彼女は、昔から色んなことに鈍い子だった。頭が悪いという意味での鈍さではなく、無頓着というかあまり人に対しての執着がない。そんなところが自分と似ているような気がして、初めて会った時から話しやすいと感じていたのかもしれない。
 本当に、ただただ純粋に可愛い私の後輩。
 彼女への感情が方向性を変えたのは、卒業してからもっと後の事だ。
「……なんで、こんなこと。」
「なんでって、そんな分かりきったことを聞くのか?」
 人との付き合い方は長けている方だと自負している。手前味噌にはなるが、大手メーカー企業でそのあたりの賞は総なめしてきた。どんな相手にも帳尻を合わせて、隙を見て懐に入り込んでいくのは自分が持ち得る能力の中でも一番秀でている部分だと思う。
 時折、どの自分が本当の自分だったのか分からなくなる瞬間がある。臨機応変に対応できる俊敏な対応力がある分、どれが本当の自分でどれが偽りの自分なのか自分でその境界線が曖昧になってくる。なんでも器用にこなせるが為に、一度立ち返るということをしない私は、躓いた時に後戻りができない。軌道修正する為に分岐点となる道は用意されている筈なのに、前に進んでいる方向から転換ができない。
「こうして力づくで君を閉じ込めてしまおうと思えば、私にはそれができるんだよ。」
 今までずっと小さな積み重ねをして、彼女への徳を積んできた筈じゃなかったのか。こうして彼女を怖がらせる事が私の目的ではない筈なのに、一度動き始めると自分でも止める事ができないのが恐ろしい。自覚はしているのに、頭の片隅で自分が傍観者としてその一部始終を見ているような感覚すらあった。
「泣けばなんでも許してもらえると思うのは、よくないね。」
 傍観者の方の自分が、警告を鳴らしている。けれど、私はそれに反応することができない。どこか遠いところで目覚ましが鳴っていることは自覚していながらもそれを止める事ができない感覚と、それは似ている。
 彼女を泣かせても止まれない私は、レベルとしてはかなりの重症だ。




 私と悟が卒業するタイミングで、オカ研の部員は彼女一人だけになる。寂しくないのか?と聞けば、まぁ多分寂しくない訳じゃないと思うけど毎日泣いて暮らす程ではないと思うとしれっと答えてのけたを、相変わらず色んな感情に対して鈍感な子だなと思った。
「じゃあ、最後に私からプレゼント。」
 悟が切らせると煩いからという理由で、大量に買いだめしていた棒キャンディーの皮を剥いて、彼女の口の中へとねじ込んだ。主に悟が煩くしているときに突っ込むのが使い道だが、私は時折そのキャンディーを彼女にも動物に餌を与えるような感覚で与えていた。
「……?私、別に今機嫌悪くないけど。」
「いや、寂しさ紛れるかなと思って。」
「飴のひとつ二つで変わらないけど、最後にこういう事されると飴食べるたびに思い出すからちょっと迷惑だな。」
 言葉だけを捉えたら随分と可愛げがなく聞こえるけれど、内容を紐解いていくとやっぱり可愛いと思う。彼女はそういう子だった。感情に対して鈍感な分、何も飾らないそのままをストレートに伝えてくれる。彼女が、同性よりも異性と一緒にいた方が会話がしやすいと言っていた理由はよくわかる。
 私にとって彼女はとても可愛い後輩だったが、本当にそれだけでもあった。異性として見たことはない。なんならそれは彼女だからという訳でもなくて、誰も特別な対象として見ることはしなかった。特定の女がいた時期もあったが、それは向こうから好きだと言われて付き合いたいと懇願されたから付き合っただけで、私自身の意思ではない。だからもし万が一に好きだと言われる場面があったとしたら、付き合っていたのかもしれない。特別異性として意識せずとも付き合えることは今までの経験則で知っていたし、それを断る事で今後の付き合いに支障が出るなら迷わず付き合う。私にとって男女の交際なんたるものは、それくらいの温度感だ。あってもなくても、どっちでもいい。
 大学に進学しても、正直あまり大きくは変わらない。悟が隣にいる環境は変わらず、ただ学び先という箱が高校から大学へと変わっただけで、何もかもが大きく変動している訳ではない。新しい友人ももちろん出来たが、特別親密になりたいと思う程でもなかった。現状維持こそが一番に求められる自分の欲求だった。
「おいってば、」
「…ん?」
「聞こえてんなら返事しろよな、感じわり。」
「ああ、すまない。」
 大学に入って暫くして、ふとした瞬間に違和感を感じることが増えた。その違和感が果たしてなんなのかを考えていると、こうして悟の話がどんどん遠くで聴こているように頭の中で反響して頭に入ってこない。同じような指摘をされることも増えていた。
 自分なりに色んなパターンを想定してみたが、あまりしっくりくるものがなく腹落ちしない。最終的に最も妥当性があると採用したのは、大学に入っても何も刺激がないこの日常に対しての安易な絶望ではないかというものだった。特別何かを期待していたつもりではなかったが、環境が変わる事で何か新しい事が始まるという柄にもない期待を持っていたのだろうか。しかし、想像できるのは本当にそれくらいしかなかった。
「悟、なんかこう…最近違和感ってないか?」
「違和感って、なんの。」
「なんのって聞かれると困るけど…」
 相変わらず大学に行って暫くが経っても、私は基本的に悟と一緒にいる事が多かった。高校時代と違って自分で出来る事の制限が少なくなった事もあってバイトをしてみたり、高校時代ほど一緒にいる時間が長いかといえばそうではなかったが、何だか大きく変わったような抜け落ちたような感覚があって、そしてそれが何かはまるで見当がつかない。答え合わせが出来ない答案用紙の間違えの部分だけを突きつけられたように、ずっと何かが喉を支えているような感覚だ。
「普通に病院行けよ、最近なんかぼけっとしてるし。」
「老人みたいに言わないでくれよ。」
「原因が分かれば気分も晴れるってもんでしょ。」
 結局その原因は一向に分からず、私を憂鬱にさせた。その憂きを払う為に色々試してみた、元々あまり吸っていなかった煙草、考える隙間を無くすための労働、アルコール、そのどれも憂きを払う材料にはならなかった。
 受動的でしかなかった恋愛にも自分から付き合いを求めてみたりもしたが、それこそ一週間も持たずに終わった。以前であればのらりくらりと相手の温度感に自分をチューニングしながら適当に合わせるのは造作もない事だったはずなのに、それすら出来なくなっていた自分に驚いた。
 何をしても得体の知れないもやが晴れないまま大学の一年の三分の二が経過した頃、唐突に悟が放った言葉に何かが閃いたような気がした。
、あいつ大学どこ行きたいとか言ってたっけ?」
 一年ぶりに彼女の名前を聞いて、自分が抱いていたこの違和感こそ彼女だったのではないかという疑念に辿り着き、整理して一通り腹落ちした。いつだって悟が私の隣にいたように、その隣には彼女がいた事を思い出したのだ。その日常が最早当たり前すぎたが故に、逆に思いだせなかったのかもしれない。
「さあ、どうだろう。二年生で具体的には考えてなかっただろうけど。」
「あいつの事だし、卒業できるならどこでもいいとか言いそう。」
 高校を卒業して大学生になっても私の日常は変わってはいない。ただ一つ変わったのは、そこに彼女がいないというたった一点のみで、それが私にとっての違和感だったのだと気づいた。
「確かに、彼女なら言いそうだ。」
 彼女が私たちを追ってこの大学へとやってくれば、この違和感は解消するのだろうかと一瞬考える。あの時の私たちのままの関係が継続されさえすれば、私望みに一致して、この違和感が解消される条件になり得るのだろうか。彼女が何かの偶然でここへ進学してきたとしても、私たち三人がまた一緒にいるようになったとして、例えば彼女に新しく男がいればそれでも問題はないのだろうか。以前の自分にとっては然程問題にはならなかっただろうし、可愛い後輩とはいっても異性の対象として見ていた訳ではない。ならば、今はどうか?
「ちょっとメールで聞いてみるわ。」
 こういう時、悟の行動力が羨ましい。何も躊躇いもせず、思った事をそのまま行動に移せるのは出来るようで割と誰もが出来ない事だ。悪く言えば後先を考えず行動しているという意味でもあるが、駆け引きとかそういった邪な感情もそこにはないのだ。少なくとも私には出来ない。
「うっわ、エラーで返ってきた。あいつ何様だよ。」
 機嫌を悪くした悟はそのまま彼女に電話をかけていたが、現在使われていない番号というアナウンスが流れていたのかより苛立ちを深めて携帯を折りたたむと勢いよくテーブルに叩きつけた。
 恐らくは彼女のことだから、意図的に私たちから逃れるために番号やアドレスを変えた訳ではないのだろうと想像できる。だとすれば、携帯を壊してしまったのだろうかと考えてそれもまた想像ができた。特別何事にも執着のない彼女の事だ、新しい番号になるのも、新しいメールアドレスを取得することも特に抵抗がなく変えているのではないだろうか。
 万が一の事を考えて、唯一留年してまだ高校にいる友人に連絡を取ると彼女の安否が確認できて、それで少しだけ安堵してしまった。安否に対しての安堵と、あとは違和感の正体がなんとなく掴めたことへの。
 その後のレポート提出やテストに加え、日々の生活も加わってバタバタしている間に春になり、年次が変わった。は、私たちの大学へはやってこなかった。そこから先、結局彼女がどこに進学して、どこにいるのかの所在がわかる事はなかった。
 その後私が彼女と転職先で再会するまでに、実は二度彼女を見かけた事があった。一度目は社会人になりたての新卒の頃で、商談帰りに新宿で乗り換えをしたタイミングで彼女を見かけた。声をかけようと人ごみを少し掻き分けた先にあったのは、久しぶりにみる彼女の笑顔と、知らない男の姿だった。断定は出来ないが雰囲気としては恋人同士のように見えて、流石に声はかけられなかった。
 その時、俄に認識していたその感情がはっきりと確信へと変わっていくのを感じていた。間違いなく、私は彼女を異性として見ている。この不快感がそれを物語っている。二十年以上生きてきて、今まで一度たりとも感じたことのない感情だった。
 二度目に彼女を見かけたのは、それから数年してからの事だ。他人の空似かと思って見過ごしていたが、打ち合わせブースから立ち去る際に耳を掠めた声に酷く聞き覚えがあって振り返った時には、彼女の乗ったエレベーターはちょうどドアを閉じ、高層階から降って行ってしまった。後を追うように一階へと降りてエントランスホール周辺を見渡したが、ついには彼女を見つける事ができなかった。
「今打ち合わせしてたのって沢田さん?」
「…そうですけど、どうかしましたか。」
「名刺…名刺、持ってるだろう?」
「ええ、まあ。」
「それ貸して。」
「いや、でも……」
 これだけ必死に自分の感情をむき出しにした事は、おそらく今までもなかったと思う。とにかく自分を偽るほどの余裕がなくて、久しく素の自分がでた瞬間だった。相手も慄いている様子だった。
「いいから、早く渡すんだ。」
 それもその筈だ。同じ会社の人間とは言っても、こんな大企業で部署も違うともなればただの見知らぬ人間だ。そんな人間が突然肩を叩いてきたかと思えば、打ち合わせしていた女の名刺を渡せと理由もなく言っているのだから。
 彼女がエンジニアとしてITベンチャーに勤めているという情報を名刺から得ることができた。私はその数ヶ月後、安定した給料と将来を保障されていた大手企業での仕事を辞めて居住も移した。会社を辞めることに対しての未練は微塵もなく、寧ろ転職先にとって自分が有利な条件を持ち合わせていることを唯一この会社に感謝したくらいだ。大手企業とのパイプもコネもあり、営業としての実績を残したのはきっと喜ばれるだろう。求人募集が出ているかどうかの確認もしないまま辞表を出して、そのまま引っ越した。
 偶然を装って転職した先にいた彼女に、私は数年ぶりに会うことができた。そして、虎視眈々とそのタイミングを狙って、徳を積んできた筈だった。
 今まで何にも執着してこなかった分、彼女だけはどうしても手に入れたかった。手に入れたかったと言えば表現が剣呑だが、単純にもう自分の気持ちに嘘がつけない程に彼女の事が好きだと気づいてしまったから。




 多分自分が今彼女にとっての恐怖の対象となっていて、気持ちを伝えるどころかこのまま嫌いになられる可能性の方が高いことだって分かっているのに、自制心が効かない。いつも息をするように人に合わせることができたのに、ネジが外れてしまうとそんな簡単な事すらできなくなってしまう。

「飴をあげれば君が私のことをもっと意識してくれるんじゃないかと思っていたし、少しでも君の気を引きたくてわざわざアラームかけてパン屋に並んだりね?独身の男で並んでいたのは、私一人くらいしかいなかったよ。」

 たがが外れてしまったようにお喋りな自分に一定の気持ち悪さを感じながら、果たしてこの会話はどこに行き着くのだろうかと自分でもわからなくなる。もし軌道修正ができたとしても、どこから好きだと純粋に思いを伝える方へ舵をきればいいのだろうか。
 冷静になれと警告を鳴らすもう一人の自分の声が、まだ私と一致しない。



「…なに言ってるの。」
 彼は本当に何を言っているのだろうか。私が急に理由も告げずに帰ろうとしたのがそもそものきっかけで、どう考えても私が一方的に悪いが、何故それがこんな大ごとに発展してしまっているのだろうか。しかも、話の流れが全然見えない。突然ぎりりと強い力で帰ろうとする私の手首を握りしめた夏油先輩に引き留められて、気づいた時には彼の腕の中に収まっていた。
 混乱している私をよそに、今度は追い打ちをかけるように私を乱暴な言葉で追い詰めてくる。いつだって優しい彼はどこへ行ってしまったのか不安になる程に激昂していて、まるで余裕がないように感じられた。こんな夏油先輩は未だかつて一度たりとも見たことはなく、どう対処していいのか私の脳みそは処理をしきれない。
「君こそ本気でそれ言ってる?だとしたら、魔性を超えて性悪女だね。」
 一体彼は何を伝えたいのだろう。恐らくは間違いなく何かの地雷を踏んでしまったようだが、それが何なのかもわからず圧倒されてしまって、ようやく感情が追いついて久しぶりにぽろぽろと涙が伝った。泣くなんて、何年ぶりだろうか。悲しいというよりは、ただ怖かった。
「……すまない、別に泣かせたかった訳じゃなくて。」
 私の二度目の涙でふいに我に帰ったのか、夏油先輩は少し冷静さを取り戻して初めて私に詫びた。けれどそれはまだまだ言いたいことを言い切れていない不完全燃焼なかんばせで、何だかこちらも無性に腹が立った。どうしてこんなに、それも一方的に責められないといけないのだろうか。そもそも付き合っている訳でもないのに、何故ここまで言われる必要があるのか、普通におかしいだろう。
「先輩こそ性悪じゃん、こうやって女の人に思わせぶりな態度とって誑かすのが常套手段なんでしょ?」
「なにを言って、私は君だから…」
 今更私のことを好きとでも言うのだろうか。この流れで、この雰囲気で、そういう流れになるか?なる筈がない。けれど、私だからという先に続く言葉なんて他に何があるんだろうか。それとも、またこうして途中で言葉を濁すことで私を誑かすという常套手段なのだろうか。だとすれば普通に悪い男だ。   しかし、本当にそこまで悪い男なのだろうか。
「提案なんだけど、ちょっと落ち着いて整理しない?」
「…うん、そうだね。」
 恐怖から怒りに変わっていて引いていた涙を一応袖で拭い切って、私たちは食卓テーブルに向かい合って座る。かなり冷静になったのか、少しだけ夏油先輩は気まずそうにこちらから視線を逸らして、居心地悪そうに視線を動かしているようだった。今だったら、お互い先ほどよりは建設的な会話ができそうだ。私自身も珍しく感情が昂っていたのだと、今になって気がついた。
「私は君の事が好きな訳だけど、ここから説明が必要?」
「…は?」
「…は?」
 お互いおうむ返しのように、相手の反応を見てから再び同じその言葉を発して、多分私たちは暫くずっと「は?」と繰り返しながら会話にならない会話をしていたと思う。意味がわからなすぎて、どこまでそのラリーが続いていたのかは最早よく覚えていない。
「タチの悪いギャグじゃないよね?」
「馬鹿にするのもいい加減にしてくれ。」
「してない、だって初耳なんだけど。」
「そんなはずないだろ。」
 そもそも今こうして好きだと言われているのもよく分からないが、どうして突然こんな剣呑なムードの中で私は告白を受けているのだろうか。そもそも万が一本当にこれがタチの悪い冗談でなければ、私が先ほど無理矢理にしまい込もうとしていた作業も必要がなくなる訳だけれど、今一体何の話をしていてこれからどう着地させようとしているのかがまたわからなくなる。
 処理が追いつかず爆発しそうな頭を抱えながら整理をしてみると、わかったことは二つ。夏油先輩がどうやら私を本当に好きらしいという事、そして既にそれは私が知る所であるという彼の誤った認識だ。私が鈍感なことは彼もよく知っている筈だろうから、そんなはずはないと言い切るのであれば何度か私に直接告白したという事なのだろうか。
「…少なくとも私は君に二度振られているよ。」
 私は夏油傑に何を言わせているのだろうか。これは事実なのだろうか。少なくとも私は二度彼を振っているらしいが、逆に少なくとも私は一度もそんな告白を受けた記憶はない。寝ている私に話しかけて、夢の中で会話でもしていたというのだろうか。
「念のため聞くけどお酒入ってる時じゃないよね?」
「逆にその時しか切り出すタイミングないだろ。就業中に告白するほどの度胸はさすがの私でもないよ。」
 知り合ってからの年数は長いけれど、この人と大人になってからの時間を過ごすようになったのはここ半年だ。多分、彼は私が酒に弱いことを知っているようであまり理解できていないのだろう。私は酒が好きなだけで、けして強くはないし、それに応じて時には記憶がない場合だってある。つまりは、そう言う事なのだろう。
 伏線を回収するように、その時の出来事を質問していくと概ね私の想像通りの答えが返ってきた。しかし、告白したというにはそれは少しパンチが弱い。私の酔いがちょうど回り始めた頃合いを見て、「私のこと、好き?」と確認するようにすれば好きと私が回答して、「なら男としても好き?」とその先の確認をすれば「いや、ないないない。」と笑いながら切り返されたらしいが、果たしてこれは告白と言うのだろうか。そもそも夏油先輩が私に好きと言っているニュアンスは伝わらない。これくらいのやり取りなら記憶があったとしても、やっぱり私は告白を受けたというニュアンスとして受け取ることはないだろうと思う。
「それ別に告白してないよね?」
「普通はわかるでしょ。」
「私が人よりそこらへん鈍いのよく知ってるよね。」
「にしても、結構露骨に色々やってきたから流石にわかるかなと思うだろ。」
 今までがどうたったにせよ、今こうしてしっかり好きと言ってくれていることに対してまず受け止めて私も何か言えばよかったと少しばかり後悔した。本来であれば私が聞く必要のない彼の言い訳を、私は知って自分がどれだけ彼に女として好意を抱かれていたのかをまじまじと知る羽目になったのだから。鈍い私ですら流石に恥ずかしいし、彼の行動は少し常軌を逸していて普通に少し引いてしまった。
「偶然で転職してくるなんてドラマじゃないんだし気づいてると思ってた。…それに、ここ最近誰からも飲みに誘われなくないか?」
「確かに誰からも誘われてないかも…」
「全部私が牽制してるからね、知らなかったかい?」
 絶望したそのかんばせは、もう既に何かを諦めたようにペラペラと私に伝える必要のない言葉を紡いでいく。拷問された容疑者が黙秘することに疲れて自供し始める時は、こんな感じなのだろうか。
「あの、ごめん一つだけ私からもいいでしょうか。」
「…なに、トドメなら今は待って欲しいんだけど。」
 この人も案外周りのことが見えてないんだなと初めて思う。私が彼の気持ちにまるで気づけなかったように、彼も私の気持ちなどまるで知らないのだ。あの天下の夏油傑でもこうも弱ることがあるのかと不思議な感覚に陥った。人の感情を読み、欲しいものを欲しいタイミングで与えてくれるこの人が、どうして私のこんな簡単な気持ちを理解できないのだろうかと。
「先輩のこと好きだよ、ちゃんと男の人として。」
 今度は彼の方が再び「は?」と混乱したように言っていて、私は少しだけ笑ってしまった。将来の安定を保証された大手企業を辞めて私を求めてきてくれたのも、通りで誰からも飲みに誘われなくなったなと思ったのも、わざわざ朝アラームをかけて私が欲しかったパン屋に並んで買ってくれたのも、高校時代の思い出の飴をそんな気持ちで口に放り込まれていたのも、全部か全部彼の少し常識的から外れている行動でありながら、私にとってそれはずっと求めていたものなのだろう。
 つい先ほどまで蘇りそうになっていた自分の恋心を再び閉じ込めることに必死だった私は、もうそれをする必要がないのだから。その必要がないと断定できるようなエビデンスをこれだけ与えてくれる人は、多分後にも先にもいないだろう。
「嬉しくないの?」
「すごく嬉しいんだけど、怖がらせて、泣かせて、自分のしてきた事までペラペラと喋って……態々自ら披露する事なかったって事だよな、ふつうに。」
「うん、それはそうだね。」
 彼は項垂れるようにしてはぁと大きくため息をついたけれど、息を吐き切った後に顔を上げて罰が悪そうに笑った。
 私たちは色々と回り道をしてしまったようだけれど、結果的にこれで良かったのだろうと思う。夏油先輩はあえてそこには触れなかったけれど、高校の時から私のことが好きだったという訳ではないだろう。もちろん後輩として大切にしてくれてはいただろうけれど、それは恋という形じゃなかった筈だ。だから、遠回りをしたようにも見えて、けれどそれはこの今のタイミングじゃなければ成立しないものだったのかもしれない。
「君が好きだと思ってた私とは違うだろうけど?」
「そんな簡単に気持ち切り替えできるなら困らない。」
「なら返品はなしで頼むよ。」
「……こっちの台詞。」
 少し困ったように笑う先輩がいつものように優しさを帯びていて、鈍い私の感情が今日はよく仕事をする。夏油先輩の大きくてごつごつとした男らしい手が伸びてきて、私の頬の涙を拭ってくれる。
「酔った時にとかそういうんじゃなくて、ちゃんと聞きたい。」
 あの時から本当はずっと待っていたその言葉を今度はしっかりと噛み締めながら、消えないように記憶の奥底に刻みつけようと思う。私の初恋として、しっかりと刻み込もう。
「ずっと君が好きだった。」
 欲しかった言葉はこんなに簡単な一言で集約できて、そして満足度が高い。



end.
2022/03/25 ~ 2022/03/28