女は柄にもなく、簪をさす。最後に自分を着飾ったのは一体いつの事であっただろうかと、青葉はふと考える。もうそれは思いだせない程に遠い記憶の中でぼんやりとしていて、それだけ彼女にとって今日が特別だという事を同時に示していた。 質素極まりないこの部屋を、今まさに、彼女は出ようと腰を上げる。その先にいかにも暇そうな、あの顔が彼女を捕えて、また自然と横を向いた。この数十年、青葉が望んだような彼の態度は見る事が出来ない。ただの一度たりとも。ほんのりと色づいた程度のそれに、相応しい反応もなければ、きっとこれから先もないのであろう。青葉は、一つの賭けに出た。 「何だ、お前その格好。家出でもすんの?」 ようやく銀時が再び青葉へと視線を合わせ、まるで驚きを見せない、あのいつものようなかんばせのままに言ってのけた。きっと彼には全てが理解されているだろうと、なんとなくは分かっていた。だからこそ、今彼女がしようとしている事がいかに無意味であるかも、彼女は知っていた。 「…だったら止めてみる?」 柄にもなく、弱弱しく響いた言葉に、彼は呆れたような笑みをひとつ、投げ飛ばした。 「俺が止めろって言って聞くほどお前が素直な女だったらもっと扱いやすかったね、色々と。」 彼とこうして、何の疑問もなく傍にいるようになってから数年、青葉にはようやく見えたものが一つ、あった。きっと此処には、これ以上のものはないと、そうなんとなく理解した。彼女にとって酷く居心地のいいこの場所は、それ以上になる事はきっとない。青葉は自分の高望みな欲望に、小さく笑った。 「可愛くない男。」 「お前程じゃない自信はあるがね。」 言われて、確かになんて言って見て彼女は再び笑った。自分に足りなかったのは、一体何であったのだろうか。考えた処で答えは出ないようで、本当は分かりたくないだけで、分かっていたのかもしれない。 空っぽに程近い、この部屋も今日で見おさめと思うとどうにも物寂しく、青葉の足を留める。きっと自分が居なくなった所で、ここの生活は何一つ変わらないのだろうと考えれば考えるほどに、酷く憎らしくもある。彼女だけを切り取ったように、何変わらぬ日常を彼は過ごすのだろうと。 「万屋のエースが抜けると色々と大変なんじゃない?アンタも。」 「馬鹿言え。人件費カット。エコエコ。」 「給料なんてまともに払ってもらった事ないけどね。」 「大丈夫。生きてりゃなんとでもなる。」 別れには相応しくない、日常的な会話、そして互いの態度は、いつもと何変わらない風景であり、ただ彼女が柄にもなくめかしこんでいるその一点のみが、宙に浮いているようだった。 「今生の別れにしては随分とあっけないんだね。」 期待に沿う言葉など期待していない、けれどきっと心の奥底で長年願い続けたその余韻が、そんな未練たらしい言葉を彼女の口から紡がせるのだろう。意味もなくついているテレビからは、場の雰囲気にそぐわない、高らかな笑い声が響いていた。嘗て、彼と腹を抱えながら見たそれすら、二人に笑いを与える事はなかった。 「お前が勝手に今生の別れにしただけだろ。別に俺は出てけとも言ってねーからな。」 「うん。そうだった。」 こうすることでしか自分を変えられる術を、彼女は見出せなかった。そうすることで変われるという根拠など、何処にもないのに。高望みさえしなければ、とそんな言葉だけが青葉の脳内でぐるぐると渦巻いて行く。 「じゃあ。元気でね。」 青葉は、意をけして、前に足を出す。 今にも後退しそうな自らに、必死に体重を乗せてようやく前へと踏み出した。 「青葉。」 彼にその名を呼ばれるのは、一体いつが最後であったろうか。それは彼女の記憶を遠く遡らなければ思いだせない程に、遠く、遠い。意を決した割に、彼女の足は簡単に歩みを止めて、その場に立ち止まった。 「まだ今ほど天人が居なかった江戸を、覚えてるか。」 何の脈絡もない、彼の言葉。昔話をする程、彼は過去に縛られる人間ではない。それは青葉が一番に理解している事だった。だからこそ、彼の言葉の意を青葉は理解することが出来ないでいた。 「あの時はこうやって奴らと共存するなんざ夢にも思ってなかった。江戸の空に宇宙船がこんなにうろうろするだなんて想像にすら出来なかったよ。でも今、現に俺らは奴らと共存してんだろ。奴らを排除しようとした俺でさえ、今はそいつらが作ったこの世の中で平然と生きてるんだ。」 まだ武士が闊歩していたあの頃の事を、青葉は少しだけ思いだしていた。化け物のように見えた天人が、今は懐かしい。今や隣に天人が住んでいても何の不思議もない世の中になった。彼らを排除したいと心の何処かで思っていようと、きっと彼らが居なくなれば人の生活は崩壊してしまうだろう。世の中の便利さと厄介者を天秤にかけた時、一体どちらが振れるであろうか。それは想像に容易い。 「…行き成り何言い出すの。」 江戸が変わってしまった事に、愕然としたあの頃。今はもうその頃の感情を、彼女は思いだす事が出来ない。あの頃の絶望は、今はない。 「あの頃の恐怖も、絶望も、今は忘れただろって事だ。そのうち何でも忘れるんだよ。人ってのは」 嗚呼、やはり彼には敵わない。青葉は何も言い返す事が出来なかった。そして、彼女は如何に自分がちっぽけであるのか、ひしひしと感じ取っていた。彼に隠し事は出来ないのだと、今青葉はようやく思いだしていた。 「きっと俺の事だって、思い出の一部くらいにしかならないんだろうな。」 「なあに。不満?」 「さあね。」 いつだって、彼は青葉を答えに導いた。さして何も考えていないように思える、そんな態度で。遠まわしすぎて分かりにくい、彼の優しさが、傷口に染みて行くように青葉の視界を揺らし、歪ませた。そう言えば、青葉が余計と苦しむ事を、知っていながらも。きっとそれが、銀時の性分だろうから。つくづく損な役割が似合う男だと、青葉は小さく笑んだ。それが、彼が皆から欲される所以であると、再認識した。 「それで?いつ帰ってくんだ?」 あっけらかんとした、彼の声が無機質な部屋で小さく響く。 「馬鹿。それただの家出娘じゃない。」 「違うのかよ。」 「違うよ。」 熱を含んだそれを、彼女は一度拭いあげて、振り返る。 「じゃあね、銀時。」 再び、元ある場所へと、前へと向きなおして、青葉は歩みを進めた。つけ慣れていない簪が、しゃらしゃらと音を鳴らし、響き渡った。もう二度と帰って来る事のない、見慣れた戸を開ければ、見当違いな程に晴れ渡った、江戸の空が見えた。 「青葉。」 もう聞く事もない筈であったその単語が、再び彼女を立ち止まらせた。けれどもう、彼女は振り返らない。しっかりと、進むべき方向へと、足を揃えて。長年淡い恋心を抱いた、その男の声を耳に焼きつけながら。 「何か困った事があったら聞いてやるぜ。まあ、俺万屋だし。」 別料金でな。なんてそんな捨て台詞がいかにも彼らしくて、笑えてしまう。何に困り、何が原因で彼女が此処を去らんとしているのか、知っていての白々しいその言葉が、逆に青葉を安心へと誘った。 「…馬鹿。」 とある万屋の、戸が開いた。 20120131 |