それでいいから。
 そう、確かに言ったのは俺のほうだった。
 その言葉がなければ、と今の関係になることはなかったと思う。十中八九、自分の言葉が彼女を今現状の形にとどめている。その現状を望んでいたはずなのは誰よりも俺自身だったはずなのに、どうしてこうも気分がとりとめもなく闇へと落ちていくようなのだろう。
 そう疑問に思いつつも、その理由は誰より俺自身がよく知っている。

 すべては俺の言葉で、責任で、今がなされているのだから。






 数年前の、まだ記憶に新しくも少し懐かしい思い出と呼べる頃の話。俺はまだ江戸にいた。京に上洛してからも暫くは正式な仕事もなく暇をもてあましていた時期もあったが、壬生浪士組という名を改め新撰組の名を授かった今に思うと、あのころはまだ人を斬ったこともなく、目指すべき夢や希望もあいまいでどこかふわふわとしていた   何よりそんなことを考えず、剣術の稽古に明け暮れていれば、一日の飯に事欠くことはあっても大して困ることなんてなかった。つまりは、平和だったという何よりの証拠だ。
 江戸の貧乏道場にいたころ、俺には思いを寄せる女がいた。名を、という。年はひとつ上。たった一つの年の差で、佐之さん達のようにガキ扱いしてくるくせに、そんな自分が一番ガキっぽいと思わせるようなそんな女だった。
 それは京で新撰組として働く前の俺だったから、江戸にいたあの心が穏やかだった頃の俺だったからそんな想いを寄せていたのだといわれてしまえばそうかもしれない。
 道場の門弟には以外の女もいなければ、近所づきあいのある女も近藤さんの奥さんや土方さんの姉さんを除いてはいないから、その想いを抱く相手がに限定されたのかもしれない。

 好きになる境遇は揃っていたのかもしれない。
    でも確実に、間違いなくのことが好きだった。

「ほんと嫌になっちまうよなあ。剣術以外にやることもないし、金もねえから酒も飲めねえしさ。」
「文句言うんだったら住み込みで門弟になんてならなきゃいいのに。」
    まあそうなんだけどさ。と続けさまに自分から剣術をとったら何も残る自信もない俺はそれ以上を言いあぐねて言葉をぷつりと止めてしまう。そんな俺を見てもその後に続く言葉を汲み取ったのか、いってもない言葉に対して返事をつむぐ。
「だったら文句ないじゃん。これだからお坊ちゃんはさ。」
 あいつはそんな風に言って馬鹿にしたように俺を見て口角を上げて笑う。そういえば俺が少なからず反発するのを知っているから、俺は一度大きく口を大きくあけて言葉を発しようとしつつも、ぐっと言葉を飲み込んでその場に居直る。そうしないと、佐之さん達もに便乗して俺を標的にして遊んでくるのを知っているから。
「人生愚痴のひとつくらいあるだろ、皆だって。」
「平助。そういうもんは自分の心のうちに留めておくもんだぜ。特に、女の前では、な。」
「自分だって酔っ払ったときは新八っぁんの愚痴なり、若い頃の不平不満言ってんじゃんよ、左之さん。」
「少なくともこいつの前じゃ言ってねえがな。な、。」
 左之さんも新八っぁんもずるいと思う。いつだって大して俺と年の変わらないばっかり贔屓にして、俺を三人で貶めてこようとする。別に貶めようとしているわけではなく、ご愛嬌ってことは分かっているけど中々納得がいかない。   特に左之さんはずるいと思う。他意がないってのも分かってはいるけど、今みたいに自然に頭に手を乗せてくしゃくしゃと撫でてやれる左之さんを正直うらやましく思っていた。俺にはそんなこと、他意なしではできないからだ。
「なんだよ平助。羨ましいのか。」
「ハァ?そんな訳ねえじゃんか。」
「そうムキになるのがお前がガキって証拠なんだよ。羨ましいって顔に書いてあるぜ。」
 図星すぎて、そんな自分の感情を打ち消すには「煩せえな!」と叫ぶしかなかった。モヤモヤとした感情を抱きつつも、それでもに対する気持ちが薄れてくれないのが複雑だった。
 正直なところを話すと、こんなやり取りは日常茶飯事だったりする。気分が爽快ではないにしろ慣れっこだ。別に今更どうという訳でもない。左之さんを羨ましく思うことはあっても、絶対的に勝てないと思うことはない。そう思うには、ひとつの   そして決定的な理由があった。

 それは、俺がこの試衛館道場に居座るようになってからずっと変わらない。
 勝てないと思ってしまう   あの頃からそう思わざるを得ず、今も尚変わらない光景。






 左之さんに髪を撫でられ、じゃれていたが急に動きを止める。
 ふいに、奪われるようにして視線が桜の葉が散る先へと落ちていく。
「なんだ、土方さんか。今日は遅かったじゃねえか。」
「原田か。今日はお蔭様で商売繁盛だったもんでな。」
 急には何かの導線を切られてしまったように、一瞬だけ静かになってしまった。何も今に始まったことではない。俺達がと馬鹿みたいに話してるのが日常だったら、今のの現状もまた日常に違いなかった。
 そのの視線に、色づいたものを感じて、いつだって苦しくなる。
 その視線の先の人物には、俺もどうしても敵う気がしないからだ。門弟ではあるものの、薬箱を抱えて奉公に出ているあの人に俺は勝てない。

 は土方さんを見つけると左之さんの元を何事もなかったように離れて、小走りでかけていく。
 女ながらも道場の門弟となるだけの実力のあるが、いつだって土方さんを視界に映すとただの女になっているのがよく分かった。俺よりも先になじみのある二人だし、俺の知らない期間の二人の関係や時間があるんだと思う。しゃべり方ひとつとったって、大して俺らと接するときと変わりはしないのに、やっぱり悲しいほどにそれは違うように見えた。
「商売繁盛したんだったら、団子くらい土産に買ってきてくれたんでしょ。」
「馬鹿言ってんじゃねえよ。日々の暮らしで精一杯でそんな余裕ないのくらい知ってるだろお前。」
「ちぇ。つまんないの。近藤さんだったらそういう気遣いしてくれるのにな。」
「だからこの道場の経営が傾いてんだろうがよ。」
 いつだって土方さんの言葉は正しいと思う。学がある訳ではないけど、至極真っ当で厳しいことを言っているように見えてその裏面では他の門弟に対しての思いやりが溢れているのがにじみ出ている。だからこそ、皆が彼を慕っているのだろうし、俺自身もそうなのだろうと思う。そしてそれが、にとっても同じ事だって事を。
 ちぇ   と悪態つきながらも、の表情には満足げな笑みが塗られていた。
 笑顔は笑顔でも、土方さんにしか出せない表情だ。少なくとも俺には出せない。

 左之さんは羨ましい。でも土方さんは   

 もしかすると、の揺るがない気持ちを知っているからこそ、俺も固執して感情を留めることなく自分自身の中ではぐくんでしまっているのかもしれない。自分に振り向いてほしい、当初は小さかったその想いが彼女の視線の先の相手によって増徴しているような気がした。
 でも、土方さんを前に不器用ながらも女としての幸せそうな表情を浮かべるを素直に可愛いと思うのも、また俺だった。自分がこんなにも悲恋体質だったのかと笑いたくなるくらいに、愛おしいと思う。


 一瞬の間をおいて、そういえばと土方さんは背負っている薬箱を地に置き、何かを取り出す仕草をする。
 埋もれてしまっているのか、薬を掻き分けるようにして小さな小箱を手にして、彼はの名前をふいに呼んだ。本当に何事もなかったように、自然な口調で。
。」
 も彼の手のひらの中にある小箱に目を向けて、何かと首をかしげているようだった。
「これはお前にくれてやるよ。」
「何これ。」
「開ければ分かる。」
 その返事を待ってか待たずか、は早々とその小箱に手をかけた。蓋を開けた先には、いかにも女子が好みそうな布地であしらわれた裁縫道具が姿を現した。
「よかったな新八。」
 土方さんの問いかけに新八っぁんは首を傾げていたが、自分の胴着をはたと見て思い出したように「この俺の道着を繕ってくれるってかあ。」と目を輝かせるように言葉を紡いだ。
「え。私新八さんの縫い物する為の裁縫道具なんて要らないんだけどな。」
ちゃんもそう言わずにな。こういうのは女の子がやった方が世の男が喜ぶってもんだろ。」
 茶番のような新八っぁんとの会話がなされて、表面上はヤレヤレと言わんばかりのだったが、その表情の裏にはどうしようもない女としての喜びが隠れていた。
「トシさんは私の用事増やすの好きだよね。ほんと。」
「さあな。それはお前次第だろ。」
 薬売りをしていた際にえらく彼を気に入った人物が、その裁縫道具を代金とは別で手渡してくれたのだと言う。だから土産でもなんでもないけどな、と言葉は続けざまに出てきた。
 実際にそれがどういう経緯で土方さんの手元に入ったのか、真相は分からない。
 ただ、俺はついこの間が自分の手ぬぐいや道着に刺繍を入れたいのだと、   それは道着ではないが江戸の女の中で流行しているからと言っていたのを知っていた。
 偶然とは然して思えない、そんな状況だった。
「しょうがないから皆の道着とか、縫ってあげようかな。」
「頼んじゃいねえがな。あんまり付け上がるな。」
 土方さんもそういって、不適に笑って見せながら道場のほうへと姿を消していった。
 土方さんは、人に居場所や役割を与えるのが得意だ。少なからず俺だって、感謝せざるを得ないような役割をもらった事もある。脱藩して行き場のない俺を、理由も聞かずに門弟になることを薦めてくれたし、京に行ってからは切り込み隊長という役割もくれた。
 はそんじょそこらの男よりは十二分に強い実力をかね合わせてはいるものの、所詮は力の面で男に敵うことは難しい。
 それは年々俺たちが歳を重ねていくごとに如実になり、差は開いていった。
 最初は総司と同じく内弟子だったも一、二を争う腕前だったと聞くが、今は主要面子の中でに負ける者はいないのだ。それは当然といえば当然のことではあるのだけれど。
 仕方がないと割り切りつつも、どこか思いにふける事の多かったに対して、きっと土方さんは居場所を作ったんだと思う。押し付けるようにして言ったのは、そうする事で彼女がやらざるを得ないという気持ちになるのを見越してなのだろう。
「トシさん待ってよ。まずは思うがままにトシさんの道着で刺繍の練習させてもらうから貸して。」
「馬鹿かお前。誰がそんな奴においそれと渡すんだよ。ちょっとは考えやがれ。」
 俺が土方さんに対して敵わないと思っているのはこういうことだ。俺にはこういう機転は利かない。馬鹿だとも思わないが、この人を見てると自分の頭の回転の悪さと言い回しの下手さか現にいい加減うんざりする。
 俺自身がに居場所を作って上げられるような言葉をかけてあげられたのなら。   何度となくそう思うが、それはいつだって思うだけで終わってしまう。
 人には向き不向きがあり、たまたま俺にはそれが向いてないだけの話だ。
「ほんと、ちゃんは土方さんにゾッコンだよな。」
 分かりきった事実だけが、いつも二人が去った跡の風に舞う。






 試衛館で過ごすようになって更なる年月が経っていた。
 そのまま気持ちが治まってくれれば幾分と楽なのに、結局俺は土方さんを目で追っているを目に映す。笑えるほどに、何も関係性は変わらない。それが余計に、そして確実に俺をもどかしく焦らせていった。
「なあ、。」
 意味もないけど、声をかける。別に何も会話がない状況であったとしても、気まずくなる関係性ではないけれども、その沈黙が今の俺には苦痛に感じられる。
 稽古合間の休憩中だったは、特に疑問を覚えることもなく俺をちらりと見ると「なあに。平助。」特に気にする様子もなく、返事をくれる。
「…いや。別に何もねえんだけど。」
「なにそれ。」
「いいじゃんさ。駄目なのかよ?」
 そうすると、はうーんと顎に手を置いて少しの間考える仕草をすると、答えが出たように手を戻してつぶやく。
「うーん。まあ別に、駄目じゃあないけど。」
 こんな意味のない会話に対しても、特にが詮索してくる様子はない。
 俺に興味がない、という訳ではないのだと思う。この関係性がほどよくて、気を使わないでいれるからときっとはそんな事を思っているのだろう。謂わば腐れ縁のような。
 どうにかしての気を引きたいと思って、俺は今まで一度たりとも言葉にしなかった質問を投げかけた。

    お前さ、何でそんなに土方さん好きなんだ?

 直球に聞いてしまうのが一番早く彼女の表情を変えることができるに違いないと思っていた。
 顔を赤くして、否定の言葉を口にするのが目に見えていた。ある意味卑怯ともいえるような質問で、俺はの視線をこちらに一瞬だけでも向かせようとしたのだ。

 でも、彼女は先ほどと何も違わぬ表情で、黒目がちな大きな瞳で俺を見る。
 まるで、「なんだ。そんなこと?」という彼女の言葉が口から漏れ出してきそうな、俺の想像とは正反対のがそこにはいた。
「だって、好きだから。」
 ただただ率直な、正しい理由だ。
「平助はさ、誰か好きになった事ってある?」
 喉から吐き出されそうになるその言葉を飲み込んで、まさか言えるはずがないと俺は黙るがは不思議そうにこちらを見てくる。
「何で好きかって、そんなの愚問。好きになっちゃったんだから。だから、好きなんだよ。」
 想像していた状況と現状が一向にかみ合わず、思考が停止する。
 しばらくそんな状況が続いていたが、の言葉の意味を思い出して我が事として考えていくと、それにも合点がいく。
 自分自身が、に対してまったく同じ気持ちを持っていることに気づいたからだ。
 好きになるきっかけだとか、自分自身の好みの要素があるからとか、そういう外的なきっかけがあるにしても、自分自身何でが好きなのかなんて説明できない。なぜかと聞かれても、好きだからと同じ答えを紡ぐしかない。
「……お前絶対あわてて否定すると思った。好きじゃないって。」
「はは、なんでよ。」
 言っては笑う。俺も自分自身に笑いそうになる。自分で言っておきながら。
 ちっぽけな理由でをこちらに向かせようとしたきっかけが、まさか自分自身を彼女から遠ざける要因になってしまうだなんて夢にも思わなかったから。
「だって、トシさんを好きって思う気持ちに疚(やま)しさなんてないもん。」
 清々しいまでの、の言葉だった。
 俺とは違って自分の気持ちに何も後ろめたさや惨めさを感じていない、の強い心と自分の心の弱さを比較して心底なきたくなる。
「へえ。お前も競争率の高い人好きになって大変だよな。」
「まあね。でも、仕方ないしね。」
 いつだっての視線の先にいる土方さんに勝てないだけでなく、俺は土方さんを映し出しているにさえ遠く及ばない。自分自身を酷く惨めに思いながらも、やっぱりこの感情だけは薄れることなく俺の中に留まり続けて、そして育まれていく。
「そんな倍率捨ててさ、俺に乗り換えた方がイインジャン?」
「バーカ。方向転換出来ないから、好きなんじゃん。」
 そう言って笑った後に、付け加えるようにして「思ってもないくせに。」と続けた。彼女自身の信念が強すぎるからなのか、あまりにも鈍感すぎる言葉だった。苦い笑みがかんばせに塗りつけられた。
「それも悪くないかもね。   でもさ、平助も理屈もなく好きって思える人に出会えるといいね。」
 目の前に、そう思っている女を映し出しながらも、俺は今までのことがいつもの会話のようにくだらない冗談とでも言わんばかりの口調で返事を紡いでいく。
「俺、今は剣術の稽古でいっそがしいかんな。」
「飽き飽きしてるくせに。」
 はそんな言葉を残して胴着の襟を正して木刀を持ち直した。周りに引けをとらぬよう、必死に自分の場所を見つけようとして。   あの人に認めてもらい、一歩でもより近い場所で自分の場所を作ろうとしているかのうように。俺には、そんな風に見えた。
「近藤さん!久々に稽古つけてくださいよ!」
 俺の元を離れて、かけていった。






 ここでようやく話は冒頭へと戻る。新撰組として京にいる   今の話だ。試衛館道場にいた連中の多くは今も尚、居を共にしている。それは他でもない、にも該当することだ。
 あの頃と変わったのは、たった一つだけだった。
「おかえり。平助。」
 屯所に入ると、巡察を終えた俺は浅葱色の羽織を脱いで肩にかける。奥から姿を現したのは紛れもなく、ずっと一緒にいたいと俺が望んだ相手に違いない。
 彼女は羽織を俺から取り上げて、屯所へと戻ってきた俺に声をかけてくる。
 の傍にいるのは、土方さんではない。
、ただいま!」
 夢にまで見た現実が今ここにある。
    本来はそのはずだった。でも俺はあまりに幸せで、望んでも手に入らないと思っていたこの現実があまりに贅沢で現実味がないからなのだと言い聞かせる。
 が俺の隣にいるようになって、もう何年も経っているという事実に目を瞑りながら。

 辛いのは、きっと幸せすぎるから。
 あまりの幸せに心が追いついていないから。
 間違いなく、が好きだからこその感情。

 俺はそう言い聞かせるしかない。


    あの頃と変わったのはたった一つ。
 が俺の傍にいるという事。
 残酷にも、それ以外には俺もも、何も変わらないのだから。


2020'01'30