「どうしたの、そんな憂鬱そうな顔をして。」

 彼にそう言われて、私自身なぜこんなにも憂鬱なのだろうかと振り返る。確かに私は、彼が指摘している通り酷く憂鬱なのだ。けれど、それは彼と一緒にいるという選択肢を選んだ時点でずっと、私に付き纏う問題でもある。
 真面な人間であれば、ならば何故憂鬱な感情が付き纏う人間と一緒にいる選択肢を私が選ぶのかと言う真面な意見にきっと辿り着くだろう。その観点から言うと、私は真面という道からは逸脱した人間なのだろうと思う。
「そりゃ、いつ自分を捨てるか分からない男が彼氏ともなれば憂鬱でしょ。」
 不二周助という美しい皮を被っているその男は、私の彼氏と呼ばれる存在にあたる。付き合いは中学の頃からになるので、もう随分と長い。
「そんな僕を自ら選んだが一番奇人だね。」
「…それ私がいうならあれだけど、貴方がいうべき言葉じゃない。」
「事実を述べるのに、誰がという縛りはないんじゃないかな。」
 彼の言っていることも一理あって、結局私はすぐに反論する事ができず、口を閉ざして考える。どうすれば、私はこの憂鬱から解放されるのだろうかと。
 私が言う“いつ捨てられるかもしれない“というのは、私の脳内の妄想が流れ出た絵空事ではなく、歴とした事実に基づいたものだ。―――つまり、私はかつてこの男に捨てられた経験があるのだ。だから、彼は“自分がいつかまた私を捨てるかもしれないこと“に対して、肯定もしなければ否定もしないのだ。きっと、私でなくてもこの状況であれば誰もが憂鬱を抱え、生きていくであろう。
「なら、にとって幸せって何。」
 不二の言葉で、私にとっての幸せが何であるのか、私はそれを今までろくに考えた事がないのだと気づいた。どうすればこの憂鬱がなくなるのかを考えるだけで、どうする事で自分が満たされるのかを考える思考にたどり着かなかった。
「案外簡単そうで、回答が難しい質問するね。」
「そうかな?青葉が自分で複雑化しているだけなんじゃないかな。」
「じゃあ、周助にとっての幸せって何なの。」
 彼との付き合いが長くなればなる程に、私は彼という人間の本質的な部分が分からなくなる。不二が何を価値あるものと感じるのか、どんな事が好きなのか、どうして捨てる可能性がある女とこんなにも長く付き合っているのか。一生解くことのできない、謎解きのように私の理解は追いつかない。
「僕は今、幸せだよ。」
 何故、過去に一度自ら捨てた女と一緒にいる事が不二にとっての幸せなのだろうか。ならば何故、私は彼に捨てられなければならなかったのか。―――何故、今が幸せと感じているのに、いつか私を捨てるかもしれないという事には否定をしないのだろうか。
「私には、周助が分からない。」
「そう。いい事だと思うけど。」
「こんなに長く一緒にいるのに分かり合えないって、いい事?」
「分からないから、分かりたいと思い続ける事ができる。」
 私の思考回路と、彼のそれはきっと一生交わる事はないのだろうと思う。物事の捉え方、軸がまるで正反対だ。
「磁石に例えると、分かりやすい。」
 不二が何故私と一緒にいる事を、少なくとも今この瞬間まで選び続けているのかもよく分からないけれど、きっと一番分からないのは私の方だ。何故この不安定な関係を、私は今この瞬間まで、受け入れ続けているのだろうか。それが苦しいのであれば、いつか捨てられる事が恐ろしいのであれば、自らその関係を絶つ事だってできるのに、私はいつだってその選択肢を選んではこないのだから。
「プラス同士は一緒にはいられない。マイナスとプラスだから、共存できる。」
 確かに、彼の言う言葉にも一理あると思う。似たもの同士が必ずしも関係性において上手くいく訳ではないからだ。足りないものを補い合ってこそ、平等な関係性を保つことが出来るのだから、ある意味で彼が言うように、違う因子を持った人間が引き寄せられるのは物事の理なのかもしれない。
 けれど、一方で思うのだ。私と不二のように、プラスとマイナスの両極端の因子が引き寄せられた時、憂鬱が生まれるものなのだろうかと。
 何故、私は彼とのこの関係に満たされる事がないのだろうか。何故、満たされないこの関係を自らの意思で継続しているのだろうか。―――我が事ながら、そのロジックが分からない。
「なら、一度引っ付いた磁石は、離れないんじゃないの?」
 彼の言う事を結論づけると、そういう原理原則になる筈だけれど、その磁石が一度離れたと言う事実を身をもって体験している私には、もはや何が正解で何が不正解なのかが分からない。
「引っ付いて取れなくなれば、それはただの鉄の塊だ。離れもして、引っ付きもするから磁石としての価値があるんじゃないか。」
 磁石論で全てを罷り通すのであれば、彼の言っていることは至極正論だろう。けれど、私たちは磁石ではなく人間同士であって、そして女と男だ。プラスとマイナス、と言う位置付けをするのであれば極論それは私と不二でなくとも、男と女という性別においてもプラスとマイナスになるのではないか。
 ―――明らかにキャパシティーを超えた私の脳内は、結局何も結論を生み出さない。生み出されるのは、どう足掻いたところで、私は彼から離れるという懸命な判断ができないということだ。極論、捨てられるその時を待ちながら生きていくという矛盾が答えになってしまうのだ。
「どうやったら私は幸せになれるんだろうね。」
「案外気づいてないだけで、幸せだったりするんじゃない?」
「自覚してない時点で、私が幸せと感じてないから没案。」
「救ってあげたじゃないか、手塚に捨てられる前に。」
 私が嘗て不二に捨てられた後、手塚が私の彼氏だった。彼の留学の噂が耳に入るようになり、私は終わりを悟るようになった。一度不二に捨てられたあの感情を、またしても手塚に再現されてしまっては、私の精神はきっと持たなかったであろう。

 “捨てられるのが怖いんだったら、その前に僕の所に来てみるのも一つの手じゃないかな“

 この悪魔の一言で、私は自らこの男に捨てられるために、拾われたのだ。
 冷静に考えれば、私が手塚に振られると確定していた訳でもなかったのに。振られたにしても、きちんと納得のいく理由で振られて円満に解決することができたのかもしれなかったのに。
 けれど、それは全てタラレバの世界線で、結論、手塚を裏切ったのは間違いなく私だ。人の負に漬け込む悪魔のようなこの美しい男に、まんまと引っかかってしまったのだから。
「僕といると、そんなに憂鬱かい?」
「残念ながら。」
「それは、本当に残念だ。」
 大して残念そうにも聞こえない、落ち着いたその口調に、私は惑わされ続ける。今も、そして捨てられるその瞬間まで、ずっとだ。我ながら困ったものだと苦悩せざるを得ない。
「“永遠“とか“絶対“は存在しないんだよ、。」
 そう言って、私を突き放しているのかと思えば、不安がる我が子をあやす様に彼は私を引き寄せて、優しく髪を撫でる。
 その行為はちっとも私を安心させることはないけれど、居心地が悪い訳でもなく、嬉しくない訳でもない。寧ろ、私が彼から離れる事ができないのは、こういう表面的な優しさがあるからなのだろうと思う。
「もっと、雑に扱ってよ。嫌いになるくらい。」
「嫌だなあ。僕にそんな趣味はないよ。」
「こんな事するから、いつまで経っても周助離れできないじゃん。」
 言ってるだけで、私はきっと彼に改善を求めている訳ではないのだと思うのだ。それは、改善を求めても無駄だ、という感情よりも、そんな彼を含めて私が彼を魅力的に感じてしまっているからなのだろう。
 磁石のマイナス因子である私は、結局吸い寄せられるようにプラスの因子でしかない不二を追いかけているのだ。それは心理的なものではなく、物理的なものなのだから、私の意思ではどうする事もできないのだ。
 結局のところ、私は彼から離れることが出来なければ、他のプラス因子を見つけることも出来ない、逃げ道を失くした因子なのだ。彼がいる事で、辛うじて自分がマイナス因子であると自覚しているだけの、きっと依存する事でしか存在する事が出来ないのだろう。
「僕が君を選んで、君も僕を選んだ。それが解だ。」
 “永遠“や“絶対“が存在しないのであれば、恋人達が一時の感情任せに“ずっと好き“やら“絶対一緒にいよう“という言葉に拘束力がないと分かっている。その一時任せの感情の偽の言葉と、“いつか捨てるかもしれない“の何が違うのかと、彼はきっとそう言いたいのだろうと思う。
「好きだよ、。」
 けれど、私は未来永劫に保証されていない、その薄っぺらい言葉がきっと、何より一番ほしかったのだろうと思う。
 あやす様に私を優しく抱く彼の腕よりも、きっと何倍も欲しているのだ。
「私も。」

 隣の芝生はいつまでもずっと青く、無い物ねだりが人の性なのだ。
 そう、思った。

ずっと、青い
( 2021'11'25 )