巡察を終えると彼はいつものように裏庭に咲いている花を一輪摘んだ。こんな男所帯の風情も糞もない屯所にも花が咲くのだと不思議に思いながら平助はその花を懐に仕舞い込んでその場を後にした。半年前までは気づきもしなかった。こんな場所に、花が咲いているなんて。皮肉だね、と誰かが言っている気がした。
 いい具合に日が暮れて茜色を映し出す。平助にとって良い記憶と悪い記憶が交差する時間でもあった。昔は間違いなくこの時間が好きだった。だからこそこの茜色が好きな分だけ辛くもあった。彼は立ち止まり、茜を見上げる。闇を包み込む手前の夕焼けはいつの時代も違わずに人々の目に映し出されるのかと思うと、あいつも今こんな空を見て笑っているのだろうか、と彼はそんなことを考えた。
「おい平助!何辛気臭い顔してんだよ。そんな顔してっと島原連れてってやんねえぜ。」
 そしていつだって、彼は仲間に助けられていた。幾分か気も和らいだし、忘れられた。忘れてはいけないと、自分だけは忘れてはならないと知っていながらも知らなかった事にしたい気もする。そんな葛藤が日々彼を取り巻き、苦しめる。
「なんだ?ほんとに行かねえのか?」
「いや、んな訳ねえじゃん。行くに決まってんだろ、行くってば。」
 彼は慌てたようにそう言うと、大方彼の事情など知っているであろう原田と永倉は「そうか。」それだけ言って優しく笑んだ。それから先は本当に何も言う事もなく、彼らは大きな肩を並べて島原へと先立ってしまった。複雑な顔をした平助を、置き去りにして。
「……平助。」
 平助は聊か不機嫌そうな土方を映し、余計と表情を暗くした。平助にとって今一番出くわしたくない男との出くわしに、彼は上手く言葉を探り当てる事も出来ずにただ黙り込んだ。そんな平助を見かねたように溜息をついた土方は口を開き、彼はようやく顔をあげた。
「今日も行くつもりか。」
「……ああ。」
 一体こんな会話を何度繰り返したのだろうかと気が遠くなりそうな体を必死に支えていたのはきっと平助だけでなく、土方にとってもそれは同様の事だったのだろう。二人の境遇は似て非なるもののようで、実のところは同じだった。
 どれだけ会話をしても、何も解決を見ない現状に土方の方から縁側に腰をかけた。「お前も座れ。」言われて平助も彼に続いて腰かけた。
 よくよく考えれば二人がこうしてゆっくりと顔を合わせるのは実に久しい事だった。別に仲が違えていた訳ではなく、ただ単に顔を合わせづらいと感じていたからだ。もしかするとそう思っていたのは平助だけでなく、土方にとっても同じだったのかもしれない。
「俺の存在がお前を苦しめていたのは分かっていたつもりだ。だからって俺はお前の為に死んでやる事は出来ねえし、そんな義理だってねえ。俺は自分の信念の為に生きている。例えお前が苦しかろうとな。」
 彼の言葉は痛いほどにぎゅうっと胸にしみわたるようだった。傷口を消毒された時のような、形容しがたい痛みであって、平助にとって何よりも正論な言葉に違いなかった。
「今更俺の言葉を否定なんかすんなよ。気、使う必要なんざねえんだから。」
 平助はますます言葉を失ってしまった。まるで心を読まれているかのような、的確な彼の言葉だったからだ。
「ただ、すまなかったな…。もっと早くにお前と話をすべきだった。」
 二人の間に優しい夏風が通り過ぎ、髪を揺らす。平助は暖かい声に振り返ると、そこには鬼の副長とまで呼ばれた土方の穏やか過ぎるかんばせがあった。まるで他の、別の人間を彷彿とさせる程に穏やかで、懐かしい笑みだった。
「ほんっと土方さんには……適わないよ、俺。」
 何かを悟ったように笑む平助に、土方も同じような色をかんばせに塗りつける。当たり前だろう、一言を添えて。
「きっと俺はお前を無意識に恨んでいたんだろうな。心の奥底では、お前を許し切れていなかった。」
「俺が逆の立場でもきっとそう思うんだろうな。」
 だからもうそんな煩わしい感情を捨てる事にした。土方はそう告げると今まで痞えていた何かが綺麗さっぱり無くなったかのように、穏やかな表情をしていた。そして一つ、平助に告げた。
「平助。本当はお前も分かっているんだろう?……あそこに行くのは今日で最後にしろ。」
 再び言い当てらてると平助は面食らったように彼の顔を見つめた。強い、強すぎる程の紫が彼を射抜いていた。もう一人の、彼の半身でもあった女の顔を、平助は思い描いた。
「俺が言うんだ。そんな事してもあいつは喜びはしねえんじゃないか。」
「……分かってる。俺にだって、分かってるんだ。」
 でも自分が果たしてそれを止めてしまってもいいのだろうか。忘れてしまってもいいのだろうか。罪の意識に囚われて生きる事が自分に定められた運命なのではないだろうか。幾度となくそんな事を考えた。
 茜色を映しだす刻になると毎日足が竦んだ。行きたくないと、行くのが怖いと、前に進むのを躊躇う足が何度も竦んだ。
「怖くて足が竦むんだ。行きたくないって。それでも俺の足は竦みながらも気づいたら勝手にあの場所に辿り付いちまうんだ。無意識に、向かっちまうんだ。」
 半年間、一日たりとも欠かすことなく。
 平助は立ち上がり、竦む足と格闘しながらも毎日通うその道へと誘われていく。土方も一度彼に声をかけようと立ち上がったが、それが無意味であると知ると何も告げる事無く再び腰を降ろした。




 屯所を真っ直ぐに進み、七つ目の角を右に曲がる。再び道なりに進んでいき、付きあたりを左に曲がる。そのとある曲がり角で、そこで見るはずもない女の姿を平助は目にしていた。彼女と会うのは実に半年ぶりだろうか。彼女と最後に会った厳しい冬景色は見違えるほどに温かみを増し、緑を帯びている。
「平助!久しぶりだね。ねえ、元気にしていたの?……なんて聞くのは不粋、か。」
 艶めく黒く、一本に結われた髪を揺らした少女が遠慮がちに平助を見ていた。語尾をどんどんと、小さくしていきながら。
「久しぶりに会ったんだからそれくらい聞いてくれたって、心配してくれたっていいだろ?」
 驚きに声も出ない事をも覚悟していたが、思っていたよりも冷静に言葉を選び、喉を通って出た事に半ば自らに尊敬の念を平助は抱く。少しばかり声が上ずっていたのはご愛嬌と言う事にしておいて、何せ半年ぶりの再会ともなれば、相手の体を気遣ってもいいだけの長い時間だ。
「だって。相変わらずそんな軽装だから。元気って何よりの証拠じゃない。」
 彼女はそう言ってくすくすと可笑しそうに肩を小刻みに震わす。平助もそんな彼女に言い返すべき言葉を見つける事が出来ず、自分の髪を何度か軽く触って気を紛らわせた。ふいに お前も元気だったのか? という言葉を口にしようとも思ったが、平助は唐突にその言葉を止めた。その理由はなんとなく分かっていて、そして分かりたくなかった。
「相変わらずだね。少し、背、伸びた?」
「自分じゃ分からないけどな。そうだったらいいんだけど。」
 ほとんど同じ程の背丈だった彼女が以前よりも幾分か小さく見え、平助は自らの背が本当に伸びているのだと気づかされていた。そして皮肉にも、その裏側にあった事実にも。
「お前は変わらないな。背、伸びなかったのか?」
「平助それ分かってて言ってるでしょう?私が背なんて伸びる筈ない事。」
 彼女と最後に会ってから半年の月日が過ぎ去ってもやっぱり彼女は変わらない。何一つ、最後に見た彼女と。背丈も、髪の長さも、その日来ていた衣類も、不自然なほどにあの時と何一つ変わらなかった。相変わらず、なんて呑気な言葉で片付けられるものではなかった。
「でもね、実は私毎日平助の事見てた。此処で、ずっと見てたよ。だから本当は久しぶり、じゃないんだ。」
 彼女の言葉に彼は戸惑った。だとすれば彼女はいつもこの時間に訪れる平助を、見つからないように見ていたとでもいうのだろうか。人の気配には人一倍敏感な筈だから、彼女にそんな事は出来ないだろう。彼女が“人”であれば。
「だって平助、毎日此処を通ったから。巡察の時も念入りに、それ以外の時も、例えばこの茜色の空が照らす時も、……それで私が気づかないとでも思っていたの?」
 平助は驚きながらも小さく肯定の言葉を漏らす。その彼女の言葉の通り、彼は違う事無く来る日も来る日もこの道を通っていたからだ。雪で京の町が銀世界になった時も、嵐の日も、どんな日でも彼はこの場所を訪れた。半年前から、ずっと。
「……だったら声、かけてくれればいいじゃんか。」
 すると彼女は突如、泣き笑いのような複雑で表現しがたいものをかんばせに塗りつけ、告げる。
「平助って馬鹿っぽくて、子どもで、すぐ頭に血が上って、」
「……悪かったな。どうせ俺は子どもだよ。」
「でも、それでも本当は誰よりも物わかりが良くて、吃驚するほどに強いの。力だけじゃなくて、平助は強かった。そして本当は馬鹿であって、悔しい程に賢いの。」
 なんとなく次に彼女から発せられるであろう言葉を察知した平助はその言葉を言わせまいと、遮るようにして声を荒げて喉を這わす。
「俺は嫌だ。折角ここでお前と会えたのにもう此処に来るな…なんて言うなよ。頼むから。」
「平助。」
「嫌だ。嫌だからな!俺は賢くなんかもねえし子どもっぽいし、それでいいんだ。」
 だからもうこの場に来るななんて、言って欲しくなかった。ここに来ればまたお前にあえるんだろ?そう尋ねると彼女は静かに首を横に振った。そのかんばせは悲しい程に穏やかで、先ほど平助が見た鬼の副長と呼ばれた男のものと似ているようだった。
「……頼むから土方さんと同じ事、言わないでくれよ……。」
 絞り出したように擦れた平助の声に、彼女はやっぱりと言わんばかりにはにかんで、次の言葉を待った。
「やっぱり私のお兄ちゃんだね。よく、私の事分かってる。」
 やはり兄弟と言うものは分かりあえる存在なのだろうなと平助は痛感せざるを得なかった。彼女の考える事は兄である彼が一番理解していて、そして知っていたのだ。それは自分なんかが敵う生ぬるいものではなく、兄妹という揺るぎない関係に嫉妬してしまいそうなほどに。
「ねえ平助。もう、囚われないで欲しい。何にも囚われずに貴方の道を歩んで欲しいの。」
今にも消えてしまいそうな彼女の腕を平助は握りしめようとして、やはり止めた。彼女自身もそれを望んでいたように平助を見て「ありがとう。」そう言って悲しげに瞳を揺らした。
 本当は彼にも分かっていた。今の彼女に決して触れてはならぬ事、本来今日ここで出会ってはならなかった事、こうして懐かしむ様に彼女に抱いていた感情を呼び起こしてしまう事、全ては許されず、無意味であるのだと。
 こういう時にもっと自分が能天気でお気楽な人間であったらと願わずにはいられなかった。知りたくない事が、目の前にある。
「なあ青葉   お前、幸せか?」
 平助の言葉に彼女は目を細めて微かに頷いているように見えた。決して言葉としての返事はしなかったけれど、彼女は幸せそのものに満たされているように平助の瞳には映っていたのかもしれない。彼は満足したように「そうか。」とだけ言って笑った。
 たまらずに目の前にある青葉の体を手繰り寄せた。昔によくしてやったように、少し強引で、子どもっぽい、荒っぽい抱擁。それでもその腕の中で笑っていた彼女は今も変わらずそこに在るのだろうか。在れば、よかったのに。そこには何もなかった。平助が抱きとめたのは優しい香りを残したただの残像で、空虚でしかなかった。
平助おやすみ。また、ね。
 何もなくなった自らの腕の中から声が聞こえた気がした。それは平助が望んだが故に勝手に脳内で作りだされた幻聴だったかもしれない。しかし彼には、彼の耳には、違わずにその言葉が届いていた。



 平助は懐から一輪の花を取り出す。最後になるであろう、その花を、半年間毎日欠かす事無く彼女に捧げた花の隣に並べた。分かってはいた。その為に彼はこの場所に来る日も来る日も、訪れていたのだから。それは丁度半年前、平助の目の前で青葉が殺されたその場所であった。
 先ほど此処に出掛ける前に聞いた土方の言葉を思い出す。
    あいつは死ぬ覚悟くらい、出来てた筈だ。肝っ玉の座った江戸の女だからなあ。
 何せ青葉は土方の妹だ、その時点で彼女の決意は揺るぎないものだったのだろうと平助も思う事が出来た。大して剣術に優れていた訳でもなかったくせに人一倍好奇心旺盛で、言いだしたら聞かなくて、ぶれなくて、まるで土方の半身のような女であったと。
 目の前が霞んで、滲む。青葉が死んだのは半年も前の事だったが、今日二度目の死を見たような気がした。彼女が本当に死ぬことが出来たのは半年経った今日という日なのかもしれない。
 いつだって竦んだ足が幾分も軽く感じられる。皮肉だな、って笑って見た平助の頬に涙が下っていた。
 必死になってその涙をぬぐいあげ、軽くなった足を振りかえらせると、視界の奥で滲んで揺れる原田と永倉の姿を見つけて平助は走り出す。確かに此処に、この場所に、土方青葉という一人の人間が生きていたのだと自分の胸に刻み込んむと、不思議と涙は止まっていた。

 島原へと続く道に聳える二つの大きな背中を、涙を拭った平助は必死に追いかけた。懐かしい恋心が、暫く胸の中を突いたが、それが何だか心地のいい刺激に感じた。

また、な。

 これは、六月に死んだきみのはなし。


( 20110307 )