新撰組できっとこの人は一番早くに目覚め、そしてきっと一番最後に眠りについているのだろう。隊士の中でも彼の眠っている姿を見た事がないともっぱらの噂だった。一体彼はいつ寝ているのだろうと。青葉もそんな彼への疑問を持っている一人だった。彼女が他の隊士と違ったのは今まさに、それを彼に告げようと歩みを進めている事だ。 最近の彼、土方は見ていられなかった。いくら隊務と言えど明らかに彼の働きぶりは限界を超えたもので、まさしく彼の二つ名のような鬼のような働きぶりであった。 「失礼します。」 襖の先に見えた彼の眼差しはこちらを見ようともせずにドスの利いた声で青葉を叱りつける。 「誰が入っていいと言ったんだ。勝手に入ってんじゃねえよ。」 「どうせ入っていいかと聞いても駄目だと仰るつもりでしょう?」 「だったら尚更だろう。許可した覚えはねえぞ。」 「許可してもらわないと土方さんに入れたお茶が無駄になってしまいます。」 土方は青葉の手元から湯気の上がった茶のみを見るとハアと一度大きなため息をついてから彼女を拒絶する言葉を、ようやく止めた。 濁音をつけてようやく茶をすすり始めた彼を見る事でようやく青葉の表情もほんの少しだけ緩く、綻んだ。彼は少々強引にでも言わなければ自分の体の事など気にしてはくれないからだ。自分の体を大事にするという言葉を知らない人だった。 やがてその表情から笑みを消した青葉を見て土方は嫌がる様に視線を尖らせて視線をぶつけた。 「……何か言いたそうだな。」 さすがの土方でさえ、これから始まるであろう青葉の小言を予想し、構えた。普段は気の弱いただの女に見える青葉もやはり、彼が苦手とする江戸の女であることには違いない。これからの憂鬱を考えれば考えるほど彼の憂鬱は増していくばかりだった。 「お茶、飲んでくれてよかったです。」 きっと誰もが予想の出来ない青葉の言葉と、穏やかな彼女の表情だった。見当違いな言葉をかけられた土方も思わず声をあげた。「アァ?そりゃどういう見解だ。」と。 「じゃあ叱った方がよかったんですか?」 「そういう訳じゃねえが。普段のお前なら口うるさくあーだこーだ言うじゃねえか。」 そう言った後に彼は少しだけ口ごもった。青葉がありったけの鋭い視線で彼を睨みつけていたからに違いないだろう。「普段から口うるさい女ですいませんね。」そんな皮肉たっぷりに言った青葉に土方は今度こそ口を閉ざしてしまった。 暫く二人は無言の時を過ごした。幕府に宛てた密書をしたためるに土方の右手が筆を揺らしていた。青葉はそんな彼をただ黙り込んでみているだけだったが、ようやく彼がその作業を終えようという時、彼女の重い口が開かれた。 「だって。土方さんに仕事をするなって言った所で願いを受け入れてもらえないのは分かってますから。」 彼はそんな青葉の違いもない本心を聞いて、少しだけ心が軽くなったように笑った。 「よく俺の事分かってんだな、お前は。」 堪忍したように笑う土方に今度は青葉が首をかしげる。青葉が彼に見当違いな言葉を与えたのであれば、また土方も彼女に同じような言葉を与えているのだろう。 「そんな事知れても嬉しくはないですけどね。どうせならもっといい事を知りたいです。」 「まあそう言ってくれるな。」 彼は珍しく爽やかな笑みを浮かべると青葉の前に腰を降ろして、少し温くなった茶に手をつけてそれをすすりはじめた。 「なら折角だ。お前にいい事教えてやるよ。」 かしげていた首を更に傾かせる青葉に土方は柔らかくほほ笑みながら、話し始めた。 「俺は忙しい。でもそれは俺にとって苦痛じゃあねえ。寧ろ名もない百姓の子供が武士みたいに働ける事が嬉しいんだ。例えそれがまがい物であったとしても、な。」 「…それは分かっているつもりです。でも睡眠を取らない理由にはならないでしょう?」 ろくに睡眠を取らず、本当なら今にも地に伏してしまってもおかしくない彼を支えているのは気力と新撰組という掛け替えのない存在によってのものなのだろう。それでも彼には限度という言葉が通じない。何を言っても、何をしても、彼は頑なに言う事を聞いてはくれない。 「なあ青葉。」 「なんですか?」 二人の間に丁度落ちかかった茜色の空が照らされている。そんな優しい茜色を帯びた彼だったから、きっととてつもなく彼が穏やかに見えたのかもしれない。彼本来の、姿のように。 「笑わねえで聞いてくれるか?」 言葉の割に、彼の言葉が柔らかくて、優しさを帯びていた気がした。 「俺は別に神や仏、死後の世界があるとは思わない。きっと死ねば待ってるのは永遠に続く“無”だ。」 「……どうして突然そんな話を。」 「まあいいから最後まで聞けって。」 彼はそう言って言葉を続けた。いずれ俺は死ぬだろう。別に俺だけじゃねえ。近藤さんだって、斎藤だって、総司だって、皆死んじまうんだ。特に俺はろくな死に方しねえだろうがな。長生きするとは思わねえししたいとも思わない。でも、 「 少なからず叱るつもりでいた青葉は、本来叱るべきであろうその言葉に何も言えずに佇んでしまった。こんな事を言う彼の顔には一遍の曇りもなく、透かしたように綺麗だったから。 彼の事は頼りにしていた。きっと隊の誰もが心の底から彼を頼りにしている。そんな彼に惹かれるのは何故なのだろうかと、そう考える事の方が余程愚問であろうと青葉は思い改まった。彼の美貌が余計にそれを増長させているのかもしれないけれど。到底それを疑問に思うのは愚問であった。 「どうした。惚れたか。」 「……さあ。自惚れ気質とは知りませんでした。」 「全く。口の悪い女だな。」 青葉は目配せをして畳を睨みつけるようにして彼の目線を遠ざけた。直視してしまっては、彼の言葉を肯定しているような顔をしてしまいそうだからだ。自覚しているだけましなのかもしれない。こんなにも、彼ほど武士だと言える人間はきっといないだろう。青葉はその言葉を心の中で言い止めた。 「そん時に惚れた女が傍にいれば言う事ないんだがな。添い寝でもしてもらいてえもんだ。」 土方の視線が僅かに浮いて、悪戯そうな、まるで子どものような無邪気な顔で、青葉を映し出していた。怒りを充満させたいつもの気難しい彼の顔からは到底想像もつかない程にそれは幼く、無邪気に見えた。 「……そのお相手って誰ですか?」 刹那、青葉の視線がようやく土方の視線と交わり合った。 「馬鹿か。聞くんじゃねえよ。」 そう言って彼はそっと青葉の腕をとって引き寄せた。それは男女がする抱擁と言うよりは、もっとゆるやかで優しい、抱擁だった。彼の新たな一面を知った青葉は嬉しい反面、やはり彼を休ませる事は出来ないのだと複雑な心境を垣間見ていた。彼が眠れる場所は、もっと遠く、先の事であると願うしか、出来なかった。 「俺がそんな事に許可出せんのは一人しかいねえよ。今も、この先も。」 さよならに、<帰す>場所へ。 私は夢から覚めた。とても優しくて、暖かな、夢のような過去の現実を夢に見ていた。ふと彼の感触を感じたようで、私は自分の唇を人指し指でなぞる。なぞったところで、彼の温もりが蘇る訳でもないと、知っていながら。 暖かな夢だった。過去の、優しい思い出だった。土方歳三というどうしようもない頑固者の、新撰組の鬼の副長と呼ばれた彼の、懐かしくも手を伸ばせば取り返せるような幸せな、過去。 三百年続いた幕府は無くなった。新しい世界が沢山の犠牲の元に生まれていた。ようやく、戦は終わった。 彼は笑っているだろうか。柄にもなくずっと畳の上で体を侍らして寛いでいるのだろうか。いくら休んでも取り返す事の出来ない、穏やかな睡眠を、しているのだろうか。 「土方さん、おやすみなさい。ゆっくり、眠れてますか?」 さよならに記す。 愛していました。 ( 20110202 ) |