カタカタと早いタイピング音が不意に耳に入り、目を覚ます。最早土曜日の目覚めかたとしては鉄板になりつつある、私の日常だ。眠気まなこを擦りながら、どこに掛かっているか既に把握している時計の位置にくるりと体を回転させて、驚いた。時刻は、十二時三十七分。彼氏でもない異性の部屋で過ごすには随分と緊張感のない目覚めだ。
「あ、起きたね。おはよう。」
 昼になる前に起こしてくれたらいいものを、この人はいつも私を起こさず放置する。多分、彼はリビングのテーブルで随分前から仕事をしているはずだ。
 まだしっかりと眠りから覚めきっていない私の目は上手く焦点を合わせられないのか、モニターを睨み付けるように彼の背後から微調整をしながら見つめる。昨日までに済ませていた箇所よりも随分進んでいて、きっと私がぐうぐうとだらしなく眠っている間にこつこつと仕事をしていたのだろう。休みの日だから誰に何の文句を言われる筋合いもないが、夏油先輩を見ていると自分が惰眠を貪っているように感じられて、何だか妙に恥ずかしい気持ちになるものだ。
「…置いてけぼりにするつもり?」
「人聞きの悪い。」
「ただでさえも先輩の方が処理早いんだし。」
「終わったらそっち手伝うよ。」
 この人はこういう人だ。学生時代からそうだった。自分の事はスマートにさっさと終わらせて、人の面倒をしっかりと見る人だった。会社では名ばかりの“先輩“である私の立ち位置なんて、本当に一瞬にして抜き去っていった。好きこそ物の上手なれとは言うけれど、多分好きという気持ちだけではセンスを超えられない。夏油先輩は何をやらせても、センスの塊だ。
「朝?昼ご飯、食べる?」
「…食べる。」
「サンドイッチでよければそこの、食べなよ。」
「これ駅前のパン屋の限定のやつ。」
「先に食べたけど、とても美味しかったよ。」
 数ヶ月前に新しく駅前にできたパン屋はとても繁盛していて、私が昼を買いに出る頃には完売御礼でCloseの看板が出ているようなところだ。少し早い電車に乗って、出勤前に何度か買おうと試みたことはあったが、結局のところ私が早起きができる筈もなく幻のパンとなっていた。
 そんな幻のパン屋の限定サンドイッチを手に入れたということは、かなり朝早く起きたということを示している。昨日は疲労感が強く、お酒でほわほわと浮ついた体の熱に消え入るようにして眠りについたためほとんど寝落ちしてしまったようなもので、彼がいつ寝たのかは分からないけれど少なくとも私よりも後に寝ているはずだ。平日だけでなく、休日でさえも夏油傑は夏油傑でしかない。
「焼き立てが食べたかった。」
 彼と比較して、自分が物凄く人間として堕落しているような錯覚に陥って、少しばかり皮肉を言ってみる。そうする事で自分を正当化しようとしているのかもしれない。もちろんそんな事で正当化などできる訳がないと、分かりながら。
「え、私のせい?まさかの。」
「起こしてくれないから。」
「疲れてる君を無理に起こそうとは思えない。」
「先輩だって疲れてるでしょ?」
「私は   、」
 彼は、一度何かを考えたようにその先の言葉を止めた。何か言い訳でもするのだろうか。それにしては無理があるだろう。疲れてないから大丈夫というのはまるで説得力のない言葉だろうし、いくら天から二物を与えられた人間でもサイボーグじゃないのだから無尽蔵って事はないだろう。
「年なのかな、休みでも朝になると目が覚める。」
「私も来年誕生日来たら真人間に覚醒する?」
「どうだろう、するんじゃない?」
「テキトー。」
 結局はぐらかされた様な気がするけど、これ以上言い合いを続けるつもりはない。寝起きはあまり得意な方ではないし、一週間分の疲労は睡眠を多くとっただけでは全回復しないのでそこまでの気力もない。
 テーブルに置いてあるパンに釣られる様にして、私は椅子を引いて腰掛ける。透明なビニールを剥ぎ取っていくと、芳醇な小麦の匂いがした。
「食べる前に、歯磨磨いてからね。」
 後もう一秒遅ければ、幻のパンが口の中に入っていたところだった。面倒くさいなぁと心の中で本音を吐き出してから、覚悟を決めて腰を上げる。休日は、一度腰を下ろしてしまうと立ち上がるまでに相当の気合と労力が必要だ。彼が自然と朝起きてしまうのが加齢であれば、私もしっかり加齢しているのだろう。
 最早自分の家の様に使い勝手を知っている彼の家で、私はコップの中に立てられている歯ブラシを摘んで歯磨き粉をつけて口の中へと放り込んだ。光景だけを切り取れば、同棲しているカップルのような生活だ。口が裂けても会社ではうっかりそんな事は言えない。
「いただきます。」
 今度こそ幻のパンを両手に持って、口に含む。口に入れた瞬間に鼻に抜けていくような小麦がどこか甘くて、中に入っている具材とちょうどよく調和されている。美味しいという一言で表せば簡単で、そんな簡単な言葉で表現するのが失礼に思えるような美味さだが疲労感が勝ってそれ以上気の利いた言葉は出てきそうになかった。
 噛むごとに美味しい幻のパンをむしゃむしゃとほうばりながら、少し先でモニターに向かって言語を打ち込んでいる夏油先輩の横顔を眺める。
 高校生の頃、私は彼のどこを好きになったんだろう。好きになる要素なんてそれこそ無限にありそうだが、決定打になったのは何だったのだろうか。もう随分と前の事で、忘れてしまっているのかもしれない。
 あの時、そっと心に閉まった恋心は、それ以降思い出そうと思った事がなかった。閉じたものを再びこじ開ける必要がないから。自分の傷を自分で抉る程、私はマゾヒストじゃない。




 夏油先輩がモテることなんて最初から知っていたし、別に自分から知ろうとしなくたって一目見れば猿でも分かる事実だ。ついでに言えば、五条先輩もだ。オカ研に自ら入ったとは言え、こんな学年どころか学校の一、二を争うようなモテ男二人と三人で日々を過ごすとは思ってもみなかった。
 オカルト研究会とは名ばかりで好き勝手色々やっていたけれど、案外この二人がオカ研に入っているという事実は学校内では知れていない事実だ。そうでなければ、今頃入部希望が殺到している筈だ。
 私が入学したこの学校では運悪く部活に入るのが必須という制約が設けられていて、渋々消去法で唯一残ったのがオカ研だった。理由はただ一つ、五時で帰宅できるからだ。もう一つ理由があるとすれば、特別気力も体力もいらなさそうだったからだろうか。オカルト研究会という中々の響きのこの場所で、果たしてまともなコミュニケーションをとれる部員がいるのかどうかが唯一気がかりだったが、その蓋を開いた先にいたのがこの二人だった。
「夏休み中に活動報告必須とかまじダルじゃね?」
「…まあそう言うなよ、普段何もしてないんだし。」
「夏休みくらいダラダラしたい。」
「君は割といつもダラダラしてるけどね、悟。」
 学校は休みになっても、部活は週に一度は活動しないといけないという決まりがあって、それに対しての活動報告も義務付けられていた。名ばかりの部活で、活動報告をするとなると正直厳しい。オカルトを趣味としているのはただの仮初の姿で、特別私たちは誰一人としてオカルトに興味など持ち合わせていない。
 結局それぞれが行きたい場所をいくつか挙げて決まったのは、“夢の国の怪奇現象、都市伝説の解明“という自分達の欲が色濃くでた企画だった。それっぽい単語で検索をかけるとちょうどよく幾つか記事が出てきて、それに乗っかったのだ。怪奇現象や都市伝説が本当だったことを活動報告として書く必要はないのだから、夢の国へさえ行ってしまえば、何とでも誤魔化せるというのが私たちの算段だった。
「んだよこの人、人、人。お前ハメたな?」
「うっそ、私?」
「常識だよ。これは知らない悟が、悪い。」
 うんと裕福な家庭に生まれた世間知らずな坊っちゃまは夢の国という万国共通の当たり前すら知らないのか。流石に想定外だった。そもそも夢の国企画に一番乗り気だったのは、五条先輩だった。冷静に考えてみると、彼にとっては“聞いたことがあるテーマパーク“くらいにしか情報がなかったのだろう。だからあんなにはしゃいでいたのかと納得がいった。
 元々夢の国企画の発案者は私だったけれど、私自身が乗り気だったという訳ではない。たまたま幼馴染の友人が先日夢の国へ行ったという話を聞いて、一案として何となく口にしてみただけでそれに乗っかってきたのが五条先輩で、その場で夢の国企画が本決まりとなったのだ。悪いのは私じゃない。
「………だっる、」
 夢の国の入り口で既にどうしようもなくやる気をなくしていた人とは俄に信じ難いほど、その後豹変して夢の国を誰よりも楽しんだのは五条先輩だった。テンションが上がったのか、一人乗り気に耳までつけて夢の国を満喫しているその様に私と夏油先輩は苦笑せざるを得なかった。五条先輩の機嫌を損ねると全体の雰囲気に支障が出るので、結果はオーライだ。
 日が暮れてきた頃、最後に私たちが並んだアトラクションはとある映画をモチーフに作られたもので、最後は頂上から滝つぼに向かって落下していく急流下りをウリにしているものだ。折角なら最前列に乗りたいと子供のように駄々を捏ねる五条先輩に根負けした私たちは、後ろの何人かに順番を譲ってもう一周余計にアトラクション待ちの行列に並んだ。
 私自身も初めて乗るアトラクションでどんなものか気にはなっていたものの、降りた瞬間に横で楽しかったと叫ぶ五条先輩と対照的に、すぶ濡れになってしまったブラウスに後悔する羽目になった。もう既に日が落ちていたからいいようなものの、完全に自分の下着の色が透けているブラウスでこれ以上出歩くのは気が引けた。一緒にいるのも同性の友人ではないことも、災いしてしまった。
 適当にどこかの店に入ってパーカーでも買おうかとマップを開いていると、肩にちょっとした重みを感じてそのまま後ろに振り返った。
「私のも結構濡れてるけど、ないよりはマシだろう。」
「……あ、ありがとうございます。」
「なに、いまさら敬語?」
「わかんないけど、なんとなく。」
 彼のブレザーにもしっかり水がかかっていたようで、少しだけ重くずしんと私の体にのしかかる。前を隠すように少し手繰り寄せると、男の人の匂いがしてなんだか変な気分になった。男の先輩であるという事はずっと頭の中にありつつも、異性として初めて意識したのは多分この時が初めてだったのだろうと思う。
 未だ興奮冷めやらぬ感じで楽しみを噛み締めている五条先輩と比較した時に、夏油先輩の気遣いが酷く目立って、その優しさに私の中でちょっとした違和感が生じた。
「でも、…という事は普通に見えた?」
「まぁ、不可抗力だよね。」
 その違和感を温めて、正体を突き止める間も無く現実に返って、どう会話を続けていいのか分からなくなってしまった。両手をクロスさせるように彼のブレザーを握りしめてぎゅっと再び手繰り寄せると、やっぱり夏油先輩の匂いがして余計に言葉が出てこなかった。
 その夏の一件以降、今までどうってこともなかった事でもいちいち意識がいくようになった。
 多分私は、人よりも自分の感情に対して鈍感だ。幼稚園の時には初恋をしていた幼馴染を見ながら、いつになったら私は恋をするのだろうかと思ったまま高校生になった。思春期真っ只中の多感な筈の中学時代も、私は誰かを好きになる事はなかった。友人としての好きとはまた別なのだろうか、その違いすら正直なところあまり分からない。同性の友人と話しているよりも異性といた方が楽と感じたのは、きっとそういう部分が影響していたのだろう。思春期の女子は、明けても暮れても恋の話しかしない。
 夏の一件で、自分の感情を“違和感“として受け止めたのはその正体に見当はつけながらも、確証があった訳ではなかったからだ。その“違和感“の正体を突き止めようとすればする程にぎこちなくなる自分の言動に、うんざりもした。多分もうこの時は違和感は恋へと変わっていて、ただそれを認めたくないという自分との戦いになっていたのだと思う。
 唯一同性で気の置ける幼馴染に、私は初めて恋の相談をする。もちろん表立って恋の相談とは言わず、夏油先輩が自分に対してどう思っているのかというあたりをつける為の相談だ。自分の感情に鈍感な私が、他人のことになれば敏感になるという筈もなく、こうして恋多き友人に相談するしか私には術が残っていなかった。
「最近言い寄られてる人でもいんの?」
 その問いに対してはおそらくノーになるが、これも私が鈍感なだけで実は私を想っている人がいたりするのだろうかと余計なことを考える。万が一にもそう想ってくれる人がいるとすれば、何があればそのサインになるのだろうか。未知のことすぎて分からない。
「タイプによっても違うけど、男はずっと中二って言うし?好きな子ほどちょっかい出してくる系は多いんじゃないかな。」
 私はそんな男は興味ないけど、と彼女は付け加えた。
 彼女のその言葉を受けて、夏油先輩がそのタイプなのであればきっと私は恋愛対象ではないのかと肩を落として、寧ろ私を異性として見ているのは五条先輩の方なのだろうかと余計な事を考えても見たが、あの人は親しい人に対しては異性同性関係なくちょっかいを出すので例外だと冷静に分析ができた。
「あんたもそろそろ恋のひとつやふたつしないと。」
「するならひとつでいいかな、いきなりハードル高い。」
「本当は気づいてないだけで、してたりとか?」
 言われて、まだこれが恋というものなのかを断定できず、答えに迷う。人はなぜ未知のものをこうも受け入れ難く感じるものなのだろうか。得体の知れないものは恐ろしい。恐ろしいと感じるのは多分、その対処方法を知らないからだ。この違和感が恋だと断定されてしまった方が幾分も心が楽なのに、それを私自身が拒み続けている。
「…わかんないけど、多分してないかな。」
 私がそれを恋だと断定したのは、たまたま通りがかった先で目にした光景からだった。彼本人を前にしてではなく、自分が第三者として彼が告白をされている現場を目の当たりにした時の事だ。まざまざと、それが恋であったのだと思い知らされた。
 声が聞こえる程の距離ではなく、その結果がどうかは私には窺い知れない。ただ、みる限りはうまく行っていないように見えた。
 しっかりと自分の気持ちに気づいた私は、目の当たりにした光景に喜ぶどころかスッと冷静に自分の感情が引いていくのを感じていた。酷く痛んだ自分の胸に感じたのはしっかりと恋だと自覚したからこそ、私はその恋を終わらせる事にしたのだ。夏油先輩の前にいる彼女が、自分と重なって見えたのかもしれない。
 今の自分の立場を捨ててまで恋を成就させたいのかと自問してしまった。私は告白を断られたであろうあの子よりも夏油先輩にとてもとても近い位置にいて、恋を優先させて全てを終わらせる自分と、今の現状を継続して後輩として可愛がってもらう自分を天秤にかけた時、それは後者に触れた。   否、本当はその覚悟がなかっただけだ。
 恋をする覚悟がなかった分、今まで通りの関係を継続することに振り切った私は割り切って、ただの後輩に戻った。夏油先輩からしたら元々ただの後輩なのだからと、言い聞かせて。
 そうする事で、彼はしっかり私を二年間可愛がってくれた。
 初恋と自覚した瞬間に、私は自分で恋を終わらせた。




 懐かしいと言えば懐かしく、そして傷と言えば立派な私の傷であるその思い出を蘇らせてなんとも言えない気持ちに陥った。先ほどまであれだけ噛むごとに増していた幸福感が、今は味のないパンをひたすら咀嚼しているような気がした。
 心の奥の方にしっかりしまい込んでいた筈なのに、思い出す事であの時の感情も少し呼び覚まされるような気がして再び恐怖を感じた。この数年間ずっと忘れていたのだから、これは単なる発作のようなものなのだと言い聞かせて、コーヒーに口をつけて誤魔化した。
「食べるのゆっくりだったね、美味しくなかった?」
「ううん、すごい美味しかったよ。」
「なら、わざわざ並んで買った甲斐があったよ。」
 どうして私なんかのために、そこまでしてくれるのだろうか。夏油先輩のひとつ一つの言動を振り返る度に、期待を捨てられない自分が憎くて仕方がない。純粋に昔のよしみで良くしてくれているだけだというのなら、逆に私にとってそれは地獄だ。生ぬるいナイフでずっと急所を突かれている状況が一生続くという事なのだから。
「…今日はやっぱり帰る。」
 もうこれが違和感ではなく、恋であるという事がわかるくらいには私も成長している。だからやっぱり、もう一度終わらせないといけない。
「なんで?」
「なんでも。」
「雨降ってるよ。」
「うん。」
 ずっと忘れていたのに、一度思い出すともうどうやって忘れていたのかが分からなくなって、今すぐにでも逃げ出したい気持ちでどうしようもない。何と言えば難を逃れてこの家から離れることができるか考えたいのに、冷静になれない。多分、あの時の私と違って今の私には覚悟がないのだろうと思う。昔よりももっともっと夏油先輩の近くにいて、そして私だけという特別を沢山与えられてしまっている今の環境が私の賢明な判断を鈍らせる。
「お母さんが心配する。」
「なら連絡入れたらいい、いつもの事だろ。」
 子供の言い訳のように思いついた単語を並べて見たけれど、もちろんそのどれも彼を論破できるだけの効力は持ち合わせていなくて、逆に不信感を生んでしまったかもしれない。心なしか、彼にしては言葉に棘が感じられた。
「今日は帰りたいって意味だから!」
 多分これだけ突き放した言い方をしないと、この場を切り抜けることができない気がして、つい私もムキになってしまう。私がムキになるのは道理だけど、何故彼までムキになったように私の腕を掴んで離そうとしないのだろうか。ムキになる理由など、ないだろうに。
「じゃあ納得できる理由、教えて。」
 納得できる理由などある筈もない。私ですら色んなことに納得がいっていないこの状況を説明してほしいくらいなのだから、言語化なんて出来やしない。ただひとつ明確にわかっているのは、私が再び彼に対して恋をしているという事実だけだ。あの時のように、早く終わらせなければならない。
「答えられないなら、ここにいればいいだろ。」
「…離してよ。」
 もうこれ以上期待なんてしたくない。それは誰の為でもなく、私だけの為にだ。先の見えきった生ぬるい地獄なんて、自分から進んで行きたくはない。傷が浅ければ浅いほど、癒えるのも早いことを私は身をもって知っている。だからあの時も私は自分が傷つく前に、自分で恋を終わらせた。
「私になら何言っても大丈夫とでも思ってるのか?」
    もしそうなら、にとっての私ってなに。
 今度は隠すこともなく怒りにも近い感情をしっかりと言葉にのせて、夏油先輩の切れ長な眼差しが私を捉えて離さない。その剣幕に、私も意表を突かれて言葉を失った。高校一年生の春に彼と出会ってから、こうしてはっきりと彼に怒りの感情をぶつけられたのは初めてだ。
 いつだって優しい夏油先輩はそこにはいなくて、背筋が凍って震え上がりそうな程に冷徹な目で、私の知らない夏油先輩の姿だった。
「……帰らせない。」
 痛みを感じるほどの強い力で握りしめられた手首から圧が解放されると、今度はその圧が私の体全体を覆い尽くして、いつかに彼のブレザーを羽織った時に感じた彼の匂いがしっかり鼻元を掠めていった。


Chapter.3