欲を前に、人はある程度無力なものだ。それは物欲にしかり、人間の三大欲求とまで称されているのだから強い意志があれば欲に打ち勝てるというものではない。私の抗う事ができなかった欲は、彼女がいる男を自分のものにするというものだった。もちろんその境遇自体に欲を感じた訳ではなく、単純にその男の事が好きだった。
 だから、相手がいても自分のものにしたいとそう思った。それを実行に移すか否かの差で、好きな人がいれば皆一度は同じ事を考えるだろう。それがタブーだからと立ち止まれる程、私は己の欲に強くないし、世間的に見ても間違った方向を進んでいるのだという自覚はあった。
「なんで彼女と別れて私と付き合った?」
「なんやねん。あんだけ言い寄っといて後悔してるん。」
「ううん、単純な興味。」
 水上を自分のものにするのは、決して簡単ではなかった。寧ろ、簡単に彼女を裏切って私に落ちるような男であれば、恐らくは好きになっていなかっただろうと思う。簡単に落ちそうもないからムキになったというのも、私を加速させたのかもしれない。けれど、確実に好きという正しい感情のもと、それは始まった。
 私は、割と打たれ強い性格だ。正式に付き合って欲しいと言って振られた訳ではないにしろ、肯定も否定もしない水上にもめげる事なく数年に渡って言い寄った。遠距離恋愛なんて上手く行くはずもなくすぐに関係性は破綻すると思っていたし、頃合いを測ればいずれ別れて私にも好機はあるような気がしていた。半年ももたないだろうと思っていた私の予測は大きく外れて、遠距離という一定の決まった関係性だからこそ上手くいくということもあるのだと知りたくもない事実を学ぶこととなった。
「こっちの大学に来るかもしれなかったんでしょ。」
「ああ、そう言えばそんな感じやったかもなぁ。」
 問題なく上手くやっている二人を、私が横から掻っ攫った。水上が彼女と別れないのであれば、自分から奪いにいくしかないと思っていたし、結果的に現状は私が望んだ通りの結末にほぼ近いのに、不思議と満たされない気持ちの方が勝っていた。
 付き合ってばかりの頃は、自分がした事に特別後ろめたさを感じる間も無く、水上が自分の彼氏になったのだという事実に全てが勝って気づかなった。付き合いが安定してきた頃、不意にどうしようもない後ろめたさと、そして恐怖が付き纏うようになった。常に何かに追われているような錯覚に陥る。錯覚か事実か、そのどちらでもあってどちらでもなく、そもそも何もないのかもしれないけれど、日々落ち着かない。
「大学なんて手段の一つでしかないし、そんなよこしまな気持ちで選ぶもんとちゃう。」
「水上と同じ大学を選んだ私に向けての皮肉のつもり?」
「あんたの捉え方次第やん。めんどいからあんま捏ねくり回して考えんといて欲しいわ。」
 付き合った当初、相当浮かれていた私は最高に幸せだった。数年間好意を寄せていた男と付き合うことができるようになったのだから、浮かれて当然だろう。寧ろ正しい感情の筈だ。
 見た目も中身も淡白な水上を好きになった時点で彼の愛情表現は潜在的で顕在的にはならない事など理解していた筈なのに、付き合ってしばらく経って冷静になった頃、急に恐怖はやってきた。別に無碍にされていた訳ではない。水上なりに私の事を大事にしてくれていると思う。ただそれが見えにくいだけで、しっかりと私は彼女としての待遇を受けている。
「ちょっと昔の女に嫉妬してる彼女を演じただけ。」
「自分、めっちゃつまらん嘘つくやん。」
「…なにそれ、空閑くんの真似でもしてるの。」
 きっと、水上には私の考えている事など手に取る様に伝わっていて、隠す事にあまり意味はないのだろう。私自身も、自分が抱えるこの恐怖の得体を実のところ理解をしていて気づいていながら、ずっと臭い物に蓋をしている状態だ。そして、それすら水上は気づいているのだろう。
「言うても無駄やろけど、自分の罪許したれや。」
 付き合って暫くして、酷く冷静になった。自分が望んだ結末が成立している裏側で、自分が何をしたのかを考えて、ゾッとした。もし私が逆側の立場だったらと考えると、恐怖以外の何者でもなくて、ようやく罪の意識というものを強く感じた。
「そんな謙虚な女じゃないよ、私。だって私が望んだ結末通りに今なってるし。」
 あれだけ彼女がいるからと私を牽制していた水上が落ちた時、表現し難い幸福感とスリルが共存していて、全てを手に入れたような優越感に浸った。後先考えずに行動した結果は、結果的に私を苦しめる。だからと言って、水上を諦められたかと聞かれたら首を縦に触れないのだから、どの未来を辿っても私は苦しむ運命だったのだろう。付き合えてからの苦悩か、付き合えない事への苦悩か、それだけの違いだ。
「傲慢な女やな。」
「傲慢じゃなきゃ、こうはなってなかったでしょ。」
「元カノはもっと謙虚でお淑やかやったで。」
「結果的に私に落ちてるし、傲慢が好みなんだよ。」
「傲慢超えて、性格に難ある発言や。」
 そもそも、何故水上を好きになったのかと聞かれると私は困ってしまう。好きになるのに理由なんて必要がないとドラマなんかで言っていたりもするけれど、まさに私はそれに共感する。気づいた時には、既に好きになっていた。ボーダーというそもそも緊張感が常に蔓延る環境の中で、口調もそのかんばせさえも緩い彼が自分にとって落ち着く存在だったのかもしれない。
 いつから私は、こうなってしまったのだろうか。少なくとも、水上と付き合うまでこうではなかったはずだ。彼の彼女になれなかった頃の私は、今よりももっと生き生きとしていた気がする。
「死ぬほど手間かかる奴やな、お前。」
 それが水上にとっての負担なのか、はたまたそれを楽しんでいるのか、私にはその真意を測る事はできない。いつも飄々としていて、なにを考えているのか分からないのだから、私なんかではわかる筈もないだろう。寧ろ、私にとってはそこが魅力的に見えたのかもしれない。付き合っている今ではなく、付き合う前のあの頃の私にとって。
「知ってて私を選んだくせに。」
 私は、あえて水上に別れの真相を聞かなかった。そもそも付き合った当初は、付き合えたことに満足していたし、その理由なんて大した問題ではないと思っていた。寧ろ、私は彼女にも打ち勝つくらいに水上の心を射止められたのだと笑われるようなポジティブな考えさえ持っていた。
 けれど、次第に彼が別れたその真相が気になり始めた。そもそも彼女と上手くいかなくなってきていた所で身近で手軽な私に乗り換えたのか、はたまたドラマのようにいけない事と分かりつつ彼女よりも私を好きになってしまったのか。真実は分からないけれど、結果的な事実として私が略奪した事には変わりない。
「文句言わんと、大人しく俺の彼女しとき。」
 あの頃の私には、気づくことなど出来なかっただろう。手に入らないもどかしさがありながらも、それも何処か楽しかった。そして、手に入らない分失うという恐怖はなかった。水上を自分の思惑通り自分のものにした私は、きっとあの頃と比較して余裕はないだろう。彼を手に入れた代償が、私の咎として私を苦しめる。これが私が受けるべき贖罪なのだろう。
「…わかってる。」
 ふと、私の脳裏に因果応報という文字がよぎる。自分がしたことはいずれ必ず自分に返ってくるというその意味に怯え、震える。愛情をあまり表現しない水上にしては珍しく、私の震え上がった肩をそっと抱いた。

さもありなん
( 2022'01'16 )