今年も東京に梅雨がやってきた。私は決まってこの時期が嫌いだった。湿気だけでは足りないとでも言いたげに纏わりついてくるこの喪失感と何かを渇望する気持ちが苦しかった。私の中はからっぽだった。
「……沢田か?こんな所で何してんだ。」
 梅雨入りしてばかりだというのに私は何故か一人、屋上で昼食を取っていた。雨をしのげるだけの空間はあったけれど、緩く巻いた髪もこの湿気で本来の私が持ちえる直毛へと姿を変えていた。はあ、と憂鬱な気分になってみたものの、こうなる事くらい容易に想像がついていたのに何故私はこうして憂鬱に憂鬱をさらに積み重ねたのだろうかと思うと自分でさえもう意味が分からなくなっていた。
 そんなどうしようもない私を見つけたのは跡部で、彼も私を見て捨て台詞のようにそう言ってから酷く馬鹿馬鹿しいとばかりにうんざりした顔を覗かしていた。
「跡部こそ何しにきたの?こんなとこ、似合わないのに。」
「ほっとけ。仕事だよ。」
「仕事?なにそれ。」
「生徒会の仕事だ。」
 聞けば生徒会の仕事の一環らしい。梅雨入りした事で今まで屋上で昼食を取っていた人間も教室内に戻り、逆にこの場所は絶好のスポット   例えば喫煙などの悪事を働ける場所になるのだと跡部は説明してくれた。
「残念だったね。不逞の輩じゃなくて。」
「不逞の輩よりも性質が悪いぜ。お前雨の日に一人で屋上ってきちがいか。」
「跡部にだけは言われたくない。」
 そう言えば綺麗な顔ながらも聊か不機嫌そうな面持ちで跡部が近づいてきて、そして不意に私の隣に腰を降ろした。「あれ。仕事なんじゃなかったの?」「きちがいな女が一人で弁当食ってたって報告すればもう仕事は仕舞いだよ。」「最低。」他愛もない会話を、雨に濡れるか濡れないかの瀬戸際でした。こうして跡部とまともに会話をしたのはどれくらいぶりだっただろうか。もう昔の事だから正確には分からないけれどもしかすると幼稚舎の頃以来かもしれない。久しぶりにした会話にしては、随分と湿気た会話だったけれど。
 一言二言何か小言を吐き捨てて去っていくのかとばかり思っていた跡部が、それきり黙りこんでやっぱり私の隣に座っていた。そんな彼を不思議そうにじろじろと見上げるとさすがにその視線に気づいたのか、彼は綺麗なその顔を歪まして私に振り向いた。
「……何だよ。」
「いや。跡部も案外暇を持て余してるんだなって。暇人なんだね。」
「なんだ。殴られてえのか。」
「滅相もない。」
 本当にそれは下らない会話には違いなかったけれど、私にとってはいい気の紛れに違いなかった。群れの中にいるのは気分でもなく、深く干渉されるのが嫌だった。けれどいざ一人になってみればそれはそれで中々に苦しくて、ようは究極に私はただの我がままなのだろう。でも、跡部は不思議と私が求める一定のライン上にいた。干渉しすぎないくせに、傍にいてくれた。それが、少し嬉しかった。
「……何で隣にいるの。何か喋る訳でもないし。」
 彼が今私の隣にいる事に対してのメリットはきっと何一つない。別に私に用事があった訳でも、喋りたかった訳でもきっとないのだと思う。もしそうであれば話す機会などいくらでも作れたからだ。
 私は恐る恐る尋ねると、彼は本当に突拍子もない事を告げた。
「捨てられた猫みたいだったんだよ、お前。」
 想像にもしなかった言葉に私は面食らってしまった。そして今の自分がそれだけ陰に入っていたのだと改めて気づかされた。そんな陰に入り込んでいる本当の理由も、酷く下らなくて、ただの自分の我がままである事が分かっているからこそ余計とそれが私を苛々と憂鬱にさせていた。きっと、普通の人には到底理解しえない、下らないこんな感情を。
「ねえ。きっと跡部には分からないだろうけど、聞いてもいいかな。」
 そろそろ鉄拳でも飛んでくるかと構えていたけれど、私の視界に映り込んだ跡部は至って冷静に「さっさとな。」そう呟き返した。
「大切な物がいっぺんに両方失われたって感覚なの、今。裏切られた訳じゃないのに、裏切られた気がしてる。ただの被害妄想だってこと、自分でもよく分かってるんだけどね。」
「……はっきり言ってみろよ。」
 私は一呼吸置いてから真相を話し始めた。
 私には昔から格別に仲の良い友人が二人いた。一人が女で、一人が男。少し変わった編成ではあったけれど、私達はずっと今に至るまで昔のままの関係を保っていた。ある時、その一人に恋人が出来た。相手は私の知らない人。いずれこうなる時が必ず来ると分かっていて、そしてその時は違いなく心の底から祝福できるのだと信じて疑わなかった。けれど違った。私に残ったのは喪失感と、ちょっとした嫉妬だった。友人を一人、取られたような気分だった。
 そんな折、月を跨がずしてその恋は結局破局で幕を閉じた。酷く憔悴した友人を上っ面の言葉で慰める一方何処か安堵している自分に酷く嫌気がさしていた。なんてちっぽけな器な人間なのだろうかと自分のことながら落ち込んだ。
 さらに拍車をかけたのが、昨日の出来ごと。私の大切な友人がもう一人の友人と付き合う事になったと聞かされた。その時の喪失感は最初とは比べ物にならない程に私をどん底にまで突き落とした。大切な友人二人が私の知らない所に行ってしまったような、私だけを疎外しているように感じた。実際そんな事は絶対にないと、分かっているのに。私の被害妄想は留まるところを知らない。
「なんで私喜んであげられないのかなって。自分で言うのもなんだけど、私自分がこんなに性格ブスだなんて思いもしなかった。大好きな二人が一緒になったのにね。」
 私の言葉に、乾いた問いかけに、跡部はただ黙っていた。きっと呆れていたのだろうと、そう考えるのはとても簡単な事だった。
「跡部は人の幸せを自分の幸せに出来る?」
 嫌でも人が寄って来る跡部にはきっと分からないだろうと思った。私とは天と地がひっくり返る程の境遇に置かれている彼には分からない、やはりどうしようもなく下らない悩みとも言えない悩みなのだろうと。周りにあまり人のいない寂しい私ならではの、ただの僻みであると自覚しているからこそ余計と自分が惨めに思えた。
「俺に何を求めてんだ?同調か?それとも渇か。」
「うーん。どうだろう。両方かも。」
「…よくばりな女。」
 然るべき言葉に私は何も言い返せなかった。本当に私は欲の強い女なのかもしれない。人の幸せを喜べないなんて、人間として腐っているのかもしれない。どうすれば他の人のように人の幸せを自分の幸せに出来るのだろうか。その術を教えてほしかった。そうすれば、今こんな惨めで情けない感情に押しつぶされるような事もなかっただろうに。
「私、欲張り病かもしれない。」
「バーカ。五月病だろ。気にすんな。」
「え?今日から六月だよ。」
 さりげなく返した私の言葉に 「…じゃあ本当に病気かもな。」 跡部のそんな言葉が返ってきた。本当にこれが病気だったらいい。病気であれば、いつかはきっと治るだろうから。今の私にはそんなチンケな考えしか自分を慰める事が出来なかった。
「…六月には治る病気だといいな。」
 そう言えば跡部からため息がてらに返答があった。
「もう六月だろ。」





 次の日、私は馬鹿みたいに昨日と全く同じ事をしていた。晴れを知らないこの時期に、雨の降る屋上で一人弁当を広げた。昨日と違ったのは、ほんの少しの期待だった。昨日と同じように跡部が見回りと称して会いに来てくれるんじゃないだろうかと。そんな小さな望みにかけなければ憂さの一つもはらせない自分の小ささにはほとほと笑いがこみ上げそうだった。
 けれど彼は昨日と同じように、呆れながら扉からそのかんばせを覗かせて私の隣に腰かけた。「ほんとうにお前きちがいか。」そんな悪態の一つや二つを叩きながらも、悔しい程の優しさが私には垣間見えてしまった。
「六月も初日を終えた訳だけど、ところで私の五月病はいつ治りますか。」
「さあな。一生蝕まれてるんじゃねえか。」
 この距離感が酷く心地が良かった。他の人にはない、程良い境界線の中に彼はいた。今の私には一番心地のいい空間だ。
「気分はどうだ?仲を見せつけられた感想。」
「…私が性格悪い事を前提に言えば、   最低だよ。胸が張り裂けるかと思った。」
「恋でもしてんのか。」
 跡部に言われて初めて考えを改まった。私は生憎苦しい程の恋愛というものをまだ経験したことがない。けれど本当の恋とは胸が張り裂けるほどにつらいと、誰かが言っていた気がする。単にドラマか何かで聞いただけかもしれないけれど。私には何故好きになることが苦しいのかが見当もつかない。好きであれば楽しい以外の感情がありえるのだろうか。
 その点で言えば私のこの感情は恋に似ているのかもしれない。そう思った。けれど誰に?友人に?それはありえない。きっと恋人というものが出来たらそれに匹敵する程に大切な友人ではあるけれど、私はきっと彼に恋愛感情を持ちえない。恋愛感情とは程遠い感情だったからだ。
「私も恋でもしたらこんな感情消えるのかな。」
「まずは病気を克服してからだろうが。」
「もう治る見込みがないならいっその事恋した方がてっとり早い気がしてきた!なんか半分ヤケだけど!」
 言った後に虚しくなった。所詮胸を痛めるような恋の感情を知らない私には恋をすることもきっと出来ない。一番てっとり早い方法と言っておきながら私からは一番遠い所にある解決方法だ。私には大切な友人が二人いて、そしてその二人が幸せなら、それでいいのに。そう思えれば、私も、そして二人も今よりも幾分もいいのに。
「人の幸せを自分の幸せに出来るか出来ないかは、その相手次第だろ。別にそれに関して沢田がおかしいって訳じゃねえよ。」
 私は疑問符を浮かべると、彼はより具体的な詳細を言った。酷く理解に堅い、詳細を。
「例えばの話し、お前が忍足と付き合う事になったとしても俺はきっと祝福しない。」
「…それは忍足くんが跡部にとって大切な存在だから?」
 私がそう言えば彼は気食がわるいと言わんばかりに顔をしかめていた。きっと大切な存在ということには違いなのだろうけれど、改まって言われると気色が悪いものなのだろう。男同士の友情は私が思っているよりも未知で、複雑なのかもしれない。
「馬鹿か。逆に決まってんだろ。」
 吐き捨てるように言った跡部の言葉を意味を私は結局理解できなかった。何を言っているのか分からない素振りをしている私を見ると彼のそのかんばせが酷く苛々と何かを募らせているようにみえた。
「お前の脳みそがカスなのはよく分かった。予鈴、鳴るぞ。」
 その言葉と共に、跡部は立ちあがった。私も弁当の布をきゅっと結いつけて、予鈴の鳴る前にと立ちあがろうとした。丁度その時に聞いた跡部の言葉が私の体内を巡り巡って、何かを打ち響かせた。
「ただ。ヤケおこすんなら俺にしとけ。」
「え?」
 何が起こったのか分からない程に私の体が脈を打った。何故体が大きく脈を打っているのかさえ、分からない癖に。私が立ちつくしている、そんな反応を見ると彼は背を向けて、戸を開けた。
「バーカ。冗談だ。」
 なんだ、冗談か。落胆でも高揚でもなく、私の体内にはまだ先ほどの感情が渦巻いていた。これが何であるのか、まさか恋ではあるまいと何度も思った。相手は、跡部だ。ありえない。何度も何度も自分にそう言い聞かせる事で私は何とか彼に続く様にして、予鈴の鳴り響く校内を歩きはじめた。
 未知でしかない感情には違いなかったけれど、それは大切な友人二人が恋仲になったと知った時に感じた、胸が張り裂けるような感情と酷似していた。
 テレビドラマで何度もヒロインが言っていた、その感情と。





 土曜日と日曜日を挟んだ、月曜日の今日、私は性懲りにもなくやはり同じ事をしていた。此処までくれば本当に私はきちがいなのかもしれないと、自分のことながら思ってしまう程に、呆れるほどに。けれど動機は以前とは変わっていた。雨の日に訪れる、彼を待っていた。未知の感情を、抱いて。
「芸のない女だなお前。単細胞か。」
 日に日に悪くなっていく跡部の言葉など別に気にする程のことでもなかった。私は聊か機嫌がよかった。湿気に負ける緩い巻き髪も、別に今となってはどうでもよかった。
「ねえ跡部。私、六月病治ったみたい。」
「気のせいだろ。」
「なにそれ。別に気のせいじゃないよ。多分。」
 恐らく、きっと、私の憂鬱とも呼べる病気が治ったのは本当だろうと思う。登校中にあの二人が楽しげに歩いている光景を、私は見た。きっと数日前の私であれば間違いなくそれを後ろから羨ましげに眺めていただけだったろう。陰に満ち溢れて。けれどもう、陰は見当たらなかった。自分でも驚くほどに自然に、何も変わらなかったあの頃と同じように二人の肩を叩いた。「おはよう。」と。
「きっと跡部のおかげ。悪く言えば、跡部のせい。」
「脳みそ沸いたか。」
 本当に自分でも脳みそが沸いたとしか思えないような心境の変化だった。あれだけ人生の終わりのような苦しみを抱かせた悩みが今は本当に笑い飛ばせるほどに下らなく思えた。あんな事に悩んでいたのが馬鹿馬鹿しい程に。
 結局私は私が当初思い描いたように、悩みの根源はただの被害妄想でしかなかったのだ。分かっていながらも理解出来なかった自分が今は理解出来ない。幸せそうに歩く二人を見て沸いた感情はもう、憎悪ではなかった。少し羨むくらいで、あとは私も気分がよかった。私も、あの二人のようになりたかった。
「私、ヤケおこそうと思ってる。」
 最早それがヤケではないと私自身は知り、その感情をコントロールしつつあった。
「昨日跡部が言った事が冗談じゃなければいいなって思ってる。」
 不思議と緊張や恐怖はなかった。それは自信ではなく、感情の正体をつかめたことへの安堵感と、自分自身もまた人と同じような感情を抱けることへの喜びだったのかもしれない。
 一瞬、彼は面食らったように私を見ていたけれど、不器用で優しい、そのくせに捻くれた笑顔を映し出して、大きな手が既に直毛へと戻ってしまった私の髪を揺らした。
「バーカ。」
 私の好きな、憎たらしい言葉が心地よく耳元を通り過ぎて行った。





   跡部!おはよう!
 私は東京の梅雨明けを待たずして一人梅雨の時期を終えてしまっていた。梅雨を終えた後に待つ夏そのものの私だった。きっと周りから見たら鬱陶しく煩わしい程に、別人になった私を。
 隣には跡部がいた。そんな日が続く。私は今、あの二人のようになれているのだろうか。少し前に感じていたあの憂鬱さが今となっては逆に懐かしくもあった。
「私ね、ちょっと昔の自分が可愛いなって今になって思うの。」
「何美化してんだ。調子乗ってんじゃねえよ。」
 跡部はそう言っていたけれど、私は本当にそう思っていた。あんなにも小さな事で人生の終わりを見た私が、今は愛おしい。きっと余裕があるからこんな事を思うのだろう。私は今、少し昔の私を思い出してきっと高みの見物をしているのだ。余裕が出ると人は酷く憎たらしくなるものなのだと思った。
 いつかに見たあの二人の後ろ姿が、今の私になっていればいいのに。そんな事を考えながら、私は跡部の隣をひた歩く。
「私と跡部の事を見て、少し昔の私のように憂鬱に思ってくれる友達がいたらいいなって今は思うんだ。」
「とことん性格悪いな。」
「だって逆に考えれば、それだけ私の事大事にしてくれてるって事でしょ。」
 自分でも見当違いな事を言っているのは分かっていた。跡部はため息をつくようにうんざりしてみせたけれど、その後に少し馬鹿らしげに笑っていた。私も、過去を笑い飛ばす様にして同じ笑みをかんばせに乗せる。
 後ろから足音が二つ。近づくと、私の肩を揺らした。あの時、私が二人にしたのと、同じように。
「おはよう。青葉。」
 そこにはにこやかに笑う二人がいた。何もかもをふっきれた時の私と同じように、さわやかな笑顔で。私は何も失ってはいなかったのだと、実感した。失うどころか、新しいものを得ることが出来たのだと思う。
 振り返った先に、少し昔の私が映った。酷く陰に籠り、俯き加減な私がこちらを見てさらに表情を暗くしていく。きっとあれは私への戒めなのだ。もう一人の、失う事のない自分。きっとこれから先も、私は彼女を捨てきることが出来ないだろう。その幻影を、目に焼き付けた。
「青葉。」
 私を救ってくれた、あの声が耳を掠った。違える事無く、私は前を向いて彼の元へと走り出す。きっと明日くらいには巻き髪も崩れる事無く、原型を保っていられるようになるだろうと。
 梅雨がもうすぐ、明ける。


ロストシーン
( 20110601 )