5.レグルスへの子守唄

 人の心を推し量るのはとても難しい。
 もしリョータの言葉が本当だったとしたら?そう考えても、うまく飲み込むことができない。辻褄が合わないからだ。リョータには好きなひとがいる、それは本人の口から私に向けて言われたことだ。
「だって今まで一度もそんなこと……」
「言えなかった。」
 リョータが言うように、そんなことなんてあり得るのだろうか。どうして言えなかったのかと言葉が出かかって、思い留まる。
 私が言えた立場じゃない。自分自身、その簡単なひと言をこの半年間まるで言い出すことができなかったのだから。そのひと言を伝えることによって全てが終わってしまうような気がして、その恐怖を前に言葉は出てこなかった。
ちゃんが好きなのは俺じゃないって知ってたから。」
 鏡写しにされたような、そんな言葉だった。
 まるで私の言葉なんじゃないかと思うような、この半年間の私の気持ちを代弁しているようなそんなニュアンスだ。ついさっきまで全く信じられなかったリョータの言葉が不思議とすんなりと受け入れられたような気がした。
「だから好きって言ったらそのまま会えなくなると思った。」
 いつも私に尽くしてくれるリョータは、その言葉だけは頑なに紡がなかった。
 その言葉や感情がなくても成り立つ関係性だからだと思っていた。それを告げるべき相手は私じゃない。だからそんな軽い気持ちで言えないのだろうと思った。雰囲気に流されることなく、しっかりとその感情だけはあの子に向いているんだろうと。
「……でもなんで。」
「翔陽戦の時さ、ちゃんは覚えてないって言ってたけど三井さんの事かっこいいって言ってたじゃん?」
 何度かリョータの口から聞いたことのある私の言葉。言ったこともあまり覚えていないくらいの、多分感想に近いそんな言葉。特別な感情というよりも直向きにバスケと向き合っているその姿がかっこいいとそう思ったのだろう。
「すげえ気分良くなくてさ、ずっと何でか考えてた。」
 どうして私に固執するのかとずっと疑問しかなかった。ピースが噛み合わずいつまでも完成しないパズルはいつも私をどうしようもない気持ちにさせた。
 ようやくその疑問と、リョータの言葉が噛み合った。何年も前から私にそんな感情を抱いていたのは全くもって気づかなかった。ずっとリョータの中にいるのがあの子だと思っていたから。
「三井さんだから気に食わねえとかそんなんかなって思ったけど……、でも全然そうじゃなくってさ。気づいた時にはもう好きになってた。」
 こんな展開を、リョータからのこの言葉を私は夢見ていた。けれどそれが叶うと思ったことは一度もなくて、その度に締め付けるような苦しみと戦った。リョータのその言葉に嘘はないとしっかり分かるのに、それでも夢見たこの状況をまだ私は受け入れることが出来ない。
「あの飲み屋にいたのだって偶然じゃない。ちゃんがよく行くって知ってたからずっと一人で待ってた。」
 明かされていく真実はどれも私が知らないことで、そしてリョータのその気持ちが本当である事を裏付けている。きっと本当はこんな種明かしのような事はしたくなかっただろうに。好きだと告げたその気持ちに嘘がないときちんと証明する為に。
「……引いたよね?」
「引いたというよりは……吃驚してる。」
「うん、ごめん。」
 恐らくこれがリョータじゃなければ引いていただろうと思う。けれどそれがリョータのした事だと思うとそんな感情はなくて、とても落ち着いた態度の裏で必死にきっかけを作ってくれていた事実が嬉しすぎて、なんだか少しだけおかしくって。
「すぐに好きって言っても付き合えないと思って……、だから時間をかけてゆっくり俺の事好きになってくれないかなって。」
 気持ちは同じなのに、私たちは逆方向を向いていたのだと今初めて知った。
 一生懸命私との関係を前進させようと努めているリョータに対して、私がしていた事はほとんど正反対のことでしかなくて。リョータに好きになってもらう努力をしようともしていなかったのだと気づく。
「でもどんどん気持ちが離れていく気がして、三井さんの話されると感情コントロールできなくなって……怖がらせてる自覚はあった。」
 きっとリョータは恥も外聞もかなぐり捨てて、私と向き合っているのだろう。
 落ち着きのないそのかんばせと、少しだけ震えている右手の拳がそれを物語っている。もうなにも疑うことなんてなくて、早くリョータを止めてあげればいいのに。急に欲張りになったように、私に向けたその言葉を一言一句聞き漏らさず聞いていたい。
「怖かったよ、とっても。」
「ほんとにごめん、沢山怖い思いさせたよな……」
 少し意地悪をした。こう言えばきっとしゅんとして、そして謝るだろうと分かっていたのに。けれどそれは恐怖という感情と共に、リョータの本当の気持ちを私に運んできてくれた。全て、私たちに必要なことだった筈だから。
「ううん、私も謝らないといけないから。」
「なに?」
「たくさん嘘をついたこと、あとリョータの純粋な気持ちを全く信じられなかったこと。」
 ずっとリョータがこうして会うたびにとても大切にしてくれること、それを純粋に信じることができなかった。リョータにとっての私の存在意義なんて体の関係以外なにもないと思っていた自分が酷く憎らしい。
 直接的な表現はしなかったけれど、大体の意図を汲み取ってくれたのか、リョータの口からまた新たな真実が語られる。その言葉の全てが、私に向いている。
「女の子ってそういう関係持つと好きになるって聞いたことあって……すげえ嫌なやり方だと思ったけど、どうしても俺の事好きになって欲しかった。」
 やり方は彼が言うように間違っていたのかもしれない。少なくとも褒められるやり方ではない。けれど、私にとっては違う。少しだけ不器用で、それでいて私への愛で溢れているのが良く分かるから。
 それは狂気に似た、愛おしさなのかもしれない。
「だから距離置きたいとか終わりにしたいとか、お願いだから言わないで……」
 世間的に見た時リョータが私に向けているこの感情は狂気じみていて、そして常軌を逸しているのかもしれない。きっと普通ではないだろう。
 けれど、それはリョータだけじゃない。
 私自身がリョータへの気持ちを酷く拗らせて、そしていろんな人を巻き込み大ごとにしているという事実が残っていて。私のそれもよっぽど狂気じみているに違いがない。自分一人で抱えきれなくなるほどの、そんな感情を持ち続けていたのだから。
「そんなの俺生きていけない。」
 ここ最近のリョータからは一変して、とても落ち着きがないその様がどうしようもなく愛おしい。駄々をこねる幼い子どものかんばせにも似ているこの目の前の青年を、私はこの半年間ずっと求めていた。片時もぶれる事なく、ずっと。
ちゃんが好き。だから、返事が聞きたい。」
 そのひと言をまだ言っていなかったと思い出す。もうほとんど言っているようなものだけど、それでもあえて言葉にする必要があるんだろうか。既に決まりきった言葉と返事が、私たちには待っている筈なのに。
 けれど形にしないと、言葉にしないと、私たちは前進できないのだろうとも思う。とてもドライで乾いた名前しか付かないその関係から、新しく進むために。
 結局私たちはとても臆病なのだ。
 きっと、そんな所がそっくりなんだと思う。





 新しい日常は想像していた以上に騒々しい。
 週刊誌に掲載されてから一週間後、また新たな記事が更新される。それを知ったのは、練習終わりに会いたいと言ってきたリョータが持ってきた週刊誌だ。待ち合わせをしたカフェに着くや否やそれをぐいっと押し付けられる。どうやら読めという事らしい。
 ページをペラペラとめくって暫くするとドッグイヤーを見つけて手を止めた。見出しには大きくリョータの名前がフルネームで書かれている。
 ──宮城リョータ熱愛、真剣交際!
 仰々しい見出しに私の心臓が止まりそうになる。止まりそうになったかと思えば、次はとても煩く鼓動を打っている。止まりそうになったり激しく動いたり、心臓側からクレームが入りそうな忙しさだ。
 一度紙面からリョータに視線を切り替えると、何故だか得意げな表情をしたリョータがいる。週刊誌に撮られてこうも得意げな人間なんて果たしているんだろうか。
「いいから読んでみって?」
 読み進めるごとに私はどんどんと恥ずかしくなっていく。それに比例するようにリョータの得意げな表情もよりレベルを上げていく。
「ちょ、ちょっとこれなんなの…?」
「ん?何って、俺らの事実じゃん。」
「……まさかとは思うけど。」
 記事の内容を見ていると、どうにもおかしい点があるのだ。
 普通写真を撮られて記事になる筈なのに、写真はリョータが一人で写っているものしか掲載されていない。記事を読み進めると、一週間前に取り上げられていた三井さんとの記事が引用される形になっている。
 つまりそれは、そういう事でしかない訳で。
「俺が自分で売り込みに行きました。」
「そういうスタイル聞いたことないんだけど。」
「うん、向こうも吃驚してた。」
 三井寿と熱愛の美女、実は宮城リョータの彼女だった!──記事にはそう記されている。ちなみにこう書いて欲しいと注文をつけたのはリョータ本人らしい。もう既に恋人になったという事実がありながらも、それでもまだ足りないとでも言うのだろうか。
「ちゃんと俺のだって言っとかないとね?」
 お互い気持ちが通ってからというものの、リョータの今まででも十分すぎた愛場表現は更なるステージに突入している。今まで言えなかったものを解禁したように目が合う度にその思いの丈を言葉に乗せてくるので、正直心臓が持ちそうにない。
「俺のちゃんだもん。」
 あれからまだ一週間だ。この一週間、本当にいろんなことが起きすぎていてとても忙しい。私のスケジュールの話じゃなくて、私の心臓のはなしをしている。
「もういいから…分かったからほんとに!」
「いいじゃん、ほんとの事なんだし?」
 前はしっかり予定を決めて会っていたのに対して、今はもっとライトにリョータは私の前に現れる。しっかりと時間を決めてデートをして、そしてホテルに行って過ごすよりもとてもライトで、そしてピュアだ。
 練習が早く終わったからと連絡もなしに会社の前で私を待ち伏せているリョータをこの一週間で三回見た。毎回会社の前が人だかりになっているけれど、そんな事はお構いなしというスタンスらしい。私が出てきたのを確認すると、周りの目を気にする事なく大きく手を振ってくる。
 全て望んでいた事だし、正直かなり鼻が高い。けれど一方でこの幸せすぎる状況を消化しきれない自分がいる。前と違う意味で、色々としんどい。なんて贅沢な悩みだと少し前の自分に怒られそうだ。
「心臓に悪いから…!」
 いつも手放さず持ち歩いていたリョータのサングラスをこの一週間見かけていない。何も包み隠さず街を歩き、そして指と指の隙間を埋めるように手を握る。以前にはなかった私たちの新しいルーティンだ。
「幸せだけどまだ夢なんじゃないかって……だからちゃんと形とか言葉にしておきたいの。」
 どこまでも臆病で、そして心配性なリョータの優しさと愛情がどうしようもなく私を安心させてくれる。一週間前には想像もしていない未来を、私は今生きているのだと幸せを噛み締めながら。
 少しの時間だけでも私に会いに来てくれるリョータとの関係は、恐ろしいほどにピュアでしかない。ただ顔を見て会話をするだけの短い時間が、今まで彼と過ごしたどの時間よりも私を満たしてくれる。
「…聞いてるこっちが恥ずかしくなる。」
「もう出し惜しみなんてしてらんないもん。」
「ちょっとは出し惜しんでください。」
「え〜、いいじゃん。」
 付き合ってからのリョータは、再会して大人っぽいと思っていたリョータよりもよっぽど幼くて、本当によく駄々を捏ねる。私のことを第一に考えてくれているのは今までと変わりなく、けれど愛情表現があまりにも豊富すぎる。
 自分が有名人である事をもっと自覚してほしいと常々思う。
「これ明日のチケット。」
「…ん?」
「特等席とってあるから絶対に来て。」
 そして最近とても強引だ。私の予定に合わせるのではなくて、こうして急にチケットを押し付ける。そんな急にと思いつつ、基本的に休みの日になんの予定もない私にそれを断る理由はない。
 思い返せば、今までも休日を一緒に過ごすのはほとんどリョータだった。結局後にも先にも、私の人生にはリョータが組み込まれているらしい。
「余所見なんてしたら許さないからね?」
「……ふふ、」
「なんで笑うんだよ?」
「なんでもないって。」
 昨日の会話を思い出しながら、私はチケットを握りしめて会場に向かっていた。リョータのバスケを見るのはあの翔陽戦の時以来だ。何度か夜のスポーツニュースで部分的に映っているのを見たことはあったけど、ちゃんとこうして見るのはとても久しぶりだった。





 今まで聞くことが叶わなかったリョータのその言葉がそこら中に広がっている世界を夢見心地に生きている。
 いろんな過去を背負って、そして今がある。幸せすぎると思わずそれを忘れそうになって、しっかりと自分に刻みつける。
 もう決して間違った道を進まないために。
 チケットに記された席を探していると、ブイ.アイ.ピー席らしいところに辿り着いた。周りにあまり人はいなくて、リョータの勇姿がクリアに見れそうな反面、私も随分と目立つような気がした。女ひとりでこんな席に座っているのだから。
 試合が始まる前のアップでリョータがコートに出てくると、彼はすぐに私を捉えているようだった。隠す様子もなくこちらに向かって合図を送ってくる。こんな事をしてファンは減らないんだろうか。リョータよりも私の方が気がかりだ。
 受け入れるようにおどおどしながら頷くと、リョータは少し不満そうだ。引っ込めていた拳をもう一度こちらに向けて翳してくるので、控えめに同じように拳を上げると満足げにニッと笑った。
 昨晩リョータの熱愛報道が出てばかりだ。
 観戦しに来ている観客の多くがその事実を知っているようで、確実に今のやり取りで周りが騒ついているのが分かって居た堪れない。リョータよりも私の方が観客の視線を集めてしまっているこの状況にどうにも落ち着かない。相対するように、リョータはやっぱり満足げだ。
 対戦チームも準備を終えてアップで反対側のコートに出てくる。
 見覚えしかないそのかんばせはとても心臓に悪い。三井さんがどこのチームに所属しているのかを知らなかった私にとって、これは完全なる不意打ちだ。コート上の三井さんと目があって、苦笑されてしまう。本当にこれは苦笑するしかない。
「もう………」
 これは偶然なんかじゃなく、確実にリョータの思惑なのだろうとそう思う。あえてそれを私に見せつけるために。とてつもない自己顕示欲だ。そんな事しなくたって、もうとっくに離れられる訳がないのをまだリョータは分かっていないんだろうか。だとしたら大馬鹿ものだ。

 試合が終わったらそう伝えようと思う。
 けれども、そんなところを含めて虜になってしまっていると言ってみよう。リョータと違って普段出し惜しみしている私からの言葉は、きっと威力があるだろうから。呆けたようにポカンとしたリョータの顔が浮かんで、やっぱり笑ってしまった。
「いけ、リョータ!」
 ブザーの音が、試合の幕開けを知らせる。
 試合はまだ、始まってばかりだ。  



+α.後日談