Case1
 2005.07.20

 田舎の夏は、木陰に入るとどこからともなくひんやりとした風が吹いてくる。

 今日というこの日に、私はこの街に越してきた。これから実家を離れるまでは恐らく自分の居住地になるであろうこの地は、今まで私が住んでいた東京と同じとはまるで信じられなかった。
 祖父が健在だった頃に何度か訪れた事はあったけれど、同じ東京なんだからと都心に用事があるついでに祖母が私に会いに来てくれる事がほとんどで、私はあまりこの土地に思い入れがない。
 麦茶しかない祖母の家で、ジュースが飲みたいと私は駄々を捏ねて十五分程歩いた先の自販機でジュースを買ってもらった。それ以外にもきっと、ここで過ごした思い出はあるはずなのに、あまりうまく思い出す事ができない。そのジュースがどんな味だったのかさえ、もちろん覚えてはいない。

 祖母が、亡くなった。
 私がここへ越してきた理由はそれが関係している。祖母ひとりで住むには多すぎたその家は、主を失ってよりひっそりとその佇まいを大きく見せた。私の母の生家でもあるこの家で、私はもう一度人生をやり直そうとそう思った。
 都内でも指折りの進学校を辞めて、この夏休みが明ければ私はこの近所にある都立高校に転入する運びとなっている。別に元々の学校に通えないという訳ではない。祖母が度々私を訪ねてくれていたくらいなのだから、電車で通おうと思えば少し遠いくらいで不可能な距離感ではない。それを拒んだの私自身で、そしてそんな私を見越して両親がここへ越してくる事を提案してくれた。祖母が亡くなったからというのはただの建前で、本当は私が現実から逃げ出してきただけだった。
 何もかもをリセットして、新しい自分を始めようと思った。都心部からこの片田舎へ移り住んで来た事に、あまり後悔はない。寧ろ私が弱音を吐く前にきちんとシグナルを拾って、ここへの移住を提案してくれた両親には感謝すらしている。あまりよく知らない街は、少しだけ私に未来を見せてくれるような気がした。可能性のある、未来が見えた気がしたのだ。
 うちは父も母も共働きで、移住をしてからも電車を乗り継いで元々住んでいた都市部へと仕事に通っている。母に関しては自身の生家ということもあり、そこまで抵抗がないらしく、父に関してもかねてよりスローライフに憧れを持つような人で二人ともメリハリのあるこの生活を気に入っているようだった。
 祖母が亡くなってまだ間もない、祖母の居ないこの家で私は一人で過ごす事が多かった。最初のうちは荷物の整理等で特別困ることもなかったけれど、それも整ってくるとする事がなくなって退屈した。祖母との思い出は沢山記憶の中に留まっているけれど、この家での思い出は何一つないんだなとぼんやりと考える。
 もっと、遊びに来ていればよかった。
 祖母は行動力のある女性で、力強い人だった。フットワークが軽く、困った時にはいつだってこの片田舎からすぐに私の元へと駆けつけてくれた。数年に一度、両親の出張が重なった時も母の代わりとしてよく家に来て、お腹がはち切れるくらいのご馳走を沢山振舞ってくれた。私にとって、かけがいのない存在だった。甘えてばかりだったと言えば、もしかしたら孫だからそれが正しいのかもしれない。これからもっと大人になって、しっかりと孝行をしていこうと思ってはいたものの、自分が歳を取る分祖母も歳をとっていく事は何処か忘れていたのかもしれない。前触れもなく、祖母は亡くなってしまった。

 大して乗ったことのない自転車は、ここに越してくるタイミングで買った。
 毎年お年玉として一万円をお年玉袋に詰めてくれた祖母は、父と母には内緒で毎年もう一つ私に袋を渡してくれた。この自転車は、今年のお正月に祖母から握らされたもう一つの袋から取り出して買ったものだ。勝手に、祖母の形見と決めて大事に使おうと心に決めていた。
 自転車であたりを走っても、景色は一定で特別色を変えない。欲しいものはネットで買える時代だし、離島で送料が高くつくような辺鄙な田舎という訳でもないので特別困ることはない。けれど、田舎は暇になった時の対処法が少ない。元々ゲームや一人遊びにあまり興味がなかった私は、この片田舎での上手な過ごし方をまだ習得できていない。
 数十分走った先で、ようやく小さなスーパーを見つけて自転車を止めた。高校生がスーパーに来ても楽しい筈はないと分かりつつも、スーパーでさえ寄れる場所に見えるのだから捉え方一つで人間考え方も変わるものだなと思う。何か目新しいお菓子でも売っていないだろうかと、スーパーへ立ち寄った。
 棚に陳列されているお菓子は、コンビニでよく見るようなメジャーなものから、青やら紫やら赤と宝石のようにキラキラと四角く角を尖らせた砂糖の塊まで様々だ。昔、外で小腹が空いたと言えば、このルビーのようなお菓子が祖母の鞄の中から出てきたのを思い出して、何となく手に取った。多分今の私には、過剰に甘いだろうけれど。
 その他にも見た事のないお菓子だったり、手作り感満載の和菓子がプラスチックぎゅうぎゅうに梱包されているものもレジに出して、私は袋をぶんぶんと回しながら自転車置き場へと戻る。
 その時、手に持っていた自転車の鍵が手元を離れ、地面を三度蹴り上げて、そして排水溝の中へとぽちゃりという音を立てて消えていった。
 詰んだとは、まさにこういう状況を表現するのだと思った。




 午後五時、夏の夕方はまだ日が高い。
 これが冬だったらと思うと、ぞっとする。まだかろうじて明るくてよかったと思う。私は、祖母の形見と勝手に大切にしているその自転車の後輪を持ち上げて、前輪だけを地面へと付けて少しずつ家へと向かう。どうにかして、これ以外の対処方法がないか考えたが道はこれ以外になさそうだった。
 都心に住んでいた時であれば誰かしら友人にSOSを出せば助けてもらえただろうし、最悪駐輪場に一日置いて電車で帰る事もできただろう。けれど、ここはそれもできない。私には両親以外の知り合いと呼べる存在もいなければ、徒歩以外の交通手段も今の所見当たらない。自転車の鍵を壊して後からチェーンを買うのも最悪のケースとして想定してはみたものの、結局鍵を壊すだけの道具すら持ち得ていないのだからどうしようもなかった。
 自転車で数十分の距離は、歩くとなると結構しんどい。それも後輪を持ち上げながら、変らない景色を見続けながら歩くのは地獄にも近い。持ち手の腕がパンパンになっては逆腕に持ち替えてという事を繰り返している内に、先に限界が来た。
「自転車、どうかされたんですか?」
 少し遠慮気味に響いたその声に振り返ると、背の高い青年がやっぱり遠慮気味にこちらを見ている。身なりからして、同じく高校生だろうか。随分とカスタマイズされている制服だが、私が九月から転入する高校の人なのかもしれない。だとすれば、ここの治安はあまり芳しくないのかもしれないと余計な事を考えた。
「自転車、」
「…ああ、鍵を排水溝に落として、それで。」
「そうか、それで。」
 簡単に会話を交わすと、その青年はしゃがみ込んで私の自転車の構造を見ているようだった。その大きな手でタイヤに触れると、「結構引きずりましたか?」と聞いてきた。多分、無意識のうちに地面に擦りながら進んできてしまったのだろう。彼は、タイヤがすり減っている事を指摘して、冷静に提案をしてきた。
「多分鍵を一度壊した方がいいかと思います。」
 私がさっき考えついた方法をそのまま提案されて、一度迷う。非力な私には無理でも、きっとこの青年になら鍵を破壊する事が出来るのだろう。そうでなければ、こんな提案はしてこない。首をそのまま縦に振ってしまった方が自分自身も楽に帰ることができるし、何よりこの青年をこれ以上足止めする必要もなくなるだろう。
「…ごめんなさい、これ大事なもので。」
 けれど、どうしても鍵を壊す選択肢を選ぶことが出来なかった。
 今まで、何ひとつとしてやり切った、やり通したという経験が私にはない。運動も勉強もそうで、元々人より出来た。だから大して好きでもないけど、周りの人間が喜ぶと思って人並みにやってきたけれど、それは自分の意志ではなく、多分自分をそう追い込んだだけだ。地元の中学では常にトップクラスでちょっとした有名人だった私も、全国屈指の進学校に入ればただの落ちこぼれだった。だから、そこから逃げた。
 たった一つ、祖母からの最後の贈り物を大切にするという誰でも出来るようなことくらいやり通したいと思ったのだ。
「じゃあ、私が運ぶの手伝います。」
「いやでも、そんな甘える訳には。」
「遠慮してるとあっという間に夜になる。」
 確かにこの青年の言う通りで、そもそもスーパーからここへ来るまでの間に誰も人とはすれ違わなかった事を考えてもこれは不幸中の幸いなのかもしれない。そもそも老人人口比率の高いこの街で、彼のようなガタイの良い青年と出くわしたのが最早奇跡に近い。
 今まであまり関わってこなかったタイプの人間を前に抵抗感がありながらも、やっぱり背に腹は変えられない。得体の知れないもやもやを抱えながらも、暗闇が少しずつ差し込んできたのを視界に映して、ついにこくんと首を縦にかざした。
「…なら、お願いします。」
「よかった。随分と私警戒されてるみたいだったから、もしかしたら断られるんじゃないかと思ったよ。」
「断ろうかどうか、少しは悩みましたけど。」
「やっぱり。にしても素直だなぁ。」
 警戒心を解くためか、青年は私に先程よりもラフな口調で話しかけてくれる。見た目が見た目だけに警戒心を解き切ることは出来ないけれど、彼のその優しい声は耳障りが良く、少しだけ安心する。
 私が前輪を押そうとすると、多分ここまでの道中で相当疲弊しているのが見て取れたのか、これくらいなら大丈夫だからと軽々と後輪を宙に浮かべながら自転車のハンドルを握って進み始めた。
 彼は、夏油傑と自分を名乗った。歳を聞けば私と同じで、そんな些細なところで少しだけ親近感が湧いた。
 九月の新学期になれば、彼と同じ学校の生徒になるのだろうかと尋ねると、彼は高校生ではなく自分の事を高専生だと言う。高専という存在をそもそも知らない私に、彼は専門的な分野を学ぶ学校の事だと教えてくれた。多分、私が転入する高校とは違うのだろうとだけ何となく理解が出来た。
「夏油くんもこの辺りに住んでるの?」
「うん。と言っても、学校の寮だけどね。」
「あぁ、寮か。大変だね。」
 専門的な分野を学ぶ高専で、彼は何を専攻しているのだろうか。田舎にあるという偏見で、仏教とか、あとは商業とか工業系だろうか。しかし、先程彼の口から出てきた“呪術高専“というその頭の文字は、今まで耳にした学校名とは異質なもののように感じられた。どこか、ぞっとするような。
「知らない?呪霊とか、そういうの祓ったりするんだ。」
「霊媒師とか?」
「…ちょっと違うかな。」
「なら、陰陽師?」
「もっと遠ざかった。」
 私には縁遠い話で、あまりしっくりと話が腹落ちしない。ちょっと胡散臭いと思いながらも、それを専門としている学校があるというのは初耳だった。商売としてやっているならまだしも、彼のように若い頃からこうして高専に通う生徒が少なからずいるということが、それがインチキではない事を裏付けている。
 呪霊なんて言葉を聞いても、リアルに想像のできない私はお化け屋敷に出てくるようなゾンビを想像してみるけれど、夏油くんには常時こんな悍ましい世界が見えているのだろうか。だとすると、結構しんどい世界線を生きているのだなと他人事のように思った。
「ようはお化けでしょ。怖くないの?」
「“虫が飛んでるな“と感じるのと同じくらいの感覚。」
 そんな当たり前の世界があるのかと思うと、やっぱりぞっとした。夏油くんが動じず、冷静なのはそういう環境もそうさせているのかもしれない。
 ぼんやりと暗くなってきた道の先に、ベンチを見つけて私たちはそこで一息つくことにした。夏油くんは汗ひとつかいていなかったけれど、私は歩いているだけでも体力が底をついて疲弊してしまった。嫌味に聞こえるかもしれないが、都会育ちは体力がない。
「夏油くん、何飲みたい?」
 彼は自分はいいよと一度は断ったけれど、私がこれ以上引け目を感じないようにしようと察したのか、いいからと二度目の言葉にはしっかりと答えてくれた。きちんと礼儀のなっている人だなと、自分と同じ歳ながらも気遣いの出来る夏油くんを少し尊敬した。
「これ炭酸水だけど、味ついてないやつでいいの?」
「好きなんだ。気持ちも、体内もスッキリする。」
「へぇ、大人だね。」
 思い出したように先刻買った袋を引っ張り出して、ベンチの上で開いた。夏油くんが甘いものが好きかどうか確認も取らず、どれがいい?と聞くと、彼はルビー色をした砂糖の塊を一つ摘み上げて、透明な包みを解いて口の中へと放り込んだ。
「甘いの、好き?」
「嫌いじゃないよ。というよりは、慣れてる。」
「慣れてるって表現、なんか違和感あるなぁ。」
「親友が大の甘党でね、たまにすごいのあるから。」
「あぁ、それで“慣れてる“なんだ。」
 私も、夏油くんが口に入れたルビー色の砂糖菓子をひとつ摘んで、透明な包みを解いて口の中へと放り込む。むかし、祖母の鞄から出てきたその宝石のようなぶよぶよしたお菓子は口いっぱいに甘さを広げて時々きゅっと唾液腺の奥を刺激した。甘いという味覚がすべて美味しいに直結していたあの頃の私にとって、それはご褒美のような食べ物だった。祖母は、いつもその宝石を鞄に忍ばせて、私に与えてくれた。
 今の私にとって、甘いという味覚はすべて美味しいに直結はしない。歯に染みるような甘ったるいその味は喉が渇いて、でも唾液腺の奥がきゅっと刺激されるあの感覚は少し懐かしかった。
「甘くて喉乾くね、これ。私もなんか買おうかな。」
 もう一度自販機をまじまじと眺めてみる。甘ったるいこの口を満たすには、夏油くんと同じ炭酸水がいいだろうか。それとも無難にお茶がいいだろうか。どちらにしようか両方のボタンを行ったり来たりしていると、一番ボタンが押しにくい左上に派手なエメラルドグリーンの缶が目に入った。
 少し古臭いデザインで、メロンソーダの上に赤いさくらんぼが添えられているその缶がどうにも気になって私は少し背伸びをすると左上のボタンを押した。ガコンと、音を立てて取り出し口に出てくると“売り切れ“の赤いランプが表示されていた。
「甘いのに、また甘いの飲むの?」
 夏油くんの言う通り、甘さに喉が渇いている私の喉により甘ったるそうな液体が望んでいる効果を発揮してくれるとは思えない。けれど、私くらいしか買わないであろうそのメロンソーダが遥かむかしの記憶と一致するようで、押さずにはいられなかった。
 プシュっとプルタブを持ち上げると、シュワシュワと音を立てて飲み口から少しだけ飛沫が飛ぶ。その飲み口を口につけて、恐る恐る喉へと流し込んでそれは確信に変わった。
「……さん?」
 多分、ここから十五分ほど歩けば家に着くだろう。
 麦茶しかない祖母の家でジュースが飲みたいと駄々をこねた私を、祖母がここに連れてきてくれた。小柄な祖母が少し背伸びをしてボタンを押して、私に緑色の缶を渡す。甘いという味覚が美味しいに直結していたあの頃の私にとって、何よりの至福の飲み物であったこの黄緑色の液体に、私はしっかりと祖母を思い出していた。
「やっぱ甘いや。」
「そっか、やっぱり甘いんだ。」
「うん、すごい甘い。」
 祖母が亡くなった時、ふしぎと涙は出なかった。祖父が亡くなった時、まだ幼かった頃の私はわんわん泣いて、喉が枯れるまで一晩中泣いた事を思い出す。祖父以上に私にとって関わりの深い祖母が亡くなったともなれば、自分が冷静を保てる自信など微塵もなかった。
 けれど、祖母の死に顔をしっかりこの目に焼き移して、最後のお別れをして小さなお骨に収まってしまっても、涙どころか気持ちが渇いていくようだった。悲しさすら、やってはこない。そんな自分を非情な人間だと思っていたけれど、多分私は祖母の死を現実としてまだ受け止められていなかったのだ。そう、今気づいた。
 急激に悲しくなって、留める事が出来ないほどに視界がボヤけて滲んでいく。今日出会ってばかりの夏油くんの前で、という客観的な思考力がまだ残りつつもそれを止める事はできなかった。
さん、一歩分私に近づいてみて。」
「……どうして。」
「多分、楽になるよ。少しは。」
 夏油くんに言われた通り、一歩だけ気持ち近づくと、彼は右手を翳していた。これも彼が専攻している呪術に関係があるのだろうか。何をされているのかわからないまま、気づいた時には彼の右手は膝の上へと戻っていて、同時にすぅっと自分の中の何かが軽くなったような気がした。

 祖母の死を受け入れたあの日、夏油くんが魔法使いのように見えた。


Case2