの得意げな言葉を傍らにテニスを楽しむ彼も、青葉の視界には、映らなかった。そこでようやく、青葉に途方に暮れるほどの寂しさが、襲いかかった。
「何、お前。此処に来るなんて珍しいじゃん。」
 ぽつり、と取り残されたように、ただテニスコートを色のない瞳で見つめる青葉に言葉をかけたのは、燃えるような赤い髪をした、青葉と血を分けた、兄である、彼ではなかった。赤也の言葉に、青葉は結局何も答える事もせずに、コートを立ち去った。




 半年前とは違う帰り道にも慣れ始めたころ、青葉はふと、歩きなれた道に足を進める。電車に乗る事もなく、少し早歩きをすればあっという間に辿りつく、嘗て彼女が“我が家”と呼んでいたその場所に、人影はない。以前まで顔を会わせばお節介を焼いてくれたご近所さんも、何処かよそよそしく、青葉を見て遠ざかっていく。たった半年で、全てが壊れたのだと、彼女は改めて実感に至っていた。
 もはや誰も住みつかない、廃墟になったそこを眺めていた青葉に、一人の男が、作業用の車から降り、彼女の傍に寄った。彼が手に持っている書類には、小洒落た家の模型図が描かれている。暫くしてもその場を動こうとしない青葉に、ようやく、男が声をかけた。
「…あの、以前こちらにお住まいになっていた方ですか?」
 一瞬の沈黙の後、一瞬嘘をつこうと口を開いた青葉は、やはりそんな見え透いた不必要な嘘は必要ないと、ただ肯定の言葉を述べた。すると彼は、やはり、と何処か嬉しげに頬を緩ます。青葉には彼の言わんとしている事がぼんやりと掴めていながらも、どこか、それを信じぬようにしていた。その言葉を、耳にする、その瞬間まで。信じたくなど、なかったから。
 よかったですね。その言葉の後に続いた言葉に、青葉は絶望にも似た感情を覚えた。家の買い手が決まらなかったが、土地を買う人間が現れたのだと言う。ここに新しい、あの書類に描かれた小洒落た家を、建てるのだと。青葉の家庭の事情など何一つ知らないその男は、よかったですね、とその言葉を、ひたすらに繰り返した。
「この家は、いつ、取り壊されるんですか?」
 その返答が、存外に早い将来で、彼女は崩れ落ちそうになる足元を必死に、居直す。いずれこの家は、消えてなくなる。この家の人間が経験したことをそのままに、バラバラに、解体される。
 真相を聞いてしまえば、案外しっくりと納得がいった。この家は、その道を辿る運命だったのだと、妙に納得が出来たからだった。
 この家がなくなった時、全てが終わる。彼女は、そう、言い聞かせた。さすれば、このしこりのように自身を悩ます、美しき思い出も、この家と、消し去ることが出来るのだと。




 存外に早い将来とは、本当にすぐにやってくるもので、彼女は半分解体された、嘗ての我が家を見ていた。白い壁がむき出しになっている、その場所が、その当時のままを彼女の中に連想させる。がれきに埋まった思い出は、積み重なっていくばかりだった。最早そこに、あの頃の、幸せな光景は、見受ける事が出来ない。
 不思議と涙は出ない。悲しみよりも先に襲いかかる虚無感が、青葉をその場に張りつかせたように、動かさない。その場に、足が凍ったようだった。
「お前、こんなとこで何してんだ?青葉。」
 久しぶりに耳にするその声が、青葉の凍りついた体を、じんわりと溶かしたように、彼女はくるりと、声に振り返る。そこには、たった今取り壊されているその家で、長年、一緒にいた、一番彼女と思い出を共有した、ブン太が立ちつくす。
「…もう、こんなもんに依存する歳じゃなかったんじゃねえの?」
 彼のその言葉の通りすぎて、青葉は思わず自嘲する。本当に、そうであると。
「私、自分で思ってたよりも子どもだったのかもしれない。精神的に弱くて脆い、実年齢にも届かない子どもなんだね、きっと。」
「バーカ。それは、子どもに失礼ってもんだろい。子どもだからって、皆が皆、精神が脆い訳じゃないだろ。」
 二人の会話に反比例のごとく、工事の作業は、着々と進行していく。例え、この場で彼女が泣き、喚き、止めろと叫んでも、そこにあったものは戻ってはこない。そう、知ってはいながらも、青葉は叫びたくなる衝動を捨てきれずにいた。今にも泣きわめきそうな弱い自分と、初めて対峙したのだ。
 そんな衝動を必死の思いで留めた後に、ぽろりと出た言葉に、再び沈黙が包み込む。
「どうせ全てがバラバラになるんだったら、私たちも兄妹なんかじゃなくって、元からバラバラだったら、よかったのに。」
 言った本人ですら驚くような、そんな言葉に、暫くの沈黙を挟んでから、彼が口を開く。それと同時に、ごつんと、然程力の籠っていないゲンコツが、青葉の頭上に降りかかった。行動とは裏腹に、酷く、優しみを帯びた、兄の彼の顔が、そこにはあった。
「お前本当に馬鹿になったのか?大馬鹿だな、ほんと。」
 ブン太は、その場から一向に動こうとはしなかった青葉の手を取り、ずかずかと一本に続く道を歩きはじめる。あるく事ほんの数分、青葉はかつて見た事のある白いマンションの前まで、引きづられようにして、辿りつく。何も言わずに、けれど、手を離さないブン太は尚も足を止める事はなく、その白い建物の中へと入っていく。通りががりに見えたポストの一つに、丸井と、嘗ての自分の姓を青葉は見つけていた。
「別に、親父今いねえからさ。入れよ。」
 階段を何十段か上った所にある、一番右側の角部屋でようやくブン太は足を止める。そこが、今の彼の住まいであるのだと、かすかに部屋から漂う懐かしい家族の匂いによって、青葉は理解した。
 半年ぶりに見る、もう一人の弟が、青葉を見つけて駆けてくる。その光景はいつぞやと同じでも、その場所が違う事に、酷く違和感を感じていた。もう、違うのだと。
「なあ。」
「…なに。」
 テーブルにお茶を並べた彼は、椅子に座り、唐突に口を開く。青葉もワンテンポ遅れながらも、以前と同じように、何気ない口調でそれに応える。
「人が人に出会う確立、お前知ってるか?」
 突然何を言うのかと、青葉は黙り込む。けれど、彼の口は留まる事を知らずに、尚も動き続ける。
「きっと俺ら、兄妹じゃなかったら出会ってもなかったぜ。」
 その言葉に、青葉は今度こそ本当に黙り込んだ。いかにも彼らしくないその言葉に、ふいに“兄”という面影が覆いかぶさっていく。彼はやはり自分の兄であるのだと、そう、青葉は生まれてからきっと初めて、感じていた。知らず知らずの場面で、きっと、いつだって彼は“兄”であったのだと。今まで何故気づかなかったのかと、逆に不思議に思えるほどに、酷く、逞しい面影が青葉の視界を揺らす。
“兄ちゃん”
 部屋から出てきた弟が、その名を呼ぶ。青葉が一度だって呼んだ事のない、その、名を。素直にその名を呼ぶ事が出来る弟を、青葉は初めて心の底から羨ましく思っていた。
「別にそれだけでいいじゃん。それ以上は、ただの贅沢だろ。」
 そして、それは、“兄”にするには惜しいほどに、ただの、いい男であったのだと、改めながらに、実感しながら。
「泣くなっての。」
「…ばか。泣いてなんかないよ。」
 台所の奥で、やかんが音を立てる。ブン太は席を立ち、そのやかんにかかった火を止めた。彼の手が伸びた先に、見慣れたココアのパッケージが見え、当然のように二つのカップに注がれていく。相も変わらず、甘党の、兄を見て、青葉は笑う。やはりこの人は、自分の兄であるのだと、確信したのだ。
 差し出されたマグカップに口をつけた青葉と、ブン太のかんばせが、同じように模られていた。久しぶりに口にしたその飲みものは、以前と同じく、甘ったるく舌の上でとろけていった。




 思い出の地に、思い出の家は、もうない。一度は更地になったその場に、今は、あの男の書類にあった新しい家が、着々と完成へと近づいて行く。
 離婚から早一年、青葉は大学生になっていた。兄である彼と同じキャンパスへと、一歩を踏み出す。その先に、燃えるような赤い髪が、彼女の視界の中に映し出される。ようやく、あの背中を、見つけた。
「ブン太。」
 その赤が、振り返る。悪戯っぽい、酷く幼いその顔が、青葉を安心へと誘っていく。
「なんだ、進級できたんだな、お前。馬鹿だからもうこのキャンパスで会う事もないかと思ってたぜ。」
「私よりも頭の悪い人に、そんな事言われたくないね。」
 彼のどうしようもない憎まれ口が、青葉にとっては嬉しかった。共に生活をしていた頃と何も変わらない彼の対応に、ただひたすらに感謝の念を抱いた。久しぶりに目にした、彼の背が、以前よりも広く、大きく感じられた。まるで、兄としての器を示しているかのように。
 初めての登校を終え、久しぶりに青葉とブン太は、あの懐かしい道を通る。彼のあのマンションの通り道に、見知らぬ、白い家が佇む。下見にきているのであろう、幸せそうに頬を緩ますその家族に、二人は足を止めた。
 幸せそうなその姿に、見覚えのあった青葉は、見入るようにして、その家の主を見ていた。嘗て自分の家があったその場所で、幸せそうに微笑む、新たなその家族に。いつかの自分の家族像を、当てはめるようにして。
 これから彼らは青葉たちのように、きっと、この家に歴史を刻んで行くのだろう。青葉とブン太が、過去にしていたように。青葉の頬に、涙が、下った。ブン太の手が、そっと、青葉の淡い栗色の髪を揺らし、元ある場所へと戻っていく。そこに確かにあった、いつかの、自分たちの姿を、映し出して。
「いくぞ。」
 家に、背を背けたブン太に、青葉も続いて行く。彼女は、ブン太の然程大きくもない筈の背に、大きなものを見つけたように、悪態つきながらも、素直にその背についていく。
「おいノロマ、早くしろい。」
 彼女の憂鬱なあの感情が、吹き飛ぶ。彼のその言葉が、まるでララバイであったかのように、静かに、無くなっていく。青葉にとって、彼は、いつだって痒いところに手の届く、そんな存在に違いない。
 血の繋がりを、惜しく思う程の、男らしいその背中に、青葉は駆けて行った。

... 20110629
ララバイ