午前五時半、まだ起きるには早い。昨日は早くから酒を飲んでいた事もあって早く寝すぎたらしい。服も着替えず寝てしまっていた。
 水を飲もうと立ち上がる。少し喉を潤したあとにもう一度寝るのか、それとも活動をするのか考えるもこんな時間から起きてもすることもなけれど、テレビも退屈な番組しかやっていない。
「…お前老人か。今何時だと思ってんだ。」
「ごめん、起こした?昨日早く寝たから目が覚めちゃって。」
「暇なんだったら湯たんぽ代わりにでもなっとけ。」
 確かに彼の言うとおり、私はただの暇人だ。湯たんぽなんて必要としないくらいに蒸し暑い季節には違いないが、彼なりの愛情表現なのだろうと理解して再びベッドへと転がる。
 すぐに大きな腕と長い足が絡んできて、私を捕らえる。じっとりと汗を纏った彼の体が私にも熱気を移してくるが、言う間もなくすぐに健やかな寝息が耳へと掠めてきた。よくもこれだけ汗を纏いつつも更なる私の熱を吸収し、寝れるものだなと感心する。その不快度よりも勝るものがそこにあるのだろうか。
 その熱に私まで汗がこみ上げて少し離れようとするものの、しっかりと固定されたように体は動かないのだから私も諦めて彼の方へと向き直り腕に抱かれるようにしてじわじわと伝わってくる熱を感じながら再び眠りについた。
 結局二人して目を覚ましたのは昼前だ。起きたときには二人とも汗だくで、それに相まってカーテンからこぼれて来る日差しで蒸し風呂状態だ。よくも昼前までこれだけ不快指数の高い状態で寝れていられたなと関心するくらいのレベル感だ。
「あぢ〜。」
「私も汗だくで気持ち悪い。シャワー浴びてくる。」
「風呂沸かせよ。」
「お風呂くらい一人で入らせてよ。窮屈だし。」
「いいだろ。時短、時短。」
 仕方なく風呂を軽く洗って、湯を沸かす。夏場とは言えど彼がゆったり入る事のできる浴槽は湯を張るのにも時間がかかる。洋服から部屋着に着替えて、タオルで体を拭く。リビングへと戻ると彼もようやくしっかりと目覚めたのか、天井に着きそうになる程に腕を伸ばして伸びをしている。
 彼にも新しいタオルを渡して汗をぬぐう様に伝えると、甘えたように拭いて欲しいというのだからまるで大きな幼児だ。
「スーパーエリート営業マンも家ではぐうたらって知ったら皆どう思うんだろ。」
「スーパーエリートだからこそ自宅での休息が必要なんだっての。」
 私は彼の事をよく知っている。それは会社が一緒という事だけでなく、前世の記憶だ。殺伐とした時代を私も彼も生きてきた。彼に記憶があるのはわからないし、確認した事もない。もし彼に記憶がなければ私はただの可笑しな人間になるだろうし、彼と一緒にこうして現世でもいることが出来るというその一点だけでも満足だった。
 平和な世が訪れる一足前に任務遂行に失敗して死んでしまった私は、こうして彼とゆっくり過ごす事も適わなかった。まさに当時の私にとっては願っても見ない今の環境に違いない。
「何だよその顔。」
「ううん、なんでもない。平和だなって思っただけ。」
「もっとスリリングな事したい訳。」
「まさか。今がいい。ちょうどいい。」
 私も口がうまくないなと自覚しつつも、人間簡単に自分を変えることなど出来ない。本当は、どうしようもなく満たされて幸せだと彼に言えば喜んでももらえるのだろうけれど、私にはそれが出来ない。良い解釈をすれば控えめで、実際のところは言葉足らずなのだろう。けれど、それが私なのだから仕方がない。
「超幸せ、大好きって言えば?」
「言わない。そんなの私じゃないでしょ。」
「つまんない女。」
 言葉とは裏腹に、再び彼の腕が伸びてきてやさしく包んでくれる。私がどれだけ口下手で、感情の表現が苦手でも彼は私が欲しいものを、欲しいと思ったタイミングで与えてくれる。それは前世の記憶でも、合致する内容だ。だから私はこのままでいいのだと、そう思うことが出来るのかもしれない。
 腕から脱してじっと彼の顔を見つめれば、欲しがり女といいながらきちんと前髪を分けてキスをしてくれる。大きな幼児だという点においては、多分私も一緒だ。
 風呂が沸いたと知らせるその音で、一人だと風呂が沸くまでの時間が妙に長いと感じるものがこれだけ一瞬の事のように感じるのだからそれもまた幸せに違いないと贅沢すぎる休日をかみ締めた。



 ゆっくりとした昼風呂を済ませて、リビングへと戻る。少しのぼせたかも知れない。風呂場であまりにも日常的なリアルな会話をしていたら随分と時間が経ってしまっていた。総務課の私からすると、営業課というものは随分と騒々しく忙しい場所らしい。
 改めて彼が出来る営業マンなのだと感じつつ、課でほかの女に言い寄られているのだろうなと思う。別に嫉妬はしない。心配する事もないくらいに、彼は私を甘やかしてくれるからだ。好きという具体的な言葉はなくとも生きていく上で差し支えはなかった。
「昨日のツマミの残りかよ。昼から酒でも飲ませたいのか。」
「作るの面倒だったし、残ってたからいいじゃん。それとも飲む?」
「お前がそんなに言うんだったら飲んでもいいけど。」
 そんなにも何にも言っていないのにと言おうと思って、止める。こう言っているという事は彼は飲みたいのだろう。昼から酒を飲むなんて休日にしか出来ない贅沢な事だ、たまにはいいかと冷蔵庫に冷えているビールを取り出して彼に差し出した。
 会話が止まらない訳ではない、程よく無言の時間が続くが苦痛はない。時折思い出したように他愛もない会話をしながらビール缶を口につけていればすぐに空になった。迷うことなく冷蔵庫に二本目のビールを取りに行って、同じタイミングでプルタブに手をかける。昼から飲むビールというのは、いつも以上に酔いを強く感じさせる。
 ここ暫くは彼の仕事が忙しく、外で飲む事もあまりなかった。たまには外で飲むか?と提案してみようかとも思ったが、今日が日曜日である事を思い出して口を閉ざした。後数時間もすれば私も自宅へと帰り、月曜日に備えて気持ちを切り替えなければいけない。社会人は面倒だなとつくずく思う。学生の頃であれば日曜日も全力で遊ぶことができたのに、これが年を重ねるという悲しさの一面だ。
「明日会社かあ。面倒だな。」
「もっとプロ意識持てよ。お前会社の顔だろ。」
「顔っていってもただの人事・総務だし。天元と違って定量的なものないしさ。」
「じゃあお前も営業課来る?面倒見るけど。」
「冗談やめてよ。営業なんて向いてないし、天元に教えられるとかなんか嫌。」
 彼のように仕事にプライドを持って、やりがいを感じながら働ける人間など少数派だろう。その多くは私のように金銭が発生しているからただやっているというものだ。自分自身その考え方は変えられないけれど、宇髄の仕事に対するモチベーションにはただただ尊敬の念を感じるばかりだ。私には到底出来ない事を、彼はいとも簡単にやってのける。それがどうしようもなく輝いて見えて、自分の彼氏としても誇らしい。いつだって仕事中に彼を見ると、やっぱり私は昔も今も彼のことが好きであることを再度自覚するくらいには本当に鼻が高い彼氏だ。
 私と違って、彼は私と付き合っている事を社内でも隠さない。一方の私は地味にひっそりと無難に生きる事を美徳としているのだから絶対的にそれを口外することはない。これだけ大きな会社でも宇髄という男を知らない人間の方が少ないのだから、その彼女ともなれば注目を浴びることは間違いないし、彼のことを好意的に思っている女子を敵にするのも面倒だと思った。
「悪い事してる訳じゃないし、そろそろ付き合ってるって言えば。」
「嫌だよ。宇髄ファンの女の子たちから苛められるかも。」
「お前の脳みそは中高時代で止まってんのか。自意識過剰だわ。」
 宇髄をはじめて社内で見かけたとき、ようやく自分が求めている人間に出会えたのだと心が躍った。それと同時に、既に会社の花形であった彼に私は気おされていた。前のようにはなれない。あまりにも遠い人物のように思えたのだ。ただ遠い席にいる彼を横目に見るだけだった。
 初めて彼と話したのは、採用にまつわる仕事をしていた時の事だ。営業課に欠員が出て急募で募集をするとなった時、どんな人物を求めているのかをヒアリングしていた時に彼の仕事に対する熱い気持ちを知って、やっぱり昔と変わらず私はこの男が好きだと思ったものだ。
「もっと自信持てよ。お前、割と仕事出来るし。」
「何それ。口説いてんの。」
「口説いてないわ。お前、俺の女だし口説く必要もなければゾッコンだろうし。」
「すごい自信。」
「じゃなきゃお前ここにいないだろ。」
 先ほどまで散々甘えていた彼とは違う側面を見て、再び私は自覚するのだ。今の彼も、過去の彼も、ずっと自信に満ち溢れた人間だった。だからこそ迷うことなくついていけたし、不安を感じることもなかったのだろうとそう思う。顔も良し、俺様のくせに人を思いやる気持ちもあって、仕事も出来る彼に、彼が言うように私はきっとゾッコンなのだろう。口を挟む隙すら与えない事実に、本当に何も言うことが出来ない。
「…参りました。」
「当たり前。」
 既に二本目のビールも空へと近づき、冷蔵庫へと向かおうとした時に再び腕を引かれた。私は彼には逆らえない。彼が絶対だからだ。それは仕事だけでなく、私の生活する中でも彼が指標となる正しい考え方をしているのだから。苦やしながらも人として本当に完璧だと思わざるを得ない。惚れた弱みというやつだろうか。
 彼は私が付き合っている事を内密にしている事を快く思っていないようだったけれど、やはり言うべきではないと思う。そもそも自分から実は付き合っているのだと言いふらす痛い女にもなりたくなければ、これだけ魅力のある男を知っているのは自分だけなのだとどこか独占欲が渦巻いていたのかもしれない。私も存外、単純なのかもしれない。
「来週、言う?」
「言わない。」
 きっと社内で一番女としての幸せを知っている人間をランキングする機会があれば、間違いなく私が首位に輝くだろう。それくらいに贅沢なのだから、それをあえて口にする事なく一人で内に留めておく事にした。三本目のビールは、二本目よりきっとより美味しいものになるに違いがないだろう。


セピア・イントッカービレ
( 2020,06,29 )