「げとせん?普通に先輩、だけど。」
 色んな人間から、色んな角度でこうして確認をされる作業にも最早慣れた。世の中の大半以上の人間は、夏油先輩の事が好きらしい。だからこうして私にこぞって皆確認してくるのだ。どうしたらそんなに近い関係になれるのかというアドバイスを求める系の質問から、本当にお前は夏油さんと何も無いんだろうな?という言質取りのような確認系の質問まで幅は広い。そうまでしてでも、彼女達は彼と近づきたいのだろう。気持ちは分かる、だって普通に彼は人として出来ているし、万人から愛される要素を持っている。それは私も同じ考えだ。
「げとせんって、何それ。」
「高校時代にそう呼んでたから、たまに今も出る。」
 少し背伸びをして受験した私立高校には見事玉砕して、滑り止めで入った公立高校に夏油先輩はいた。私立受験に落ちた私は当時酷く落ち込んだが、今になって考えたら記念受験みたいなレベルの受験なのだから至極当然の結果でしかない。万が一にも受かっていれば、それは私が死ぬまでの全ての運を使い果たしたくらいの運でしかないが、有名私立高という“ブランド/制服“を纏って憧れの女子高生をやりたかったという下らない理由であと何十年続くかわからない残りの人生の全運を使い果たさなくて本当に良かったと思う。そんな見栄で運なんて使うもんじゃない。身の丈に合った公立高校に通えて、今となってはよかったと思っている。
「でもさ、何で学年違うのにそんなに仲良いの?」
「うーん、部活一緒だったからかな。」
「部活か、あんたマネージャーでもやってたの?」
 これも何度となく色んな人間から聞かれ、答えてきた私にとって夏油傑に纏わる質問集の中では頻出する鉄板ネタだ。どういう訳か、女にモテるイケメンは学生時代運動部に所属していたという、願望にも近い謎の幻想を躊躇いもなく持ちがちだが、世の中そんなに上手く出来ていない。
「オカ研だよ、オカ研。」
「オカケンって……それ、誰?」
「オカルト研究会。」
 その後の反応だってもう決まりきっているから、特別私はリアクションを取らない。
 ただでさえも忙しく昼食を取る時間すら惜しいくらいなのに、そんな決まりきった反応にリアクションを取っていては相手の質問攻めに合うだけだ。この目の前に座っている名ばかりの同期は私と会話がしたいんじゃない、夏油傑の情報を私を介して得たいだけなのだから。今目の前にいる彼女だけじゃない、こういった目的で私に話しかけてくる人間は結構多い。
 オカルト研究会は、私が卒業したのと同時に廃部となった今は幻になっている部活動だ。作ったのは夏油先輩と、あとはもう一人、神様の悪ふざけにしか思えない程この世の美しい要素だけを詰め込んで生まれてきたような五条先輩の二人だ。要は、イケメン二人が創設した部活動だった。
 有名私立校のブランドを着て高校生活をエンジョイしたいというミーハー心剥き出しの私ならそんな甘い蜜を吸わない訳がないと思われそうだが、実際はそうじゃない。二人の存在を知る前から、私はオカ研に入る事を決めていた。
「部活必須の学校で、唯一五時で帰れるのがオカ研だったんだ。だから、別に夏油先輩を狙って入った訳じゃないよ。」
 ありのままの事実をこうして伝えることで、本当に彼とは何もないのだと伝える材料にしている。あえて一度引き離しておかないと、変なやっかみを買うケースがあるからだ。そんな貧乏くじは引きたくない。彼女達は夏油先輩の情報を私から引き出すのと同時に、私自身が彼を異性的に見ていないという言質が欲しいだけなのだ。だから、早めにそこに導いてやった方が話が早くて丸く収まる。
「じゃあ何で同じ会社にいんのよ、うち紹介したの?」
「それは本当に偶然。」
「うちみたいなベンチャーでたまたまとか、ある?」
「うん、夏油先輩とは高校卒業以来会ってなかったし。」
 それはそれで運命的なものを感じないのか?とセオリーのように聞かれる事が多いが、私を夏油先輩と引っ付けたいのか、引き離したいのか一体何なのだろうかと毎度面倒になってくる。
 運命的なものかは別としても、すごい引き合わせだと驚いたのは事実だ。何かの縁があるのかもしれない。けれど、周りがやいやい言うような関係性ではない。付き合うのであれば、今のタイミングじゃないだろうと思うのだ。当初から良くしてくれる仲の良い先輩というベースは変わらないが、学生時代二年間ほぼ毎日顔を合わせていても何もなかった男と女だ。いくら社会人になって運命的な再会を果たしていようが、今更何もある訳がない。
「…お、いたいた。」
「あ、噂をすれば夏油先輩。」
「なに、私の噂?」
「うん、そう。噂してて。」
「良い噂?」
「どうかな、どっちでもないかも。」
 私のお昼はうどんが多い。仕事が忙しくてもうどんならツルっとした喉越しでさっさと済ませることができるし、何より美味しい。前のめりになって私の話を聞いていた名ばかりの同期は、いざ噂していた本人が登場すれば急に借りてきた猫のように静かになって、背筋を正してその場に居直る。
「もしかして邪魔したかな、の同期の子?」
「そう。隣の島の子で、先輩の事知りたいって……」
 ありのままの事実を告げようとして口を開いてしばらくすると、私が言い切る前に圧のある笑みを貼り付けた彼女が私の口を封じるように閉ざしてくる。近づきたいから私に情報を求めたくせに、いざ本人を前にして私が架け橋になってやろうとすると、今度は私が場の空気を読めない人間のように扱ってくるのだからたまったものじゃない。
 これは夏油傑という男に憧れている女あるあるでもあるが、本人を前にすると結局思うようにアプローチが出来ずしゅんとなってしまうケースが多い。夏油先輩は人当たりもいいけれど、高嶺の花という印象がきっと皆に植え付けられているのだろう。事実、私も学生時代そう思ったのだから。
「邪魔してごめんね?…そう言えば隣の島の人達みんな続々と大会議室に入って行ってるようだったけど大丈夫?」
 急に青ざめたような顔をして、彼女は一礼を述べて早々にその場を離脱した。これ以上彼女の話に付き合う義理もないし、永遠に私が質問をされるターンが続いていてどこで切り上げるべきか中々うまいタイミングを見つけられないでいたので正直助かった。
「会議すっぽかすとかないわ。」
「あれ嘘だよ。」
 えっ?と声が裏返る私をよそ目に、彼は涼しい顔をして私の隣で蕎麦を啜る。
「嘘って、どれが嘘?」
「私さっきまでクライアント先で打ち合わせしてたしね。彼女の島と逆の方の島で十三時から会議入ってるのをたまたまスケジューラーで見ていたんだ。」
 涼しい顔をして、しれっとした嘘をついている彼を見ると時折恐ろしいと思うことがある。けれどその嘘は誰も傷つけないし、現に私を救ってくれている。彼の言葉には棘がなく、不思議と納得感がある。基本的には優しいけれど、何事も冷静に分析しているような一面が見えて、そういうった所が彼を庶民的ではなく高嶺の花に仕立て上げているのだろうかと考えてみたり。
「私は彼女を知らないテイだし、隣の島が会議は嘘じゃないだろ?」
「…まぁそうだけど、何の為にそんな嘘を。」
 あの場でそんな嘘をつくメリットが果たして彼にはあるのだろうか。冷静に分析したとしても、明確にこれだ!と思い浮かぶ要素はない。彼女の存在が邪魔だったら態々私の元へくる必要もない訳で、そうなると多分   
「君が困ってそうだったから、助け舟。」
 夏油先輩は私に対して優しい。もともと距離の近い友人だったという贔屓はあるにしても、それ以上に私を可愛がってくれる。学生時代から可愛がってくれてはいたけれど、今はあの頃以上に距離感が近く、そしてより特別感を出してくるのだ。
 だから皆んな私を羨むのだろうと思う。本当に何もないのかと尋ねられずにはいられないのだろう。私があえて出さないようにしている特別感を、夏油先輩の方から出してくるのだから。
「ありがと、確かにそれは助かった。でも……」
「…でも、なに?」
 こういうの、もうやめた方がいいと思う。
 そう言いかけて、止めた。たった一言言っただけで何かが今更変わる訳でもないだろうし、逆にそんなことを言えば私の方が意識していると捉えられるかもしれない。だったら、こうして今の関係性を続けて行ったほうが得策だ。どの道、この関係が今更変わる訳でもないのだから。
「ううん、先輩スマートだなって。誰も傷つけない。」
「はは、普通に一緒にご飯食べようと思っただけだよ。」
「もう食べ終わっちゃったけどね。」
 知ってる“テイ“と彼が言う通り、先ほどの彼女が誰であるのかをもちろん事前に把握していただろうし、その上で都合のいい嘘をついたのだ。そもそも彼女が隣の島の人間だと情報を与えたのは、さっき私が紹介したからだ。それを逆手にとってあたかも気遣っている風味まで出すのだから抜け目がない。敵になった事がないから今のところその苦労はないが、ずっと味方につけておきたい人間だ。
「で、今回のクライアント要望なんだって?」
 IT企業という名のベンチャーである私たちにとってクライアントは神様みたいなもので、クライアントがいなければ仕事がないのだから相手もかなりの無理難題を何食わぬ顔で要望してくるのは日常茶飯事で、私たちの仕事はテッペンが過ぎても終わらないなんてザラにある。
「多分三徹くらいすれば終わりそうな感じかな。」
「何回殺す気なんだろうね、あの会社。」
「まあ、こればっかりは仕方ないね。仕事だし。」
 今日も間違いなくテッペンを超えての仕事になるだろうと踏んで、私はトレイを持たずに財布だけを手に持って椅子から立ち上がった。
「天ぷら追加してくる。」
 エネルギーチャージを予めしておくのも、もう慣れたものだ。




 私がこの会社に入社したのは二年ほど前のことで、新卒で入った会社は一年で辞めた。多分、私には女性の多い畑は向いていない。今にして思えば、学生時代から男の人と一緒にいる方が多く、それが自分にとって自然体でいれるという事だったのだろう。
 元々プログラミングをしたり、言語を覚えたりするのは得意な方だった。エンジニア系の職種であれば女性の方が多いということはないだろうし、万が一部署異動があったにせよ影響は少ないだろうと考えて私は異業種から今の会社に転職をした。
 仕事という人生においても大きな転機をそんな下らない理由で選ぶか、と自分でも割と呆れてはいたものの、どうやらこの職種は私には向いているらしい。前職で営業の基礎は身についていたし、プリセールスという営業とエンジニアを足して割ったようなこの職種がしっくりとフィットした。
「どう、の方は終わりそう?」
「……全くもって。」
「まあ、だよね。明日休みなのがせめてもの救いだな。」
 もはや私達の感覚は、常人から大きく外れているだろう。この言葉の意味は私たちの場合、明日が休みだから今日は頑張れるというニュアンスではない。明日は休みだから最悪今日進まない分は家でやればいいという加算方式だ。社畜はこうして生まれていくのだろうけど、社畜の私たちは多分それが普通ではない事を既に忘れてしまっている。
「でもやっぱ先輩は早いね、もうこんなに進んでる。」
「慣れはしたが、ここでは君より私の方が後輩だから可笑しくないか、その呼び方。」
「出会った時に先輩だったからねぇ?」
「中学生や高校生じゃないんだから先輩は、ちょっと。」
「どうでもいいじゃん、呼び方なんて今更。」
「どうでもいいなら変えてもいいだろ?」
 テッペンが過ぎた辺りで、急激に自分の集中力が切れていく様を感じて私は自分のデスクで背もたれに寄りかかって縦にゆらゆらと揺れながらスクリーンを見つめる。一度切れた集中力を再び取り戻すことは、思っている以上に困難を極める。つまりは、もう今日は仕事を継続する意思が私にはないという事だ。
「なに、お腹でも空いた?」
 彼がこの会社に入社したのはおおよそ半年ほど前のことだ。私よりも一年先に生まれてきた彼は私にとっては一生先輩である事実は変わらないが、会社の入社年次だけで言えば今は私の後輩という何とも不思議な立ち位置だ。
 うちの会社は新卒採用を特別行っていない。ベンチャーではよくある事だが、少数精鋭で社会人経験のある即戦力を欲しがるものだ。私も彼も異業種からの転職ではあったものの社会人経験がそれなりにあることを考慮して、未経験からの採用で今に至る。
 エンジニア歴半年弱の夏油先輩は、既に私以上の業務量を平気でこなす迄になっていて、会社でも名実ともにエースだ。エンジニアとしての腕もさることながら、エースと呼ばれるには彼の営業力の方が特質すべきだろう。そもそも彼が未経験かつ異業種からの転職で歓迎されたのは、今までの経歴と実績だ。私も再会してから知った事だが、彼は某大手メーカーのトップセールスだったらしい。
「…空いた、ものすごく。」
「お昼に海老天二本も追加したのにかい?」
「頭使ったから消費したんだよ。」
 ふと、考える。彼が高校を卒業してから半年前に再会するまでの間、彼はどんな人生を歩んできたのだろうかと。私の知らない短くはないその数年間に思いを馳せる。
 大学に進学して、彼女は作っただろうか。高校の時からあれだけモテていたのだからいない訳もないか。五条先輩と同じ進学先だったから、高校時代の延長線上のように楽しく過ごしていたのだろうか。
 一流メーカーのトップセールスをスマートに受賞している夏油先輩の事は簡単に想像がつくのに、彼がそんな環境を捨ててまでこんなしがないITベンチャーへ転職してきたのは何故だろうか。その理由が、私には皆目見当もつかなかった。そして、何となく聞き出せないまま時間だけが経過して、ついには本当に聞けなくなってしまった。
「口、開けな。」
 言われた通り、だらしなく口を彼の方へと向けてパックリ開くと、机の中から出てきた棒キャンディーの皮を剥がしてから私の口の中へとメロン味の衝撃が飛び込んできた。
「めっちゃメロン味。」
「糖分頭に回して、あと三十分頑張って。」
 高校の時からやる事は変わっていない。私が駄々をこねると、昔から夏油先輩はこうして私の口に棒キャンディーを突っ込んで私を黙らせた。多分、いつも隣にいたのが異常なまでの甘党の男だったから、甘いものを食べさせれば少し落ち着くと思っているのだろう。
 夏油先輩にとって、多分私は高校時代の私となにも変わってない。だから、私が本当は特別甘いものが好きではないと知らず、こうして昔と同じ黙らせ方をするのだ。
「えー、無理!もう集中力出ないよ。」
「仕方ない、限定物のクラフトビールもつけよう。」
「ならやる。」
「早いな。案外君のやる気は安く買える。」
 二十歳を過ぎた成人の大人にとっては甘ったるい緑色の棒キャンディーよりも、よっぽどそちらの方が起爆剤にも、自分を納得させる材料にもなる。自分でもコスパがいいと思うが、物で釣らないと動けない私の属性を彼は熟知しているということだ。
 他の社員の前では集中力が切れていたとしてもそれを表に出すような間抜けな真似はもちろんしないのだから、結局のところ私は無意識に彼に甘やかされているのだ。今も、昔も変わらず。
 こんな風景は、私たちにとってただの日常の一コマに過ぎない。
 この歳になって少し恥ずかしいという気持ちは持ちつつ、私は一人暮らしではなく実家から会社に通勤している。一人暮らしが嫌なわけではなく、寧ろ大学時代は親元を離れて不自由なく単身での生活をしていたこともあるので抵抗がある訳ではない。
 この仕事についてからテッペンを越える事はザラにある訳で、一度だけ私は過労で倒れたことがあった。その際に、周りからの勧めもあって実家に戻った。実家に帰る理由があれば終電という括りで仕事を切り上げて帰ることができるからだ。それに、どの道寝に帰るだけなのだから会社近辺に高い賃料を払って住むということにもあまりメリットがない。
 この半年に至っては、私の寝床が一つ増えた。
 夏油先輩の家は会社から目と鼻の先にあって、利便性が高い。自由に使っていいからと言われた当初は、それこそもう学生じゃないので流石に同じ会社の人間としてケジメがないまま甘える訳にはいかないと断ったけれど、結果的にそこが繁忙期に重なって甘えざるを得ない状態になって今に至っている。
 だからこうして、時間を気にすることなく私は仕事をしていられるし、特別泊まっていいかという確認する会話すら私たちには無いのだ。限定物のクラフトビールをつける、というのはそういう事だ。流石に他の社員が周りにいる時間帯にこんな会話はできないが、当たり前のように二人でコンビニに寄って夜食と適度のアルコールを買って、一緒に帰宅するのが私たちの日常になっている。
「明日もやるだろう?」
「あ、うん。でもモニターないから家帰ってやるよ。」
「この間譲ってもらったから二台目、あるよ。」
 こうやって、どんどんと私が彼と一緒にいる時間が増えていく。一緒にいない理由がどんどんとなくなってくる、と言った方が正しいのかもしれない。まるで私が同居人であるかのようなその扱いに、たまに私の立ち位置は何なのかが少し分からなくなる。
 高校時代の知り合いだから親しいだけで特別なにもないなんて言っているものの、こんなことをうっかり夏油傑に憧れている女子社員に伝えたら確実にアンチ認定されるだろう。
 でも、本当にそれだけなのだ。
 どれだけ私にとって居心地の良い環境を作り上げてくれても、私たちの関係はやっぱり昔と今とでなにも変わらない。私を黙らす為に飴を突っ込んでくる夏油先輩も変わらないし、男と女として同じ屋根の下にいても会社にいる時となにも変わらないのだから。
「春目前だって言うのに今日は冷えるねえ。」
「じゃあ熱燗なんてどう?おでんも追加ね。」
「君の四季は全部アルコールで出来てるの?」
「否定はしないよ。」
 仕事を終えた私たちは、彼の家の方向へと向かって歩みを進める。少し小道を入った先は、徐々に住宅が増えてきて、ちょうど会社より少しだけ彼の家よりに位置するコンビニに一緒に入って、買い物をする。私がどのクラフトビールにしようか暫く迷ってレジに持ち込んだ頃には、私の好物である卵と餅巾着と牛すじ串が偶数になって沈められていた。
「他に欲しいのある?」
「ううん、これが欲しかった。」
「それはよかった。」
 夏油先輩がコンビニの袋を手に下げながら、私は歩幅の大きな彼に少しだけ合わせて彼の家へと向かう。見慣れた第二の我が家は、いつ行ってもとても片付いていて程よい生活感があって落ち着いた。私が飲み潰れて片付けをしないで寝てしまっても、二日酔いの頭を抱えながら起きる頃には綺麗さっぱり片付いているし、何なら彼は既に仕事をしてたりもするのだから出来る人間はなにから何まで完璧にできるのだろう。
 五条先輩の神様の悪ふざけも大概だが、夏油先輩も神からの恩恵を大いに預かっている人間だ。天は二物を与えないんじゃなかったのだろうか。
「ビール飲んでる間に熱燗あっためてくるね。」
はやめときな、危ないからね。」
「…赤ちゃんじゃないんだけどな。」
「酒が入った君は割と赤ちゃんだと私は思うけど。」
 私から徳利を奪って、水を張った鍋にそれを鎮めて火をかける。これだけの誰でもできる作業なのに、彼は率先してやってくれる。まるで過保護な親のように、私に対して異常に甘い。後輩という事実は揺るがないにしても、一つしか歳が変わらない事をこの人は忘れてしまったのだろうか。
「じゃあ、私もここで飲む。」
「キッチンドランカーだねぇ、結構やばいやつだ。」
「一人じゃ寂しいじゃん?」
「たまには可愛いこと言うじゃないか。」
 鍋の底でカタカタ言う徳利をまだかまだかと見ている間に一本目のビールが空いて、手持ち無沙汰な私に夏油先輩は適温になった餅を再び私の口に含ませて、器用にびよんと勢いをつけて引っ張っていく。
 ははは、と声を上げて楽しそうにしている夏油先輩はよく私に食べ物を与える。と言うよりは、よく口に入れてくる。棒キャンディーだけでなく、アーモンドチョコレートだったり、小さく分けられているサンドウィッチや、おでんの具までさまざまだ。
「餌付けでもしてるつもりですか?」
「今更餌付けなくても懐いてるだろ、君。」
 手掴みをつけた彼は徳利を引き上げると、それを持ってリビングへと向かう。時刻は深夜二時、私たちは軽く一時間も晩酌すれば眠りにつく。夏油先輩は寝室で、私はリビングで敷布団を二枚敷きにしてもらって、ふかふかの状態で眠る。
 人に物を食べさせておいたり、家を好きに使っていいと言ってみたり、元々の知り合いという事を除いたにしても会社での近すぎる距離感だったり、そのどれもが何かを勘違いしてもおかしくない様な行動なのに、何一つそれに付随することはない。
 何かを期待している訳ではないにしろ、何も無いことに逆に少しだけ驚きはしていた。私だって学生時代に彼氏がいたこともあるのでまるっきりのウブという訳でもない。そんな状態で本当に一度たりとも何も起きないこの関係性は不利益はないにしても、夏油先輩にとってのメリットは果たしてあるのだろうか。昔のよしみだけで、ここまでしてくれるものなのだろうか。
「うさぎですか、私は。」
「普通そこはうさぎじゃなくて、犬か猫だろ。」
 私が彼のことをそう言った下心で見ていないという安心感を持っているから、他の多くの人間よりも特別に扱ってくれるのだろうか。もしそうだとしても、やっぱりメリットがわからない。私たちの関係性は今も昔も変わらないけれど、夏油先輩は少し変わった。昔よりも、私の理解を超えて、何を考えているのか分からないところがある。
 もし仮に、私に下心がないからという理由で私を甘やかしているのであれば、夏油先輩は少し勘違いしている。
 私には過去、夏油先輩が気になっていた時代があったのだから。
 下心まではいかないまでも、微かに、けれどしっかりと色づいた感情を私は持ち合わせていた。それを自覚しながらも何も行動を起こさなかったのは、今までの関係を崩してまで欲しいのかと自分に問うた時に、そうではなかったからだ。私にそう思わせていたのは、やっぱり私にとって彼が高嶺の花だったからなのかもしれない。
 けれどそれももう、遠い昔に心へ閉まった感情だ。
 程よい酔いが疲労を労うように染みていくようで、布団と同化するように眠りに落ちてゆく。
「…おやすみ、。」
 ごつごつとした大きな手が、一度髪を揺らしたような気がしたけれどそれは夢だったのかもしれない。


Chapter.2