Case2
 2005.08.07

 聞いて驚いたが、夏油くんが通う高専には夏休みというものは存在しないらしい。
 “冬の終わりから春までの人間の陰気が初夏にドカッと呪いとなって現れる“いわゆる、繁忙期らしい。学生にテスト以外の繁忙期があるなんて、初めて聞いた。

 高専そのものに夏休みという概念がないのだろうかと私が思案していると、彼は少しだけ困ったように笑いながら「高専自体に夏休みがないんじゃなく、うちが特殊。」と教えてくれた。
 私自身は長い長い休みに入っていて既に曜日感覚を失っているけれど、この田舎にしては今日は人が多い。心なしか家族連れが多いような気がして携帯を開くと、“日曜日“と記載されていた。今日も夏油くんはあの独特な制服を着ているけれど、夏休みどころか彼には休みというものが与えられていないのだろうか。私には到底、その学校で呼吸をしていける気がしないと思った。

 私は、夏油くんにその命を救ってもらった無傷の自転車を押しながら今日も来た道を戻る。あれ以降、任務帰りだという夏油くんとこうしてばったり出くわしてそのまま談笑しながら一緒に帰るという事が増えた。
「日曜日も制服きて、夏休みもなくて辛くない?」
 思わず聞かずにはいられなかった。私たちの年頃は世間で言うところの“青春“だったり、大人になってからの“あの頃は“になる、後々かけがえの無いない時間になる筈だ。人生の中でも大きな思い出になるであろうこの時期に毎日制服を纏って、お化けと対峙しているなんて関係がない私からしても辛いと思う。
 けれど、だからと言って私も何か特別な事をしているのかと言えば大して何もできていない。曜日感覚を失いながら、ただ田舎でぼうっと休みが明けて新しい学校が始まるのを待っているだけで、青春のカケラもなければ、大人になって“あの頃は“と蘇る記憶は割と苦いものになるだろう。
「辛くないって言えば、嘘かもしれない。」
 その返事を聞いて、そんな事をあえて夏油くんの口から言わせる必要もなかったと反省する。辛いと認識していることを自分の口からはっきりと肯定するのは、想像以上にしんどいものであると私は知っている。過去の自分が、そうだったからだ。
「どの道目で見えてるものだからね、そもそもが不可避なんだ。」
「そっか。見えてちゃ仕方ないね。」
「でも、全部が全部辛いって訳じゃないさ。」
 夏油くんは時折私に学校での出来事を教えてくれる。未だに高専という場所が普通の高校とどう違うのかをあまり理解出来ていないけれど、彼のはなしだけを聞いていると他の高校生と変わりのない生活をしているように聞こえた。友人との他愛のない会話のそれも、読んでいる漫画も、普通の同世代と何も変わらなかった。
 三人しかいないという、とても少ないその同級生の話を夏油くんはいつも楽しそうに話してくれた。たった三人かもしれないけれど、彼らは同じ境遇に生まれて、他の多くが理解できない境地を共有している仲間なのだと、そう思い知らされる。昨日今日会ってばかりの私は彼をよく知らないし、そしてどう頑張っても私が彼と同じ境遇に立つことはできない。見える彼と、見えない私の溝は一生埋まることはない。
 だから少しだけ、その同級生の二人が羨ましいと思った。
 そう感じたのは、もしかすると私が新しい環境に越してきてばかりで知り合いがいないという心細さから来ているのかもしれない。人は一度親切にされると、自然と心を許してしまうものらしい。
「本当に仲いいよね、悟くんと硝子ちゃんと。」
「うん、仲間には恵まれたと思うよ。」
「なんか夏油くんの話しを聞いてると、私も高専に転入したくなる。」
「土日も、夏休みもないけど?」
「そうだった。やっぱ、無理。」
 確かに夏油くんが言う通り、無意識のうちにそれが目に見えていれば不可避だろうし、多分見えないに越したことはないだろう。だからこそ、見える彼らの絆と結束はそこらの友情なんかとは比較出来ないほどの強度があるだろうし、いつだって羨ましく見えるのかもしれない。
 私は先ほどスーパーで買った中身を取り出して、それを高々と掲げながら夏油くんに見せつける。
 背の高いマンションが密集するかつての住まいではやる事ができなかった、夏の風物詩。子供の頃、よく駄々をこねてやりたいと騒いでは叱られた思い出が蘇る。あの時叶わなかった夏の風物詩も、祖母の遺した広大な庭でなら問題なくできるだろう。
「夏油くん、これから一緒に夏休みやらない?」
 今年の夏は、花火ができる。




 自宅に家族以外の人間を招くのは、随分と久しぶりのような気がする。
 私が自宅の敷地に入ると、夏油くんはまじまじと見上げるようにして我が家の全体図を眺めていた。田舎の土地は広いと相場は決まっているけれど、それでも祖母から譲り受けたこの家は周りの家と比較しても異様に大きかった。
 実際の居住スペースはそこまで大きくないが、特別庭が大きかった。今に思えば、祖母が会いに来てくれる時は必ずその季節毎の綺麗な花を笑顔と共に私へと授けてくれたことを思い出す。多分祖母は、花が好きだったのだろう。祖母は私のことを知り尽くしてくれていたけれど、私は大好きな祖母の趣味すらよく知らないのだから皮肉なものだ。
 祖母が亡くなって、相続などをしてから暫く居住をどうするか相談している内に花は枯れてしまったようで、私がここへと越してきた時には既に色をつけた花は見当たらなかった。
「今日日曜だけど、ご家族いるんじゃないの。」
「有給使ったかなんかで休日出勤してていないの。」
「ご両親は中心部で仕事を?」
「新宿でね。遠いけど地味に一本で行けるからここ。」
「それでいつもスーパーに行っていたのか。」
 父も母も帰ってくるのが遅い。それはここに越してくる前からずっとそうだった。二人ともしっかりとキャリアを積んだ責務のある仕事をしていて、昔から授業参観に来てくれるのも母や父ではなく祖母だった。だから、一人でいる事に対する寂しさや孤独は特別なれている。それが辛いという感情すら、もうとうの昔に忘れてしまった。
 けれど、父も母も私の良き理解者で恨めしい気持ちは全くない。半分は私のためを思って、不便なこの土地への移住を決断してくれたのだから、親としての責務をしっかりと全うしてくれていると思う。
「家にあがっていいのかって言うニュアンスの質問だったんだけどな。」
「逆に何か駄目な理由でもあるの?」
「一応年頃の男だから念の為確認、というか言質どり。」
「夏油くんは平気でしょ。何もないってわかってる。」
 そんな事をいちいち気にできる夏油くんだから家にあげているに決まっているのに、こうしてしっかり確認どころか言質取りまでしてくるあたりが夏油くんらしいなと思う。しかし同時に、夏油くんらしいとは一体どういうことだろうかと自問する。彼らしいという表現を使える程、私は夏油くんの事を多分知らない。知った気になったような気がしたけれど、私は悟くんや硝子ちゃんと違って彼の友人という位置付けでもない。ならば、私は彼にとってどんな関係の人間なのだろうか。ちょっとした知り合い程度、という表現が今はきっと正しい。
 多分友達だったら、いちいち家に上がってもいいのかを確認することはないだろうし、まるっきり知り合いでもなければ家に上がることもないだろう。私たちの関係を表現するちょうどいい言葉がなくて、なんだかとても宙ぶらりんな気がした。
「人として喜ぶべきか、男として嘆くべきか悩ましい。」
 そう言うと、夏油くんはようやく玄関で綺麗に靴を揃えると家の中へと上がり込んだ。私は居間を抜けて、広い庭へと続く縁側の扉を開く。先ほど一度しまっていた夏の風物詩を、惣菜が一緒に入ったスーパーの薄っぺらい袋の中から取り出してもう一度彼に見せつける。
「夏油くんはどれ派?」
「状況によるんじゃないかな。」
「じゃあ今の気分は?」
「たぶん、気分は線香花火。」
「ふうん。」
 想像した通りの答えが帰ってきて、なんだか少しだけつまらない。私は少し乱暴に透明なビニールを紐解いていき、束になってまとめられている線香花火を夏油くんに一本手渡す。縁側に置いてあった蚊取り線香にマッチで火を灯して、私も彼と同じ線香花火を手に持った。
さんの気分も線香花火?」
「うん、まあ、たぶんそう。」
「なんだか曖昧だな。ちなみに聞くけど、理由は。」
「一番煙たくないからかな。」
「随分と風情のない解答だな。」
 夏油くんは、私の可愛げのない返答にも特に困ることなく不敵に笑って対応してくれる。本当は、手持ちすすきの花火がやりたかった。けれど、少しだけ言うのが阻まれてしまった。私ばかりが子供染みているように感じられたからなのかもしれない。
 昔、花火がしたいと親に駄々をこねてもここは東京だから花火はできないと言われ親を困らせてきた私は、唯一祖母が自宅に来た時に内緒でバケツに水をためてベランダで線香花火をしたのを思い出す。祖母が買ってきた花火セットにはもっと派手に火花を散らしてくれそうなものが沢山あるのに、今はこの線香花火で我慢してねと優しく諭された記憶が蘇った。その代わりに祖母は他の花火がどう火花を散らすのかを教えてくれて、シューと音を立てて勢いよく飛び出すのがすすき花火だと言った。弧を描くようにくるくると回すと残像が残って、とても綺麗なのだと。
「でも折角“夏休み“するなら、派手なのやりたい気持ちあるけど。」
「あれ、高専は“夏休み“ないんじゃなかったっけ。」
「だからこれからしっかり夏休みしようと思って。」
「初めて夏油くんが年相応に見えたかも。」
「そう?歴とした十五歳、ただの少年だよ。」
「少年はちょっと無理あるなぁ。」
 結局、夏油くんは袋の中からすすき花火を取り出して、蚊取り線香にその穂先をつけて、数秒後にシューと勢いの良い音ともくもくと咳き込みそうなくらいの強い煙と共にベランダへと吹き飛んでいく。
「一人で花火させる気か?」
 私も生まれて初めて、祖母の話でしか聞いたことのないすすき花火を手に取って、蚊取り線香に穂先を向けて火を灯す。線香花火と違って、緩やかではなく急速にジリジリとこちら側へと向かって火種を近づけてくるそれを、くるくると回してみると、残像のように少し火種が宙を浮いたように描かれていて、頭の中のイメージが現実とフィットした事で不思議と満たされた気になった。
 結局私たちは袋いっぱいに入っていた花火を残らず燃やし尽くして、夏の風物詩を満喫した。途中あまりの煙たさに通報されないか少しどきりとする場面もあったけれど、花火というものは人を無邪気に、そして童心に戻らせてくれる遊具だと思った。
 一緒に花火をしてくれた夏油くんは、私と同じ普通の高校生に見えた。
「お素麺でよければ食べていく?」
「好きだよ、素麺。」
「それはよかった。デザートに西瓜もつけようか。」
「夏の風物詩勢揃いって感じだね。」
 私たちは素麺を啜って、その後縁側で真っ赤に熟れた西瓜を食べた。この一時間弱で夏を制覇したような気がする。まだ学校が始まっている訳でもないのに、こうして夏油くんと一緒に“夏休み“をしているのも何かの縁なのだろうか。   分からないけれど、少なくとも私はそれを縁だと思いたかったのだろうと思う。
さんのお陰で楽しい夏休みができたよ。」
「私も、ここでの思い出第一号になった。」
「そんな第一号に立ち会えるなんて光栄だな。」
 カブトムシのように西瓜の色がついた部分をギリギリまで齧る私と、行儀よく綺麗に口も汚さず西瓜を食べる夏油くんはまるで似ていないけれど、少しはさっきまでの私達よりも近づく事ができただろうか。

 この“夏休み“は、夏油くんが大人になった時に“あの頃は“と思い出すことのできる青春の一ページとして、彼の記憶には残るのだろうか。


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