二十一歳の誕生日、煙草をやめた。 吸い始めてから長い時間が経っていた訳でもなかったので、想像している以上に簡単にやめることが出来た。吸い始めたきっかけも大したものじゃなかったから一年足らずでやめられたのかもしれない。 「煙草噛む癖、治んないんすか。」 言われて初めて、自分が無意識に煙草を噛む癖があったのだと知った。無意識ほど怖いものはないと思う。煙草を噛む癖があるなんて、私自身知らなかったしそんな癖なんて聞いたことがなかった。 「…酔ってる時ほど無意識が出るもんだよ。」 「なら酔わないでください。」 「それは大人に対しては結構厳しい助言だよ。」 「助言じゃなくてやめろって言ったんですよ。」 煙草をやめてからも、完全に禁煙できた訳ではなかった。彼の言うように私が煙草を吸うのは決まって酔っ払っている時なのだから、私は今確実に酔っているのだろうと思う。かろうじて保たれている意識を必死に首を横に振って覚まそうとすれば、余計に惨めな思いに苛まれるような気がした。 「トリマルも大人になったら分かるよ。」 「想像以上に大人ってしょうもないっすね。」 「そうだよ、夢も希望もないから。」 私自身、大人という生き物がこんなに夢も希望もない生き物だとは思っていなかった。子供の頃に思い描いていた理想像とかけ離れているどころか、失望するくらいだ。私が言った事が本当に全てだ。 「トリマルにはまだまともな大人になる権利、あるよ。」 ちょうど去年の今頃、私は逃げるようにして本部から玉狛支部にやってきた。転属することで根本的な何かが変わる訳ではない事は理解していたつもりだ。けれどボーダーそのものを辞めるという潔さを持っていない私には、恐らくこの道しか残されていなかったのだろうと思う。 「権利を使うなら自分がまともな大人になる権利なんて別に要りません。」 「なに、あえて道を踏み外したいの?」 「俺は権利なんてなくてもそこそこまともな大人になりますから。」 人は正論を聞くと時折耳が痛くなる。彼の言葉は私に耳鳴りを起こす程に痛みを生じる衝撃を与える。こんな事をいたいけな未成年に言っている時点で、私は自分が碌でもない大人である事を体現しているようでどんどんと酔いが覚めていくようだった。 「煙草をやめろとは言ってない。その癖を治してほしいって言ってるだけです。」 二十一歳の誕生日を迎える少し前、私は諏訪と別れた。きっかけはどうしようもなくくだらない事だったような気もするけれど、はっきりとは覚えていない。別れたという事実だけしか今は残っていない。 「私にはトリマルの要望を聞く理由ないじゃん。」 「だったら理由を作ればいい。」 このまま酔っ払ったまま全てを忘れて眠ってしまえれば少なくとも今の私は救われる筈なのに、自分よりも随分と年下の男がそれを阻んでくる。自分はまだ酔っていると泥酔した自分を演じながらも、確実にはっきりしていく視界がよりリアルに後悔を育んでいく。 「何学年下か分かってる?生意気だよ。」 「記憶喪失じゃないのでそれくらいは分かってますよ。」 「なら自重してよ。」 「だったらこうして醜態を晒すのも自重した方がいい。」 結局どこに行ったところで私に安息の地がない事くらい分かっていた。逃げている限り、どこに行ったところで状況が変わらない事くらい理解しているつもりだった。負うダメージは軽減されると思っていた私が安直だったのだと毎度思い知る。 「普段は吸ってないもん。たまに吸うだけ。」 「さんは自分の傷抉るの好きですね。」 その科白に私は切り返す言葉を持っていない。ダメージを食らっていないとばかりに平常心を装って、知らないふりをするのがせいぜい関の山だ。 「酔っ払ってるくせに随分冷静なんですね?」 その一言で完全に酔いを覚ませてくるのを、いつになったらこの男はやめてくれるのだろうか。煙草を吸うたびにこうしてジリジリ私を追い詰めてくるのは、私が玉狛に来てからもう何度目だろうか。意図的にやっているのであれば性格が悪い。無意識にやっているのであればもっと性格が悪い。 「本当にトリマルは悪趣味だね。」 「捉え方次第ですけど否定はしないですよ。」 「少しは先輩に遠慮しなよ。」 煙草を吸い始めたきっかけは同級生の諏訪が吸っていたからという単純な理由だっだ。酔っ払って気持ちが昂るとよく諏訪の煙草を横取りして遊び半分で吸ってみた。そうすれば諏訪が必死になってその煙草の火を消そうとするからだ。 諏訪自身がヘビースモーカーでありながらも、私が吸おうとすると必死に止めていたのを随分前のことのように思い出す。別に法律を犯しているわけでもないのに、それでも必死になって私が吸うのを止めてきた出来事がたった一年足らず前の最近の事にはどうしても思えない。 「遠慮してたら貴方はずっと過去の幻想に囚われているでしょう。」 的確すぎるその言葉には咄嗟に言葉が出なかった。酔っ払っている先輩に対してなんたる仕打ちだろうかと思いながらも、それを冷静に判断している自分の酔いが覚めていることを自覚してなんとも言えない気持ちになった。せめて彼も酒に酔える年齢であれば、また結果は違ったのかもしれない。 「酔っ払いの大人を揶揄って面白い?」 「本当に酔ってる貴女はもっと愉快です。」 「酔わなきゃ煙草なんて吸わない。」 煙草を吸う度に思い出すその存在が大きくなるのを感じながらも止めることができないこの状況を世間はなんと言うのだろうか。失恋という簡単な一言で済ませられたらいいのに、きっとそんな簡単な一言では片付かない。 「煙草吸うなら、その噛み癖やめてください。」 酔うたびに諏訪の煙草をくすねていた私は、正直その味が好きだった訳ではない。清涼感のないその煙草に苦虫を潰したような顔をして諏訪に呆れられるのが日常だった。多分煙草が好きだったのではなくて、その環境が好きだったんだと思う。 「知らないよ、無意識なんだから。」 自分自身がヘビースモーカーでありながらも彼女である私が煙草を吸うことに否定的だった諏訪は、それでも酔う度に煙草を一本吸い始める私に観念したようにある時煙草を変えた。フィルターに仕込まれた玉を潰せばメンソールになる銘柄に変えたのだ。いつ私が酔っ払って吸い始めてもいいように。 「吸ってる限り一生囚われの身なんじゃないんですか?」 冷蔵庫に入っているビールを取り出して、再び酔っ払うことに必死な私を止めるように缶を奪われてしまえば私になす術はない。全てが彼の言っている通り真実だと認めているようなものだと、私自信理解できてしまうからだ。 「トリマルも大人になれば分かる。」 「なら大人になんてならなくていい。」 その言葉に、私も静かに賛同せざるを得ない。本当に大人になんてならなければよかった。けれど、大人にならなければいっときすら私はその呪縛から放たれることはないのだから、何を信じるべきなのか全くもってわからない。 「それもそうだな。」 自分自身どうしたいのかわからない。諏訪とよりを戻すのが正解だとも思わないし、けれど諏訪を忘れられる訳でもない。だからといって目の前の年下の顔のいい男が私の傷を癒してくれる訳でもないのだから。 「理由を作るなら協力しますよ。」 「生意気な後輩には作れる理由も作れない。」 「さんは嘘つきだ。」 彼の言う通りなのかもしれない。結局何がどう転んでも、私はきっとこの状況から変わることはない。ただ、大学にもボーダーにも元彼がいるという地獄を味わうことには違いがないのだから。年下の容姿端麗なこの男が動いたところで、状況は変わらない。変わるのであれば酒に溺れた勢いでどうとでもなるはずだ。 「嘘つきに付き合ってると碌なことないよ。」 「放っておくと俺が碌な大人になりますよ?」 「たしかに。」 「先輩なら可愛い後輩が碌な大人にならない為に最善を尽くすべきだと思いますけどね。」 尤もすぎるその言葉は私の中で木霊して、そして途方もない日常を繰り返す。何かを変えるために来たはずの玉狛で、私はどうしようもない窮地に立たされる。 何がどう転んでも誰にとっても最善にならないその未来は、簡単に幕を開いた。 「…死ぬほど生意気だ。」 恋人だったかつての男を思いながら縋る時点で、どうしようもない地獄への一歩をさらに踏み出したと分かっているのに、私にはそれを止めることができない。 「きっかけなんてそんなもんでいいでしょ。」 私も彼も諏訪も、本当に誰も救われない未来が始まる。そしてきっと、何も始まらずして終わっていく。
両手の隠し事 |