いつから私はこんな御用聞きのような都合のいい女に成り下がったのだろうか。元々、私はこんな仕事をする女ではなかった筈だ。そんな私を変えた元凶は、実質ボーダーの鍵を握る唐沢という男だった。
「…何卒、よろしくお願いします。」
 料亭の個室で、誰の目を気にする事なく私の体に触れてくる中年の男を気持ち悪く思わない筈もない。けれど、そうしてねっとりと孕んだ如何わしい何かを感じながらも、私はそれを拒絶することなく受け入れる。望まれれば、それ以上のこともしてきた。ただただ気持ちが悪いと思いながらも、それが私自身の仕事なんだから仕方がないと思えば、地獄を見ながらもなんとか耐え抜いてくることができたのかもしれない。
 私は、元々しがない一防衛隊員だった。自分に戦闘的なスキルと、戦略を練るセンスがないと気づいて大学の卒業とともに防衛隊を卒業し、本部勤務となった。元々の経験をもとにオペレーターをやることもあれば、広報部としてよく知っている後輩隊員へのインタビューやその取りまとめをしたりもしていた。本部に移って分かったのは、防衛任務よりもよっぽど本部での仕事の方が私にとって向いているという事だ。
 城戸司令がスカウトしてきた唐沢という男は、得体の知れない男だと当初そう思った。防衛隊員の一員でしかなかった私からすれば、大して関わりのない遠い存在だ。あまり関わりたくないと思ったくらいで、そこまで記憶に留まっていたわけでもない。
 本部勤務になってから少しした頃、彼に自分のポジションをやってみないかと声をかけられた。最初のうちは忙しい日常の腹いせか退屈しのぎの言葉とも思ってやり過ごしていたけれど、彼はしつこく私の元へとやってきては、同じ話をした。
 結局、私は言いくるめられて、ボーダーで唯一の営業担当を担っている唐沢の元に着く唯一の部下となった。その決断に至ったのは、私の個人的な感情でしかなかったのだろうと思う。何度も執拗に私を営業職へと誘う彼に負けた私は、結果的に体も許してしまった。女は関係を持つと相手のことを好きになる生き物なんて言うけれど、それは本当の事なのだと彼と交わりを持つことで生まれて初めて理解した。
「今日はもう遅いですし、また今度ゆっくり。」
 じっとりとした中年男の腕を、相手に悟られる事なくそっと退かして、次回への布石へと繋げられたら私の仕事としてはほぼ満点に近い。決して否定する事なく、また次にというところがポイントで、変にこの後体の関係を持たずとも寸止めのところでうまく交わすのが理想的だ。今日は、私の仕事は自他ともに認めるいい内容だっただろう。自分が持ちかけた取引に対しての明確な返答を得ることと共に、必要のない枕営業をせずに済んだ。むしろ、後者の方が精神的には自分の価値として大きいかも知れない。
 唐沢に営業にならないかと言われ、本部付は変わらず役割と職種だけ変わったのは半年ほど前のこと。私は、色んな官僚と寝た。自分がこんな権力者と関わるような立場になるとは思っても見なかったし、そんな営業方法をするとも思わなかった。全ては、唐沢に認められるために私が自発的に行ったことだ。
「唐沢さん、遅いです。」
 私の上司は、私に対して厳しい。同じ組織に属しているだけでは、彼の厳しさとシビアさは分からないだろう。実際、私も唐沢克己という男を長らく理解できていなかったのだろうと思う。頭のキレる幹部というイメージは当初から持っていたにせよ、城戸司令のスカウトでそのまま幹部入りした男だ、相当の手腕と能力があるに違いない。その真髄まで、当時の私はたどり着くことができなかった。だから、彼の口車に乗って、営業へと転身してしまった。
「今日は随分と飲んだようだな。」
「うちの営業部長が飲めないので、代わりに飲むしかないですから。」
「ああ、それはすまない。苦労をかける。」
 遅れてから会合に参加すると言いつつ、彼が最初から来る気などないのは理解していた。これは、毎度のことなのだから特質することでもない。結局、私は彼の営業手法の一つで、クライアントに対しての餌でしかないのだ。最初のうちはそんな自分の役割を理解できず、私は唐沢に選ばれし唯一の人間なのだと妙な自信を持っていたけれど、ほんの僅かな時間でそうでは無いことに気がついた。
「こっちは飲まないと、やってられないです。」
 今日は望まない相手と寝ずに済んで、心の底から良かったと思う。相手に望まれたら、私に拒否権はない。それを拒むことによって、私の仕事に何かしらの負荷が生じるからだ。自分の上司のように、交渉力をもっと鍛えるべきであるのは重々理解しながらも、鍛えるにも限度はある。人は得手不得手を生まれながらに持っていて、私はそれを得意としていない。そして、そんな私に手段という、手段を選ばないという手を教えたのは彼だった。
「俺がそれを強要しているとでも?」
「そんな事言ってないですよ。全ては、それで仕事がうまくいくと思った私の意思です。」
「俺は随分優秀な部下を持ったらしい。」
 私が体を汚して取ってきた成果を、彼はきちんと受け入れる。実績を出さない私に対しての態度は実に冷ややかだけれど、しっかりと結果を残した時の彼は例に漏れず私に優しい。だから、今日の彼はきっと私に優しいだろう。私は、大きな成功を成した筈だった。
 彼に枕営業をしろと言われたことは、一度たりともない。むしろ、そう明確に言葉にしてくれた方が私も動きやすいものだが、彼がそんな社会から批判を受けそうな事を自分の口から言うことはない。目的のためであれば手段を選ぶなという唐沢の教えが、きっと今の私を形成したのだろう。本部であちこち都合よく駆り出されるのもいささか不満に思っていたけれど、そんな事が可愛く思えるくらい今のこの役割は辛かった。
「上司なんですから、ちゃんと評価してください。」
「君は何をどう評価されたい。」
「……それを言葉にして聞いてくる唐沢さんは、卑怯ですね。」
「なら、部下が上司に何を望むか聞こうか。」
「それが卑怯だって言ってるんです。分かりません?」
「言葉にしなければ何事も伝わらないだろう。日々交渉してる君ならわかる筈だが。」
 この仕事にやりがいなんて何もない。結果としてボーダーを運営する上での役に立っているのかも知れないけれど、それは私の成果ではなく、唐沢の成果となるのだ。唯一私にやりがいというものがあるとすれば、こんな汚いやり口で自分を売る娼婦のような私にきちんとした褒美を与えてくれる、彼からの見返りでしかない。いつからか私は彼からの見返りを期待して仕事をするようになり、そして見返りの為に手段を選ぶことをやめた。きっと、これは唐沢の思惑通りの私の姿なのだろう。
「日々交渉してるんです、疲れ切った部下を少しは労ってください。」
「それは失礼。色々と配慮が足りず申し訳ない。」
 彼に対するこんな交渉ばかりがうまくなっているだけで、この半年で私の営業としてのスキルが上がったという訳ではない。ただ、自分の得意分野を見つけて、そしてそれを恥じることなく実践しているというのが結果を出しているだけだ。
「いつも君にばかりこういった席を任せてすまないと思っているよ。」
「唐沢さんもたまには飲んでみたらどうですか。」
「君も随分と意地の悪い事を言うんだな。強くないのは知っているだろう。」
 三百六十度どの角度から見ても鎧をかぶって隙を見せない彼だからこそ、強くない酒を飲んでくれたらいいのにとそう思う。彼がグラスに手を伸ばすことはなかったけれど、感情の見えないその瞳で私をじっと意味ありげに見つめると、意味ありげな笑みを浮かべた。酒臭いであろう私の唇にそっと一度だけ触れるようにすれば、もっとと先を望む私に応えるように舌を絡め取った。
「人には得手不得手がある。適材適所で、自分の強みを伸ばせばいい。」
 私にこんな事をしておきながら、一方で彼は私にずっと交渉しているのだ。もうこんな役回りなんて出来ないと私が弱音を吐けないように。ただ一人の女として彼が好きである私に、女になり切らせないための交渉をし続けている。限りなく上級者編の飴と鞭使いに、私はこの半年間飼い慣らされ続けているのだろう。
「俺は自分には先見の目があったと思っている。」
「それは私に向けての言葉ですか。」
「ああ、間違いなく君はこの仕事に向いている。合理的な君の考えを、俺は買っているからね。」
「褒められてるんでしょうけど、そう受け止められない自分が不憫です。」
「上司に向かってそう言える君の強さも、俺は気に入っているのかもしれないな。」
 先ほど彼が来る前、ベタベタと嫌な中年男に触られた体を彼の指が触れるだけで浄化されていくような気がするから不思議なものだ。本当は彼が触れる度に私の心は浄化どころか腐敗への道を着実に進めているとわかっているのに、その場限りの一時的な快楽に縋るしか今の私の精神バランスを繋ぎ止めてはくれないのだから。
 彼の営業スタイルは、彼の下についてすぐに叩き込まれた。自分は駒の一つでしかないのだと、根本的にはいつだってそこにたどり着く。私自身も駒の一つと表現しながらも、彼自身もボーダーにとっての駒の一つでしかないと私に言い聞かせた。そんな彼の駒として、私はしっかりと役割を全う出来ているのだろうか。その正解は、一体なんなのだろうか。
「あなたの駒ですから、あなた好みに仕上がっていて当然でしょう?」
「やっぱり俺の目に狂いはなかったな。君は完璧だよ、。」
 こんな時ばかりいつも呼んでもくれない名前で私を呼ぶのだから、この人の飴と鞭は使い方がうますぎる。そして、これも私に対する交渉で、やっぱり私自身も彼に対する交渉を続けているのだろう。交渉というスキルを私に授けたのは、他でもない彼なのだから。
「美しい君を独占したくなるよ。君を引き抜いた俺の裏の意図は、そこにあるのかもしれない。」
「今日はご褒美くれるんですね。天変地異の前触れ?」
「失敬だな。俺はいつだってファクトベースでしか話さない。」
 あんな中年男に触られていたともなると、正直心中穏やかではいられないなとそんな飴を付け加えながら距離を詰めてくるこの男は、ほぼほぼペテン師のようだ。そんな事を微塵にでも思っているのであれば、毎度権力者に抱かれる私を放っては置けないはずだ。けれど、彼はそんな私を褒美という名目で抱く。もちろん褒美というのは私が勝手に位置付けているだけで、唐沢本人からの言葉ではない。駒に対して一喜一憂することもなければ、感情など持ち合わせないのが逆にしっくりときて正しいのかもしれない。
「現に君は、美しい。誰も放っておかないから、俺が閉じ込めた。」
 彼が私を評価してくれているのは、この顔だけなのだろう。そんな事は前々からわかっていたし、何もない私を評価してくれる材料が一つでもあるのであれば、私はこの顔に生んでくれた両親に感謝せざるを得ない。彼と私を繋ぎ止める唯一の接点がそれしかないのであれば、私はこれからもこの顔を劣化させないよう努めるまでだ。彼の理想の駒でいられるように、そして駒として機能しなくなったと捨てられないように。
「やっぱり明日は天変地異に見舞われるみたいです。」
「言葉の裏を読みすぎる君は、やっぱり不憫なのかもしれない。」
「だとしたら罪深い。貴方が私を育てたんですから。」
 もう私に逃げ道などどこにもない。この男に抱かれるというたった一つの希望の為に、その他全てのことを犠牲にして生きていくしか術はないのだ。どう足掻いても私のこの感情が、女として報われる事はないだろう。それを純粋に強請れるほど無知な私はもういない。そうするには、私はあまりにも駆け引きを知り過ぎてしまった。この男が、そうさせたのだから。
「それは認めざるを得ない。その罪はきちんと償う事としよう。」
 権力を持った中年男の事を汚らわしいと誰よりも否定的な私が、きっと誰よりも汚らわしい。ここが何処か分かっていながらも、彼の駆け引きに負けた私は自分からその欲に貪りつく。誰よりも、欲に弱く、そして汚らわしい。
「はやく続きがしたいです。」
「素直な君も、それはそれでいいな。」
 ホテルへと移動するまで、私は自分の欲に打ち勝つことができるだろうか。今はその欲に支配されて、余計な事を考えられずに済む。彼が好きだというファクトベースだけで、雑念がない。本当の地獄は、彼に抱かれてから次にまた抱かれるまでの日常だ。その日常を忘れるため、私はやっぱり明日からも汚らわしい自分に自己嫌悪を覚えながらも、駒の一つとして生きていくしかないのだろう。見返りを、求めて。
 好き、と言うことすら私には出来ない。多分これから先も、ずっと。私と彼の関係性は変わらず、二人しかいないこの組織内で永遠と駆け引きを続けていくのだろう。
「独占欲を煽るのが上手くなったな。」
 私たちの言葉は全て偽りの作り物で、なんの意味も持ち合わせないただの虚構を生産し続けるだけだ。不正解はあっても、正解なんてどこにもないのかもしれない。


理不尽な指先
( 2022'02'06 )