―――君には僕よりも相応しい人がいる。
 放課後の図書館裏、青葉はこんなありきたりな言葉を久しぶりに聞いていた。元々本を借りに来るつもりで訪れた図書館で思いもよらない他人の告白シーンを見てしまった。しかし人間は知りたがりだ。彼女は結局、最後まで他人でしかないその二人の会話を聞いてしまった。
 は一通りの出来事を目の当たりにすると急に気まずくなったように図書館への階段を小走りで駆け上がった。
「…君も物好きだね。」
 少し息を上げた青葉に声をかけたのは彼女と同じクラスの、まるで女性のように美しく物腰の柔らかい不二という男だった。彼は罰の悪そうにしている青葉を見てくすくすと小さく笑った。
「タイミングを逃しただけ。別に覗くつもりはなかったよ。」
「そうかな?物陰に隠れて見ていたのに。」
 どうして彼がそれを知っているのだろうかと不思議に思ったは不二が指した指の先を見た。そこには、二人の恋が成就されなかった中庭が一面に広がって見えていた。そして彼女が隠れるようにして使った柱も、しっかりと彼には見えていた。
「そういう不二の方がよっぽど物好き。ていうかもう悪趣味。」
「それはどうも。」
 はよく図書館に訪れた。一年生の頃より、ずっと。どの部活に所属する訳でもなくただ平穏に時が流れる放課後のこの場所が彼女は好きだった。三年も半ばの、夏を過ぎた頃からよく不二をこの場所で見つけた。どうして突然という驚きよりは、元々本を静かに読んでいる方がよっぽど彼には似合っていたから何も驚かない。彼は部活を引退してから、ほぼ毎日この場に通い、彼女と顔を合わせていた。
「…不二も聞いていたの?」
「うん。この図書館ってすごく静かだから聞こえてた。」
 はもう誰もいない中庭に目を向け、思いを馳せた。不二の隣に何事もなく腰を降ろしても尚、彼女はずっと中庭に捕りつかれてしまったかのように見入っていた。
「ねえ。聞いていてどう思った?」
 目線を変える事無くは不二に問いかける。彼ならあの告白をどのように感じ、理解したのだろうかと。
「どうって。別に普通じゃないかな。」
「自分よりも相応しい人がいるって言葉は、一番自分を傷つけずに相手を傷つける言葉だなあと思ったの。」
「ああ。うん。分かるよ。」
 は何かを思い出す様にそう告げる。ぼんやりとした頭の中で聞こえてきた不二の賛同する言葉にようやく意識が現実へと戻されていた。まさか彼から賛同してもらえるなんて思っていなかったのだろうか、彼女は目を見開いてようやく隣にいる不二に視線を戻した。
「なんでそんなに驚いてるのかな?意外かい?」
「うん。だって不二ってそうやって色んな女の子を振ってきてそうだから。」
「酷い話だね。結構の中での僕って印象悪いんだ。」
「うーん、まあ…それなりに、かな。」
「手厳しいなあ。」
 言って不二は苦笑にも似たかんばせを浮かべた。青葉にはいまいち彼の言葉を信じる事が出来なかった。彼は学年でも片指に入るほど女子に人気のある男だったからだ。モテる事に嫉妬していると言われればそれまでだけれど、やはり人気のある人間というものはやんわりと告白を断る上手い言葉を知っているんじゃないかと思ったのだ。
 一番自分を傷つける事無く対処できるその言葉を彼も頻繁に使用しているのではないかと青葉は思っていたのだ。学年でもトップを争う頭脳に、少なくとも表面上優しい心と、極めつけにはテニスの出来る彼が女子から人気がない方が驚きだろう。きっと今まで数え切れない程の女に告白されては、断ってきたのだろう。彼が特定の女と付き合ったという話は聞いた事がなかった。だから彼は一番自分が傷つかない、先ほど彼女が聞いてしまったような言葉で自分を守り、振ってきたのだはないだろうかと、はやんわりと考えていた。
「不二はどうして彼女を作らないの?」
「どうしてって…それは欲しいと思って作るものじゃないから。」
「告白してきた大勢の女子の中に、一人でも居なかったの?そういう人。」
「大勢って……別にそんなに告白された訳じゃないよ。」
「嘘つき。私、不二に振られたって泣いてる子沢山みてきたよ。」
 他人事のように彼に振られては泣く大勢の女子を見ながらは確信していたのだ。彼は間違いなく、最後まで優しい言葉で彼女たちを振ったのだろうと。先ほど聞いた言葉が、酷く不二に似合うように思われた。一番優しそうであって、実は何よりも残酷な、その言葉が。
「別に彼女が欲しくなかった訳じゃない。」
 彼は意外な言葉でを驚かせていた。何事かと目を見開いた先にあった彼の顔は別に悪ふざけているようでもなく、嘘をついているようでもなく、ただ穏やかに語られる。
「僕にだっていいなと思う人くらいいたよ。」
「ふうん。だったら告白すればいいのに。断る人なんて、居ないでしょう?」
「最近気づいたんだけど僕って結構無欲らしくてね。…何処か見てるだけで満足してしまっていたんだ。」
 そんな無欲な彼が一体誰を好きだというのだろうか。彼と同じクラスメイトとして過ごしてきたには見当もつかなかった。それどころか彼は恋愛という感情を持ち合わせていないのではないかと、そう考えてしまう程に何も感じられなかったのだから。
 人間は知りたがりだ。彼女は好奇心のままに、口を開いた。
「その相手、誰なの?教えてよ。」
 誰も言わないから、青葉はそう言って彼の口から洩れる名前を待ち遠しく耳元で待っていた。しかし彼は何故か困ったように笑うだけで、何も言おうとはしない。「何を恥ずかしがってるの。」そう言えば「そりゃあ僕だって恥ずかしい事くらいあるよ。」あまり恥ずかしそうでもない彼の言葉が耳元を掠めた。
 不二は話を聞きながらも器用に目先の活字を追っていた。何度か「ねえ」そう急かす様には尋ねたけれど、彼は意図の分からないいつもの笑みでその活字を追っているだけだった。

「…君が好きだよ。が、好きなんだ。」

 半ば諦めかけたは再び驚きをその瞳に宿し、彼を見た。彼はまだ活字を追っている。こちらを見る気配はない。まるで何かの冗談のようにぽつりと漏れた言葉が、その名が、自分のものとは信じられないとばかりにそれが下らないギャグのようにの耳元を通り過ぎて行った。
 何も尋ねてこないにようやく活字から目を離した彼は、繰り返す様に柔らかい言葉をつぶやいた。
 ―――本当に好きなんだけどな。




 不二に告白された次の日、彼女は彼に答えを告げないまま図書館に向かっていた。何か特別な事があろうと放課後に図書館に通うという青葉の日常は変わらない。意味もなく小走りで駆け上がるその足だけがいつもとは違う日常を告げている。
 さすがに今日くらいは彼もこの場所にはいないだろうなんて甘い事を考えていた彼女にとって、不変な日常が映し出された。本を手にとって、活字を追う不二の姿だった。
「やあ。君なら今日も此処に来ると思っていたよ。」
「……私は貴方が来るとは思ってなかったけどね。」
 相反する言葉が二人きりの図書館に響き渡る。少し古びた静かな図書館は物音ひとつ響かない。昨日、まるで他人事のように話した他人の恋愛事情がまさに今二人に振りかかっているようだった。
「返事、聞かせてもらえないの?」
 不二の言葉に青葉はようやく昨日の出来事が彼の本心からのもので、悪戯に言ったものでも夢や幻でもなかったのだと自覚するに至った。あれは夢じゃないと彼女に自覚させる程に、不二の視線がいつになく彼女を射抜いていた。
「不二のその気持ちがもし本当なら……私はそれに応える事は出来ない。」
 彼女は自分でも驚くほど自然に出た言葉に、それ以降黙り込んでしまった。不二もそんなの反応を窺うように暫くはその口を閉ざしていた。
 その間合いに妙な居心地の悪さを感じた青葉はふいに足を動かす。目の前にあった読みたくもない本に手を伸ばして、それを持って彼の正面に腰を降ろす。いつもの光景に違いはなかったけれど、何処か違う何かに押しつぶされそうなの妙な表情だった。
「あれ?可笑しいな。僕の告白を断る人なんて居ないんじゃなかったっけ?」
 彼だけが日常から何も切り離されないいつも通りの意図の分からない笑みで問いかける。は一度正面に座る彼を本の隙間から覗いてみたけれどすぐに隠れるようにして体勢を低くした。
「何か言いたそうだね。別にいいよ、言ってくれて。」
「……言える訳がない。」
「どうして?僕は、聞きたいんだけどな。」
 ―――だって。は言いかけて再び口を閉じてしまった。昨日の彼との会話を、彼女は思い出していた。他人事だからこそ偉そうに言えたのだとようやく理解したのだ。そんな手前、彼にこの言葉を言うのが酷く躊躇われる。
 しかし彼にはそれを聞く権利があると知ったはゆっくりと、でも、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「不二は私なんかには勿体ない。相応しい人が、いるでしょう?」
 昨日までは酷く自己防衛で相手を傷つけるだけの最低だと信じて疑わなかったその言葉を紡いだのはの口だった。まさか自分がこんな言葉を口にする事はないと何処か思っていた。
 しかし彼女は今になって昨日の男の言葉を少し理解してしまったのだ。この言葉は自分が可愛いのではなく、相手を傷つける言葉あったとしても本心からのものでもあるのだと。
「君からその言葉を聞く事になるとは正直思わなかった。」
「…私も、自分でも思わなかった。」
 は思い出していた。少し前までテニスコートにあった、彼の日常を。そこには酷く煌びやかで手を伸ばしても捕まえる事の出来ない美しい彼がいた。はとは違う、キラキラとした青春を謳歌した日常が彼にはあった。こんな古びた図書館で一人静かに本を読んでいるのではなく、青い春を体現しているような、美しい汗が彼を輝かしていた少し前のあの日常を。
 柄にもなく彼女は思ったのだ。自らとは生きる次元が違って、そして彼は自分には少し眩しすぎた。太陽のように美しく輝いている彼から貰う少しの光だけで彼女には眩しすぎたのだ。
「君は君自身が一番残酷だと思う言葉で僕を振るんだね。」
 意図の分からない彼の笑みが、少し型崩れしていた。はそれ以上何も言う事もなく、手元にあった本を鞄の中に仕舞い込んでその場を後にした。彼女が最も残酷だと感じていたあの言葉が、木霊のように頭の中を支配していた。
 ―――簡単に諦めたりはしないから。




 週末を挟んだ月曜日。不二は図書館に来なかった。学校には来ていたからまた図書館で会うのだろうなと心の隅の方で思っていた青葉にとって、それは少なからず驚きだった。
 彼女は久しぶりに読みたかった本に手を伸ばし、いつもの席に腰かけた。何かを忘れるには打って付けの本は彼女にとっての唯一の逃げ道だった。現実逃避しているのだと自覚しながらもは夕日の覗く図書館でひたすらに活字を追っていた。丁度話がひと段落した頃に階段を上ってくる足音を聞いた。その足音が徐々に近づき、ギイと音を立てて扉を開いた。嘗てののクラスメイトであった大石がそこにはいた。
 彼は持っていた専門書を返却の棚に戻すと彼女の傍に歩み寄り、適当な席に座った。
「久しぶりだな。こうしてが何かを打ち消す様に本を読んでいるのって。」
 そう?は見抜かれていると自覚しながらも曖昧な返事を漂わす。思えば少し前まで、こうして図書館で顔を会わせるのは大石の役割だった。外部の高校を受験する彼が時間を惜しむように勉強をし始めた事で此処最近彼が図書館に来る事はあまりなかった。そんな彼の存在が酷く青葉を落ちつかせた。
「ねえ大石。軽蔑しないで、聞いてくれる?」
 がそう言えば待ってたとばかりに彼の首が優しげに縦に揺れた。それを火っ切に青葉は全ての出来事を言葉にして伝えた。不二に告白された事、そして自らが最低だと思っていたその言葉で彼を振ってしまった事、その全てを。
 部活がらみで不二と懇意にしている大石に言うのは躊躇われたけれど彼は会話を止める事無く真剣に聞いてくれていた。
「うーん…そうだな、ごめん、ちょっと軽蔑するよ。」
 大石なら優しい言葉をかけてくれるなんてちょっとばかり期待していたのだとこの時青葉は気づいた。彼の言葉が、の微かに残る良心をひと思いにグサリと突き刺していた。
「その言葉はやっぱり逃げでしかない。君が言った通りにね。」
「……分かってる。」
「君が不二の事を受け入れないのだったら正直に言うべきだ。本音を告げた人にはそれを聞く権利があるんじゃないか?」
 痛いほどに正論な大石の言葉に青葉は何も言えなくなった。それは確かに彼女がつい先日まで思っていた正論に違いなかったからだ。人の事は言えても自分の事は何も言えない。結局自分もわが身が可愛かったのかもしれない、はぼんやりとそう思っていた。大石の言葉は、あの時の自分の言葉とそっくりだった。
 大石に軽蔑されたのかと思うとどうにも言葉が出てこないに、彼は本当に困ったように優しい表情で沈黙を打ち破った。
「なあ、知ってるか?」
 彼は「あんまり人のプライベートを口にするのは好きじゃないんだけどな。」と自らの口の緩さを悔やむようにしながらも、に告げる。かつて不二に振られた女が、口にした言葉を。
「僕には君よりも相応しい人がいるからってーーーそう、言ったそうだ。」
 何よりも残酷な言葉のようで自分の意志に忠実なその言葉がを突き動かす。まさか彼がこんな言葉を口にしていたなど到底想像にもしなかったのだ。は栞を挟む事もなく、立ちあがった。
「不二ならテニスコートだ。…まだ、間に合うんじゃないか?」
 暗闇が覘きはじめた中庭に続く階段が煩い程にガタガタと揺らされた。
 彼女は、走りだした。




 息を切らしながら彼女が向かったテニスコートには大石の言葉通り不二の姿があった。一心不乱に球を打つその姿が暗闇のテニスコートでキラキラと太陽のように輝きを放つ。図書館で本を読んでいる彼なんかよりもよっぽど、彼らしい美しい輝きを取り戻して。
 は声を掛ける事もなくフェンス越しに不二のテニスを見ていた。やはり自分には相応しくないと思わせるほどの美しい彼の姿と、そのテニスに魅了されていた。
「いつまで黙って見てる気かな?」
「…駄目だったかしら。見物料でも取る気?」
 まさか。そう言って彼はラケットを置いた。もそんな彼の隣に徐々に歩み寄っていく。こうして彼のテニスを見るのは本当に久しぶりだった。図書館で彼を見た時に感じた少しの違和感の正体が今、解き明かされた。彼はテニスコートにいてこそ本来の、まるで太陽のような輝きを放てるのだと。
 彼の白く華奢な体に汗が伝う。それがまた眩しくて、は躊躇われるように、でも決意を胸に口を開く。
「この間の言葉は私の本音。
 …不二は私には少し眩しくて、太陽のように手を伸ばしても届かないそんな気がしていたの。」
 静と動が混ざり合わないように、また自分たちもきっとそういう存在でしかないと心の何処かで思っていた。ほんの少し、数刻前までは。彼女は今自ら動に転じようとしていた。
「でも今はそんな太陽に手を伸ばしてみようって思ってる。」
 は言いきって夜の空気を胸に吸い込んだ。何かを待つように聞き耳を立てていたけれど彼は暫くの間何も言わなかった。逆に彼に振られでもするのだろうか。だとすればいい笑い者だな、なんて呑気にまるで他人事のように考えていた時にようやく彼の優しげな、そして鋭い声が青葉の耳に届いた。
「なんだ。もっと焦らしてくれてもよかったのに。」
 思ってもみない言葉には首をかしげる。彼の言葉の意図が、全く見えなかった。でもしかし彼は悪ふざけているようでも、嘘を言っているようでもなく、告白の言葉を口にしたあの時と同じ表情を灯した。
「知ってるかい?無欲な人間が欲を見せた時、逃げたくなる程にしつこくなるって事。」
 痛いほどに突き刺さる不二の視線に青葉は全てを持っていかれたように、離せなくなっていた。彼は美しいまでに自分本位な人間で、何処までも我がままなのかもしれない。無欲な人間が欲を出したその時、本当に人は恐ろしいまでに変貌を遂げてしまうのかもしれない。にそう思わせるほどに。

 ―――誰だ!もうとっくに下校時間を過ぎているぞ。

 暗闇の中で懐中電灯の明かりが二人を包む。教師の声が追いかけてくるのを遮るかのように不二の右手がの手を掴み、強く引っ張り出す。全力疾走で二人は校門の外までを走り抜けた。
 二人は学校を離れても暫く走っていた。意味もない全力疾走に徐々に呼吸音が上がっていき、不二が振りむいた時に彼女は荒い呼吸のまま思いのままに笑い声を響かせた。彼も、つられるようにして控えめに笑った。

 静と動が、ようやく重なった。

( 20110325 )
静と動